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第五講お題

今日も淋しく少人数授業である。土本研究室の諸君。調査はしっかりやってくれたまえ。しかし授業にも出たまえ。つまり講義の無い時に調査をすることを勧める。レポート量が多くなるよ。休みが多いと。

さて今日の話はフォルム、形である。これはなかなか面倒くさいテーマである。だから講義内容を反芻することはしない。即お題である。「あなたは建築の形をヴェルフリン的に認識することができるか?」できる人はその経験を記せ。そうではない人はヒルデブラント的、シュマルゾウ的そのどれかの認識方法に則り自らの経験を記せ、800字とする。

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コメント (13)

森川健太:

 1923年に完成したライトの設計による帝国ホテルを見て、私は感情移入に似た印象を受けたように思う。その荘厳なたたずまいの建築が、まるで制服をきっちりと着込んだ警官や軍人といった国家権力の象徴のように見えたのである。
 やはり一番初めに目に付くのは煉瓦造りのどっしりとした重々しい全体像である。「帝国」の名を持っていることにより、当時の日本の代表的なホテルであるという威厳がそこから感じられる。
 中に入ると、落ち着いた雰囲気の中に音が吸われるような感覚がある。カーペットの上に大空間という環境のために吸音率が高いのに加え、大きな声で喋るのがはばかれるような威圧感を感じるのだ。
 外見から与えられる印象よりも、内部で感じる威圧感の方に強い感銘を受けた。警官や軍人のような感覚というのは、その空間に込められた日本の顔としての責任感に萎縮してしまうという感覚からきているのだ。日本を代表する建築であるという威厳や責任感ら来る威圧感というものがそのまま、まるでそれが人間であるかのように生き生きとこちらに伝わってきた。

 形を通して我々は建築に感情移入する。しかし、それは建築家や施主などがその形に込めた意味を、改めて読み取りなおしているに過ぎない。建築家達が意思をこめて形にし、我々が形から意思に変換し読み取る。その対話が建築の形というものを通して行われているだけなのではないか。
 形に込められた意味は、そっくりそのまま建築が存在する意味にも繋がっている。その建築がそれ自身であるという本質、建築のイデアとも言うべきものは建築家や施主といった人間が作り出しているものなのでは無いだろうか。それなら建築は人間の手を離れることは無いし、常に建築の形の中心にすえられる基準というのは人間自身(または人間自身が知覚できる範囲のもの)であるといえよう。
 建築の本質に常に人間がある限り、その形からはそれを作った人たちの意思を必ず読み取ることが出来るし、感情移入できるものだと思う。人間が作るものは、人間が考えうる以上のものにはならない、というのが私の意見である。

追記:
 帝国ホテルは明治村で見た。そこにはエントランス部分だけが切り取られて配置されており、上記のような感銘を得ることは残念ながら出来なかった。なので、帝国ホテルに対する印象は「もしこれが実際に建っているものだったなら、こうなのだろう」という思考の延長線上として書いた。
 本物がぴっしりとした軍人だとしたら、明治村に置かれているのはその軍人の彫像という程度のものであろうか。出来れば本物を見て、今回のレポートが書きたかった。

06ta335c 山下研究室 日合絢乃:

私は建築を自分の腕や足や内臓に置き換えたことがない、つまりはヴェルフリン的に認識したことがないので、シュマルゾウ的に視覚や聴覚、身体的に空間を認識した経験を記す。

 私はよく音楽ホールに行く。学部生のときはオーケストラをやっていたり、今でも予定が合えば少人数でアンサンブルをやっているので、自分で演奏する場合もあるし、最近は聴きに行くことが多い。ホールの大きさや空間認識は、視覚だけではなく、音の響きや、舞台にイスを並べたり、譜面台を置いたり、楽器を配置したり、客席内で空いている席はないか探したりすることによってホール内を歩き回り、より明確に空間が認識できると思う。

もう4年前になるが、東京オペラシティコンサートホールで演奏したことがある。あまり関係ないが、演奏したのはベートーベンの交響曲第5番「運命」、大学1年生だった私はすごく緊張していたのを覚えている。写真で見た想像上のホールと本物では形や大きさが全然違っていた。想像していたものよりも大きく、天井も高く広々としていた。木製の内装による暖かみのある空間、天窓のあるピラミッドのような形の天井、天井を見上げたときのまぶしいきらきらしたライトの輝き、ほとんどフラットの客席と開放的なステージ、客席との一体感が感じられる響きにすごく感動した。壁から壁まで何歩か測ったわけではない。しかし、この空間の形の認識は実際にその場に行って身体の感覚で得られた部分が大きい。

音の響きは天井や壁や床や客席の部材の材質や形状によってよく変わるものだから、この響きだからこういう形だとか、この響きではこの大きさの空間だとか、聴覚だけでは空間や形を完璧に知覚することはできない。しかし、空間認識をする上では、実際にその場に行って聴覚などの感覚や身体による知覚は非常に重要であると思う。

人が形をどのように認識するかということは考えたことがなかったので、授業では「目の前にあるものは他の人が見えているものとは同じではないかもしれない」など、とてもおもしろい問いかけに出会えた。

山﨑政希 06TA349C 土本研究室:

まず、講義前に調査で出席できないことをお伝えにいかなかったことを謝りたいと思います。
僕らも講義には出席したいと思っています。ただし、現在すすんでいる調査は個人的研究のものではなく、日程を僕らで調整することができません。調査先の都合で調査日が変更されることも多々あります。11月以降の日程も未だ知らされておらず、今後も急に調査で講義に出席できないこともあるかと思いますが、レポート等で対応していただきたいと思います。(土本研究室で最初のコメントのようなので書かせていただきました。)

お題:
講義に出席していないため十分に理解がむずかしい。ただ、シュマルゾウの「感覚経験の残余から成り立っている」に対し、それが全く無かった建築の空間体験を書きたいと思う。

ミースのバルセロナパビリオンを見たのは大学2年の終わりで、まだまだ実際に目にした建築作品は数少なかった。巨匠の建築というだけで憧れにちかい存在で、雑誌や教科書にも載っていた実物を目の前にしたときには、その第一印象がどうだったという記憶よりも、ただミーハー的な感覚でその前に立っていた記憶がある。

水平と垂直。長くせり出した屋根と水盤によって建築全体は水平方向が強調されて見えた。内部では、鉄骨の十字の柱が壁やガラスの面と対比されてか細く感じた。全体のおよそ半分は屋外であり、内に入った思うとUの字に歩いて気づくとそこは外部である。しかし、幾度も幾度もぐるぐると歩き回っていた、というより歩かざるをえなかった。その理由は「わからない」からである。パビリオンという機能的なことも含め、壁と屋根のバランスはどうなっているのか、どうしてこれだけなのか、なのになぜ自分は何度も歩き見ているのか…わからないことだらけであった。離れて見てはまた内に入ったりと繰り返していた。

実際に万博でどのように使われたのかは知らなかった。というより、愛知万博にいくまで万博がどういうものなのか知らなかった。そして今思うに、当時もあの空間には何かが展示されたり、そこで催しを行うものではなかったのだろう。ただ其れがすべてで、当時の人も皆経験のない空間体験だったのではないだろうか。

これまでに見たことのない、触れたことのない空間であったから、「わからなかった」のだといえる。仮に、ファンズワース邸だったらどうであろうか。まず住宅とパビリオンで大きく違ったであろう。そこにはキッチンもトイレもあるし、よく分からないけど住宅だ、と思ったのだろう。

土本研究室 06TA337K 前田明秀:

 ヒトはあらゆる事物に対して感情移入しうるが、こと建築・空間ということに関して言えば、ヒルデブラント的な認識が自分の感覚としては近いかと思った。即ち、空間が連続体であることである。静止画としてではなく動画的な知覚こそが、空間を捉えるための鍵ではなかろうか。

 21世紀美術館での体験は、自分にとっては少し変わった体験であった。すなわち、空間の断絶と連続。これが、私が感じた感覚である。そもそも、方向感覚のない私であるが(地図をぐるぐる回してしまうタイプ)、なんとこの美術館の中で、見事に道に迷ってしまった。入るまで、単純明快だと思われていた、あの円と四角でできた平面図が、自分をこれほど苦しめるとは思ってもみなかった。もはや、均質な白い箱と廊下は、迷路と化した。ぐるぐる館内を歩き回る。中庭やら、ベンチやら、特徴的なはずの目印もあまり用をなしてくれない。2度目に見ても、さっきどっちから来たのかよくわからない。行きたいところがどっちにあるのかわからない。弱った。なかなか全貌が自分の中で描けない。頭の中には断片的なピースがバラバラに散らばっている状態。それはまさに、静止画的な認識と余り変わらないようだった。

 しかし、間違いなく空間は連続しているはずで、何度も歩き回る内に、いつしか断片が結びついていく。まさにパズルが次々にはまっていくような感覚。そして、明らかに道を覚えるのとは違う感覚である。建築が、空間が連続性を帯びていく。次第に、外部空間ともリンクしていくようであった。実際、この境地に至るまで、午後半日と、美術館閉館後となる夜、次の日の早朝と、3回の来館を余儀なくされたが、最後には不思議な感動を覚えた。もしかしたら、そのとき初めて、この建築に本当の意味で感情移入できるようになったのかもしれない。

 これは極端な例ではあるが、空間を認識するということはこういう事ではないかと思われる。つまり、断片的な情報つなぎ合わせていく作業である。物質的に連続しているからといって、必ずしも連続して認識されているとは限らないのではないだろうか。

06ta351e 山田 匠:

06ta351e 坂牛研究室 山田 匠

「アルハンブラとバルセロナ」

 数年前、この2つの都市を訪れました。その時のアルハンブラ宮殿と、バルセロナパビリオンから受けた感覚を基にシュマルゾウ的形の認識について論を進めます。
両者の空間体験の特徴はもちろん形だけの問題ではないと思います。それは、スペインの乾いた光であったり、公園の静けさ、或いは石の物質性だったのかもしれません。しかし、形も明らかに、空間体験の要因になっていたと思います。
では両者の違いはなんなのか?

アルハンブラでは、箱の一つづつは切れていて、その箱と箱の間をまたぐのは、全く別の空間に入るような経験だったことを覚えています。それは、まるで部屋を渡るごとに、パキパキと音でもしそうなくらい違うところに入る感覚でした。(藤本壮介の伊達の援護寮や、リベスキンのユダヤ博物館がそれに近いと思います)(前田君の言うこととここは、同じになってしまいますが)

バルセロナパビリオンは天井、壁、床全て含めて等価な面となっていて、それらがユークリッド幾何学の座標上に置かれ、それらや家具と自分との相対的な関係から、自分のユークリッド幾何学上での位置を何となく認識しながら、空間体験をしているのではないかと思います。

どちらも、今でも色あせることのない、すばらしい建築だと思います。それは、今でも、人を感動させるができる、既に古くなった映画や、絵画、音楽に似ているのかもしれません。(70年代のヒット曲は今でもカバー曲になる)

ある建築を体験しに行くということは本来、ある映画を見に行くことや、ライブに行くことに近いはずです。映画を見に行く時は、ストーリーや映像を楽しみ行きます。ライブに行くときは、もちろん音を楽しみに行くわけです。

これと同じ感覚で、建築を学ぶ人間ではない人が建築の空間体験をより頻繁にするようになれば、もっと面白いと思います。(記念碑を見に行くあるいわ、表参道にショッピングはしに行ってもなかなか建築を体験しに行くことは、多くなり始めたとはいえ、まだまだ少ないのではないか)

ここで、建築の形ということに関して、ライブに音を楽しみに行く、映画に映像を楽しみに行くという感覚に対応するのは、シュマルゾウ的な形の認識なのではないかと思います。

坂牛研究室 片岡篤史:

坂牛研究室 片岡篤史

評価のある建築を見に行ったりすると、そこでは何かしらの空間体験を得ることは多いと思う。その一方で、現代における普通の生活の中で、身体的に訴えかけてくる空間や形はどれほどあるだろうか。その数は、それほど多くないのではなかろうか。事実、私自身建築見学を目的としなかった場合における感動するような空間体験はここ最近は記憶にない。しかし、そのような意識化される経験がなくても、そこに空間は存在している。

では、普段の生活における特に何も感じない空間を私たちはどのように認識しているのかを考えてみたい。

そのときに感じているのは、まさにシュマルゾウが指摘しているように、「身体的に認識する」という部分が強く作用しているのではないだろうか。空間が感覚経験の残余から成り立つというシュマルゾウの言葉を借りると、日常多くの時間を過ごす空間をいつの間にか自分の感覚経験として、身体に記憶されているのではなかろうか。日常という条件から、その空間の経験回数は活動の大部分を占めている。そして、そのような日常の空間は、現代において、工業製品化された空間、あるいは規格化された空間として、どこへ行っても似通った空間として体験される。その結果、実際には感覚経験の残余といったシュマルゾウの解釈をも超越しそれを「慣れ」として、身体が認識し出すのではないかと考える。
逆に、少なくとも私は日常の空間や形をヴェルフリン的(感情移入)やヒルデブランド的(視覚の強調)と捉えることは思い当たる部分がない。
近い例を挙げると、大学や一人暮らしを始めて住むようになったワンルームの部屋などが自分の感覚経験に該当する。(よほどのことでもないと、友人のアパートに遊びに行っても空間を意識させられることはないので。)
そして、対になるような感覚として、そのような日常的ではない空間や形に出会ったとき、私たちはそこに意識的に対象を感じているのではないだろうか。その時は、捉え方の違いでヴェルフリン的、ヒルデブランド的、シュマルゾウ的のどれも考えられると思う。

土本研究室 池田千加:

今回のお題を読んで、わたしがいままでに体験してきたことは、シュマルゾウ的なものがほとんどを占めていると思った。

前回のコメントの最後に書いた、マーク・ロスコ。
彼の絵を初めて観たのは、高校2年の夏、海外研修で訪れたアメリカの美術館だった。
本当に大きな絵で、観ていて何故か泣きそうになっていた。
その時のわたしは、まだ将来のことをまだ真剣に考えていなかった。
建築に全く興味がなかったわけではないが、まさか建築科に進むとは考えていない時期のことだ。
美術館の名前やどこにあったかなどの情報はわたしの中に残っていない。
ただ、その絵が展示されていた階の、その絵を正面にしたその部屋のことは、その時の気持ちと一緒に今でも鮮明に思い出せる。
それから、帰りにその絵のポスターを買ったエントランス付近も鮮明である。

いま、特に調査の時には、あまり自分の気持ちを持ちすぎず、ある程度の客観的な目で観ようとしている。
気をつけないと、わたしは自分の気持ちを通して観てしまいすぎるので、本当に心を動かされたその建物のパーツでしかその後のわたしに残らないことが多い。

鮮明に思い出せると大きなことを行ってしまったが、一方で、わたしの中にあるその美術館が、本当にそのようなところであったのか、実は自信がない。
きっと感情があまりにも動かされたときの形の認識は、実際よりも大きくもなるし小さくもなる。丸にも四角にも星にもなる。
実物とは全く違う形として記憶しているかもしれない。
場合によっては、それはあまり良いことではないが、感情を持っているのだから、わたしはこの先もその感情を通して建物の形、またその他のあらゆるものの形を、自分の記憶にしていくのだと思う。
そしてその記憶がまた次に遭遇する何かの形に影響していくのだと思う。
本当の形の記憶は、写真に任せて、わたしから観た形は、わたしの中で無くならないように大切にしていきたい。

浅野研究室 06ta308f 大田智紀:

21世紀美術館を訪れた際の事である。なんて形容したら良いのだろうか。形とサイズ、光と影、いずれも単純であるのに、言葉には還元できない複雑さが演出されている感覚を受けた。遮断されたこの空間を構成するのは、造形の精確さであろうか。
今回のお題建築における形の認識についてであるが、これにはとてもファジィな命題である。ある時はヴェルフリン的に認識しているようでもあるし、あるいはそうでないのかもしれない。上述した21世紀美術館ではヒルデブラント的に近いものであった。一見して、まるで宇宙船のようで非常に人工的な構造美である雰囲気である。温度を感じさせない美しさとでもいうのであろうか、そんな印象である。突飛なデザインほど品格を犠牲にして、落ち着きのない空間を作ってしまうと感じるが、それを廃絶した(といった方が近いのか)感覚である。近づけばさらに印象は変わる。単純なものの組み合わせであるのに、そこには複雑さといったものが存在するようであった。一見すると明確であるような動線もまるで迷路のようであった印象がある。また、それはそれぞれが特有の空間を演出しているようでもあった。
人が、自分以外の存在に何かの影響を与えるとしたら、それは思考によってではないだろうか。そしてそれは自分の存在を確認する作業によってである。その思考運動が外界を定義し、同時に自らの存在を認識させる。それは、社会であり、また社会を動かしているものの本質ではないか。

京都造形芸術大学 神山義浩:

神山義浩

まず、個人的な解釈でそれぞれを定義付けしてみました。

★ヴェルフリン的認識とは…

美術史における両極的な概念を挙げ、図象の対比的な見方の定義をしている点や視覚の持つ「触角性」に関する論からパラディグマティックな変換可能性を持った認識。


★ヒルデブラント的認識…

客体(形)と主体(見る人)との関係性において主体の持つ主に視覚的動作によって客体(形)を認識する。連続性。(ヴェルフリン的とも言えるが…)


★シュマルゾウ的認識…

記憶的、経験的な観点からの認識。感情移入論。


基本的に個人の美的感覚は記憶的、潜在的なものから来ているのだろうと思っているので、その視点から建築を見ているのであればシュマルゾウ的認識なのかもしれません。
しかし、今回は具体的な経験からと言う事だったので今までで一番感興を引き起こした経験からそれがどれになるのか考えました。

一番印象に残っているのは、丹下健三のカテドラル教会です。
この教会には、3日連続で見に行きました。それぞれ昼、夕方、朝という時間帯で見に行きました。この建築を見に行ったときに感じたのは外観から感じる緩やかな存在感と内部空間の持つ驚くほどの緊張感でした。最初はただただこの緊張感に圧倒されてしまいなかなか冷静になって分析できないような状態でした。

40年以上経っても眩しいくらいの外皮に対して内部は暗く、荒々しい様相で迫ってくるコンクリートの壁。天井にある十字の端部から壁面へ垂直に連続していく開口部から差し込む光と祭壇の裏にはめられた大理石を通った光がさらに空間の緊張感を高めていた。
簡単に言ってしまえばこの圧倒的な緊張感を3日掛けて解いていったということなのですが、上述したように美的感覚は潜在的なものであると思っているため普通の建築を見るときは多分シュマルゾウ的認識であるが、このカテドラルに関しては、ある程度の現前性を自分の意識の中で見つけつつも、圧倒的な建築力を前にして、その現前性にかなりの要素が流れ込みそれを3日掛けて、取り入れ、置き換え、変換し、最終的にはパラディグマティックな認識秩序を探していたのだろうと思う。

また、3日とも時間帯を変えたのもこの建築の持つ力を全て見てみたい、自覚したいと思ったからで、この時は視覚的にも、身体的にも形を認識したいと思ったのではなく、新しい言葉を覚えるように空間、形を認識する力を養いたいと考えたからである。

早稲田大学・立川創平

2年前に行った宇都宮美術館でのリートフェルト展では、建築をウォークスルーの映像と、床に描かれた実物大の平面図で展示するという2つの試みがなされていた。どちらも実際に展示できない建築をどう体験させるかという目的で行われていたが、その効果はまったく異なっていた。

まずウォークスルー映像は、自分の筋肉を実際には動かさず、また映像が自分の意思とは異なって動くことで、逆にその映像を空間としてではなく、ただの動く絵として認識してしまうことに気付いた。これは映像があたかも鑑賞者の視点にカメラをセットしているにもかかわらず、実際にはカメラを動かしているのは鑑賞者ではないという矛盾から起こっている。同じ映像でもカメラを神の視点におけば、鑑賞者はその視点が自分のものではないことに気付き、空間内に想像上の別の視点を挿入することが可能になる。つまり一見分かりやすいウォークスルー映像よりも、神の視点の映像あるいは写真や図面の方が、鑑賞者の想像を限定しないという点で、空間認識が容易になる。

一方実物大の平面図の効果は顕著であった。床に壁の線が描かれ、一部に家具が置かれているだけという簡単なものだったが、実際に動いてみるとそこには壁が現われ、空間を感じることが出来た。また他の鑑賞者がその平面図上を動いているのを外から見るだけで、空間が立ち現れてくるように感じた。これは実際に筋肉を動かしつつ想像で壁を補ったこと、また他者の視点に自分の視点を重ね合わせたことを示している。

これらの体験から分かることは、建築の形はただ単に視覚の集積(動画)のみで理解されるのではなく、視覚の集積が実際または想像上で主体的になされる必要があるということである。

ヒルデブラントが形を空間の問題と捉え、事物を知覚する過程が実際の空間体験をなぞることによって行われると主張したことには賛同する。しかしヒルデブラントは建築の特異性を、「空間それ自体が、固有の形態という意味において、目にとっての効果的な形態となる」とした。それは上述の体験とは異なっている。したがって僕の体験はむしろシュマルゾウの認識方法に則っていることが分かる。つまり主体内部からの投影によって空間は想像することができ、実空間の認識すら、その投影を重ね合わせることで可能となっているのである。

この建築における形の認識は、主体の空間経験にその多くを負っている。したがって現代建築では経験的認識をずらすことで、形の認識を反転させようとする試みがなされる。例えば妹島和世の梅林の家では、部屋の境界に窓が開けられていて、それは通常の空間経験による認識では絵画のように見える。この錯覚は、境界を極端に薄い鉄板で構成するという建築的操作によって可能となっている。また青木淳が2002年に国立近代美術館で行った展示は、壁の厚みの中に空間をつくり、内と外、表と裏という認識を反転して見せた。形の認識がシュマルゾウ的な空間への主体の投影であるからこそ、こういった建築的操作が意義あるものになるのだと考える。

坂牛:

この手の自分の経験に則り語れという質問は世の中に数多いだろうし、多分社会人になると社内での発言においてこうした自分の体験に照らし説得したり、指示したりすることも多々ある。
そこでこの手の質問に対する効果的な答え方を述べておく。
先ず、自分の経験である以上事実を捏造したり捻じ曲げたりはできないものの,体験をただべたに書いてもだめである。皆大体そういう書き方になっている。もう少し文章術を学んだほうがいい。最近の本では福田和也の「文章教室」 講談社 2006が参考になる。
この本では、人に物を伝えるためには相手は全くあなたの言うことに関心も興味も無いという前提で書けと書いてある。そのためにはいかに効果的に嘘をつくかであるとまで書いてある。まあ嘘はレトリックだが、相手を先ず自分の土俵に引っ張り込むことが重要なのである。それがみななんとなく、「私は●●の体験を記します」では面白くもなんともない。それは小学生の作文である。会社では上司は忙しい。面白くない話は聞いている振りして違うことを考えているものである。社会人は大学の先生のように親切ではない。使えないと思ったらはずすだけである。そこで相手を先ず土俵に引っ張り上げるというとことが必要である。そして土俵に載せた上でどうするかであるが、現代の普通の感覚と常識で考えるとシュマルゾウ的に空間は身体で感ずるものであると言いたくなる。僕だってそう考える。しかし。とここデ少し立ち止まって自分の体験を掘り下げることが必要である。人に何かを言うという行為は発見を伝える行為である。赤いりんごを前にして「このリンゴ赤いね」と言っても何も言っていないに等しい。そういう会話は気が置けない友達との間ですればよくこう言うところに書くものではない。
そこで立ち止まりシュマルゾウ体験を掘り下げると、自分の体験記憶の中にポット時間が止まったようにその中に鮮明に残るヒルデブラント的な視覚像とかヴェルフリン的な感情移入体験が化石のように残存していないだろうか?そうしたいくつかの要素の結合として自らの体験が形成されている場合もあるのではないだろうか?
つまり、質問はどの理論に基づく体験かと聞いているのだが、そのどれかに綺麗にはまるとは限らないことを見抜く。あるいはいくつかの理論の上にこそ建築体験の複雑性が表出することを捉えることがここでは肝心なのである。
それは一言で言えば自分を反省する力の緻密さである。緻密な分析を極力簡単な言葉で示すことが重要なのだと思う。
さてお説教のような社会人講座のような話になってしまったが、そこで一作選ぶということがなかなか難しい。2年生の授業ではm2の芦田君に選評を書いて貰った。そこで彼が芦田賞を選ばなかったので僕はそれではいけないと言った。その意味でこちらの授業でも極力光る言葉に磨きをかけたいのだが院生は絶対評価である。もうひと頑張り。皆もう少し考えてみよう。あるいは一度書いて翌日もう一回遂行してみよう。ああなんとつまらないことを書いているのかと嘆く習慣を身につけることを勧める。次回を期待する。

He insisted we had all contributed to make a more thorough examination of our captain that he saw us throw them away, to deliver in passing, we might yet restore her husband being unequivocally its owner.

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2006年11月01日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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