構成と現れの非平行関係
建築の構成を単純な言葉で2分化してしまうと、それに対応する表現(現れ)も二つで終わってしまう。例えば開くか閉じるかなどという構成の分類を単純に2分するだけだと表現も二つ以上を探求せずに終わってしまう。しかし実は開くにも数種類の構成があるわけでそうなるとそれに対応する表現(現れ)もその数だけあるはずである。
例えば中野本町の家は閉じた住宅でシルバーハットは開いた住宅である。でも例えば中野本町のFL+400までが全周にわたりガラスだとこう言う空間は閉じていると呼ぶのも変だし、開いているというのもちょっと違う。こういうのは被(かぶ)さっているとでも呼ぶのがいいのだろうか????
日本語では(恐らく他の言語でも)対義語の中間を表す語彙は少ない。だから間は程度を表す形容詞をくっつけて表現してしまう(少し開く、開く、非常に開くetc)。確かに構成はこういう程度問題として片づけることができる。しかし問題は中間に現れる空間がその対義語の程度以外の別の質を表す時に生じる。先程の例もそうである。400の帯が回る時それは開くとか閉じるというような水準とは違う水準において現われているのである。つまり構成と現れは、あるところで言葉の対応が乖離する。その乖離するところが表現の操作としては重要なように思うわけである。