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考える時間

考えてみれば、アクション映画の多くはカント的崇高の原理を多いに使って人をあっと言わせている。例えば最新007のオープニングの映像は海面すれすれのカメラで大海原のさざ波の無限の波頭を鮮明に映し出しその向こうに山の(島の)巨大な偉容を見せる。その山の岩肌だったか木々だったか忘れたがこの肌理の細かさも鮮明に映し出されている。その圧倒的な量感はまさに数学的崇高である。そしてすぐさま始まるカーチェイスは見る者に手汗握る恐怖感を抱かせる力学的崇高である。ところでこうした崇高のカント的解釈は『崇高の美学』桑島秀樹によれば、必ずしもそうした対象の力よって生ずるものではないと言う。それは発端は対象にあれども最終的にはそうした無限性を超えられないと判断する受容側の理性の内にあると説明される。しかるにジンメルはそうした理性側に根拠を求めず、あくまで対象の側に何かを見つけ出そうとする観察眼にかけていると桑島は説明する。どうもこのあたりから桑島の言わんとするところが僕には正確には分からないのだが、僕に引き寄せて勝手に解釈するなら、理性の限界でわっと驚いて手を抜くと人間の脳みそはそこで考えることをやめてしまう。そして適度な驚きに満足する。(アクション映画の爽快感はここからくる)。しかしもう少しその先をじっと観察してそれを言葉にしていく努力をするなら何かまた別の感興を発見できるかもしれない。もっと泥臭い、言葉にならないかもしれないような何かである。そこをもう少し考えていくと感性の発見へ一歩近づくのではないかと桑島はジンメルに掉さし言っているように思える。そしてその思いはとても納得がいくし僕もずっと考えていることを少し発展させてくれるように思う。では何をすれば良いのだろうか?先ずは辞書的な概念で語ることをやめるということがそのスタート地点ではなかろうか?そしてそれは比喩かもしれないし、感嘆詞かもしれないし、別のジャンルからの引用かもしれないし、ラブレターかもしれないし、味かもしれないし、手触りかもしれないし、、、、よくわからないけれどもう一度観察して努力する態度がトニモカクニモ必要である。それには多少時間がかかる。よく考える時間がいる。007的な受容側の心を巧に操作するようなプログラムに乗らされるとその場所には行けない。考える時間を生み出すプログラムが必要でありその果てに観察と言葉が生まれる。

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