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純粋理性批判

そう言えば日課だったカントの『判断力批判』宇都宮訳が終わって今引き続き『純粋理性批判』上巻宇都宮訳をちょっとずつ読んでいる。もうカントはいいやと思っていたが、判断力批判を読むと、こちらを読まないわけには行かないのである。この本8500円もするのだが古本ネットで5000円で買った。5000円だって充分高い本だが、文庫本を2回読む気になれないので敢えて買ってみた。
さて少しずつ読んでいくとあの有名な一節に序論で出会う「私は、対象にかかわるのではなく、対象についての我々の認識の仕方に、しかもこの認識の仕方がア・プリオリに可能である限りにおいてかかわるすべての認識を、超越論的と名づける」
批判という言葉の語源はギリシャ語で「分ける」という意味だったそうだ。つまり純粋理性批判とは経験としてではなく(純粋に)原理として理性に可能なことを分ける作業だったのである。それが上述の序論を生み彼はその分ける作業の末得られるものに超越論的と名づけたわけである。
どうして僕が性懲りもなくカントに惹かれるかというと、建築を見るときに人は何に感動するのか、十人十色と言わず、超越論的に感得されるものがありやしないかといつも思っているからである。これは思ってないことの裏返しなのだが、つまり十人十色だとずっと思っていたし思っている。でもそれを実証するためには、共有する感性があることを先ず否定したい衝動に駆られるのである。
なんともひねくれものである。本心はどこにあるのか自分でも分からない始末である。

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