詩学
奨学金の推薦文を書く。この推薦書は毎年これでもかと言うほどたくさん書いている。希望者が多いのは僕等の頃に比べれば比較的とりやすいからなのかもしれない。
めまぐるしく変化しながら進展している九州プロジェクトの週末の進捗を聞きながら構造の打合せ。地形がフラットではない場所であ基礎のレベル設定が難しい。設計もさることながら現場での監理もやっかいである。
先日仙台からの帰り小川さんが「建築で詩学というようなことを言い出すともう前には進めないのでは?それはある種のエンドではなかいか?」と言っていたのだが、そのこととが気になっている。詩学というような説明不可能な状態は確かにその解読は極めて個人的領域に入っていく可能性がある。そう考えると、そこから先は議論のしようがなくなる可能性はある。ただ、だからと言って、それが理由に前に進めなくなるかというとそうでもないと思う。詩学が創作のエンドであるならば、詩人は創作できなくなってしまう。詩学と言いながらしかしそれを積極的に議論できる領域に引っ張り出すことは可能ではないかそれは詩学の方法論の問題なのだろうと思う。論理性を拒否する物としての詩学ではなく、想像力を生み出す装置としての詩学である。