電子メディアは主体を置き去りにしたか?
午前中研究室でゼミ本である大澤真幸の『電子メディア論』を再読。昼食後講義を挟みゼミ。話は結構込み入っている。マークポスターの『情報様式論』を手本に更に徹底した突っ込みでロジカルに組み上げられた本なのだがどうしても府に落ちない点がある。近代人が主体性を獲得するためには超越的選択においても主体がそれを支配せねばならないことを前提にしておきながら、それを哲学的な(カント的な)統覚に置き換えたところで、主体は二つの他者との弁証法的な関係の中で確立すると言い換える点である。超越的選択を主体が行うのであれば、超越的他者の他者性はあやふやなものになってしまうと僕は思うのだが?僕の読みが間違っているのか、それとも著者はそれを承知で作為的にこうした二重のロジックを並走させているのか???とりあえずその疑問は置いておいて、結論的な内容である電子メディア環境での主体の脆弱な基盤は果たして原理的なものなのか?過渡期の人間の不慣れによるものなのか僕にはまだよくわからない。子供を見ていると電子機器に向かう時と、アナログメディア(本)に向かう時ではどうも脳みそのチャンネルが切り替わっているように見えるからである。電子メディアを小学校から習う世代と言うものはもはやそれを生活の一つのツール(僕らにとっての電卓など)程度にしか思っていないように思えるのだが。
輪読の後即日設計。1時間半で住吉の長屋の敷地に僕の家を設計してもらった。なかなか面白い。またやろう。
夕食後、多木さんの本の最後の論考であるコールハースに関する部分を読む。いやー褒めてんだかけなしてんだか、勝手にしろと言う感じがよく出ている文章である。タイトルがいい「波を上手く捉えるサーファー レム・コールハースの疾走」である。読みながら事務所から送られる図面やら、日影チェックやら、天空率チェックに目を通す。うーんなんだか不思議なものばかり送られてくる。どうして?と口をつくのだが、、、、、ネットチェックはストレスがたまる。