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歴史に想像力を

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胃の痛くなる梗概のチェックの話しはもうしません。誰も楽しくないし。
さて副査をしなければならない他研究室の修士論文が6つ到着しました。全て日本建築史関係。ちょっと勉強になりそうです。その昔、大学4年の時、西洋建築史の研究室の無かった東工大で英語の先生だったDavid Stewart(英語の先生ですが彼は西洋美術研究では世界で一番名高いロンドン大学のコートルード研究所でコルビュジェ論を書いた人だったのです)のもとで論文を書きたいとお願いしたのでした。英語の先生は専門課程の卒論の指導資格が無かったのですが、当時の学科長だった篠原一男は「よろしい」の一言で我々の要望を受け入れてくれました。
しかし、なにせ研究室の伝統も何もない0からの出発。とりあえず、参考になりそうな他の研究室のゼミに参加せよと言われて、日本建築史の平井聖先生のゼミにも参加してました。そこでは毎週一冊日本建築史の定番の本を読むというゼミで最初で最後半年間日本建築を真剣に勉強し、その夏には民家の実測調査もしたのでした。そのゼミで唯一覚えているのは、大田博太郎先生の本で唐招提寺か東大寺の建物プロポーションが素晴らしいといきなり書いてあったことです。そうした主観的な感想をこうした学術書(とりあえずゼミに使われていた本ですから)の一番最初に書いてあることに驚きました。平井先生は特にコメントしませんでしたが院生の上の人が太田先生だから許されると言っていた様な気もしました。でもそれ以降、歴史研究はとにかく実証的を良しとするのだという考え方を教わったのです。
さてその後僕の歴史観を大きく変えたのは、八束はじめ著、『ル・コルビュジエ』岩波書店を『A+U』で書評を書くチャンスが来た時でした。八束氏の論考は実証的ではありません。想像に満ちていました。そしてそれを確信犯的にそう書いていたのでした。それは八束さんの歴史に対する挑戦であったように思いました。その書評を書くに当たり、平井研究室の当時助手、現東工大教授である篠野さんは歴史とはもう少し考古学的な発掘のようなものであり、緻密な断片の集積だとおっしゃっていました。そのことの是非は別にして、僕にはこの歴史(あるいはこの物語)は実に楽しいものだったのです。

さて長くなりました。ここに到着した6つの歴史の修士論文は歴史の論文であろうからきっと実証的に綿密なものであろうかと思います。それはそれでよいのですが、それに加えて、八束氏が示した豊かな想像力のいくばくかでも忍び込まされているのでは、いやそうあって欲しいと願うものです。単なる史実の羅列に終わらないことを期待します。明日目を通します。

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