紋切り型
13年間朝日新聞の天声人語を執筆していた辰濃和夫の『文章のみがき方』という岩波新書が毎日新聞の書評に載っていた。書評は読まなかったが本は早速買って読んだ。その中に自分の気に入った文章を書き抜くという教えがあった。著者は鶴見俊輔のこんな言葉を引用している。「(私は)毎日、文章を書いて暮らしを立てているわけですが、なにか、泥沼のなかで殴りあいをしているという感じです。紋切り型の言葉と格闘してしばしば負け、あるときには組み伏せることができ、あるときには逃げる、・・・・」辰濃はこう続ける「紋切り型の言葉を使わないということは紋切り型の発想を戒める、ということでもありこれはいい文章を書くための基本中の基本だといっていでしょう」。この部分を読みながら「文章のみがき方」は、「建築のみがき方」かもしれないなと感じた。つまり建築も紋切り型との格闘だということなのだ。定石どおりの表現は人に何かを伝える力が弱い。だからよい建築をつくるためには(自分も含めてなのだが)紋切り型の建築言語を使わないということが必須なのである。そしてそのためにはよい文章を書き抜くように、よい建築を描くか写すかとにかく記憶に納めなければならないと改めて感じたのである。しかし建築と文章は同じではない、文章は生まれたときからそれを身近に感じて身につけていくものであり、紋切り型が何かは自然と染み付くものである。一方建築は先ずはこの紋切り型が何かを知るところから始め、そしてそれを使わずに作る努力が必要なのである。えてしてこの紋切り型ができたところで一人前だと錯覚するものである。もちろん紋切り型さえできないことにくらべれば未だましのだが。