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<うちなる書物>

ピエール・バイヤール大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房(2007)2008という本がある。目から鱗の面白さである。大学で文学を教えているという著者が「・・・本を読むことがあまり好きではないし読書に没頭する時間もない・・・」と語り始め、先ず本を読むとはどういうことかと問う。そして『特性のない男』という小説に登場する図書館司書の話を紹介する。この司書は本好きを自称するものの本を一冊も読まないという。その理由は司書という仕事を全うするために個別の本に没頭することを禁じ、本のエッセンスの観念を把握し、その相互の関係性のみを頭の中に構築するためだという。次に著者はヴァレリーがベルグソンの死に際して行った講演録を紹介する。それを読むとヴァレリーは明らかにベルグソンを読んでいないことが分かると著者は言う。本は読む必要もない場合もあれば、流し読みで事足りることも多々あるという。もっと言えば本など読んだ傍から忘れるものであり、よしんば覚えていたとしてもそれはほんのわずかであり、かつそうして覚えていることも思い出したときの自己の投影としてその都度再構築されていくものに過ぎないという。確かに日常のたわいもない読書などそんなものだろうし、もっと厳密な学問的なものであろうとも、古典と言われる書物に数え切れないほどの解釈本があるということがそもそも読書などと言うもののいい加減さを表している。さらにその何百通りもの解釈が存在することの原因を著者は読書する人の中に<内なる書物>が既に存在しているという言い方をする。うちなる書物とはすなわち、読む人の読書記憶であったり、知的生い立ちであったりである。東横線車中でこの本を読み馬車道で降りてSETENVhttp://www.setenv.net/index.php主催のライブに行った。出演はジムオルーク、大友良英、刀根康尚の予定だったが利根さんは急遽体調不良で来日できなくなった。しかしニューヨーク演奏された録音が届きそれに大友とジムが絡むという珍しいセッションも行われた。利根のマシンガンのような音に大友のターンテーブルとジムの音が乗っかる。正直言うと僕は今まで利根さんの炸裂する音を頭で聞いていた。ジムも前回のようなメロディーのあるものはしっくりくるのだが、ノイズ系の音程もリズムもないものは感覚的には受け入れにくかったのだが、何故か今日のセッションはスーッとはいるのである。これは『音楽の聴き方』にも書いてあったように、耳の中に何かの音楽を聴く聴き方の型が出来たからなのだろうと思われる。先ほどの本の言い方になぞらえるなら僕の<内なる音楽>の中にノイズ系の音の層が生まれているということである。セッションを終えて東横線で都心に戻りながら今日午後行われた八潮での市民フォーラムを思い返した。5大学が行ったモデル住宅の発表会後のシンポジウムで自ら言った発言を思い出した。「5大学のモデルは様々ありばらばらのように見えますが、外部との関係性を作り上げるという共通した特徴をもっているのです。まちづくりとは町を発見することなのです」。というようなことを言ったのだが、シンポジウム後、とある人に「あの一言でモデルが理解できました」と言われた。なるほどこれは僕が建築の見方を教えてあげられたからなのかなと理解した。すなわちこの方にはそれまでまだ建築はただとりとめのない建物に過ぎなかったのだろうが、僕の言葉によって、<うちなる建築>を内部に芽生えさせたということなのである。本には「読み」、音楽には「聴き」、建築には「見」があるということである。

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