作家という原理
どうも風邪がすっきりしないので朝一で荒木町の「まがり医院」に行ったら内装がすっかりダーク木目調にリニューアルされているのに驚いた。まがりさんは近くて便利な行きつけのお医者さんである。そんなわけで先生とは病気以外の話題も多い。今日も診察室にはいるなり「荒木町の石畳できそうですか?」と聞かれた。僕が責任者というわけじゃないのに、、、、。朝は新建築のアンケートに答えるために、スタッフが来ないうちに雑誌を見る。とはいってもJT10年分見るなんて不可能だから、記憶に残っているものから考えるしかない。スタッフがやってきて群馬のコンペの話題。坂本先生惜しくも優秀賞。乾さん最優秀。見に行った伊藤君の写真を見せて頂く。よく考えられている。
午後カラースキーム模型のデベロップを見てから、ゼネコンのマスタースケジュールの問題点を打合せ。終わってから夜のアサマで長野へ。車中椹木野衣を読み続ける。近代とは神を失った時代、あるいは神を殺した時代でありその時代の芸術は神が保証してくれないそれは個人の力にかかっている。だから近代の芸術において作者が重要な位置を占める。我々の時代においてどうしてここまで作家ということが問われるのかその理由はここにある。そして近代の象徴のようなこの作家を抹殺しようとしたのがポスト近代である。しかしここには決定的な矛盾がある。アートを保証する神の不在が作家を生みだしたのと同時に個人は神の加護を失い、その生きがいを自らの達成感の中に求めざるを得ない時代になったのである。神が人生を肯定してくれるわけではない。自分の人生は自分で充実させざるを得ないのである。その時代において作家性を消去した作家はあり得ない。作家である限り自己の主張と達成が不可欠となったのである。だからあり得るとすれば作家性を消去するのではなく、作家という職能を消去しなければならない。作家性を消去すると言うことは近代の社会原理上不可能としか言いようがない。