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教育は教員と学生の共同作業なのである

先日内田樹がある本に今時の学生のレポートを読むとこれだけ書いとけば単位はもらえるだろうというあざとさが見え見えだと書いていた。つまり必要最低限のことしかしないということである。でもそれを上手にこなすということでもある。僕も昨今同じことを感じている。大学には大学それぞれのレベルに応じて目に見えないアベレージのようなものがあって、学生の殆どはそこまでやっときゃいいだろうという構えがある。これは信大にも理科大にも早稲田にもある。しかしそういうアベレージを超えたいという向上心の高い学生も数パーセントいる。このパーセンテージは大学によって若干違う。そしてこの違いが大学の質を決定する。

就職が人生の大きな価値であるとは言わないが、大きな価値をつかむステップではある。そのステップをくぐり抜ける上で企業が見ているのはこの向上心である。少なくとも僕が試験官ならそれを見る。また就職ではなく起業する人もいるかもしれない。しかし今度は社会がそうした若い起業家を見る目もこの向上心があるかどうかである。この向上心は人生をけん引する不可欠の要素である。そしてそれを持ち続けられる人だけが生き甲斐をもって充実した人生を実践できるのである。

しかるに今僕の周りを見た時にこうした向上心を感じる人は少ない。それはたまたま僕の目に触れていないだけだと言うのなら嬉しいことである。あるいはその人間のキャラの問題だと言われればそういう側面があるのも否定しない。しかし静かに目立たなくとも黙々とやる活動はなんとなく知れ渡るものではなかろうか?それが聞こえてこないのは少々さびしい。いや教員はそんなことに係ることなく、機械的にゼミやって、卒論、修論書かせて送りだせばいいのだというスタンスに立てばこんなことを考えることもない。しかしそれでは少々淋しい。研究室なる世界的にも稀な不思議な制度がある以上、その良さを生かし学生をある程度その内面にまで立ち入って育てるのが教員のやるべきことだと思っている。

そう思うならやりなさい」と言われそうである。オックスフォードのように。週一時間個人ゼミやるとか、、、、しかし私立大学の研究室配属の数十人相手にそれは無理な相談である。だから教員は集団をまとめてけん引し、学生はそれに対して自主的に自らを引き上げなければいけないのである。その努力を怠れば、何も生まれない。教員は学びの種をばらまきそれに食らいついてくる逞しさに期待したいのである。教育は教員と学生の共同作業なのである。

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