« ボサノヴァ | メイン | antada »

non-essetialism

早起きして7時半のバスに乗って山中湖に木島さんの設計した別荘を見に行った。あいにくの雨(というかみぞれ)である。富士山が見える所に行くとたいてい天気が悪いのは僕のジンクスのようである。バス停から地図を見せてタクシ―を走らせたら、なんと昔よく遊んだ友人の親の別荘地だった。懐かしい。遠い場所で雪も降っているから、来ているのは僕くらいだろうと思ったら、続々と人が来るのに驚いた。建築好きはいるものだ。午前中に山中湖を辞して東京に戻り長谷川さんの設計した集合住宅を拝見した。
行きのバスで田崎健太『W杯に群がる男たち』新潮文庫2010を読んだ。FIFA会長にブラジル人のアベランジェが就任し、そしてその後ヨーロッパの巻き返しでプラッターになるまでの期間に起こる様々な利権の争いが描かれている。日韓共同開催となったいきさつは実にドロドロしている。大量の金が動くところにきれい事はないということだろうか?帰りのバスは昨日の続きで『クレオール主義』を読む。著者の今福龍太はその昔多木浩二、長谷川逸子と「アーキ・ぺラーゴ」というテーマのシンポジウムでパネラーをしていた。僕はその時初めて今福さんを見た(見た程度である)。その昔は何を言いたい人なのか良く分からなかったが、この本を読んで少し見えてきた。昨日の「詩性」は彼の別の言い方をすれば「ノンエッセンシャリズム」に相当する。文化に本質などなく、リプレゼンテーションの寄せ集めであり、それを現実に再投錨することが重要だと述べている。これは分かる。僕も建築のノンエッセンシャル側面をかなり信じている。でも仕方なく実体を作っている。でもその実体にどの程度本質があるかは良く分からない。というのも本質があろうがなかろうがリプレゼンテーションは確実にあるからだ。そういう意味では今福の次の言葉は示唆に富む。
「<場所>というような主題を前にした時、その経験の様々な相をとりあうかつために私たちはふつう二種類の思考のレヴェルを使い分けている。エッセンシャルなレヴェルとリプレゼンテーショナルなレヴェル・・・そして後者のリプレゼンテーショナルのレヴェルに焦点をあわせてゆくとき、そこで問題とされるのは、「場所の経験」そのものの存在形態やその辺の姿であるよりも、むしろ、「場所の経験の記述」にかんする形式と変容にかかわるものである」この「場所」を「建築」と置き換えてもむろん構わない。今日見てきたものでもそう思う。僕は僕の記述をしているけれど、僕以外の誰かはまた違う記述をしているはずであるhttp://ofda.jp/column/

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/4552

コメントを投稿