« 論文、レポート、、、 | メイン | チューリップ=コールハース VS 桜=石上純也 »

言葉と感性

7時に長野のマンションを出る。さすがにこの時間の長野は耳が凍りそうに寒い。駅で朝食をとり特急に乗り松本経由で甲府へ向かう。車中『現代思想のコミュニケーション的転回』を読み続ける。言語的転回を言い始めたのはローティーと書かれていたのでコミュニケーション的転回までの3つの転回を筋道立てて述べたのはやはり彼なのだろう。先日のいい加減な要約をもう少しきちんと書けばこうなるか。カントはそれまで物の存在を追求してきた哲学を転回させ、物自体ではなく人の認識側に立脚点を置き、物は仮像として取り扱った。次にソシュールは人が物を認識する上で言葉を用いることで自らの中に像を結ぶことから物自体ではなく言葉が人間世界を生み出しているとした。ではその言葉とは何かというと言葉とは規則であり規則は自分一人では成り立たないことから言葉の成立のためには自分と他人の共存在が必然となる。他人とは自己の対概念であり対概念とは双方の存在が必然である。すなわち自己を認識するとは他を認識することに他ならず、そして他を認識するとは言葉によって合意を生み出していくしか道が無い。それゆえ現在、人は自己を生み出すために他とのコミュニケーションを必然として生きていかざるを得ない。とこうなる(あまりにいい加減な要約です間違っていたら許してください)。
午前中、甲府で住宅の施主検収。時間はかかったが殆ど大きな問題もなく終了できた。一安心。今週末は撮影とオープンハウスだが、甲府の住宅じゃあまあ誰も来ないだろう。3時半のかいじで新宿へ。車中佐々木健一『日本的感性』中公新書2010を読み始める。佐々木氏はわが学兄の師匠。毎回氏の親書は拝読している。先日「感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚」だなどと偉そうなことを言ってしまったので、言葉の本を読んで感性の本を読み始めたというわけだ。彼は先ず感性とは何かという問いから始めこう定義する「感性とは刺激に応答する身体化された記憶の活性である」見事な定義としか言いようがない。つまり「感性がいい」とはいかに無意識の底に多彩な印象の粒を沈殿させそれを常に発酵させているかにかかっているということである。
言葉と感性を同時に考えいていくととてつもなく深いつながりが感じられる。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/4995

コメントを投稿