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廊下

毎年4月の最初に研究室所属のガイダンスがある。所属する学生を決めねばならない。定員六名だけど応募者は少し多い。僕が学生のころはじゃんけんで研究室を決めていたのだがそれもなんだか昨今の風潮ではない。それにやはり研究室も大袈裟に言えば会社のようなものだからいい人材が入れば盛り上がるだろうし実力も上がる。と言うわけでいろいろな資料を見ながら選考する。仕方なく数名他の研究室に行ってもらうことになるのだがせつないものである。入研者を部屋の外に張り出して夜のアサマで帰宅の途へ。今日のアサマはひどく混みあっている。Pcを打つ手が隣人の荷物にぶつかる。帰宅後丸善から届いていた宅配本を開けその中の一冊をとりだす。青木正夫、岡俊江、鈴木義弘『中廊下の住宅―明治大正昭和の暮らしを間取りに読む』住まいの図書館出版局2009。なんで廊下?というと、先日高山の陣屋や商家を歩きながら改めて日本の家には縁側はあっても廊下は無いものだと思ったからだ。白川へ行っても公開している重文の合掌造りには廊下はない。僕が泊まった合掌造りには廊下があったがそれは客室を細分化するために後から改装された部分である。まあそんなことは教科書的には分かってはいても、実感してなかった。廊下ってどういう理由でできたの?にわかに興味深くなった。加えて最近設計中の甲斐の住宅ではしっかりとした中廊下が現れている。今回の設計では設計前に住宅特集10年分くらいの平屋平面のタイポロジーを作ってスタッフと平面研究をしていたのだが、そこには中廊下は一つもなかった。タイポロジー分析とは、もちろんそこにあるものを作るためのものではなく、そこにないものを発想する為であり、その模索の結果なんとなく中廊下の形式にたどり着いていた。もちろん中廊下がオリジナルな形式であるはずもないのだが、かといって、それがいつ頃どういう理由で生まれたかを知ることもなく設計は進んできたのである。
高山での廊下と設計中の中廊下が意識の中で混ざりあい、丸善でこの新刊を目にして発火した。読み始めたばかりだが、やはり明治当初の住宅はあくまで縁側のみの廊下なし住宅である。そして明治の後半に縁側が垂直に折れて廊下の形態が生まれるのである。さてその理由は何故?続きはまた明日。

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