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メディアとしての住宅

金沢の朝は土砂降り。大分濡れた。その上特急はくたかの冷房がぎんぎんに効いていて凍りそうになった。直江津で乗り換えて長野へ。車中柄谷を読み続ける。残念ながら何かコメント出来るほどまだ理解できていない。午後製図のエスキス。学生がこの課題(幼児の施設)は難しいという。そうだと思う。それは幼児の気持ちになるのは殆ど不可能だから。だからこれは結局、独りよがりだと思われない範囲で自分の想像力を無限に拡張していく作業なのである。童話作家になれるかどうかということだろう。今日は4コマ目でエスキスを終え。5コマ目は僕が主催している。異分野レクチャーシリーズを聞いてもらう。第二回の今日は人文学部から祐成保志准教授をお招きして、お話しいただいた。タイトルは「メディアとしての住宅―住まいの『質』を考える」。氏の専門は歴史社会学で対象は住宅なので、話は住宅難、現代住宅の起源などを歴史的に跡付ける。そのうえで現代住宅をメディアと位置付ける。氏の話で面白いのは先ず、「住宅」と「住まい」を分けている点。メディアが運ぶものとして「データー」と「情報」を分けている点である。住宅とはリテラルな物質であり、住まいとは物質の中での生活である。データーとはメディアが運ぶ刺激全てであり、情報とはそれを受け取った者が自らの不確実性を減らせる刺激である。例えばとして祐成氏の出した例は、彼が調査をした山本理顕の保田窪団地。ここでは家相互のプライバシーが低くお隣さんの視線や物音を感じるように設計されている。そうしたデーターは居住者の中でも比較的高年齢層に評判が悪い。しかし、もう一つの例としてあげられた、昨今よく孤独死が起こる団地などではこうしたお隣の気配があれば防げただろうにと思われている。つまり同じデーターがあるところでは住まいの質を下げ、あるところでは上げ得る。つまり受けての受け取り方でデーターが情報化されていくのであり、その意味で住宅をメディアとして考えられると言うわけである。そして情報の質がその住まいの質を向上させるわけで、それは必ずしも住宅の性能ではないという。工学部の先生、あるいは役所の頭でっかちにはよく聞かせたい重要な指摘である。
八潮のワークショップでわれわれが頻りに住宅と言う器を作るよりもまず住まい方の提案をしようとしてきたことも住宅がメディア的性格を帯びていることの証なのだと思われる。いつも何となく考えていることを社会学的概念で捉まえてくれるとスッキリした気持ちになる。

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