2009年01月13日

最後のお題

お題出すのが遅くなりましたごめんなさい。前回のコメントは記入者が大変少なく残念です。さらに全体を見渡しても去年に比べると、書く人が減っており困りました。これには二つの理由があると思いました。一つは何回書かないと単位をあげないというようなルールによる管理をきちんとしてないこと。もう一つは質問の内容が君たちの興味を湧かせるのに十分ではないこと。そう考えると両方とも僕が悪いと言うことになるので来年は反省して直すようにします。
ところで今日のお題。これは最後のお題ですから全員書いてください。お題は「この講義によって得たこと、その活かし方」タイトルは簡単でしょう。ただし書き方を指定します。起承転結をつけて4段落で書くこと。段落ごとに一字インデントをつけること。字数は全体で1000字程度。締切は今週木曜日の夜12時までとします。それ以降のものは提出と認めません。

2008年12月25日

附1お題

建築の規則は前回で終了である。今回は建築創作の原理ではなく建築を取り巻く状況として建築の先天性と後天性という話である。少し前までは後天的な建築の創作原理があった。メタボリズムなどはその良い例である。しかしそのリアリティが薄れた現在新たな後天建築創作の原理は生まれていない。一方で先天的DNAが薄れた建物に新たなDNAを注入する作業が時代の要請となって現れている。こうした要請は単体の建築で見るなら最近のトレンドでもあるのだが、街という塊で見たときにはこのような作業は実は普通の営みとして古来行なわれていることである。そこで前回の講義の補足を兼ねてそうした街に新たなDNAを注ぎ込むこととその関係性を概観してみた。
話を戻し後天的ニーズを予想した計画が廃れてしまったことを振り返ってみたい。メタボリズムが廃れたのは法的、技術的な問題であると指摘したが、そうした点が乗り越えられればこの考え方は未だに捨てたものでもないと僕は思っている。そこでもう少しこのメタボリズム建築の可能性を考えてみたい。ネットでメタボリズム建築を引いてみよう。その中で一つ自分の気に入った建築をとりあげ。その建築を批評してみてほしい。できればその可能性について論じてほしい。

2008年12月19日

第九講お題

本日のテーマは建築と敷地の馴染みである。馴染みということで言えば昔こんな経験があった。20年以上も前に、高松伸という建築家が織陣という名の小さなオフィスビルhttp://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.mediawars.ne.jp/~m921320/a_map/images_a_map/orijin_08.jpg&imgrefurl=http://www.mediawars.ne.jp/~m921320/a_map/map_of_kyoto_35.htm&usg=__z8VxExHlcd3js7oTx34j_NNeRlA=&h=200&w=150&sz=33&hl=ja&start=18&sig2=iNkgrjiEOrstHqqWmnIR2g&um=1&tbnid=ZvxaB-Eem6xHSM:&tbnh=104&tbnw=78&ei=c2NLSb3tK4y6sAPUzdyODQ&prev=/images%3Fq%3D%25E7%25B9%2594%25E9%2599%25A3%26um%3D1%26hl%3Dja%26rlz%3D1T4ADBF_jaJP298JP299%26sa%3DNを作った。それは京都の町並みの中に突如現れた奇怪な建物だった。真っ赤なたまねぎのような屋根を冠した真っ黒い石の建物であった。その建物は京都の町並みを破壊する暴力とも言われたが、その建物の前に立った僕にはこの赤いたまねぎが先ほど潜り抜けてきた平安神宮の鳥居を思い出させ何かこの街の空気に溶け込んでいるような気になった。無理やりそう思ったのではない。とても自然な感じ方だったと思う。
一方世の中には景観問題なるものがある。ちょっと前には景観法などという法律もできた。その法律は地方行政やnpoなどにより地域に即した条例の作成を促すものでユニークであるとも思う。しかしそうは言っても条例を現実化するには一律な形態や色彩の規制は避けられない。そこにおいては先ほどの赤いたまねぎの様なものは先ず規制対象にならざるを得ないだろうと思う。
われわれはここで法律の立て方を云々することもできるが、それはさておき、町並みの類似性について比較的直感的な嗜好を問うてみたい。京都の町並みのような類似なものの集まりが好きか?東京のようなカオスが好きか?もちろん好き嫌いのレベルだからそれで終わっても構わないが、そこで踏ん張ってその理由を示し私を説得してみてほしい。
去年の学生の答えは下記http://ofda.jp/t_lecture/2007/rule/bbs/2007/07/post_10.html

2008年12月15日

第八講お題

本日のお話は建物とそれ以外の物や場の関係を親父的(exclusive)、オフクロ的(inclusive)という言葉で説明した。そしてexclusiveな状態を作る建築の事例をみるとそこでの創造の原理としては1)プロポーション、2)象徴性、3)ミクロコスモスなどが見受けられた。一方現代建築はプロポーションなどと言うものに余りこだわらない。象徴性を形成するためのコンテクストを共有していない。閉じた箱の中でミクロコスモスを作る茶室のような発想は消滅し、開放的という言葉が標語のように連呼されている。
さて今日のお題である。「exclusiveな何か、inclusiveな何かを発見してそれらがその関係性を他と持つのはその対象がどのような原理によって成り立っているかを分析して欲しい。例を1つ挙げておこう。京都龍安寺の石庭。この庭石は大海に浮かぶ小島のように見立てられる。そしてその象徴性ゆえにこの庭はexclusiveなものと言えると思われる。このような調子でお願いしたい。

2008年12月07日

第七講お題

今回の授業に関する教科書のページ170から187をよく読んで欲しい。その中で新たなる部分設計として例示されている脱構築主義建築について建築家名と作品を一つ上げて批評せよ(ネットなどを駆使して建築家は自分なりに探してみること)。

2008年11月29日

第六講お題

本日から話は関係の規則となる。ここには4つの規則がありその最初が重箱と平皿である。おせち料理のような重箱料理においては食物の種類とその入れるべき場所にルールがある。一方平皿の大皿料理ではそういうルールはない。これを建築にたとえて今日の講義は展開した。建築にも重箱型と平皿型があるということである。
重箱建築とはその場所の目的とそのしつらえにある関数(function)関係があるものを指す。そしてその状態を機能的(functional)と呼ぶのである。一方そうした関数関係を排除し、場所に目的を与えない建築が平皿建築である。モダニズムは重箱で始まり、平皿になりポストモダニズムで平皿は攻撃されたが90年代平皿は復活そして現在はその合いの子が闊歩している状態である。
青木淳は遊び場を例に挙げ場所に目的を割り当てた遊び場を遊園地、割り当てない遊び場を原っぱと呼び原っぱの自由を称揚した。
さて今日のお題である。皆の周りにこうした場所と目的の緩い関係性を発見しその是非を論じて欲しい。

2008年11月25日

第五講お題

本日は建築(土木を含めた構築物)のサイズが及ぼす美的効果についてその歴史的変遷をご紹介した。私の専門ではない領域もあり耳学問の延長部分もあるがご容赦願いたい。
ところで大きいというものは確かに崇高という美的概念によって説明されるような効果はあるもののこのご時世人工物にそうした概念を当てはめてデザインしようなどというのはアナクロの謗りを免れない。しかし一方、大きいということは余剰(redundancy)という概念も含意する。それは今日の講義には出てこなかったが、建築においても余剰空間が建築のflexibilityを高めるなど、美的効果とは別の極めて機能的な見地から評価する人もいる。
そこで大きいことを評価し、現代において大きいに価値を与えてみよう。しかしそれはそもそも見当ハズレであると考える人はそう主張し、その理由を記し、むしろその対極である小さいを評価してくれも構わない。もちろんどのような領域についてでも結構である。
また去年の学生の回答も参考にしてみよう。
http://ofda.jp/t_lecture/2007/rule/bbs/2007/05/post_5.html

2008年11月14日

第四講お題

まず今日の授業の章をよく読んで欲しい。その中で(119ページ)チャールズジェンクスはユニヴァレントな建築を批判する。そしてその上でメタファーの重要性をあげエーロサーリネンのTWAビルを称揚する。ネットでこの建物を見てみよう。その上でユニヴァレントな建築とTWAを比較してあなたたなりにその二つの建築を評価して欲しい。

2008年11月07日

住宅設計のプロセスお題

本日は「建築の規則」から少し離れて、僕の住宅設計の方法について説明をした。ああこんなことを考える人もいるのかと感じたと思う。そこで今日の話で一番興味深かった点について各自書いて欲しい。

2008年11月01日

第三講お題

本日の講義はモダニズムの技術が建築を二つの対極的方向へ導いたことを説明した。それらはスケルトン化でありブラックボックス化である。そしてスケルトン化は必然的に構造や設備を露にする。その露にされることを含めてテクトニックという概念で21世紀の建築を語るケネスフランプトンの『テクトニックカルチャー』の論旨を概説した。更に私の考える未来の材料論からもテクトニック、スケルトンの概念が有力という価値付与を行なった。
そこで今日のお題である。スケルトンという概念を少し拡大解釈してみよう。建築に限らず、身の回りのモノ、コト(建築、プロダクト、音楽、文学、教育、経済その他)がスケルトン化(その構成が分かりやすくなること)することに現代的価値があるだろうか?スケルトンという言葉をいかように解釈(誤解)していただいても構わない。自由な想像力で自分の分野に引き込んでいただきスケルトン化による現代的価値を提示して欲しい。

因みにこの設問は去年の他大における質問と同じなのでそちらのコメントも覗いててみよう。
http://ofda.jp/t_lecture/2007/rule/bbs/2007/05/post_3.html

教科書を使った設問は次回にします。

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