公共空間は私的空間に生まれるのだろうか?
年初のシンポジウムで「公共性」について考えた。スペイン語圏の建築家と広場について語った。スペインの建築家は「広場はすでに使われていない。重要なのは駅や空港だという」。一方アルゼンチンの建築家は広場の重要性を訴える。同じ町の構成を持ちながら考え方が違うのは二つの国における町の使われ方の違いによるのだろう。
公共空間において重要な言説を残しているアーレントによれば公共空間とは「現れの空間」だという。その意味は公共空間とは単に人々が共に集まる場所ではなく、人々の相互行為(ともに会話し行為する)によって顕在化された空間だということである(篠原雅武『公共空間の政治理論』人文書院2007)。アーレントの言葉を尊重するならば、駅や空港は共に集まる場所ではあれども、相互行為が生まれている場所とは言いにくい。交通空間は時間に追われているからである。時間に追われる場所に相互行為は起きにくい。さて駅や空港はたくさんある日本だが、広場も公園も少ない東京のどこに公共空間は生まれるのだろうか?それはもはや私的空間の中に求めるべきものとなるのだろうか?