散漫な大衆
午前中二つの会議。お昼に某市役所の方と打合せ。コンペの審査委員の打診だが、コンペではコンペティターとなりたいと我がままを言い、辞退の方向で頭を下げる。午後大学院の講義。今年の講義は自分自身の理解も深まってきたせいか講義をするのが少し楽しい。複雑な内容を簡単に話す気持ちよさのようなものを感ずるようになってきた。講義後、工学部全体の会議。そして夕刻輪読ゼミ。今日は井上充夫さんの『建築美論の歩み』。m2は4年の時から数えて3回目。この本はそのくらい読んでも損はあるまい。夕食後ベンヤミンの『複製技術時代における芸術』を読み返す。正直言えばこの本は「アウラ」について書かれたものと高をくくって最後までキチンと読んだことは無かった(お恥かしい)。ところが先日、早稲田での学生発表において、とある学生が「ベンヤミンは『建築は大衆が散漫に接してきたもの』」と発言。思わず「本当?」と聞き返すと「そうですよ」と言う。「どこで言っているの?」と聞くと複製技術、、、、という答え。それは気付かなかった。
建築は広告同様、人々が殆ど気付かないもの。建築はじっくり見るなどという対象にはそう簡単にはならない。そのことこそが建築の重要な本質の一つ。というのが僕の建築把握なのだが、そういうことは既にベンヤミンが言っていたのね!ということを学生から教わった。
というわけでざーと読み返してみると一番最後の2ページにそのことがしっかり書かれていた。曰く「建築は、古来、つねに人間の集団が散漫に接してきた芸術の典型であった。・・・建築物にたいする接しかたには、二重の姿勢がある。・・・実際型と視覚型である。実際型の姿勢は注意力の集中という道ではなく、むしろ習慣という道をとる。・・・建築にたいするばあいは・・・視覚型の姿勢にしても、がんらい精神の緊張と結びつくよりはむしろなんでもないふとした印象と結びつくことのほうが多い」更にベンヤミンはこうした注意深い観察ではなく、習慣的ななかでのふとした印象が歴史の転換点での人間の知覚の刷新を生むと述べる。
ベンヤミンが建築にこうした指摘をしていたのを知って、いままであたかも自分の意見であるかのごとく話していたのが恥かしいやら、我が意を得たりと嬉しいやら、複雑な心境。しかし考えてみれば僕の発送はベンヤミンの「気散じ」概念に想を得た北田暁大の『広告の誕生』の影響である。そこで北田は広告が大衆の散漫な意識の中で浮上してくる様を描写している。そして僕はその広告の現れ方が余りに建築とよく似ていると感じたわけである。気散じを広告と結びつけたベンヤミンが建築も語っているはずだと思わない自分は想像力不足?!