飛田新地の謎を解く
その昔僕は日建の組合中央執行委員をしていた。大阪、名古屋、東京で年数回中央執行員会を行い終ると飲みに行くのが慣例で各支部がその宴をセットした。ある年の大阪のそれは「鯛よし百番」という割烹で行われた。有名な飛田新地の端っこに位置しており、宴会の後、飛田遊郭の残滓を垣間見た。凄い場所があるものだと記憶の片隅に残っていたので本屋で井上理津子『さいごの色街飛田』筑摩書房2011を見つけ、12年かけたルポを迷わず買って読んでみた。
ここはいわゆる花街だが1912年に焼失した遊郭「難波新地乙部」の代替地として設置されたもので芸妓はほとんどいない、娼妓ばかりの街である。その数昭和初期で2000人を超えたと書かれている。同じ時期同じ花街(こちらは芸妓専門だが)である神楽坂で600人ちょっと、荒木町で200人ちょっとだった。飛田がいかに巨大であったかよく分かる。それにしてもそれ以来戦後の売春防止法以降も昔ながらのシステムと街並みを残しているのには驚かされる。ここは関係者が決してそのことに深く触れない暗黙のルールがある場所のようであり、写真も撮ってはいけないのである。このルポにも下の一枚を除いて写真は載っていない(この写真も著者撮影ではない)。
しかしグーグルアースにはうつしだされるのが少々不思議ではある。