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第11講お題

本日のテーマは空間。この本のメインイベント、最も力の入った部分でもある。それもそのはず、空間という概念は現代の建築を語る言葉の中でも最も多用されているのだから。その起源はゼンパーの囲むことに始まりロースの被覆の原理へ受け継がれ、そしてヒルデブラントの視覚性に基づく連続空間というまた別の起源と重なり合いモダニズム建築の主要概念へと醸造される。一方、建築空間論へのアンチテーゼへの起源はシュマルゾウに始まる空間身体論、リップスの感情移入から、ハイデガーの空間から物、場という視線の変更へと繋がる。
そこで今日のお題だが、建築は空間か物か或いはその並存か、そのいずれかを選びその妥当性をあなたの建築体験に加え本日登場した建築家或いは哲学者の主張を引用しながら記して欲しい。

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土本研究室 06TA337K 前田明秀:

 地球と宇宙の間に境界線は存在するか。地球の周りにはオゾン層があって、その層の外側が宇宙だと思われがちだが、実は全く違う。飛行機が飛ぶ地上10kmあたりではすでにかなり空気は薄く、100kmになると空が暗くなり、200kmくらいになると辺りは真っ暗で、空気もほとんどなくなるという。通常、この100〜200kmの間あたりが、地球と宇宙の境界だと言われている。これに比べオゾン層はわずか10〜50km程度の層である。さらに大気圏という言葉で表されるのは地上500kmほどまでである。そして、明確な境界を持たぬまま、地球は宇宙とつながっていく。

 一方、建築は壁という明確な境界を持ちながらも、あいまいな境界を追求しつづけている。モダニズム以降のガラスの普及は内部と外部空間をよりあいまいにした。さらに、現代建築における、境界への取り組みは新たな段階に入っている。藤本壮介の住宅や登別のグループホームなどはその一例であるといえる。

 しかし、こうした近現代建築より以前に日本建築は、あいまいな境界を獲得していた。日本建築は多くの空間的なあいまいさでできている。また、カントは「空間は心の属性」といったが、彼より先に空間を心の属性としてとらえていたのは日本人ではなかったか。たとえば茶室建築に、その特徴が見いだせる。つまり、茶室は決してあのミニマルな建築で完結しているのではなく、茶室に行き着くまでの道程、飛び石や植栽、こけや周囲の自然などのすべてを含めて、はじめて一連の茶室空間として成立しているという事実である。入り口からにじり口までの間に設けられた、仕掛けやしつらえはすべて人の心に訴えかけるものであり、それらがつくりだすのは、やはり現実とのあいまいな境界である。いつしか一輪の花に感情移入し、垣間見える景色に心躍らせ、狭小空間に宇宙を感じ、時間と空間全体をいとおしむことができるようになる。日本人は古くからごく当たり前のように、こうしたいくつものあいまいな境界線をちりばめることで、空間と心を結びつけてきたのだと思う。

 やはり建築は空間であると私は思う。おそらくリップスの考えに近いとおもうのだが、空間は常に心とともにあるように思う。しかし、空間というやつはおそろしくもやもやしているので、答えなどは人の数だけあるはずである。

06ta335c 日合絢乃:

クリスマスプレゼントに飛び出す絵本をもらった。
ROBERT SABUDAという外国の飛び出す絵本で有名な作家の本らしい。内容はクリスマスイブの夜にサンタクロースが来てプレゼントをくれるという、普通の話なのだが、飛び出すものがすごいのである。6ページくらいの絵本が厚さ5cmはあって、ページを開くと20cmも飛び出してくる。ベッドに入ったねずみたちが部屋の中で寝ている様子や、そりをひいたトナカイが立体的に出てくる様子、プレゼントを配り終えたサンタクロースが町を見下ろして夜空を走っていく様子‥本の上に立派な空間ができるのである。建築は空間をつくるものだと思っていた。しかし少し違和感を感じた。
「建築における空間とは場である」というハイデガーやルフェーブルの考え方は私の空間についての考えを形にしてくれたように感じた。建築は人と密接に関わり、生活する場である。
空間は三次元の連続体であり、①囲むことで得られる空間、②内部空間と外部をつなぐ連続体としての空間、③身体の拡張としての空間があって、人が知覚することによってはじめて空間として認識される。こんなはっきりしないものの中で人は昔から建築空間のなかで生活しているのであろうか?そうではない。建築空間は何かをする場であって、常に人が中にいるのではないかと気づいた。場には、空間だけでは説明できない機能や目的を持っている。

いろいろな建築を見ても、すばらしいデザインであったり、かっこいい外観であったとしても、近くに行ってみるととても雑な造りだったり、シンプルな外観であっても、細かい部分にセンスを感じる工夫があったりする。この感覚からは空間を構成する壁などの部分がただ単に空間を囲むもので、重要ではないわけではなく、囲むものによっても空間の質に差がでると言える。

建築の最終的な目標として、“人がすごしやすい空間=場”を創造することだと思う。特に住宅であれば、第一の機能として雨風などをしのぎ、家族が健康で安全に過ごせるものが挙げられる。それは空間を構成する壁、天井、床の素材はその機能を満たしていなければいけない。このことからロースの『被覆の原則』から空間の素材と形態の双方から効果が生み出されるという考えが私の今の考えに最も近く、建築は空間と物の並存したものだと考える。

土本研究室 池田千加:

私たちは世界を身体で経験することから始まり、様々な視覚および筋肉の感覚をとおして空間を直観する。

シュマルゾウの考えを理解することは出来ていないし、理解した部分でも、全てをその通りだといえるわけではない。
ただ、この部分だけは、まさにその通りであると思った。

世の中にあるありとあらゆるもの、起こる事柄。
それらの価値であったり、一般的に信じられていることは全て、人がどう感じ、どう考えるかによって決められている。
これはもちろん、空間にもあてはまる。
人が何かを感じてはじめて、空間という、形ははっきりしないけれど、でも確かにあるものが生まれるのだと思う。
無意識に感じたことでも、意識的に感じたことであっても。

そしてわたしは、建築は空間であると思う。
建築物そのものは物であるかもしれないが、内部空間、外部空間、建築物全てをひっくるめて、建築であり空間なのだと思う。

この空間は、その空間を目の前にした人間がなにを思うかで、大きさも色も決まってくる。
空間を目の前にした人間が、たとえ同じ人間であっても、その空間は刻々と変化する。

わたしは、大学院からこの大学にきた。
学部4年の夏、はじめてこの大学にきたときのことは鮮明に覚えている。
バスから降りてみた大学、202教室までの道のり、202教室の中、会議室の中。
全てが物ではなく、空間であり、建築だった。
そして、その建築はとても大きく、何か特別な空気を持っていた。
今、入学してからあっという間に9ヶ月が経ち、その9ヶ月間で、この建築はわたしの中で明らかに変わった。
いつの間にか、とりたてて大きいとは感じなくなったし、特別な空気もほとんど持たなくなってしまった。

こういうことは、日常的に誰にでもあることだと思う。
人は良くも悪くも、さまざまなことに影響を受ける。
その時々で、建築物は変化しなくても、建築は変化する。
それこそが身体で経験することであり、感覚を通して空間を直観することなのだと思う。

変化することは、面白いし、難しい。
だからこそ、空間はたくさんの論議を呼び、建築は楽しいのだと思う。

06TA325F 土本研究室 善田健二:

 人々は大昔には樹上や森の中で寝食を行っていたであろう。この時、人の生活する周りにはゼンパーが定義するような空間は存在していなかった。年代が下ると、人は洞窟などを住処にするようになる。これは、雨露をしのぎ、外敵から襲われるのを防ぐためだと考えられる。この時、人は自然にある洞窟内の、安心で安全な空間をうまく利用して住処にしたであろう。よって、ここには人の建築的な行為はなかったと思われる。人が繁栄していくにつれ、この空間が簡単に手に入れられなくなったことで、初めて人は建築という行為を行うようになる。

 人が惹きつけられる空間は自然にも存在していた。その空間を欲した結果、人は自らが建築という行為を行うことによって、その空間を獲得してきた。しかし、空間を把握するには、周りに囲うものがなければ、把握することはできない。空間が単一のみで空間と認識されることはほぼないのではないか。なぜならば、空間それ自体には実体がないのだから。

 先程は室内に関してのみであったが、室内に加え、室外の関係がある。オランダのデ・スティルのグループやエル・リシツキーやモホリ=ナギがいたバウハウスのグループは、室内と室外の空間が連続しており無限であるという考え方を持っている。無限であるかは、私にとっては判断しがたいが、室内と室外の空間が連続していることは納得がいく。そして、空間とは異なる何かを挿入しなければ、この室内と室外に分けられることもできない。

 建築という行為は物質を用い構築するもので、建築行為の結果、空間と対になる物が生み出されることにより、空間が認識される。この際、物の素材、形態等により空間が影響を受け、様々に変化をする。よって、建築とは空間か物かの判断は限りなく曖昧なものであるが、私はあえて建築とは物であると考える。

山﨑政希 06TA349C 土本研究室:

約1ヶ月ほど前から、日本中の街は変わった。
街のあちこちでクリスマスのイルミネーションが飾られ、人で賑わい、いつもの場所がいつもの場所とはちょっと変わってしまう。
クリスマスがすぎたら今度は年末年始でやはり人で溢れる。
駅、空港、デパート、神社、初売り・・・
ようやく日本中の街は落ち着きを取り戻しいつもの場所になった。

「空間は『空間』よりも空間を占めているものからその本質的な存在を受け取る」

カントがいう‘心の属性’もわかる。そもそも空間なんてあいまなものは、説明できないようなアプリオな力と結びつけて考えた方がかえって納得できるのかもしれない。
そうではあるが、ハイデガーがいう‘物と場’の考えは、部屋にある机や椅子の位置の違いで異なった感じ方をするという単純明快なことのように思えた。
しかし、もっとも大きな存在を示すのはその空間にいる自分以外の人だと思う。

式典のためにパイプ椅子が並んだ体育館は確かにいつもの体育館ではない。
けれど、そこに居るのが自分一人、あるいは部活の仲間なら、そこはいつもの体育館で、いつもはないパイプ椅子が並んでいるだけだ。ところが、生徒が数百人とそこに並び、自分もその群れのなかに入ると、そこはいつもの体育館ではなかった。

同様のことが約1ヶ月ほど続いていた気がする。
それはイルミネーションでも、正月の飾りでもなかった。
街中を賑わう人、境内に混み合う参拝者、我が家に集まる親戚

壁や柱、家具や壁紙、街路樹や舗装がその建築を構成している。
その構成要素として我々人の存在も大いに付加してよいのではないか。
誰しもが建築が変化せずとも空間が変化しているように感じることがあるでなないか。

家の中で家族と暮らす。学校や社会で仲間と暮らす。街の中で人々と暮らす。
この暮らす空間こそが建築であるならば、空間の存在とは他人の存在と言い換えられないか。

家族の疎遠な関係、学校でのいじめ、過疎化やドーナツ化
これら社会の諸現象は対人の問題である。
これまでも、そしてこれからも、建築とはこれら対人の問題に向き合っていくものだと思う。

坂牛研究室 片岡篤史:

坂牛研究室 片岡篤史

建築は多くの場合でモノであると考える。
例えば、そこに絵があるからそこを美術館の展示空間と捉え、机の上のコーヒーのカップをみたりその匂いを感じるからそこをカフェ空間と捉え、まして学校やオフィスのような均質あるいは同一の部屋が多数存在するようなところでは、その内部の家具などの配置からその空間を特定し認識していると考える。
これらはハイデガーの「空間を占めているモノ(locale)からその本質的な存在を受け取る」という言説の具体例として考えることができる。

それでは、このモノが先行する空間からモノを排除したときどうなるのか。
この時は、その建築をゼンパーが主張する空間として捉えているのではないだろうか。すなわち、「囲うこととしての空間」として建築を認識しているのである。これは、具体例に金沢21世紀美術館などにあるジェームズ=タレルのオープン・ザ・スカイでの体験が思い出される。四方を無味乾燥な壁で囲まれ、天井に穴が開いたこの作品内では、ハイデガーの言説を受け入れるようなモノもなく、穴の開いた天井の効果も手伝って、壁に囲まれることで建築を体感するという状況を強く生み出しているように感じた。

以上から、一方ではゼンパーのように建築は空間とも言うことができ、もう一方でハイデガーのようにモノと言うこともできる。すなわち建築においては空間とモノは並存しているといえる。
そして、ここでさらに考察を加えたい点は、空間でありモノでもあるという状況を同時的に認識できる建築の可能性の有無である。これは私の経験上は極めて稀な体験として記憶に残っている。それは、安藤忠雄の「光の教会」を訪れた時のことだが、コンクリートの箱の空間的印象と正面の十字架のスリットから差し込む光やそれに照らされた家具の様子が同時に目に飛び込んできたのを覚えている。そして多くの人が同じような感覚を感じることで、その評価にもつながっていると考える。
現在の社会においてはモノから建築を捉える機会が多いと考えられる中、実生活においては少ないながらもタレルのような空間から建築を捉える機会もあり、建築において空間とモノは並存している。そして、その双方を同時的に捉えることのできる建築が人々の印象により強く残っていく建築につながっていくのではないかと考える。

提出が遅くなって申し訳ありません。

森川健太:

06TA344B 森川健太:

 新しい部屋に引っ越してきて、何もない空間に自分の物を並べてみる。まっさらな空間が自分の物で満たされたとき、初めてここがが自分の部屋であるのだと感じることが出来て安心する。
 こういうとき、私たちは物と自分との『距離』を無意識に調整しているのではないだろうか。その空間の中で生活するということを考えたときに、それぞれの物に対して一番自分に合った『距離』を与えているのではないだろうか。コタツから手を伸ばせば雑誌を取れるように置いているけれども、勉強机の周りにはあえてそういう娯楽を配置しないようにする、といった具合である。これは自分を媒体とした物と物の『距離』の関係性といった側面も含んでいる。

 これは自分の身の回りのものをどこに配置すれば便利かということだけではなく、建築物においてさらに大きな枠である壁や天井にも当てはまることである。
 人はそれぞれ、自分の好きな『距離』を持っている。壁に囲まれているほうが良いのか、それとも天井が高いほうがすきなのか。壁1面と自分の関係だけではなく、自分を囲んでいるもの全てと自分の『距離』を考え、全てが自分の好みの『距離』にピッタリはまったとき、「ああ、ここはいい空間だなぁ」と思えるのではないだろうか。

 こういう静的な考え方だけでなく、動的な考え方もあると思う。
 空間の中を移動していき、様々な物と様々な『距離』で接することによって新たな発見がある。同じ物を遠くで見たときと近くで見たときの印象の違いも、空間を演出する重要なファクターとなってくるだろう。
 建築物の中を移動することによって、自分と物の『距離』が変化していき、その変化を楽しむ。京都の路地なんかを歩いたときに感じる楽しさは、良い物をこういう風に色んな『距離』から楽しめるという感覚に由来しているのではないかと考える。

 ハイデガーも、空間とははっきりと認識できる存在ではないと語っている。安易にという曖昧な言葉を使ってしまわずに、「じゃあ空間って何なのか?」という所まで踏み込まなければならないと考えた。
 そして私の得た結論は、建築とは根本的には自分と物との関係性であり、空間は自分と物との適切な『距離』をとるための媒質に過ぎないというものである。

坂牛研究室 山田 匠:

坂牛研究室 山田 匠


「プールの中、海の中、雪の中」

例えば学校のプールの中で、顔だけ出してもぐっていると、自分の皮膚の境界が、水に触れることで、いつもより少しだけ強く意識される感覚はだれでもわかるでしょう。またプールはひっきりなしに水を換え、入る前には、消毒液を入れて水をきれいにしたあげく自分の体も洗います。人工の四角い器とその中を満たす水、これは建物と空間の関係と同じではないでしょうか。

では次に海の中に入ってみます。もちろん、水の中を漂う浮遊感があると同時に、海の中を満たしている魚や、さんご礁に目を奪われます。この、魚や珊瑚で満たされた海は、物としての建築に似ているのではないでしょうか。もちろん海の中にいるのは、生物ですが、ハイデガーの家の中にある物も生きられているわけです。
物も、空間も共に建築にとっては欠いてはならない要素であり、それは海の事例が示しているということにもちろん共感できます。

もう少し、考えを進めてみます。

雨や雪が降っている時の様な建築はないのでしょうか。

液体の水の様に完全に、物が無いところを埋めきっているわけでもないが、少なくとも自分の視界の範囲内は覆っている。かといって液体の水のように空気の層との完全な分断があるわけでもない。
また、積もったり、水溜りになったら物といえるかもしれないけど、振っている時は物とも言い切れない。
雪や雨は、水が、形を持つような、もたないような、特殊な「状態」になって認識されているわけです。これは、温度の変化がもたらした、「状態」です。

何かの「状態」を変化させることで、その何かを見えるようにすることも建築だと思います。形相と、質料は建築の本質だと思いますが、始動因にもなりえるのではないか?ということです。

前述した「温度」に当たるものは具体的には建築ではたとえ「窓」がそうではないでしょうか。
長野市には、北西の方向から山風という特殊な風が吹いています。それを知っている古くからある家は、北西の方向に窓がついているそうです。そして、夏の夕方、夕涼みの時間になり、山風が吹いてくると、窓を開けて、山から吹き降ろす風を家の中に取り込みす。
ここでは、窓が、家の状態を変えている。つまり、建築が始動因になっているといえないでしょうか。もちろん、機械換気をすればいくらでも、状態は変化しますが、そうでなくただの窓が始動因にあることに意味があると思います。

06TA338H 土本研究室 三村卓也:

私は、建築は「空間と物の並存である」と考えます。
はじめに、単体としての建築を考える。
まず、「物である」ということ。これは、1つの建築をみたとき、それは1軒の独立した家であったり、集合体としての家、美術館、映画館などの分類が可能になる。すなわち、1つの固有名詞を持つことができる「物」であると定義できます。さらに、「空間である」ということ。これは、1つの固有名詞を持つことが許された「物」としての建築が内包する営みやその建築の用途をさします。さらに加えるならば、これがロースの指し示す「被覆の原則」であると言えます。「建築は洋服と同じように覆うもの」と示すように、空間としての営みを、洋服の様に覆っている物が建築であると言えるのではないでしょうか。厳密にいうならば、洋服の様に覆っている物は壁であり、ゼンパーの示す様に囲い込むことによって空間が成立します。
 このゼンパーの定義する内容は、誰しもが経験してきたであろう内容であると考える。それは、幼少時代でも、自分の居場所や陣地などを表示する際に、線で自分の周りを囲い込むか、何かを置くことで自分の存在する側と相反する側とを区切っていたりしたことはないだろうか。私たちは、幼い頃から「物」を介して空間と空間を区切ることを行っているのです。すなわち、物によって仕切られた中に空間が存在し、同時に外にも別の空間が存在することになります。

ここで、少しスケールを大きくとって複数の建築(都市)を考える。
都市の中に存在する建築は、それ1つ1つが都市の中で壁として存在する。すなわち、建築によって囲い込まれたものが「空間」として成立する。同時にその区切られた外側にも別の空間が存在する。と考えられる。
まとめると、空間とは物によって囲い込まれた区域であり、建築は「空間」を内に持つこともできるし、外に作り出すことができる「物」である、といえる。

結論として、建築は「空間と物の並存」であり、「1つの物であり、空間を内包するし、空間を外延ともする」からです。

06TA350G:山田敦:

 空間、ものいずれにとらえるにしても、まず、何らかの行動が伴うこととなる。どのような物、空間が存在していてもまず、見る、感じるというような行動を伴わなければそれを意識することができない。それをどのような視点で、知覚し、認知しそして表象するにあたって物か空間かの言葉に分けられると思われる。
 もの、形のある物体を初めとして、広く人間が知覚し思考し得る対象の一切を意味する。空間、物がなくあいてるところ。この二つの大きな違いは、どこをどのようにとらえるかにあると考えられる。
 一つの建物に対しても大きな量の情報量を含んでいる。柱、壁、屋根、床等いろいろなもので構成されている。構成物の一つ一つを捉えてみれば物であるが、それを複合したものを人間は建築として呼称している。一つ一つの構成物の占めているものを重要に考えるのならば、建築はものであろうし、空いているところだけを大きく比重を置くのならば建築はゼンパーの示す様に囲い込むことによっての空間であろう。
 一つの存在がなくなることによって同じ場は存在しない。何かを足りないが何が足りないのかうまく表現できない。表象という点においては確かにむずかしいのかもしれないが、認識としては確かに違う空間が存在する。よって、私は建築という行為は、空間の間となる物を創出し、空間というものが感じられるようにするものと考える。

浅野研究室 06ta308f 大田智紀:

空間とその空間を占めるモノから空間は認識される。

一般的な概念として、建築はその空間用途に合わせて造られる。学校であれば、教室空間。また、美術館などの展示空間であれば、そこはモノを鑑賞する空間として定義される。
すべては、定義の問題なのかもしれない。
学校の教室には机・椅子がなどのモノが占める。そう定義する。
よってそこを教室空間と認識する。(もちろん、建物全体の繋がりや立地場所というものを考慮に入れない場合のみであるが)謂わば、テレビでよく使われるセットに近い概念である。
現実に起こりうる例をあげれば、シェルター。
そこに逃げ込む事のできた少数の人々を想像する。そこはきっと無機質であり、「生活する」という行為のみのため造られたものであろう。生き残る事が目的で造られたモノなのに、はたしてそこに生き残る希望があるのだろうか…。否、生き残る事が目的では、おそらくないのかもしれない。何かを見届ける、或いは、もっと重要なシステムの一部として生かされるのであろうか。ここに、空間的魅力はないのかもしれない。

建築空間の魅力はもっと根本的なものである。
21世紀美術館で見た空間によって「切り取られた空」。
あるいは無言館で感じた「過去の記憶」
建築空間とは人と建築と繋ぐ重要なファクターであると感じる。

沈宇:

土本研 沈宇
動物の巣と人間の建築は、もともと同じような生物学的必要から発生したものだ。生物の身体とその外界と適応する巣などの形態は、純粋に生物上の意味において機能的な姿をもっている。実際には、動物の巣と人間の建築との間に、人類進化に従うことにより、その違いさもますます拡大になった。人間の出現したころには、人間は洞窟を掘って暮らしていた。その洞窟は人類の最初の家、言い換えると人類にとって最初の建築だった。つまりその時代においでは動物の巣と人間の洞窟同じことだと考えられる。それでは今の人間の視点から動物の巣に対する印象は、物だろう。だから私は建築とは物であると考える。

ushi:

皆さん 明けましておめでとう。

新年初のコメントはなかなか難しいテーマでした。空間という建築にとってあたりまえのものを見直す質問です。僕自身の考えを先に述べれば、僕にとっての建築は、モダニズムで空間偏重が進んだことへの反省から物と空間の並存と考えています。ただし、それはケースバイケースです。
さて皆さんのコメントを読みそれぞれに面白い点がありましたが、よく整理され分かりやすいということから次の三つを坂牛賞といたします。
山崎君のクリスマスの風景の話は空間と人との密接な関係を端的に示す良い例示です。片岡君の3つの例も分類と事例が明解で分かりやすい。森川君の結論「建築とは主体と物との関係性であり空間とはその媒質」というのはかなり強引ではあるが興味深い定義でした。

空間は尽きぬ建築のテーマです。今後ともずっと皆が建築をやっていく限り向き合わなければいけないテーマだと思います。

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2006年12月21日 21:33に投稿されたエントリーのページです。

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