限界建築にそろそろ飽きるか?
鶴見俊輔は芸術を純粋芸術、大衆芸術、そして限界芸術という3つに分類した(鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫1999)彼がこの概念を最初に提唱したのは1956年なのだが、この概念は未だに有効だと本書を読みながら思うのである。
純粋芸術とは専門的な芸術家が専門的な享受者を対象に創るもの。大衆芸術とはやはり専門的な芸術家が創るものの、資本が制作の決定権を多く持ち俗悪と言われようと大衆に広く享受されるもの。そして限界芸術とは「くらしをひとつの領土とみて・・・くらしとも見え芸術とも見えるへりの部分」にある芸術と説明される。限界とはだからここではmarginalという意味である。例えば子供の落書きを想像してみてもいいだろう。
限界芸術がすべての芸術の根源であろうことは容易に想像がつく。そしてそこからの発展の終着点が純粋芸術であるものの、その純粋芸術が限界芸術のふりをしてみせているのが現代芸術と見えなくもない。
さて鶴見の概念を建築に置き換えてみるとどうなるだろうか?多くのThe建築家は純粋建築を創っている。そして多くの資本主義建築家(という定義はなんだかあいまいだが)は大衆建築を創っている。そして、では限界建築は? 建築家なしの建築なんていうものはこれに当たるわけで、ルドフスキーはこのことにいち早く気付いたのである。しかし昨今は現代芸術同様プロの建築家が生活のへりに建築を創ろうとしているようにもみえつつ、そんな時代にあきあきして純粋建築に目覚める若い人もいるのである