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身体という文化

一昨日神保町で買った身体論叢書の第一巻、野村雅一・市川雅編『技術としての身体』大修館書店1999を読んだ。技術としての身体とは人間の身体の所作は決して生まれながらのものではなく、文化的に形成されたもの。すなわち技術として修得したものというという視点である。文化人類学、民族学、体育学、ダンス、等広範にわたる15編の論考が掲載されている。自分の専門に重ね合わせて最も興味を惹いた論文は野村雅一の「坐の文化と安楽な姿勢」である。そもそも椅子は座るために作られたものではないという椅子の象徴性に着目し、椅子の発祥地である西ヨーロッパにおいても椅子が生まれた当時でさえ床に座る人たちが多くいたことなどが書かれている。その論考はバルトのエッフェル塔からの引用で始まる。「物の有用性とは、実のところ物の真の意味をおおいかくしているものにほかならない」。つまり椅子の有用性は本来(そうであったかどうか僕は知らないが)権威の象徴であったその意味を覆い隠してしまったというのが著者の主張である。そしてこのように、生み出された「物の有用性」は逆に身体の所作を規定するようになるのであろう。
野村はそこまで言及していないが、もちろんここでの物には「建築物」も含まれるのであろう。建築物の真の意味はその有用性によって覆い隠されてしまう。だから僕等はなんとかしてもとの意味を剥き出しにしたいがためにこの有用性という文化的に作られたものを剥がしにかかるのだが、それがなかなか上手くいかない。でもなんとなくこう考えると自分のやっていることが少し整理できるし、それに応じた考え方や説明の仕方が見えてくるようにも思う。特に建築全般ではなく、身体の所作ということに絞ってその社会構築的側面と、慣習的な無意味さを正確にあぶりだせるのなら、もっと安楽な建物というものを考えることができるのかもしれない。

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