イズムの鮮度
中野剛志『日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ』ちくま新書2012を読む。朱子学の合理を批判した伊東仁斎、荻生徂徠は古学を生みだした。それを受けて会沢正志斎は『新論』を著しプラグマティクで健全なナショナリズムを主張。そしてその精神が福沢諭吉につながる理路を示して見せた。
中野剛志が震災後に書いた論考を読んだ時は素晴らしい文章だと思った。復興の最重要点は街づくりとか都市づくり以前に被災者の心の復興であると書いてあったから。そしてTPP批判を読んだ時も全面賛成はできないものの頷けた。そしてこの書も幕末の水戸学の本質を過激な排外主義ではないことを明かした点で面白かった。
だが、どうもyou tubeに流れる中野の脱原発批判は少々戸惑う。彼の脱原発批判は脱原発批判の前にナショナリズムが先行しているからである。吉本隆明の脱原発批判とはわけが違う。中野の批判は脱原発主張者をアンチナショナリズムであることを持って批判の根拠としている。吉本のそれは原子力が人間の生み出してきた文明の一部であるということを根拠とする。方や政治的視座であり、方や文化的視座である。
もちろんそれが理由で本書の内容を全面否定するつもりもないのだが、イズムはそれに基づき何を主張するかによってその価値も決まる。であるならば彼の健全なナショナリズムの使い方は少々乱暴でそれゆえにせっかくのイズムの鮮度が減少して見えるのである。