1、 リテラルな透明性
光を透過することを意味し、それによって建物の中や向こう側を見通すことができる。
ラズロ・モホリ=ナギによって同年『ザ・ニュー・ヴィジョン(材料から建築まで)』の中で「透明性」として記述
2、 フェノメナルな透明性
中実な対象どうしの間にある見かけ上の空間──は一九五五〜五六年にコーリン・ロウとロバート・スラツキーが連名で書いた二本の記事(「理想的ビラの数学」)の主題である。彼らはジョージ・ケペシュの『視覚言語』(一九四四)から文章を引用して議論を始めている。ケペシュの言う透明性の意味は明らかにキュビスム絵画の空間表現上の手法に関連しており、ロウとスラツキーの議論の初めの部分はこれに割かれている。しかし同じ観念を建築に適用することにより、彼らが示すとおり、「避けがたい混乱」が起こる。
なぜなら、絵画は第三の次元を暗示することしかできないが、建築は第三の次元を抑え込むことができないからである。建築において、三次元が見せかけではなく現実である限りは、文字通りの透明性は具体的な現実となりうる。しかし現象としての透明性は達成がより困難であろう──それに実際、議論するのがあまりに困難であるため、一般的に批評家は建築における透明性をもっぱら素材の透明性だけに関連づけようとしてきたのだ。
そこでロウらは、続いて次のことを示そうとした。ル・コルビュジエのいくつかの作品──ガルシュのスタイン邸、国際連盟競技案、アルジェ業務街区計画──が、暗示された面の重ね合わせによって、実際の空間とは異なる空間的な奥行きのイリュージョンをいかに作り出したか。またそうすることで観者の精神に、ケペシュが言及する「多義的な意味」をいかに作り出したか、である。そして二本目の論考で、ロウらはそのようなイリュージョンが近代建築に特有のものではないこと、例えばルネサンスのパラッツォやミケランジェロのフィレンツェ・聖ロレンツォ教会のファサードの案にも認められることを示そうとする。
モホリ=ナギの前年に出版され、建築におけるモダニズムの普及にとって同じく重要な別の本、スイス人建築史家・批評家であるジークフリート・ギーディオンの『フランスの建築』(1928)でも、「現象」の側面を思わせる観点から「透明性」について言及している。ル・コルビュジエとオザンファンのピュリズム絵画と、ル・コルビュジエの独立住宅との比較に続けて、ギーディオンは「写真においてだけでなく現実においても、家々の輪郭がぼやけている。そこでは──雪の風景におけるある光の状況と同じように──はっきりした境界が非物質化する。この非物質化によって、上っているのか下っているのか区別できなくなり、だんだん雲の上を歩くかのような感じを引き起こす」と記す。彼の後継者と同様に、ギーディオンはこの効果を発見できたのは画家のおかげであるとした。「オランダ人、とりわけモンドリアンやデュースブルクのお蔭で、初めてわれわれの目は、表面、線、空気といったものから生じうる、ゆらぎのある諸関係へと見開かれた」。
3、意味における透明性
この意味での透明性と、モダニズム美学における意義とは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグによる『反解釈』(一九六四)の中で最適な説明がなされている。「_透明性_は今日、芸術──そして批評──においてもっとも高貴、もっとも解放に資する価値である。透明であることが意味することは、ある輝きを体験することであり、しかもその輝きは、ものそれ自体、もののありのままの姿の中にあるということだ」(p.13)。形式と内容、対象と意味の間に何ら区別はあるべきではないというこの考えは、すべての芸術ジャンルにおいてモダニズム美学のまさに核心に位置しており、それは建築に限ったことではない。モダニズム芸術の理想は、何ら解釈を要しないことであった。なぜなら、芸術がもつ意味はすべて、作品の感覚体験に内在しているからである。つまり再びソンタグを引用するならば、この理想は「表面が一様ですっきりしており、推進力に勢いがあり、その呼びかけが直接的であることによって……ただそのままにいられるような作品を作ることで、存在する」(p.11)というものであった。他にこの特性を異なった名前で呼ぶ者もいた。たとえばアメリカの彫刻家ロバート・モリスは「現在性」〔presentness〕(1978)、ドナルド・ジャッドは「直接性」〔directness〕と呼んだ。