脱グローバル建築とは?
午前中早稲田の講義。講義は今日が最後来週は学生プレゼン。本日のテーマはグローバリゼーションとローカリティ。僕がこの講義録を作ったのは2007年なので今から6年前。少しずつ改訂しているけれど根本的に書き換えてはしていない。
今から6年前にグローバリゼーションの問題はそれほど深刻ではなかった。やはり2008年のリーマンショックがこの問題を顕在化させたのではなかろうか?世界がシステムを共有してしまっているがために起こる同時多発事故である。
そういう中で僕らはこのグローバリズムとそれとセットで現れた新自由主義にどう立ち向かうのか?真剣に考えなければいけなかったのだが、僕も相当呑気に考えていた。しかしこの本を読んで少々反省。
というのも橋下新市長の誕生の根底にグローバリズム+新自由主義vsローカリズムという構図があることを再認識したからである。つまり民意は結果的にグローバリズムを支持していると言うこの事実に唖然とするわけである。橋本流がポピュリズムを獲得していることに数年前から少々疑問を感じ、ポピュリズム政治はまずいだろうとするナベツネの警鐘に珍しく賛同した。しかし問題はポピュリズよりむしろグローバリズム推進の流れである。誤解してほしくないが、僕はナショナリストではない。国と言うまとまりを最大価値としてはいない。そうではなくある地域(国を超えていても構わない)の価値を尊重したいと思っているだけである。
だから建築もそうである。世界中に地域を無視して類似したアイコンをまき散らしているデコンまがいのbig architectsなどにはもうNOを突きつけるべきではないのだろうか?そういうのはまさにグローバリズムが生み出したゴミである。