2G篠原一男特集の意味
●花山第三の家(上田宏撮影)
奥山先生から2Gの篠原一男特集が贈られてきた。既に南洋堂でもアマゾンでも売り切れ状態のようである。不動の人気と言いたいところだが、初版刷りが少なかったのかもしれないので何とも言えない。
今回の特集はかなり前に一度企画されぽしゃり延々と伸びながらやっと実現に至ったようである。それというのも、editors` noteを見ても、冒頭のEnrikの論文を読んでも、今回の編集の特徴は篠原が絶対に崩さなかった出版のスタイルを破壊することが暗に目論まれたから。彼は自分の好む写真と自らの言説を巧妙にパッケージ化したもの以外の出版は認めなかった。人が住んだ形跡が見えるような状態を公にするなどと言うことは200%あり得なかった。
今回それを許したのが誰かは知らないが、上田宏さんによる現状の写真が昔のそれと併置されながらその時間の経過を報告するかのように並べられている。加えていくつかの住宅では内部写真が、今まさに使われている状態で載っている。しかもクライアントが入ったものさえある。これはもはや建築写真の枠をドラスティックに逸脱し、建築系一般誌がよく使う写真の部類になっている。それは篠原が絶対に認めなかっただろうことである。
地の家には本が山と積まれ、壁にはメモがピンナップされキャビネット上には置き物が並んでいる。未完の家では石膏ボード塗装だったあの亀裂の壁に縁甲板が張られ、床の絨毯はフローリングとなり、そして観葉植物がセンターホールに置かれている。白く輝いていたその空間は妙に落ち着きしっとりとした場所に変っていた。篠さんの家の金色の壁はアイボリーに貼りかえられ。海の階段のアトリエには足の踏み場が無いほどの画材が並ぶ。同じクライアントの別荘である糸島の住宅も同様である。花山第三の家ではクライアントが写真の中央でまさに主人公足らんとしている。一瞬読んでいる雑誌が2Gであることを忘れてしまう。カーサブルータスだったか??
篠原一男が許さなかっただろうこの特集が篠原一男が最も嫌っただろう自らの家の「生きられた家」化を刻銘に、そして正確に伝えている。
篠原一男の家でさえ生きられた家となるのである。そんなことは当たり前と言えばそうなのかもしれないが、最後の最後まで生活臭が感じられなかった「白の家」を目の当りにした僕にとってにわかにこの状態は信じられなかった。しかし、どうも殆どの住宅がクライアントによって生きられたものへと変貌しているのようなのである。そしてそれを嫌った篠原空間はそうなると命を失うのかとも思ったのだが、写真を見る限りその状態での味が染み出ている。篠原の空間さえもが生きられた泥臭さを十分許容するということがここから伝わってくる。
これからおそらくこうした巨匠たちの建築の現在が再撮影されて我々の手元に届くことが増えるのではなかろうか?特にexclusiveにモダニズムを生きてきた巨匠のそれが。というのも彼らの建築が実はexclusieでもなんでも無かたっか、そうした意気込みが時間によって軽々と超克され、そうした時間の力に深い意味がありそうだからである。