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第七講お題(history,memory)

古いものには意味がある。それは経年的意味であり歴史的意味である。前者は時間を経たというその事実の持つ意味。後者は歴史に残るような出来事に関わっているという事実が生み出す意味である。しかしそういう事実にわれわれが気づくためにはそのモノがある種の兆候を見せてくれなければならない。風化したその姿であったり、現時点では見られない昔の形だったり。しかしそうした場合、われわれはその風化したモノの物質性に惹かれ、昔の形そのものに感動し、もはや上にあげた二つの意味などどうでもよくなっていることはないだろうか?つまり古いものに僕らが魅かれるのは上述二つの意味なのか、古さによる物や形なのかその境界があいまいになっている場合もあるだろう。
そこで君たちの経験のにおいて、意味に惹かれた経験と、物や形に惹かれた経験をそれぞれ述べそれぞれの意義と価値について論じて欲しい。

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10TA338D 松田航:

10TA338D 松田航

 古い建築には、二通りある。それは、歴史的価値があると認められた建築と歴史的価値があると認められていない建築である。前者の場合、その建築の経年的意味や歴史的意味についてある程度の情報が容易に手に入り、そのなかで建築から兆候を見たり、かもし出す雰囲気ことによって、惹かれ、感動する。一方で、後者の場合、その建築の経年的意味や歴史的意味について知るすべはほとんどない。ほとんど手探りの状態でその建築と接することになる。そしてその手探り状態で建築に接するにはそれ相応の知識が必要となってくる。
 このようななかで今回のお題である意味に惹かれた経験と、形や物に惹かれた経験について考える。
 まず、意味に惹かれたという経験において、日光東照宮がある。最近、テレビや雑誌などでも多く取り上げられている日光だが、その歴史的意味や地域性が多くの人を惹きつけていると考える。建築的にも、すばらしく建築形態、彫刻どれもすばらしいと思うが、その価値をさらに大きく高めている歴史的価値の存在は大きいと考えられる。
 次に物や形に惹かれたという経験において、飯山市にある茅葺き民家がある。この飯山市に多く存在する茅葺きの民家は、どれも取り立てて経年的意味、歴史的意味があるわけではない。しかし、一つ一つの民家に歴史があり、人々の暮らしがある。伺い、調査を行った30棟近くの民家は、どれも細かくみていくと少しずつ形態が異なり、柱にあいた穴や削り跡にさえ、土間あるくぼみにさえ意味がある。このような話を伺い、そのものに触れることで、その建築の雰囲気に惹かれる。
 これらをふまえた上でそれぞれの意義と価値について考える。
 歴史的価値があると認められ、経年的、歴史的意味が容易に伝わる建築は、建築を通して、時代に触れ、広く人々がその時代、時代の建築を知るという意味で大きな存在である。一方で、形や物に触れることによって惹かれる建築は、何世代にもわたって、残されてきた物であるからこそ、人は惹きつけられる物であるため、それを次の世代に教え、伝えていくことが重要であると考える。

坂牛研究室 10TA302C 朝日大和:

 今回のお題は、歴史(History)と記憶(Memory)。お題文にある「二つの意味」で私が惹かれるのは“歴史の一側面として捉えられた経験”で、「古さによる・・・」で惹かれるのは“設計に活かせるな、と捉えられた経験”である。このように“捉えられた経験”を思い起こすと、同一の建築においても前者の経験・後者の経験の双方が感じ取られる時がある。以下、具体例を示したいと思う。
 今回挙げる建築の例は、長野県佐久市にある旧中込学校である(今日行ってきた:http://www.mapple.net/spots/G02000123501/photolist.htm)。この建築は、日本最古の擬洋風学校建築として有名だが上記二つの経験が得られた。

 先ず、前者の経験として感じられたことは、やはり日本最古という歴史的意味である。校舎が建設されたのは1875年で、松本市の旧開智学校より一年早く竣工している。明治維新による社会の急激な変化の中で、日本のそれまでの価値観や感覚だとかが未だ根強く残っていた時代のことを思うと、歴史の一側面としてどうしても重要なものとして捉えられた。外観を見てもわかるように典型的和洋折衷であり、それまでの日本を捨てきれず、しかし欧米に習いたいという姿勢が感じられ、その時代のエネルギーが伝わってくる。しかし、それは日本最古という歴史的価値があるからであり、現在にそれを蘇らせる必要性は全く感じない。あくまで、歴史的側面としての魅力なのだ。
 次に後者の経験として感じられたことは、その建築物自体の構成や形であった。具体的には、上述のURLページに掲載されている2枚目の内部写真を見てもらいたい。この空間は、中廊下を挟んで両脇に間仕切りなく教室が配置されている(配置というよりは柱のみで中廊下を挟んで仕切られた二つの空間)。この平面構成には、現代の小学校建築に見られるオープンスクールの形式によく似ている。しかしここで驚いたのは、少し高めの天井から垂れ壁が1700mmほどの高さまで下がっていることで、“仕切られている”という感覚が想起されたことである。おそらく観察者である私の目線の高さが、大人のレベルであるからそのように感じられたのだろうが、垂れ壁による構成のしかたが、今後どこかで設計に役立つ、または活かせると捉えられたことである。すなわち純粋に設計の勉強になったという経験である。

 このように歴史的建造物であるという意味だけではなく、現在にも活かせる部分を発見できたという経験が、お題文にあるような「二つの意味」以外の要素として私が惹かれた経験である。しかし、それはあくまでも部分的要素であり、全体像として捉えられた経験ではない。すなわち、様式自体に(成り立ちなども含めて)意味を感じたのが前者の経験であり、その中で現在にも応用可能な部分を発見する経験が後者の経験であった。

 これらの経験の差異は、私にとって歴史的意味として昇華されるか、建築物として昇華されるかということであり、それらの意義については、どのようにそれを読み取るかの違いでもあるため、あまり社会的意味を伴わないものだと考えている。しかし、見るべき視点を少し変えることで、得られる情報が広がることには価値を感じている。   

土本研究室 10ta305h 井本 守佑人:

 今回のお題に対し、3年時の岡山旅行での経験について論じていこうと思う。 
 まず僕が意味に惹かれたのは犬島アートプロジェクトの「精錬所」である。実際このような離れ小島でなぜそんなことをやるのかという疑問を持ったが行ってみたら、自然の力を利用した設計が成されていたり、すごく不思議な空間があったりなど普段では感じられないような経験ができた。また、煉瓦積みの煙突が何本も残っているのだが、これも厳しい環境下でずっと立ち続けている為、先のあたりが崩れていたりするなど、これは時間が作ったかっこよさなのだと思った。季節によってまた違った面白さが味わえるようなところなので、今度は夏にでも行きたい。
 次に物や形に惹かれたのは、直島の地中美術館である。ここも地形を利用した設計が行われている。地下に埋まっているため形がどのようになっているかはよくわからないが、まわっていると、光が差し込んできたり、地下かと思ったら外に出れたりなど、空間構成が複雑で、普通に楽しんだ。ここもまた行ってみたいとは思うが、どちらかと言えば、僕は犬島の方に行きたいと思う。これは犬島のアートプロジェクトが途中形態というのもあり、ここからさらにどう変化して行くのかというのと、このように古く経年的意味のある
役割を終えた建築をコンバージョンすることにより、歴史のある建築がより身近に感じられることに意味があると思う。

坂牛研究室 10TA323F 塩入勇生:

・意味に惹かれた経験
私が京都にいった際、高松伸設計のシンタックスを見に行こうとした。バブル時に建てられたものでその手を広げるような形態は印象深く、私にとってはいかにもバブルっぽい。バブルを経験していない私が言うのも変だが、でもだからこそ、そう感じたからには一度は見に行ってみたかったものだった。しかし、行ってみるとなかった。2005年に経営不振で取り壊されていた。これは惹かれたエピソードとは少し異なるのかもしれないが、あの建築が建てられ、そしてたった15年で取り壊されるその意味は私にとっては感慨深い。意味に惹かれるという事柄は、たとえ今そこに形がないものだとしても存在し、そこからは過去を汲み取りながら未来を考えられる価値を感じる。
・物や形に惹かれた経験
リートフェルト作のレッドアンドブルーという椅子がある。抽象的で簡易的に組み立てられることを意図した椅子。それを展覧会で見たときがあった。果たしてそれが当時のものか本物なのかなどはわからないのだが、すごく年季が入っていた。あの抽象的で、その時代の先をいこうとしていたデザインで、座りにくそうな線的な印象は崩れていたのだ。なにしろ部屋に置きやすそうで、実際はどうかわからないいが以前より座りやすそうである。これは作者の積極的な意図とは少し異なるものだと感じた。物に惹かれるという事柄からは、この例に限らず、自分の領域に近づいてくるというその親近感に価値を感じる。

10ta310d 加藤伸康:

私が意味に惹かれた建築とモノや形に惹かれた建築として「東京駅」と「金閣」を挙げる。
東京駅はその建築のもつ経年的意味・歴史的意味に惹かれた。
東京駅が私にそのような意味を感じさせる兆候を見せるのは、東京駅自体ではなく、周りの変化である。周囲には現代的なビルが立ち並ぶことで、東京駅のような洋風建築が異質なものになっていき、辰野金吾の代表作だから残ってるんだなーと感じさせる。
つまり、東京駅は、スクラップアンドビルドが頻繁に繰り返され、高層ビルが立ち並ぶ中、現在まで建ち残っているという経年的意味を有する。また、ジョサイア・コンドルらによって日本に導入された建築学の概念の下、日本人建築家として設計を行った辰野金吾の代表作であり、大工棟梁→建築家の流れにおける歴史的意味を有する。
そこには、「新たな創造の出発点」という意義がある。T.S.エリオットや篠原一男がいうように経年的意味や歴史的意味を理解した上で、現在における再調整や、再解釈によって、新たな創造が生まれると思われる。つまり、新しい創造は無の状態から生まれるのではなく、過去を起点とした現在において生まれるという意味で、現存する歴史的建築は価値を有すると思われる。
金閣はそのモノに惹かれた。
金閣が私にそう感じさせたのは言うまでもなく、あのはりめぐらされた金である。単純にスゲー金だ!っておもった。その時には頭の中に足利義満はいない。周りも関係ない。金にだけ目がいっていた。その結果、思うことは、今じゃ無理だなーということである。バロックやロココにみられる装飾なども同様に、率直に現代では無理という感覚に惹かれる。私は、素材の経年変化にも惹かれるが、現在ではあり得ないであろう装飾に惹かれる。  
そこには、現代において非合理性を感じ、それがおもいっきりおこなわれているのに惹かれるのかもしれない。そこには、不可能の価値があると思われる。今なくなれば、同様のものはできないだろうという価値があるように思われる。また、それらの純粋なモノとしの魅力が現代ではどのように現せるかという出発点にもなるという価値もあると思われる。
さらに、毎度ですが、既存建築の活用についてです。
コンヴァージョン(用途変更を伴った既存建築の活用)には非合理性をある合理性をもって生む可能性がある。既存建築の活用は過去の建築の現代における再調整である。既存の空間を利用して生まれる新たな用途の空間には、その用途にあった空間があるとは限らない。したがって、その空間はある種非合理的である。しかし、その非合理的な空間でこそ、違和感・不思議さをもって、人は建築に目を向けるのではないかと思われる。このような空間は、装飾と同じようにある種の魅力を有すると思われる。

高木研究室 10TA333C 西浦皓記:

意味に惹かれた経験は、城での経験である。
小さい頃から色々な情報を得て、城は全国各地に点在しており、型、構成、色などからその土地の歴史を読み取ることが出来る貴重な建築であることを知った。そして城は、地震などの自然災害や戦争などの人為的災害から生き延びたことや、現在の県庁所在地やそれに準ずる都市の多くが城下町であることから、人々の心の支えとなっていると感じた。この意味に惹かれた経験は、人々の精神的な支えや気持ちの拠り所となっていることに価値がある。
一方で、物や形に惹かれた経験は、神社や寺などの宗教建築での経験である。
以前、京都や奈良のお寺や神社を見て回った時に、そのスケールの大きさに驚いた。ただ大きいだけのビルには感じない魅力がある。それはおそらく、部材の大きさと露出によるもので、その組み合わさった形は小さい頃よく遊んだ積み木の延長線上にあるような魅力があった。この形に惹かれた経験は、自分にないものへの強い憧れや好奇心を呼びおこす契機を生み出すことに価値がある。

土本研究室 10TA326A 田村啓:

私の経験上、「意味に惹かれる」というのが"論理的"であり、「物や形に惹かれる」とういのが"直感的"であると考える。
論理的であるということは誰しもが納得できることであり(論理的であるということは、相手を説得させてこそ初めて価値が生じると思う)、直感的であるということは、その対象に対して、似た価値観を共有できる相手がいて、はじめてお互いが納得できる。私は、人は結局、直感で生き、人間の本当に根本的な部分(それは意識下であると思う)は共感できると信じているので、論理的であるという事があまり好きではない。そして言葉は、論理の最大の武器であると思っている。だから、言葉にした瞬間、そこには共有できないものが少なからず存在する。人は、言葉のみで感じ、考えているわけではない。

さて、前置きはこれくらいにして、本題に入る。

・意味に惹かれた経験(論理的)
意味に惹かれた経験は、多分にある。国宝、重文、重伝建など、意味によって価値づけられたものは多く存在し、それらの意味は大概、真っ当な意味をつけられている。長野市で言えば、松代や善光寺など、歴史的意味が大きなものは多く存在する。それらは、多くの人を納得させ、実際にモノ自体も、非常に魅力的だ。人を納得させる価値があり、人を惹きつけるきっかけとなる。論理的な意味に関して、そこに反論の余地はない。

・物や形に惹かれた経験(直感的)
物や形に惹かれた経験も、多分にある。善光寺などは、何度でも行きたい。そこに意味など関係なく、行きたいのだ。今、そこにたっているものに惹かれるのだ。なぜかと聞かれ、それに文面のみで答えると、私の感覚とは違うものがはらむおそれがあるので、今回はご容赦願いたい。とにかく、また何度でも行きたいのだ。
また、最近最も惹かれたものは、岡山にある、旧閑谷学校だ。(http://shizutani.jp/)
先日初めて行ったのだが、その佇まいの美しさに感動した。ここも、また行きたい。一回行ったからいいや、とはならないのだ。これは、なんともすばらしい価値だ。
土研の調査で、また行きたいなと思うときは、外的要素をのぞき、多くの場合は直感的なものだ。

以上、論理的なものと直感的なものにわけて私の感じたことを述べたわけだが、お題に対して、論理的、直感的という2つの考えを当てはめたことが、正解だとは思っていない。すなわち、意味=論理的、物や形=直感的が当てはまらない事もあるからだ。
例えば、個人的な気持ちの範囲で言えば、意味の無かった物に意味がついたとき、それに惹かれるということはあると思う。例えば、ばあちゃんの形見とか、そういった類の物だ。それはお題の中で言う歴史的意味に当てはまると思う(拡大解釈かもしれないが)。しかし、私の中でそれは直感的なものに分類される。要は、気持ちの問題、という曖昧な結論になってしまうのかもしれない。

10TA306F 坂牛研究室 内堀佑紀:

意味に惹かれた建築として、フランスのロワール地方にあるシャンボール城を挙げる.ロワール地方には数多くの城が現存する.私が数年前にこの地方を訪れた際はシャンボール城を含めて三つ程、城を巡った.しかし私は特に城マニアという訳ではない.各々の城の相違や魅力などについて真剣に考察した訳でもない. 同時に巡った他の城は内部も見て回ったが、シャンボール城に関しては内部に入ることが出来なかった.にも関わらず、私はこのシャンボール城がとても印象に残った.他の城についてはよく覚えていない.それは何故か.
恐らく、シャンボール城の設計には、レオナルド・ダ・ヴィンチが関与していたというエピソードを聞いたからであろう.昔の建築の多くは「○○が設計した!」という事実は語られてこなかった.仮に設計者が判明する場合に於いても、「だれ?」みたいな場合が大半を占めている.だから、例え様式として古そうなものであったとしても建築自体に著しい経年変化が見られない場合、これは「16世紀に建てられた歴史的な建築だよ」などと言われてもピンと来ない.昔過ぎてイメージが湧かない.シャンボール城以外の城がそうであったように.しかし、「ダヴィンチが設計!」というたった一つのエピソードを聞いた途端、一気に頭の中でいろんな想像が生まれる.建築自体が全く違って見える.ダヴィンチによって創り出された、その建築が、今自分の目の前にある!と、感動する.
 そういった「意味に惹かれる建築」は建築自体の魅力とは何ら関係なく、その建築が持つエピソードの大きさに依るだろう.歴史の中で如何に有名な人が関与しているか、その関与の仕方が如何に密接か、という問題が重要になってくるだろう.なんだかミーハーな解答となってしまったような気がするが、見る者が、そのエピソードについての情報やイメージを多く持っている程、建築に対して多くの想像をすることが出来、感動が大きくなることは間違いないだろう.という訳で長くなりましたが、シャンボール城が私にとって「意味に惹かれた建築」です.
次に。物や形に惹かれた建築として、fnp architektenによるシャウスタルを挙げる.(建築ノートextra united project files01掲載)この建築は1780年に建てられた石造りの豚小屋をショウルームにコンバージョンしたものである.私はこれを雑誌で目にしたのだが、とても印象に残った.この建築は、「なぜ、これが200年以上も前から残されているの?」と思わせるほどボロボロの石造り、切り妻建築をそのまま残し、それと同じ形(開口の位置も同じ部分に同じ形で設けている)の木製の箱を挿入するという手法が使われている.コンバージョン後の写真を見ると、剥がれたり、ヒビが入ったりしているような石造りのファサードに開けられた大きな開口から、インテリア空間の木の暖かい色味が外部にまで溢れ出ている様子が印象的である.この建築は、既存と全く同じ形状であるが、素材は全くちがう箱を挿入することで、既存の経年変化をより強調しながら、新しいものと調和している様子に目が惹かれたのだろう.
ここでは、物が有するエピソードなどは関係ない。私は、ただただ豚小屋のボロさと、木の小屋が創り出す調和の面白さに目を惹かれ、200年以上もの間、豚がそこで飼われ続けて来た様子を漠然と思い浮かべ、その果てしない歴史に圧倒されるのみである.

坂牛研究室 久保一樹:

最近、古い建物に対する認識が変化してきた。昔はそれが古いものだとわかったり、聞いたりしただけでどこか敬意を払うような気持ちになっていた。それはそれで良いが、それではそれ以降の思考は停止する。僕はこうなる理由として物理的な古さと自分の経験的な新しさと古さが混同しているからではないかと思う。そこでこれ以降その2つをちゃんと位置づけることで敬意だけではない新しい思考が生まれる。なので、最近古いものを見て新しいと思うことが多い。
意味に惹かれたもの。これは形に惹かれるよりもどこか鈍いような感覚がある。僕は大阪出身なので京都、奈良、和歌山などの有名な神社、仏閣は小さい頃から遠足で行っていた。でも当然そのときは何もわからない。しかし、その後いろいろなことを学ぶにつれてまた行きたくなる。つまり、これが意味に惹かれること。その中でも高野山には何回行ったかわからないくらい行っている。
物や形に惹かれたもの。僕はそのデザインがどうかより、それがどのようにして成り立っているのか(構造であったりディテール)に目がむく。華奢なガラスを多く使ったものを見ればその収まりを見るし、また根本的な成り立ちが気になれば構造を見る。今回は構造を挙げる。やはり最近はカラトラバのような構造的に合理的で無理がないような形に惹かれる。ここで言う合理的というのは純粋に力学的な意味で使っている。しかし、これは力学的な意味を少し知っているから物や形に惹かれているのかもしれない。
ここまで述べてきたがやはりそのものに向き合ったときに自分が本当に純粋な気持ちでと経験(物理的なもの経験的なもの)をその場でどれだけ考えることができるかにかかると思う。

土本研究室 新井拓也:

確かに今回のお題にあるように、古いものが持つ意味と、その姿形のどちらに惹かれているのかを区別する境界は、自分にとっても曖昧であると認めざるを得ない。しかし、できるだけ具体的に土本研究室でのそれぞれの経験を挙げたい。
まず、意味に惹かれた経験であるが、古い図面(善光寺周辺にたっていた擬洋風の商家の設計図が描かれたトレペ)をみたときの感覚は、これに当てはまるだろう。その建物はもはや現存しておらず、実物をみれる訳ではないし、その写真すら残っていないのだから風化したその姿をとらえられるわけではない。そこに描かれているのは、真新しく新築されるはずの建物の姿であり、同時に、今では過去のものとなった建築様式である。その歴史的な意味として、他の都市でもみられるように、明治期に長野の町にも数多くの擬洋風建築がたてられたということが確認できるだけのものであるが、非常に強く惹かれたことは確かである。

次に、ものや形に惹かれた経験であるが、川中島の酒造で見学した離れ座敷がこれに当てはまるだろう。ここには調査で行った訳ではなく、ただ見てほしいといわれて行っただけだったから予備知識など全くなかった。しかし、自分が今まで見た文化財以外で個人所有の建物のなかで、その建物以上に立派な建物はない。

こういう経験は貴重だとおもうが、図面だけあれば実物が見たくなるし、実物だけ見れば知識がほしくなる。結局のところは、その境界はかなり曖昧なものなのだろうと思う。

土本研究室 10ta307d 榎本昇人:

土本研究室 10ta307d 榎本昇人:

 意味に惹かれたのは、重伝建という言葉につられ、ふらふらっとある重伝建を訪れたこと。重伝建という言葉を知っていたから訪れたのだと思う。この重伝建あるいは、重文などに登録されるということは、建築に経年的・歴史的意味をもたせるかのように思われる。
 形に惹かれたのは、昔の建築の調査などで部材を見たとき。その部材は大きく歪んでおり、今では使われないだろう。しかし、部材をうまく組み、そして見せていた。そこに、昔の職人の技術の高さを感じた。

 意味に惹かれることも形に惹かれることもその人の経験・知識・
感性などによって左右するだろうと思う。

坂牛研究室 林和秀:

意味に惹かれた経験として今回、挙げたいのが東大寺正倉院である。それに初めて出会ったのが小学校6年の修学旅行。それまでは経験上「倉庫」なんてものは、簡易的なもので、それに重要性が置かれるなんてのは信じられることではなかった。それが、正倉院に至っては、建物手前30mほどのところから眺めることしかできず、宝を守る宝箱自身が、宝になっていることに戸惑った。巨大な大仏よりも高く聳える五重塔よりも、林の中にぽつんと置かれている正倉院に最も興味を引かれ、「すでにかっらっぽになった倉庫」が重要性を持っているという事柄に引き付けられたのではないかと思う。役目を終えてもなお、重要性をもつ建物に、文化財の宝庫であったという歴史的な事実が宿っていることを感じずには入られなかった。
 物や形に惹かれた経験として挙げたいのは、新潟トリエンナーレで、小学校を舞台としていたために久しぶりに座ることができた、小学校の椅子と机である。形は、僕が小学校で使っていた当時と変わらず。小・中・高と12年間も同じ形の椅子に座り続けたためか、体が違和感なくフィットしてくれる。昔のモノで、ありふれたものなんだけど、体に染み付いた記憶が思い出されて、その瞬間すごく興味をわかせてくる。それは座ってみてわかる、感覚的で直感的なもので、自分の経験との中から、価値が見出されるものであった。

坂牛研究室 10TA302C 朝日大和:

前々からずっと思ってたんだけど、講義も半分を過ぎたから言うわ


毎回毎回平気でコメント投稿遅れてくるやつら


ふざけんな


真面目に頑張ってる同期の仲間、そして何より坂牛先生に失礼だろ


本来、コメント投稿は木曜いっぱい、評価投稿は金曜いっぱいだろ


本気で4日も5日も考えてるやついんの?


いかにも考えてますって態度がむかつくわ


「は?何でお前にそんなこと言われなあかんねん!!」と思ったそこのあなた!

・・・すいません、言い過ぎました。

でも同じこと感じている人もいるんじゃないでしょうか?というか自覚している人の方が多いんじゃない?

一生懸命頑張っている仲間がいるんだから、てか忙しいのもみんな一緒だし

応えようぜ!盛り上げていこうぜ!!

って野球馬鹿的に黙っていられなくなったので、こんなことを書きました。
(こんなこと朝日が言える資格ないのにね、すいません・・・)

土本研究室 10TA331G 長濵好美:

土本研究室 10TA331G 長濵好美

はじめに、朝日さんのおっしゃる通り、毎回何人か期限をすぎての書き込みがあります。私も今回はかなり遅くなってしまい、本当に申し訳なく思っています。ただ、平気で遅れているわけではありません。みんなの内容や自分の考えをうまく言葉にまとめられなくて、でも時間は過ぎてく一方で。。。みんなが1時間そこらの時間で書いたものではないと思うから、ちゃんとやりたいと思ったし。だから、「平気」「遅れる」と言う言葉には、グサッときました。でも、一番いいのは期限内に自分の考えをうまくまとめることなので、そうなれるよう努力していきたいと思います。


では、お題にはいりたいと思います。
まず、意味に惹かれた経験の方ですが、みんな経年的・歴史的意味に惹かれた経験を挙げていたと思います。坂牛先生のお題文章中に、古いものに惹かれるのは意味なのか物や形なのかとあったので、経年的・歴史的意味に惹かれた経験を挙げたのかもしれませんが、私的にはそれ以外の意味で惹かれた経験も聞きたかったです。(てか、今回の「意味に惹かれた経験」は経年的・歴史的意味に惹かれた経験を挙げることだったのか!?私のお題の受け取り方が違っていたらごめんなさい。)私も、経年的・歴史的意味をもったものには惹かれるのですが、一番惹かれるのは、身近な人・大切な人が関わってるという意味をもったものに惹かれます。たとえば、目の前に2つの机があったとします。一つは何百年前にある歴史的人物がつくったもの。もう一つは、自分にとって身近で大切な人がつくったもの。私は、どちらに惹かれるかというと後者の机です。内堀さんのコメントの中に、「ダヴィンチが設計したというエピソードに惹かれる」とあったが、ダヴィンチが歴史的人物であるから惹かれたのか、ダヴィンチが自分の中で重要な人物であるから惹かれたのかはわかりませんが、後者の意見であるならば、内堀さんのこの経験に共感します。
 意味に惹かれるというのは、その人が人生において、または日常において何に重点をおいているかによると思いました。いくら何百年たったとかぶっ飛んだエピソードをもっていたとしても、興味のあるエピソードでなければ惹かれることはないと思います。
次に、物や形に惹かれた経験なんですが、田村君や林君のコメントにも出てきたように直感的なものからくるものだと思います。たとえば、服や雑貨を買うとき最初からすべてをがっつり見ようとする人は少ないと思います。お店をさら〜とみながらそこで目についた物・気になった物があったら近くへいき、じっくり見だすと思います。この気になった時点では自分の直感が働いていると思います。直感で買ってしまう場合もありますが、じっくり見てそこから買う買わないの選択、意味・価値を見いだせるかで決まってくるのではないかと思います。

 評価というよりは、コメントと変わりないような感じになってしまったうえに、遅れたわりにまとめきれてなくて申し訳ありません。みんなのコメントを繰り返し読んで考えていたら、この意見もわかるし、この人のいいたいこともわかる、というようにいろんな人の意見を受け入れようとする方向になってしまって、反対意見的なものがありませんでした。しかし、結論はださなくてはいけないと思うので、これを踏まえて出したいと思います。受け入れられる、すんなり入ってくるということは、言い換えると、新しい着眼点というような発見させられる意見がみられなかったのかなということで、優秀賞はなしとすることにします。決められない自分への逃げにもとらえられるような結論で嫌なのですが、今回はこれでお願いします。

shokun kagawa:

Buenas.

びっくりしました、朝日さん。

みんな、学部の課題提出の時の気持ちを思い出してみてはどうでしょうか?
期限に対して凄いシビアに課題に取り組んでいたのではないのでしょうか?
去年、牛研で修士一年を経験しているので、牛研の子にはもう少し強く言いたいのですが、これ以上はお酒の席で言うことにしましょう。半年先なので忘れていると思いますがw


コメントするのに対して以下のことに気をつけた方が面白くなると思います。
http://ofda.jp/lab/lecture/word2009/bbs/2009/05/post_3.html#comments
去年の掲示板で頂いたコメント。
あと、田村君のコメントのようにTopic sentenceを書いてほしい。これがあると、頭の中に言いたいことが入ってきやすいので。
過去のコメントも参考にするのも良いと思います。 
   
切り替えて、建築の話へ。
  
「意味に魅かれた経験」と「物や形に魅かれた経験」である。「意味」と「物」。
切っても切り離せない関係ですね。
そのややこしい関係を取り除こうとするがために、田村君の言葉を借りると、「意味」を論理的。「物や形」を直感的。とした人が多いような気がします。そこで、「意味」と「物」の関係について考えたい。


Topic sentence
「物」は「意味」を備える。「意味」は「物」以外を見せる。
と考え、記念碑とIconic Architectureを比較しながら、話を進めていきたいと思う。

記念碑ってのは、ある出来事やある人を称え、記念するためのもの。物を作ることで意味を作る最たる例である。
逆にFrank.O.GehryのGuggenheim Museum Bilbaoなんかは、建てることおれ自体が記念的な出来事になる。物を作ることで意味を作る例。
全く逆のベクトルをもっている訳です。がしかし物を作ることで意味を作りだしているのには変わり無い。
つまり、人が介在する限り「物」は「意味」を持つのである。

もう少し踏み込んでみます。
記念碑の形ってのは理解不能。BsAsに着いた時謎で仕方なかったです。しかし歴史的意味を持った記念碑の形ってのは具象的な物が多いため、記念碑が存在する意義を知らず知らずのうちに予測し容認してしまう。
対して、Guggenheim Museum Bilbaoの形。これもまた理解不能。この形には疑問が付いて回る。しかし竣工し早10年以上。もはやあの形を疑うことは無い。記念碑のような歴史的意味を持たないが経年的意味を持ったからである。
歴史的意味や経年的意味は、盲目的に何かを信じ込ませる力があると考える。

この仮説に則るならば、
「意味に魅かれた経験」とは、歴史的・経年的意味を想起させる物・形があった経験。
こういった経験を書いて欲しかったです。

suerte

清水研 09TA341J 文 維龍:

History and Memory
私は建築が好きだ、性格の原因に特に東洋(中国、日本、韓国)の昔の建築です。来日留学の理由のひとつはこれだ、特に日本の古い建築が大好きです。来日の前はいろいろな日本の昔のお寺と神社とお庭について本と写真を見ました。日本のところの中にふたつところに住みたい、京都と奈良。京都と奈良には古いお寺と神社がたくさんある。日本の昔の建築は中国から渡すだけれども、日本の文化特色が持っていて、中国の昔の建築と違う。私は日本のほうが好きだ。
 日本へ来たばかり時には京都へ行きました。清水寺の清水舞台に立った時目の前の古い建築と周辺の景色に陶酔し、とても素晴らしい、so beautiful~~~言語に絶する。どうして昔の人はこんなきれいな建築をつくれますか、わからないです。
 昔の建築は昔に属し、現在には属していない。昔の建築は現在にとって歴史と記憶の意味だけだ。昔の建築の形と色と様子を通じてわれわれ歴史のことを了解できる。昔の建築は文化財として旅行の価値とてもある。これは昔の建築の意味と価値です。
 もし、よかったら日本のお寺と神社を了解して研究したいです。

坂牛研究室 10TA302C 朝日大和:

お詫び

この第7講のコメント投稿について、不快感を与えるような投稿をしてしまったこと、お詫び申し上げます。


ついつい自分が抑えきれなくなって書き込んでしまったコメントですが、やはりこの場で書き込む内容ではありませんでした。

この掲示板が一つのメディアであることを考えると、自分のとった行動に猛烈な反省が湧いてきます。最低な行動でした。


掲示板を楽しみにしている方々に不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。

失礼致します。

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About

2010年05月31日 21:42に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「第六講お題funcgtion」です。

次の投稿は「第八講(nature)お題」です。

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