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design

朝軽くジョギング。四谷から一番町、女子学院の脇を通り外堀に出て市谷から四谷へ戻る。今日はかなり飛ばした。息が上がり帰宅してシャワーを浴びてもはあはあ言う。事務所に行き模型を作る。

先日大学院の講義でdesignの両義性について話をした。この言葉は概念とできたものの双方を指し、その両義性が古来モノづくりのプロセスで議論されてきた。たとえばモノを作る時に本能的に手が勝手に動きながら絵が、模型が、彫刻ができてきて事後的にそれが概念化(建築なら図面化)されるのか、図面やコンセプトや構想が先ず明快にあってそれが絵や模型や彫刻へと出来上がっていくのか?そんな議論をした。http://ofda.jp/lab/lecture/word2009/bbs/2009/04/post_2.html

模型を作りながらこの議論を思い起こし、今自分の行っていることは手が勝手に動いているのか?それとも明確な構想のもとに行われているのか自問した。答えは以下のようなものとなる。模型を作り始める時にはおぼろげにイメージする形が頭の一部にある。もちろんその全貌は見えない。そして作り始める。1000㎡程度の平均1.5層くらいの建物を1/200で作る。先ず屋根を切り出しカッターでラインを入れて折り曲げる。折り紙細工のようである。そうするとそこで朧げだった屋根の形がより明確に自分の前に現れる。そしてその下に壁を切り出しては接着していく。屋根ができた時点で壁のついた全貌は想像できるのだがそれも朧げである。そして壁が全部ついた時点でそれをじーっと見つめる。
さてそこにあるものは自分が最初におぼろげに構想したものだろうか?もちろん違う。それは作りながら自分の当初のイメージがどんどん変化しているからである。その変化は頭が司令しておこなっていることなのかというと実はそうでもなくほとんど反射的に手とカッターがその状況にあったことをしているのである。そして出来たものを見ながら今度はそれを図面化、あるいは言葉にしてみる。自分のしようとしたことを言語化する。もちろん言葉は当初からなんとなくある。しかしできたものを見てその言葉がそのままでいるはずはなく形に合わして変化するのである。設計をする人ならこんなことは当たり前のことだと思うが、そうした話が前回の授業ではできなかった。
夜、事務所の人を誘って友人のブルースを聞きに神田のライブハウスに行った。行ってみると多くの知り合いに会う。ライブは大いに盛り上がる。飲んで歌って騒いだら気分すっきり。終わって、来ていた友人も誘ってもう一軒。彼はT大を出て一流銀行に勤めているのでゆっくりこの金融情勢について聞きたかった。「仕事どう?昨今厳しい?」と聞くと「6月で退職、転職、職探し中だよ」と想定外の回答。なんと言うことだ。日建の設計による彼の会社のビルも去年外資系に売られたとか。辞めるのは積極的なものではなく、彼のやっていた仕事がクローズされるからだそうだ。彼の実力を持ってすれば次の仕事くらいいくらでも見つかるだろうが、それにしても厳しい世の中になったものである。

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