人間のアタマなんて99%は借用
午前中早稲田の演習。今日は学生8人が10分ずつ発表。テーマは階級性⇔平準性、写真性⇔体感性である。写真性を発表してくれた学生(文化構想学部の3年生である)はコロミーナ等を引用しつつ、建築写真とは建築批評であるというまとめをしてくれた。これはかなり高度である。建築学科の3年生に同じ課題を出してここまで言えるだろうか?と考えてしまう。午後事務所に戻り仕事。今週中に送られて来ると言う資料を待っていたが届かない。諦めて帰宅。
帰宅後上野千鶴子のエッセイを読み続ける。「本棚」というエッセイにこんな文章がある。「にんげんのアタマのなかは、九九パーセントまで他人のことばとアイディアの借用で成り立っている。オリジナルは残りのわずかな部分だけ。・・・・」これを読んで僕の事務所に集まる人文系の若き学者の卵が似たようなことを言っていたのを思い出す。「論文なんて引用の継ぎはぎです、これにオリジナリティを求められてもそんなのは無理ですよ」そう論文と言うものはそうなる運命にある。99%は借用というのは論文頭の上野の言葉であろう。少なくともこのエッセイは上野のオリジナル以外の何物でもないのだから。しかしそうは言っても人は言葉に限らず、音だろうと形だろうと生まれた時から周りの環境から吸収して育っているわけである。そうしたものを先ずは真似ることで成長する。そして芸と名のつくものであってもひたすらコピーするのがことの始まりである。音楽をやっていた僕もひたすらレコードの通り弾けるように練習をした。もちろんそのレコードは数枚あってどれをコピーするかはよく考えてはいたが。書道をやっているかみさんはこの年になってもとにかくコピーである。さてでは建築はどうだろうか。もちろん僕らはやっていることをコピーだとは思っていない。「私」であると自負しているかもしれない。でもそれは疑わしい。99%とは言わないが、オリジナルなんていうものはほんの少しだろうと思う。コルビュジエだってカウフマンに言わせればルドゥーからの流れが指摘されるわけである。上野千鶴子が99%であるのに僕ごときが90%と言うわけにもいかない。