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不可能性の時代

5月7日
連休明けの大学。車中大澤真幸の『不可能性の時代』を読み直す。何故現代が不可能性を胚胎しているのか?彼によれば、現代は第3の審級(あるいは大きな物語)が薄れている時代である。そうした時代の若者にとって家族というものはどういう存在か?家族は第3の審級によって成立している部分が大きいという。つまり自分の母親とか父親というものは血のつながりというもの以前に親であるという倫理観(第3の審級)によって成立している部分が大きい。しかしてその倫理観が崩壊している現在においてコミュニケーションの無い親とは他人以上に他人である。一方ネット上では血も繋がらず、顔も見たことが無い他者と深いコミュニケーションが成立しうる。つまりこうした新たな情報機器は親族と他人の距離を逆転させる。ところがこうして成立した他人とのつながりはあくまでヴァーチャルな状態であり、本当の意味での相互理解には到達しない。あるときそうしたネット上の知人の本当の他社性に気付いた時にその関係は崩壊する。つまり現代の若者が求めるものは他者性なき他者なのだと言う。それはつまり不可能性を原理的に胚胎するというのである。
なるほど分からないではない。原理的には。ニュースに登場する若者は確かにそうかもしれない。娘を見ていてもそれは頷ける。のだが、これが95年以降の現代の主調といえるのだろうか?そう考えるとピンとこない。他に無いの?という気分になってくる。そうそれは気分であり、潜在的願望かもしれない。大澤さんを上回る分析には辿りつけないのが正直なところだが。

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