山水思想
アルゼンチンワークショップ中に(というか行く前から)いっしょに行った塚本さんが「今まで自分は地中海主義だったけれどこれからは山水主義だ」と言っていた。
この言葉を初めて聞いて理解できる人はいないだろうから注釈を加えると次のようになる。「今まで自分は気持ち良いテラスでビールでも飲みながら海でも眺めている快楽主義を悪いとは思わなかったが、少し考えを改めるようになった、やはり日本には日本固有の文化的土壌がありそれに立脚して建築を考えるべきだと。そしてそれは日本の湿度に着目し、その湿度性を軸とした文化創造の志向性であり山水主義と呼ばれるものだ」と言うわけである。
「へええ」まあ塚本さんらしい発想だと思っていたら先日本屋で松岡正剛『山水思想』ちくま学芸文庫2008なる本を発見した。そうしたらその解説を内藤廣さんが書いている。そこには何故長谷川等伯の松林図が現代まで日本の若者さえも惹きつけるのかと問いその答えを日本の文化の基層に流れる水脈がそこにあるからだと述べ、それを「湿潤」だと結論付けるのである。
なるほど塚本さんと内藤さんの意見は一致した。湿潤は日本文化の基層というのはその通りかもしれない。この湿潤がもたらすじとっとしてねとっとした感じ、湿潤がもたらす空気の不透明度、湿潤がもたらす空気の柔らかさは僕らが日本を感じるものではあるだろう。僕らはなかなかそこから逃れられないだろうし、それを否定することは難しい。でも僕はその湿潤が昔からあまり好きではない。だから松林図を見てもその湿潤を感じたくはない。もちろん梅雨の湿気は嫌いだし、透明度の低い空気もできることなら見たくない。湿度が高くて気分いいのは冬に鍋から上がる湯気に包まれる時くらいである。だから山水主義で建築を作ると言うことがどういうことなのかまだ分からない。塚本さんに「山水主義で作ると何か変わるの?」と聞いたのだが確たる答えは頂けていない。