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競争、評価

ジョギングから戻り、朝食をとりながらNHKの連続ドラマ「ハゲタカ」を見た。外資系の投資会社対日本企業の戦いである。攻撃のターゲットとなっている日本企業の体質を聞くとその昔アメリカで受けた、とある講義を思い出す。それはアメリカの企業を説明する授業で比較対象として日本の企業体質が説明された。「終身雇用」、「年功序列」、「家族主義」が珍しい生き物でも見るかのように語られた。日本人学生は説明を求められたりもした。そのころ僕は日本体質が旧態依然なものと映り、好みではなかったのだがアメリカの友人の何割かはこの日本の習慣を絶賛していた。
その後会社に入り組合活動を通して能力給の積極的な導入や分社化などを提案した。幹部の中には働かない人は減らすべきだという意見さえあった。まるで組合と経営陣が逆転していた。
バブル時代、一時日本体質は追い風だったが、バブル崩壊を契機に政治的な後押しもありそれは嫌悪されアメリカ基準が浸透し始めた。自己責任、能力尊重の時代である。われわれが考えたことがどんどん現実化し始めた。しかし、それはある限度を超えて進み、かつ企業のみならず教育現場にも浸透した。
それは学校同士あるいは教員同士の競争というかたちをとる。そんな競争は教員評価制度を生み、能力、業績給与につながる。民間企業なら十年以上前から始まったことだが、教育現場では最近の話。われわれの大学では一昨年から始まった。そんな実態が刈谷剛彦 他により『教員評価』岩波ブックレット2009という冊子にまとめられている。
評価には評価の基準が必要である。しかしいったいそういう基準は普遍的に存在するのだろうか?そしてそうした基準の遂行は外から見ていて認識可能なものだろうか?アンケート調査によると、大方の教員の答えは普遍的な価値が存在するがそれは外から認識できるものではないというものだった。こうした評価観のずれが存在すると評価はなかなかうまくいかない。このアンケートは小中高の教員になされたものである。これに対して大学での評価は、(少なくとも我々の大学では)「教員に求められる普遍的価値」は掲げられていない。極めて定量的に業績を申告するものである。その意味では客観的で文句の出しようがない。しかし逆に言えば、ひどい論文でも、良い論文でも一個は一個というドライな評価を生み出すことになる。
評価制度はある程度必要なものだろうとは思うものの、これでいいと思うものに出会ったことはない。

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