キャピタリズム・サーファー
資本主義とアートの関係に徹底して自覚的だったのはアンディ・ウォホールとヨゼフ・ボイスだったと椹木野衣は言っている(『反アート入門』幻冬舎2010)。彼らの登場を後押ししたのが消費社会であることを考えればその消費社会の基盤である資本主義が彼らを駆動しそれに彼らが自覚的だったのもまた然りである。
資本主義が新自由主義の後押しでさらに性格を変えながら勢力を強めて世界中を席巻する現在、ポスト消費社会は一向に現れず、相変わらずの消費社会に我々は生きている。つまりは「ウォホール」や「ボイス」の末裔は未だ健在なのである。商業主義に取り込まれてとんでもなく高値のつくアーティストが容易に思い浮かぶ。一方建築ではレムを筆頭にザハやゲーリー、はたまた安藤忠雄などもウォホール同様に華麗にキャピタリズム・サーファーとして世界を駆け抜けている。
ところで90年代の終わりにボードリヤールは「芸術の陰謀」(『芸術の陰謀』NTT出版2011)なる短いコラムを書いた。そこでボードリヤールは、芸術はもはやなんの意味もない無価値なものであることを標榜することで逆に意味がありそうに思わせ、価値を獲得するという企みを成功させたと述べている。ここでボードリヤールは固有名詞を挙げていないのだが、当時の主流のアーティストが上記ポップの末裔を含んでいることは間違いない。ということはこれを建築に当てはめることも可能かもしれない。つまりキャピタリズム・サーファーの建築はなんの意味もない無価値なものであるのだが、それを標榜することで逆説的に価値を獲得している、、、ボードリヤールが生きていれば是非聞いてみたい質問である。