« 第六講お題 | メイン | 今回のお題 »

第七講お題

ちょっと遅れました。

さて今回は色の話。色の良し悪しなどおよそつきかねる。カントが芸術の評価に色は関係ない。重要なのは形だと言ったのはある意味正しい。十人十色というl言葉があるように10人の色の好みなど10ある。しかし一方でカラーコーディネート云々なんていう本もあればそういう資格もあるのだから、それなりに色にはフィットするある範囲のようなものが客観的には(学習的に)は存在もしている。しかしその話はここでは横に置いておこう。
今日の色の話で重要なのは心理学的な色の種類。表面色、面色、そして空間色の3種類である。それはその色の使い方が実際建築を設計していく中でいろいろ応用できるからである。逆に建築の中にはそうした色の現われが見て取れるはずである。そこで今日のお題は君たちが今まで訪れた建築において、空間色を体験したその事例をあげその素晴らしさを文学的に表現せよ。字数は短くとも長くとも良い。その感動が伝わればよい。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/3303

コメント

早稲田大学・立川創平

一人目の彼女は僕を呼び寄せ、抱きしめて、揺さぶり続けた。

僕は大きな丸いくぼみに横たわっていた。ドーム型の天井がゆっくりとその色を変えていく。僕は次々と変わる色の空間に絡みとられ、その色は目を閉じても、まぶたの裏に無限の色空間として広がり続けた。翻弄された僕は、さっきまでの僕とは、ちょっと変わった気がした。

二人目の彼女は気づかないうちに僕を包んでいて、ゆっくりとその姿を消した。

僕は階段ホールにたたずんでいた。ステンドグラスを通して入る光は、ほんの少しオレンジ色に色づいていた。少しするとその色には慣れてしまうのだけれど、一度目を閉じてから開いてみれば、やはり色づいていて、壁や床の色と一緒になって、暖かく僕を包んでいた。

一人目は六角鬼丈の感覚ミュージアムの中にあるハートドームで感じた空間色。二人目は東京都庭園美術館の階段ホールに広がる空間色だ。たまにデートをするなら一人目もいいけれど、ずっとつきあうならやっぱり二人目がいい。

人間の眼は色順応の機能を持っている。これによって色の恒常性が保たれているのだけれど、本当は空間はそれぞれ少しずつ異なった色を持っている。僕らが普段気づかないだけだ。ある種の建築やアートはその恒常性をある意味では暴力的に壊すことで、空間に色を付ける。そしてそれは圧倒的な感動を生むことがある。

けれど強烈な空間色にさらされつづけるのは正直疲れる。ほんの少しだけ色のついた空間に、ふとした瞬間に気づくことは心地いい。例えば木々の下には、ほんの少し緑に色づいた空間があるし、寒い夜道を歩いていて見えたコーヒーショップの前には、ほんの少しオレンジ色の空間がはみ出してきている。そしてそれらの空間は、少し涼しかったり、ちょっぴり暖かかったりする。

建築は、壁や床の色、光の入れ方や使い方を考えることで、空間に色を与えることが出来る。その普段は気づかないほんの少しの色が、ささやかだけれど、役に立つことがあるのだ。

空間色を体験した建築物の事例として、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル(中央玄関)を挙げる。自分の実家は愛知県の犬山市というところで、明治村という明治~大正の建築物が並んでいるテーマパークがあり、帝国ホテルの中央玄関はその中の建築物の1つである。帝国ホテルの建物内外は彫刻された大谷石、透かしテラコッタによって様々に装飾されている。またロビーは3階までの大きな吹き抜けがあり、開口部が広いので大空間の中を光が入りまじっている。その光が廻りの彫刻に微妙な陰影を与えて、ただ明るい単調な空間ではなく、光の明るさや影の暗さがところどころで微妙に違っている。また自然な光(日光)が持つ白っぽい要素と人工的な光(証明)が持つオレンジっぽい要素、影の持つ黒っぽい要素が複雑に入り乱れて、幻想的な空間を創り出している。

「おと」によって表情をかえ
演奏者をよりいっそう輝かせる
スポットライト

聞き手もまたその空気にのみ込まれ
その空間すべてが
「ライト」によって表情をかえる
たった1色の「光」によって…

僕は今回の質問である空間色をライブハウスで体験しました。曲のムードによって次々と色を変える照明です。この照明があるのとないのとでは伝わるものの大きさがまったく違います。色による効果の大きさを本当に実感します。

東京ディズニーランドの建物は私をわくわくさせる。その一つに建物の色があると思う。東京ディズニーランドの色彩はそこから出たら、異様だと思う。あの、不思議な空間が私をどこかに連れてく。
照明を当てれば、反射してそこを色づけ、水しぶきがあがれば、そこに色を移す。そこに、空間色ができてると思う。

  昔に行った今は無き新横浜のラーメン博物館を挙げる。
昭和33年の町並みを再現すべく、また、レトロな雰囲気をかもし出すため、いかにも昭和っぽい色を空間で駆使していたのが印象的であった。当然のことながら艶やかな色はまったく使っていなかった。照明の当たり具合に応じ、暗度を見事に利用していたのが心に残っている。一口に色と言ってしまうといかに鮮やかであったかが問われてしまうような気がするけれども、自分は、目を引く空間色ではなく、意図して目を引かないようにした空間色を挙げたかったのでこの建造物を挙げた。色に関して意識すれば必ず照明の使用も関わってくる。それゆえ、蛍光灯はあまりなかったのを覚えている。黄色いランプで光が色を保持しているため、色に関してはかなりの計らいが持たれていたように思える。床は、土ではなかったが土のような色。壁は土や木ではないが土や木のような色、トタン屋根は・・・そこまで注意力がいっていなかったので定かではないが・・・トタン屋根と似つかう色。光に色が付いていて、規定された色が無いため、昭和でレトロな空間を演出するため、空間色を茶色にすると口では簡単に言えるけれども、それを実行するのはしばし苦労することと思う。
  感動という点において、昔にタイムスリップした感じがして嬉しい・・・と言いたいところではあるが昭和が嬉しいというと語弊が生じるし、いささか嬉しいという感情とは異なる。でも、様々な意図が感じとれる空間色には心打たれるものがあった。

「アフラム、ペール・ブルー」に招かれる…
彼は四角い輪郭にのっぺりした顔だった。よく見ていると遠いはずの彼の顔が浮き上がり、また立体感を持ちぐっと近寄ってきた。
まるで浮かんでいるような、不思議な感覚に襲われる…
彼に別れを告げ「オープンフィールド」に向かう。
ここで僕は靴を脱ぐ。目の前には黒い階段。その向こうにはただただ青いとしかいいようようの無い空間がある。
感覚を確かめるようにゆっくりと、一歩一歩階段を上る。
ふと気づくと感覚がしだいに薄くなっていく。まるで吸い込まれるように青い空間に身を投じると、どこからどこまでその空間が広がるのか、自分がどこにいるのかわからない不思議な浮遊感に近い錯覚を感じた。
一歩踏み出すことにさえ恐怖を感じてしまう。
しだいに自分がいることさえ忘れてしまう感覚を覚える…

地中美術館 ジェームズ・タレルの部屋「オープンフィールド」より

色はより直接的に感覚に訴えてくる力があると思う。さらに、色は感情をコントロールする力さえもあるのではないでしょうか。

まるで自分が海の中にいるようだった。

巨大な水槽の中を通る一本のガラスの管
そこに身を置く自分
周りを泳ぐ無数の魚

日光が水槽を照らす
その光で映える水の色
ぼんやりとした、うっすらと緑がかった青がガラスを通って自分に迫ってくる

小さい頃行った水族館で体験した空間色である。そこがなんという名の水族館だったか、そこで何をしたかなどはもう忘れてしまったが、一面をガラスの水槽で覆った空間だけは今でも印象に残っている。

新宿ルミネという建物がある。
そこには、様々な種類の店が入っているが、中でも、洋服を販売しているフロアは「白」という色で溢れていると思う。それは時間によって変化する太陽の光ではなく、人工的な照明の光によって作られているが、その白い光は、すべてのものの色を明るくきれいに見せる力を持っている。そして、その白い光と白い床、壁の中に色とりどりの洋服や雑貨が並んでいる。そこには、買い換えようと思っていた、くすんだ色のはずの鞄も、まだ使えるのではないか、と思わせるほどきれいに見せる眩しさがある。
それは店の中だけの色だけれど、人をわくわくさせる力のあるものだと思う。

僕は空間色のある建物に水泳場を上げる。高校まで所属していた部活で経験してきたことだが、水泳場は時に試合の行われる場所、時に一般開放として一般客用の趣味やレジャー施設として利用されたりと、いろいろな場面で使われる。その空間は場面場面で空間の色を変える。
 具体的に前者の場合、その空間は赤。選手たちの競争、燃えるような気合、一致団結といった熱血的な「赤」を感じる。
一方で後者の場合、その空間は青。一般客はリラックスや趣味、ゆったりとした、張りつめられるような赤とは対照的な「青」を感じる。これはそれぞれの人の経験によって様々だとは思うが、僕はこのあまりにも対照的なところに驚いた。時には赤。時には青。「赤⇔青」

疲れきっている時は「あと少しだ」とはげましてくれる
どんなときでも「おかえり」とほっとさせてくれる
近くにいることが当たり前だとすぐに忘れてしまう
ときにはいらっとさえする
そんな自分に腹をたてずいつも暖かく見守っていてくれている
久しぶりにそんな母に会いに帰りたい

ここでは日常のなかの些細の感動として自宅(自分の家は木造で、照明器具はほとんどが白熱灯です。)のあたたかい空間色をあげました。家が見えた瞬間、家に入るとき、家のなかに落ち着いたときのその空間色に対する感情を記しました。

白熱灯の色だけが「暖かさ」「安らぎ」を与えているのでなく、白熱灯と木の色や、テクスチャーとの関係がうまく絡み合い、より暖かい空間色を作り出している。つまりここでは表面色が空間色に与える影響はかなり大きいということに気づかされました。

あたり一面真っ暗で何があるかよく分からない。微かに見えるもの、急に視界に入るものにとても驚く。本来なんともない場所なのにそこでは色によって恐怖を抱くことがある。僕が空間色と聞いて真っ先に思い浮かんだのが建築物とは言い難いがお化け屋敷である。文化祭やお祭りのイベント、本格的なお化け屋敷など様々なところで経験することができる。基本的には夜をイメージした黒色をベースとしているがお化け屋敷には必ずと言っていいほど部分的に赤や緑色が使われた空間が存在する。本来僕は赤といえば情熱、緑は自然というイメージが湧いてくるが黒をベースにしたときだけは違う。あらかじめ黒色によって不安や恐怖などがほんの少しだけ頭の中に植えつけられる。そしてその上で赤や緑といった濃い色に出会うことでより一層恐怖心を抱く。例えば真っ暗闇の中に一部分だけその黒色に馴染むように赤色がかかっている。異空間を思わせていて何か普段とは違ったことが起こる気がしてならない。本当にお化けと言うものが出てきそうである。本来持つ色のイメージがそのベースとなる色によって違った雰囲気、違ったイメージを醸し出して不気味さが出てくる。お化け屋敷はそういった空間色というものを巧妙に使ったものである。

海遊館

初めて見た時まず僕はその圧倒的スケールに感動した。海遊館は写真で見たスケールとはまったく違い、外見はとにかくでかい。

中に入るとまず長いエスカレータによって最上階に導かれる。ガラス張りの天井・壁の一部によって、最上階は日光による空間色を感じられる。そして最上階から螺旋階段を降りるようにスロープを下りていきます。 初めは水面、そして中層、下層と下りて行くにしたがって濃くなっていく水による青い空間色。ジンベイザメ・ナポレオンフィッシュにも感動したが、何よりその空間色の変化によって自分がダイバーになったような感覚になったのを強く覚えている。それがケンブリッジセブンアソシエイツの狙いかどうかはわからないが、少なくとも僕はそんな感覚なったのを覚えている。

建築と色。 僕は非常に大切な関係であると思う。海遊館のような錯覚によって人々を癒すことができるように、現代社会を生きる人たちはそんな癒しが必要であると思う。元気にしてくれる・落ち着かせてくれる… それが色にはすべて可能なように思える。それが家族の色であったり、心の色であったりもすると思うからだ。

僕が空間色を感じたのは旅館の露天風呂でのことです。

僕はバイトの関係で露天風呂を深夜に利用させてもらっていたのですが、露天風呂は夜になるとライトでやさしく照らされ、とても落ち着いた雰囲気になっています。深夜にはお客がいなくとても静かで、一日の疲れを癒すには最適な場所でした。この旅館はあたりを山で囲まれた温泉街にあり、ふと夜空を見上げると無数の星達が光り輝いていました。僕は普段見ることのできない星の数とその輝きに眼をうばわれました。

僕は、あの時見た星空を星達がはなった光を映し出した空間と考えました。僕が体験した素晴らしい空間色は空一面に広がる星空です。

表参道のケヤキの下の人ごみを抜け、初めて入ったその場所は透明な光が満ちていた。

スロープを登る。ふと周りを見回すとそこは白と黒のシマシマであった。しかしそのシマシマは少しでも気を反らすと、徐々に細いシマシマとなり、混ざり合って灰色となり透明に消えてしまう。

表参道ヒルズはその繰り返しである。そのシマシマはスロープの作り上げる模様かもしれないし、行きかう人の作り出す軌跡なのかもしれない。

一歩外に出ると、東京の冬の不透明な灰色の空。

空間色を体験した建築として幼い頃見に行った函館の夜景(町並み)です。当時はたいして興味がなく、両親が行くから仕方なくという感じで夜景の見える場所に連れていかれた。そして、その場所についた瞬間に驚かされた。その壮大な景観に。函館の町がまるで星空のようで、その光の空間色に感動させられた。今改めて思うとまさに100万ドルの夜景と呼ぶにふさわしい。またいつか訪れてみたい場所のひとつである。

阿弥陀三尊像の背後から黄金に輝く西日を取り込んで弥陀の来迎をしている。
正方形の平面の中央に光が差し込みその中央には阿弥陀三尊像が照らされて立っている。教会のステンドグラスの色が教会の聖域な雰囲気で神とのつながりがあるかのようにこのたてものも仏像が天竺、天とのつながりをもつような雰囲気なさせてくれる。当然照明がないから差し込む光のみ。その光には色はついてなくとも日光の色がさしこみ床で柔らかに反射してゆく。浄土寺浄土堂

いつもの空はいつもと違い
いつもの街はいつもと違い
いつもの人はいつもと違う
その色たちがあるだけで
いつもの空間はいつもと違う
僕は、建築物ではないけれど、期間限定の色のある空間として、この時期よく目にするイルミネーションを挙げさせてもらいます。イルミネーションはさまざまな光がその周りの空間をいつもと違う色に照らします。例を挙げるなら、赤と緑はクリスマスカラーとして人々の気持ちを盛り上げ、黄は明るさと温かさ、青は幻想的で落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。それぞれの色が共に輝き、重なり合うことで、僕たちが普段感じることのない感覚を味あわさせてくれる空間になります。そして、雪が降るとその雪を通した光の色が、また違った空間を作り出します。何か色があるだけで、人の気持ちが変わるのだから、色というものがとてもおもしろく感じました。

わらべ館
地元では観光地となっているのですが、ローカルな人もよく訪ねます。そこは僕らの前の世代が子どもだった頃の景色、遊び、学校などを再現しています。「本物」をしらない現代の子どもたちから当時の子をもつ親までの幅広い世代でにぎわっています。僕も本物を知らない子としてそこに何度か行ったことがあるのですが、そのたび不思議と「懐かしい」という気分になります。各場面場面で表現されるあかりがやわらかかったりあたたかかったりして、その場その場で違った雰囲気をかもし出します。現代的、なコーナーもあるのですが、そこは蛍光灯で白くまぶしく照らされていました。ほかの場面よりせわしげな感じがしていました。色で表現できるものは幅が広いとかんじました。

正直、今まで建築の色に美しさを感じ、感動を覚えた経験があまりないように思う。しかし建築を思い返そうとすると、イメージとして色を思い出すことが多いように感じた。学校に向かう途中の道に普通の一般家庭の家なのだが、家主の趣味かなにかですべてが紫色の家があり、それは良くおぼえている。
色は人にイメージとして影響を与えるようだが、絵画の色が一方的にこちらにイメージを与え続けるのに対して、建築の色はその色の空間に自分がいる。そのため直にイメージが伝わり、イメージに対して敏感になるように思う。
例えば空間に色を感じる場所のひとつとして店舗がある。店舗に見られる色はその店のイメージをもっとも鮮明に表し、人々の中に定着させる。人々はその店舗を思い出だすためにその色を浮かべる。事実、その店舗の壁などは決まった色が使われていることが多い。中でも特に強く感じるのは何かの高級店舗に使われるような黒。文章を書きながら気づいたが、すでに「黒い空間」に対する「高級」という印象が染み付いている。店舗の黒い壁は、たとえその店が特別高級ではなかったとしても僕なんかに対しては敷居の高さを感じさせる。非常に入りづらい。黒の空間にいる自分が感じていた居心地の悪さは、影響としては大きかった。
色を客観的に分析するのは素人には難しいことだが、絵画などの色よりも空間の色のほうが人々の記憶に残る強さがあるように感じる。

JR京都駅 屋上広場

今年京都駅にはもう三回も訪れている。観光をしたり、友達の家に遊びに行ったりするついでに京都駅で食事や買い物をする。そこで僕が必ず行くところは屋上広場である。ここは屋上緑化として中心に芝生の空間があり、周辺には竹林が植えてある。その竹林のそばにベンチがおいてあり、夜になるとその下から竹とベンチをライトアップしている。このライトアップされた光も派手じゃなく、いい感じにロマンティックさを出してくる。この空間で買い物客が休憩したり、カップルが会話を楽しんでいる。しかも京都の夜景も一望できるので夜は必ず訪れるし、みんなにもお勧めする。




世界が一周し
漆黒の色より青とも言えない静寂の青が空気を満たす。
やがて厚い青となった青より黄とも言えない白い黄が空気を抜ける。
さらに青は顔を染める赤となり空気を満たし空気を抜ける。
世界はまた漆黒に色塗られていく。
ベビーパウダーのような淡くやさしい色を漏らしながら・・・



建築で感じた空間色を文学的に挙げろという課題でした
しかしまだ空間色が印象に残る建築に会うことができていません
そこで思いだしたのが朝、日差しはでていないものの窓の外の雰囲気
薄いなんとも言えない青。静寂な青。そんな青が自分は好きです
また文学的と先生が課した意図は
同じ色でくくられる色にも違う雰囲気を持っている
文学作品はさまざまな比喩や修飾語などでその色の区別をしている
つまり文学的という制限をつけることにより色を深く鋭く見て感じることができる
そう伝えたくて課したのだと自分は解釈しました
ですので比喩や修飾語を気にかけ1日の空を含む空気の空間色を表してみました

文学作品と建築を比べると逆の色遣いであることがわかる
文学作品は言葉(感情)によって色を想像させる
建築は色によって言葉(感情)を感じさせる

 私が体験した空間色は体育館である。今回の課題を見たとき1番最初に浮かんだのが、私の通っていた中学校の体育館だった。体育館には普通の蛍光灯とオレンジ色のライトがあった。オレンジ色のライトをつけることはほとんどなかったが、そのライトがついているときは、いつもとは違った暖かな感じがした。冬の寒いときでも、オレンジ色のライトがついているときとついていないときでは、体育館の雰囲気が異なっているように感じる。やはり暖かく感じた。色の影響力の強さを改めて感じさせられた瞬間だった。

真っ暗な潜水艦の中でみんながはしゃぎまわっている。
まるい窓の外にはいろいろな種類のクラゲ。
艦長さんが「これはフウセンクラゲといってね…」と集まってきた子供たちに説明を始めた。
真っ暗な広い空間の中にぼぉっとかすかに光る窓が、夜の空に光る星のように見える。
ばんやりこの光景を眺めていた私を「はーい、行きますよー!」という先生の声が現実に引き戻してくれた。

私が小学生のときに行った加茂水族館。クラゲのほかにもいろいろな動物がいたはずなのに、クラゲとこの真っ暗な空間が強く印象に残った。

 建築物でなくて申し訳ありませんが、神戸に行った際、山の上から見た夜景を幼いながらも感動し、今でも忘れることができません。
 車で暗い山道を通っていて少し恐いと思っていましたが、いきなり生い茂った木々が開け、そこには宝石箱をひっくり返したような景色が広がっていました。それまでは恐怖心という色をもっていましたが、次の瞬間ショーウインドウの前にたたずむ子どものように車のガラスにへばりついていました。そのとき、きっとピンク色と宝石のような煌びやかな色に包まれていたに違いありません。
 美しいものは例え幼くても感動するものであり、その時々によって色を変えていくものだと思いました。

4月初めの雨の中、そこを訪れました。
雨だったせいか、海の近くで風が強かったせいか、とても肌寒かったのを憶えています。
そして、そんな中でその場所にたどり着いた瞬間、早く入りたくてたまらなくなり、足早になりました。
そこには、赤いレンガの建物が建ち並んでいました。そして、雨で薄暗い外とは対照的に、中から暖かそうなオレンジ色の光がもれていました。
入ってみると、想像以上。
照明とレンガに反射した光が程よく内部を照らしており、心地よく感じました。その色を表現できる言葉を知らないので、私はあたたか色だと思いました。
そんな体験をした横浜赤レンガ倉庫をまた訪れたいと思いました。

その店の前に立ったとき一歩後退りをした。その店の空間色は、赤、ドラキュラが吸う血を思い起こさせるような不気味な色。そこに飾られていた服は全て黒。赤に黒、そこに安らぎは感じられない。
入りたくない!初めはそう思った。
しかしその思いとは対照的に体は吸い込まれていく・・・・。
次の瞬間、不気味は魅力に変わった。その日の晴れた美しい空、柔らかい色の町並みとはほど遠く、それは普段の生活では体験できない別世界。僕の心をわくわくさせるものだった。
色には別の世界を作り上げ、人の心に変化を与える力があると僕は思う。

白い雲が浮かぶ青い空、オレンジ色に染まった雲が浮かぶ夕空、星が輝く夜空。お台場にあるビーナスフォートは、2階の吹き抜けに空が演出されています。私はそこを訪れたときに、一定の時間で変わるその空と中世ヨーロッパの町並みが再現された内部にとても不思議な感覚を味わいました。青い空、夕空、夜空と次々と色を変えていく空は、建物内をとても幻想的なものにしています。そして建物内は、それらの色が入り混じった色になっていました。明るい空、暗い空、そしてきれいな夕焼けの空。この3つが混ざってなんともはっきりしない、ぼんやりとした、幻想的な色を作り上げていました。色というのはイメージととても近いものがあると思いました。

畳敷きの玄関をそわそわしてのぼる
甘いお香の香り
そこから奥の板張りの食事処へ
格子戸しか見えないけどほのかに明るい
戸を引いて道なりに右へ
ぱあっと明るい空間が飛び込んでくる
かがやく木目の床と短めの通路の端にある砂利のスペース、灯篭のような照明
壁面の棚に花が生けてありやわらかく照らされている
一番奥の暗い坪庭からひとつの光が暖かく灯っている
そこはやさしい白とオレンジの間の色の空間
料理長が腕をふるってつくる美味しい料理にふさわしい
ごはんが楽しみだ、とうきうきで通路を歩いて個室に案内される

去年バイトしていたとこ

はじめて訪れたときにはわぁっと感動した
あたたかさと洒落た雰囲気をつくっているとおもう

 私は幼い頃、ピアノの発表会で毎年のように訪れていたスピカホール(地元の音楽堂)で空間色を体験していたと思う。この音楽堂は、床・壁・天井、そしてイスなど全てのものが木で出来ていて、木のぬくもりにあふれ、全体が木の色に染まっている。スピカホールに足を踏み入れるや否や、木の暖かい色で包まれ、自分がその中に溶け込んでいく気がした。受け入れてくれているような感じもした。そしてなぜか安らぎを感じ、いつまでもこの空間に溶け込んでいたいという気持ちになった。こういう気分にさせたのは、この空間の、ありとあらゆるもの、空気までもが木の色に染まっていたからではないのかと思った。 そういう思い出の場所に、私は空間色を見つけた。

放課後の教室は西日が入り、空と同じようにオレンジ色に染まる。暖かくゆっくりと感じられるのにどこかもの寂しい。いつも見慣れた場所であるのに時間によって全く別の空間になる。朝は一日の始まりであり、まだ日が差し込まないような白い空間。昼は皆が授業を受けたり、おしゃべりしたりする明るい黄色の空間。夜はひっそりと静まりかえって少し怖い黒の空間。その中でも放課後の教室は一番好きで、思い出がある場所だ。皆が帰った教室で友達とおしゃべりしていたあのオレンジ色の空間は、懐かしく、切なく、思い出がよみがえるような空間である。

そこは真っ黒な木造のダイニングバーであった。
入ってみると明るさの押さえられたライトによって暖かい感じに照らされている。
ライブの日だったのでDJがターンテーブルを回して雰囲気に合った音楽をかけている。
この時点でもう暗闇の中に一本のロウソクを灯したかのような、暖かく穏やかな空間色を体験していることを感じた。
しかしこの建築は、ただ潜在的にこの空間色をもつだけではなかった。
太陽のような光をもつ人たちの奏でる音楽は、この世で一度しか体験できない空間色を生む。
あのライトが照らす太陽のようにまぶしい色というものを。
この建築の中に生まれる一生に一度の空間色というものを。

まぁ松本のボトムダラーですが・・・

僕は中学時代棒高跳びをやっていた。中三の夏の最後の大会に向けて冬場かなり辛い練習をした。中三の春、屋内練習場で練習会があった。冬場は雪のためマットを出して練習できず久しぶりにマットを出して本格的に練習できる機会であった。
 この練習会で自己記録を更新した。冬場の練習の成果を実感できる気持ちのいい跳躍ができた。この跳躍の後余韻にひたってマットで数分寝転んでいた。マットの上から見た屋内練習場のドーム構造の天井が印象的であった。外の光に照らされた半透明のシートによって白い光が広がっていた。この純粋な透き通った白い光を見ながら冬場の練習に耐えた満足感と夏の大会に向けての希望を感じていた。

洞窟。そう、それはあたかも洞窟のような教会。一歩中に入ってしまえば、そこは異世界。薄暗く狭い通路を抜け、広い空間に辿り着く。そこには、変わった形のベンチが列を成し、上を見上げれば鱗のような小さな窓が列を成している。正面には大きな楕円の開口。薄暗くなった外の、夕日の明かりが空間いっぱいに充満する。日は落ち、夕日の明かりが力なく尽きてしまったとしても、幻想的な明かりはろうそくによって途切れることはない。揺らめくろうそくの灯で、幻想的な空間はより一層深まる。空間全体に、ろうそくの明かりは満ち溢れ、すっかりと暗く、寒くなった外とは対照的に、暖かい。

内村鑑三記念堂 石の教会

05T3009B 浦嶋潤昇

私が体験した空間色で印象的だったのは、善光寺のお戒壇巡りである。
その空間色は真っ黒というより、暗黒といったほうが良く似合う。黒というと、「黒い~」という物体的なものを示すが、そこの空間はすべての光が遮断され、まるで海の深いふかい底に入ったような暗黒の空間だった。その日は晴れていたが、ドヨーンと湿った思い空気を吸い込んで、それが吸ってはならない空気のような気がして、とても息苦しかった。
「死」のイメージはこのようなものなのだと自分自身で納得していた。
「もう一度行け」といわれても、絶対に行きたくない場所である。

果ての見えぬ朱の道
どこまで続くこの朱の道
この朱の果てには何が見える?
極楽の世界か地獄かわからない
ただ、わかるのは
あなたに守られているということ
きっと想いは叶うだろう

建築とは少しずれてしまうのかもしれませんが、京都の伏見稲荷大社の一万基の鳥居を例に挙げます。そこでは鳥居は願いが通るという意味があります。所狭しと並んだ一万基の鳥居はすべて朱色でした。朱色は魔力に抵抗する色とされており、古代の宮殿や神社に多く用いられています。また、伏見稲荷大社では大神様のお力の豊穣を表す色とされています。これらはすべて行った後から知ったのですが、鳥居の並ぶ朱色の道は全くの別空間であり、厳粛な空気が漂い、誰かに見守られているような不思議な感覚を覚えました。

私が空間色を体験したのは長崎の教会である。建物の中はお昼なのに薄暗く、空気がゆっくり流れている感じがした。思わず浅いため息をついてしまうような感じだった。入ってすぐの正面にはステンドグラスがあった。私はキリスト教信者ではないので、その絵が何の絵なのかはわからなかったが、女の人の絵だった。絵はとても細かく、薄暗いのも手伝ってきれいだった。おおげさだけど、神の光と錯覚しそうで、これなら信者じゃなくても通いたいものだと思った。多くの教会にステンドグラスがあるが、そういうことも意識して飾られているのだろうか。

誰もがみんな訪れるであろう水族館。
そこに行くと心が躍らずにはいられない。
辺りは一面海の世界でまるで海の中に入っているような錯覚におちいる。またそれが反射してすぐ先をきらきらと照らしていてとてもきれいである。そしてガラス越しに魚たちが泳いでいる。ちょっと手を伸ばせば届きそうなくらい近くで泳いでいる。その姿がとてもきれいで思わず見とれてしまう。
初めて行ったときはとても感動したのを覚えている。何度でも行きたくなる場所である。

青く、暗く、深い。その中にあってほんの一瞬。そのわずかな輝きで全てを染める。
しし座流星群を見に行った明け方。その流星が、見える範囲全ての空を染めていったように思えた。まだ太陽の昇らない真っ暗な空に流れる数百の星が、周りの星も手伝って、見える空全てと、可能な限りでみえる周りの景色を色づけた。
流れ星には願いや夢をのせる。その色が空間にも淡く漂い、空間を染めるのだと感じた。
建築ではないので申し訳ありません。これが自分が今までで最も強く空間色(空間に色がつく瞬間)を感じた出来事です。建築ではまだそういったものに出会えていないのだと思います。心に残る空間をこれからたくさん見つけたいと思います。

「では、始めます。」

僕の心も部屋も真っ暗だった。
本当は真っ暗ではないのに…。1個のライトで照らされ明るいはずなのに。

そこは、手術室。
壁はコンクリートだっただろうか。なんともいえない冷たさ。
手術で怖気づいた僕の心を更に漆黒の闇へといざなう。

天井だけを見ての30分ほど。
吸い込まれそうな空間に1人取り残される感覚。
すべて周りのものが、空気が、黒く見えた時だった。

オレンジ色の光が差し込む部屋で僕はゆっくり目を覚ました。今何時だろう?何してたんだっけ?そんなことを頭の隅で考えながらもこのままこの心地よい雰囲気に浸っていたいと思う。      昼寝から目を覚ました僕はいつもの見慣れた部屋で、突然、なんとも心地よい非現実的な空間を訪れたような感覚を味わった。その原因はやはり夕日のやわらかい赤に染められた部屋の空気にあると思う。昼間、黒土のグランドに立つ僕を容赦なく照りつける太陽が1日で1番優しい光を放つのがこの夕焼けの時間である。この夕日が作り出す空間色が「いつもの部屋」を感動的な建築物に変えてしまった。色というのは建築の根本ではないと思うが、建築を見る人の感性に大きな影響を及ぼすものだと思う。

店の名前を書くのを忘れましたすいません。
ナンバーナイン 原宿店です。


灰が降れば
街は一面鼠世界
街中すべての物が
全部グレーにトーンを落として
青写真の景色
気持も少しグレーになるけど
たんたんと待つ 雨

雨のシャワーを浴びたら
色が生き返り
街が生き返り
街中すべてのものが
全部トーンをあげて
気持も気づけばカラーに染まる

故郷鹿児島で、火山灰(桜島)が降り、街中の建築物に灰が被る様子です。そして雨が降り元に戻ったときの感動です。

口をあけて、ぼーっと時間を忘れてしまうほどの美しい色の大きなステンドグラスがありました。私が空間色を感じたのは、パリのノートルダム寺院です。高く広い空間は荘厳さがあり、室内は暗く、ほのかにオレンジ色の明かりが灯り、ステンドグラスから優しい光がそそぎ込んでいました。その空間はそこにいるすべての人を包み込んでいるようで、不思議な気持ちになりました。そのような気持ちになる場所を数多く訪れてみたいです。

僕の地元はブドウとワインのまち。いたるところでブドウとワインをつくっている。ワインを試飲できるワイン・カーブ(貯蔵庫)があって、僕はそこに行った。そこは暗く、ワイン樽があり床は木、壁と天井はコンクリートで落ち着いた感じだった。間接照明だけで、まわりを照らす。そのすこしの明かりだけで木の床、コンクリートの壁、ワイン樽、天井を照らし、より深みのある色をつくっていた。とても穏やかな気分になれた場所だった。

その場所にはなにもない。
一面に広がる緑のじゅうたん、辺りは暗く静寂な時がおとずれる。
そこに現れる光によってつくられた空間。
そこには入ることができない。聖なる空間なのである。
これはあるスポーツのイベントであった出来事である。
光が照らされた空間ができた時、僕は感動し胸が躍っていた。その光はまぶしく輝いているようであった。
僕はまだ建築的な空間色を経験したことがない。あるいは今までそのような視線で建築を感じていなかった。今回のことは建築的な空間色とはずれてしまっているが、光という特別な色によって作られた空間がとても印象に残り光に魅力を感じた出来事であった。

残念ながら今まで建築らしい建築で空間色を体験した記憶は無く、建築と言えるかは微妙だが、小学生のころに実家の庭で作ったかまくらで過ごした時間は今でも鮮明に覚えている。夜の暗闇の中でも、かまくらの内部は街灯からの光の反射により、淡く白い光で包まれ、その光が冷たく冷えた体に安心感を与え優しく包んでくれる。ローソクを灯すと幻想的な世界が広がり、静けさがいっそう際立つ。辺りに広がる大きな影はまるで夢を見ているかのような不思議な気分にしてくれる。
この感動は決して日本人だけのものではない。ドイツの建築家ブルーノ・タウトはかまくらについて「日本の美再発見」でこう述べている。「実に素晴らしい。だれでもこの子どもたちを愛せずにはいられないだろう。読者はありたけの想像力を働かせねばならない。ここにも美しい日本がある。」と。

ディズニーランド・スプラッシュマウンテン

僕達は、ストーリーに沿って森の中をゆっくり進んでいく。そこには、様々な鳥や動物が楽しげに暮らす、メルヘンな世界が広がっていた。そこは森の中。しかし、その森は僕達に様々な表情を見せる。最初は静かに、そして明るく、クライマックスは強烈に。しかし最後は楽しく、そして優しく包み込む。様々な表情、それは色だったのかもしれない。はじめは青。森の優しさを表現し、僕達を落ち着かせる。徐々に黄色やオレンジ。僕たちを楽しくさせ、気分を盛り上げる。そしてクライマックスには、赤。炎を連想させ、興奮、または恐怖すら感じさせる。その後ぼくらを乗せた乗り物は急降下した。
その幼い頃の興奮を、僕は今でも覚えている。

僕が小学生だった時、初めてディズニーランドに連れて行ってもらい、そこで乗ったアトラクションの思い出です。基本的に同じ場所、同じ森の中なのに乗っている僕らの受ける印象は、場所によってぜんぜん違います。アトラクションの場合、乗り物の動きや、微妙なセットのつくりなども、受ける印象を決める大きな要素でしょうが、それらと同等の働きを空間色は果たしていると思います。

だだっ広く豪華な空間をたった2人で変えてしまう。黒い服着た男の人と白い服着た女の人が。2人があらわれると幸せな色になる。
ボクの親戚の結婚式の披露宴の話です。真っ赤なじゅうたんに白いテーブル。しかし、新婦があらわれると赤いじゅうたんなど目に入らず、新婦の真っ白なドレスに釘付けになりました。そして新郎新婦の黒と白がただの白と黒ではなく、2つあわせてその空間が幸せな色に見えました。

視界が開ける
一面の緑と崩れたかけた石垣
かつて見た夢…
時の流れさえも忘れたようにただそこにたたずむ

 子供の頃訪ねた小谷城跡を見た感想です。建築自体の空間色で印象に残っている物がないのでこれを挙げました。小さい頃よく両親と古城巡りをしていましたが、小谷城は他の城とは違い全く手入れがされてなく、人の入った形跡すらまばらで、今まで整った城ばかり見て来た私には衝撃的でした。
 高く茂った木の間から光が射す光景は神秘的で、薄い葉を通した光はその空間を淡く緑に変えていました。崩れた石垣は見る者に思いを馳せさせ、より空間を淡く淡く変えていたように思います。

深く深く沈んでいく。水面にあわせて光が水底と自分の上を踊る。その踊りに見とれた自分は周りの世界そして時間が経つことさえもわすれていた。

深いプールの底から水面越しに空を見上げるのが好きで、水面からプールの底へ焦点をずらしていくときに見られる光景です。深く進むにつれて弱くなる光が単純に綺麗であるし、差し込む光がスポットライトのようでもあった。

3年 松田龍一

お邪魔します。
まず去年の色についての課題と全く違っていて読んでいておもしろかったです。
正直書いていて恥ずかしくないのかなと思いました。

読んでいて光がつくる空間の色に関するものが多かったように思えます。ホームセンターに行けば同じ蛍光灯なのに様々な種類があり、同じ種類でも使っていけばまた違った色を照らし空間の雰囲気も変わっていく。考えてみると光ってすごいですね。

せっかくだから、僕も課題に参加してみます。

ここはとある木造の古い建物
昼間でも明かりがないと少し薄暗い
でもあたたかい

そこには大きな開口部があるわけでもない
屋根にトップライトもない
でもあたたかい
??
そこには不思議とあたたかく感じる何かがある。
音?感触?味?
ああ、なんだ「におい」だ

今設計製図第4で民家再生の課題をしています。これは実測のときに思った感想そのままです。
ここで言う「におい」は香りという類のものではありません。その建物のもつ歴史とかそういうものであると思います。
「思います。」としたのは、僕もうまく言葉にできないからです。

すいません。

でも空間色は視覚だけではなくそれ以外の5感も多少なり関係しているのではないでしょうか?
例えばこの講義の言葉を使うと、同じ大きさ・色の空間でも「でこつる」と「のっつる」とでは感じ方が変わってくると思います。
その感じ方は空間がもつ「色」、空間色ではないのかなと僕は思います。

長々すいません。

稲荷山の暮らし館
入ってすぐの土間。そして板の間。暗いわけではないが身近な落ち着いた色があります。座敷に入ると土間とは違う落ち着いた色、薄い深緑。庭に面した部屋には帚の木の淡いピンクと空の色といった静かに明るい色が入ってくきます。
畳の部屋がたくさんあるがどの部屋も同じ色はありません。建築物自体の色だけでなく庭の色が溶け込んでいる空間が一番好きです。

キャナルシティ博多
福岡県にあるショッピングモール。2つの大きな建物からなり、その間をキャナル(運河)が流れている。大きな噴水や水たまりの周りにはいつも子供たちが遊んでいる。水がキラキラと輝いていて子供の笑い声が溢れている。そして、時間や天気によって水の表情はどんどん変わっていく。毎日ちがう景色が広がっている。オレンジのようなピンク色の外壁にエメラルドグリーンのしま模様が入り、ある壁にはツタが生えている。初めて見るとこの色使いに驚かされる。周りの景色に溶け込んでもいない。ある意味自ら外との関係を断ち切り自分達だけの空間色を作っている。でもこの色、形こそが「キャナルシティ」という世界なのだ。そこには福岡県中洲とはまったく違う異空間が存在している。

今年の夏休みに実家に帰った時のことです。

僕は友人と2人で小学校の体育館の壁の話をしていました。

僕は言います。「あの壁は間違いなくオレンジ色だった。夕日が反射していつも綺麗だったじゃないか。」

また、友も言います。「いや、あの壁は間違いなく薄い水色だった。近くの浜を意識して作ったって有名だっただろ。」

僕達は2人で小学校へ出向き、体育館の壁を見てビックリしました。

壁の色はただのコンクリートの色でした。夕日の様なオレンジでも、浜の様な水色でもなく… コンクリートの無愛想な色だった。

人の記憶は曖昧でないものにも"ある"ようにしてしまう。
ない色にも、自分の想い描く色をつける。

そこにはない色に自分の想いを馳せて、自分だけの、でも他人にも理解できそうな、特別な色。

空間色ってこんな、曖昧な記憶の中にあると思う。

手を拭く、顔を拭く、体を拭く・・・・。
生活に必需品のタオル。
しかし、いつもと違ったタオルが見える。
それがタオル美術館だ。
スポットライトによって、蛍光灯によって、外からの光によって、
または、壁、天井、床からの反射。
どこか、あたたかな光によって、芸術品に見える。
建物自体がタオルを芸術品にしている。

地元の観光地でもあるタオル美術館ASAKURAをあげてみました。

 この扉の向こうは地獄。その空間は幼い少年にとって身近な地獄であった。扉をあけると非日常的な暑さ、木のにおい、セピア色に染まったその空間では、裸になってただじっとしている。なんとなく息も苦しくなるようなその空間では、温度計の針が100℃のあたりを留まっている。ちょっと落ち着かなくなって周りを眺めてみても、セピア色の空間が少年を包み込んでくれる。熱いはずの温度なのに、なんとなく居心地の良さを分けてくれる。時が過ぎるにつれ、少年の体からは滝のように汗が滴り、セピア色の空気も霧がかかったようにその濃さをましていった。そしてついに少年に限界が訪れ、その空間を後にした。

 僕はサウナを挙げてみました。最近は行かないけど、高校時代部活の疲れを癒すのにスーパー銭湯にごくたまに通っていました。そこのサウナは中にテレビが備えてあったので結構長い時間いるときもありました。しかしここではサウナの空間色は色あせてしまったようです

 05T3051C 杉浦早紀です。
 私が空間色を体験したのは毎日通う弓道場である。そこは家族のように近い存在のひとが集まる場所である。本当に毎日夜遅くまでいるため、家のような存在である。そこは普段の練習はもちろん学内試合の会場としても使われる。鍋やバーベキューなどもする。学内試合や対外試合の会場として使われるときは、朝入った瞬間から戦場と化す。いつもの道場とは顔を変える。いつもと同じ照明なはずなのに勝負の色に変わる気がする。私の闘志にも火がつく。そんな道場が大好きである。

その空間はもったいない。あれだけのスケールで光を照らすのはたった一箇所。そして二人。スポットライトで照らされているその場は光が強すぎて光を追う自分たちは身動きできずにただ固唾をのむだけであった。

さいたまスーパーアリーナをあげる。自分の母校の先輩のボクシング世界タイトルマッチ。彼を照らすライトはオレンジ色には程遠い眩しさがあった。観客席からの色とリングから直接浴びる色は違うのであろうか。それは彼にしかわからないことだが・・

全体的に見ると薄暗い空間なのになぜこのように空間を眩しさで自分たちを包み込むことができるのであろうか。立川さんの寒い夜道にコーヒーショップを見つけ時に感じる色と似ていると思う。試合後外に出ると同じ空間色のはずなのにただ虚しく暗く感じるだけであった。

プラネタリウム

さっきまで部屋の中にいたはずなのに、突然外に出たような感覚だった 
真っ暗な部屋の中、ほんの少しの明かりで星空が作り出されている 
自分がいるのは屋内なのに、屋外の涼しい空気を感じた
天井があった場所には、満天の星空
部屋が高さを無くし,無限に広がっていくようだった
いつまでもその場所にいたいと思った

かつてプラネタリウムに行ったとき、部屋の中にいるのに寒空の下にいるような奇妙な感覚を覚えました。部屋が暗闇に包まれて天井に星空が映し出されたとき、全く別の場所に来たような感じがして、とても感動しました。暗闇なので空間色として正しいかどうかは分かりませんが、その中の星空が作り出した別の空間に行ったような感じが、空間色によるものなのではないかと僕は思いました。

白川郷合掌村 和田家

敷居をまたぐと木の香りがした。
しかしただの木ではない。200年もの時を耐えてきた木である。
その黒ずんだ柱、梁からは歴史の重みがにじみ出ていた。かつてこれほど歴史を感じるものに出会ったことがあるだろうか。それほどのものだった。
しかもただ黒ずんでいるのではない。あれは木でしか出せない、何色とも言い表せない、木の色だ。重く、深く、存在感のある部材からなるその空間は日本らしく威厳がある。
かつ、木のぬくもりがあり、和みの空間だ。

早稲田大学・立川創平です。

多少フライングですが講評前に復習をしました。興味のある人は読んでくれると嬉しいです。

http://blog.livedoor.jp/damekenchiku/archives/860481.html

講評の後にまた書きたいと思います。

私が空間色を体験したのは、横浜の中華街の建物です。中華街のテーマカラーである赤や金色はいたる所に使われていて、普段なら疲れてしまいそうな配色だけど、ここにいるとすごく楽しい気分になれます。
また、建物の内部も赤を中心に色がついていて、その色が中華料理の雰囲気と合っていて、一層おいしく食べれた気がしました。
横浜の中華街が、色に影響を与えられたものだと思いました。

自分が知っているのは緑色した空間。毎晩不気味に緑の光を暗闇に漏らしています。そういえばこの大学にもあります。
でもそこには決まって人はいません。今ではポケットの中のケイタイがいます。
自分はなかなか買ってもらえなくて、昔よくその緑の箱を利用しました。自分の順番が回ってくるのを待っているとき、その緑の空間の人はちょうど、小さなステージの上で静かに歌を歌うシンガーのような特別さを放っていました。
緑のもやもやは自分をも満たし、緑に染め、真っ暗な世界と断絶します。10円を代償に1分の会話をくれます。その空間に居るのはひとりなのか、ふたりなのか。リアリティの欠ける時間が一分。チャリンという音で現実に戻される。
今、そこには人はいません。大学が遅くなって帰るときもやっぱり緑を漏らしています。
すごく寂しげに見えます。遠くにいても存在を確認できるのに、ぎらぎらと光る電灯とは違って自信無さ気です。この切なさは胸を強く締め付けるようで。
誰か使う人はいないのだろうか。

坂牛研究室の松永崇です。設計製図第2の講評会で、ベルを鳴らしていたTAです。先週は「住宅」の課題お疲れ様でした。今週から「オフィス」の課題になるので、がんばりましょう。今週は、僕がコメントに対して総評したいと思います。

今回の課題は、「空間色を体験した事例をあげ、その素晴らしさを文学的に表現せよ。」というものでした。なぜ文学的に書かなければいけなかったのか。それは、色が主観的感覚にすぎないものだからです。コメントに夕日(西日)のオレンジ色を挙げている人が多くいました。その一人一人が見た夕日は、同じ時間に同じ場所で見たわけでもなく、一つの人格をもつ一人の人間が見たわけなので、表現の仕方は絶対に違うはずです。だから文学的に書く必要があったわけです。オレンジ色を表現する方法はいくつもある。その点を考えると、田中君は、課題を自分なりに解釈し、詩的に体験した空間色を表現していたので、すばらしいと思います。他にも何人か、誌的な表現があったので、その空間色をイメージしながら読ませていただきました。立川さんは、自分と寄りそう空間・色を彼女と譬えて、空間を表現したのは見事で、空間色とはどういうものなのか、分かりやすく書かれていたと思います。
ただ残念だったのは、田中君が坂牛先生の意図を読み取り、誌的表現で書いたのにもかかわらず、その後に書いた何人かは、ただなんとなく体験談を説明していたことです。後から書く人は、前に書いた人のコメントを読み、もし同じようなことを書いていた人がいても、その人とは違うんだっていうところを主張して投稿すると、プラスになると思います。建築のモノサシのお題も残り3つなので、その点に注意して書いてみてください。
あともう一つ。立川さんに先を越されてしまいましたが、空間色を理解していない人が多かったと思います。同じことを繰り返しても仕方ないので、立川さんのブログを必ず見てください。立川さんありがとう。総評が遅れてしまったこと深く反省しています。

では、今回のコメントから原石を探したいと思います。
一般的に、形や大きさ、運動や数は、客観的事物自体のあり方に対応する性質(第一性質)と見なされ、色や音、味や匂いは、客観的世界には対応物をもたない主観的存在にすぎないと見なされ、感覚的性質(第二性質)を呼ばれている。この第二性質にあたる色や音などいったものを、哲学では「質料」と呼ばれています。僕は、この質料が空間に及ばす力は計り知れないと最近感じています。産業革命以降、建築界では形にばかりとらわれて、質料的なものが排除されてきたからである。
今回のコメントの中で、色以外に、情景を表現するために音や匂い(香り)を用いて、空間色を表現した人がいました。「建築空間を劇的に変化させることができるのは、色だけでなく、音や匂いも一役かっている」と僕なりに勝手に解釈させてもらいました。
そこで、ライブハウスを取り上げた「おとの表情とスポットライト」の小塚君、バイト先の経験をあげた大塚さん、「音楽は、この世で一度しか体験できない空間色を生む」の小澤君、とび入り参加の3年の松田君、サウナの西沼君、白川郷の高田君の計6人に松永賞をさしあげたいと思います。

京都造形芸術大学・神山義浩

(また遅くなり、すいませんがコメントさせて下さい)

用賀駅から神奈川県に大分近くなる辺りの環八通りに通じる全長1キロに及ぶ道がある。

まだ夏が始まったばかりの頃、この道を歩くために電車に揺られ用賀駅を目指した。

駅を降りて駅前の道を横断し、夕方に向けて人が多くなってきた用賀商店街に入り少し歩くと地面に文字が書かれているのに気付き始める。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

夏の夕暮れの中、百人一首に誘われて歩いていくとすぐに賑わう商店街を抜けて小さな川とその川で休む狸に出会った。その小川には何匹かの鯉がいて、小川を臨む不揃いの石畳はちょっと前に降った夕立に濡れて小川の作り出すモアレにも見えた。

狸と別れると少し大きな道が百人一首の道を横断していた。少し戸惑ったが、向こう側で小さなおじさんがホウキを持ってこっちを見ていたのでこの道の続きを見つけられた。

おじさんはどうやらこの道を守っている人のようで毎日違う人と交代でホウキを持ってこの道を守っていると言っていた。

小さなおじさんと別れて道を左に曲がると今度は百人一首の道は少し入り組んでいた。その頃には、石畳はその一枚のサイズを大きくしていて、並べ方は相変わらずの不揃いなのだけれど、なんとなくその曖昧さが愛嬌にも見えてきてもう狸は居ないのだけれど楽しい気分になっていた。

この入り組んだ道は狭くて、少し大きな一枚板がデコボコしていて歩き辛く、少し歩き疲れたのもあって座って休めるところをしばらく探そうと思った。

でもココは仮にも東京で、なかなか座れる場所など見つからないはずだった。

少し歩いているとこの狭い道には大小様々な"くぼみ"があることに気付いた。そしてよく見るとこのくぼみの先には周りを少しずつ赤く染まる太陽の色に負けじと咲き出した夕顔に囲まれた木製のベンチが鎮座していた。それはまさしく鎮座という表現がピッタリで、生を持ったものであるかのようにも見えて、静かに息を殺しているようにも見えた。そういえば、この道では何もかもが息をしているようで、若しくは生を何かによって与えられているようにも感じられた。

不思議な道の不思議な魅力に魅せられて休むのを忘れ、すこし息をするのも躊躇われた…。

しばらくこの狭い道を歩き進めると、今度は道が広くなっていた。道の脇には大きな木が茂り、その大きな木の大きな枝が大きな屋根となりこの道を包みこみ、夕日が木漏れ陽となって大きくなった道を遠くまで照らしていた。

この大きくなった道ではもう誰とも会うことは無く、ただ生い茂る木々を横目にただ何となく出口に近くなったことを感じながら、ただ先を目指して歩いた。

更に歩き続けると葉と葉が擦れ合う音は段々と人工的な音を混ぜるようになってきた。そして、その音が完全に人口的な音に変わった時、足を止めた。その時、道の両脇に何かの気配を感じ、横に目をやるとそこには大きな大きな鬼がいて、彼らはその人工的な音がする方をずっと睨みつけていた。

すぐに目をそらして下をみるとそこには百首目…

「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」

古きよき時代の道を偲んだ。

『用賀プロムナード』
これは1986年に象設計集団が作った「用賀プロムナード」に初めて行ったときのことを思い出して書いたものです。おしゃれとは違うが、何か道の持つ豊かさや生命感を見たような気がした。この道には何度か通ったのだが、どの日に行っても誰かしらこの道を掃除していたのも印象に残っている。
空間の持つ色とはもちろん視覚的なものだけでは無いはずで、差し込む光の温かさに色を感じたり、生い茂る木々の圧倒的な存在感に色を無意識のうち見ているはずである。そして、息づくものには少なくとも何かしら色を与えることができるような気がしている。

そんな息づいた空間を感じた初めての経験を書いてみました。
(ちょっと記憶が定かでないところもありましたので、細かいところで違っているかもしれません)

だいぶ遅くなって申しわけありません。
僕は修学旅行で行った沖縄の防空壕の中です。現在の防空壕の中は照明がともされ博物館のようになっていたのですが、当時は数えるほどのランプしかなかったと聞きました。その中で僕が一番空間色感じたのが出口でした。外からの日光がとてもまぶしかった。僕は単純に希望の色なのかな。とか思ったけれども、防空壕の出口だからいろいろな状況があったはずで、絶望の天国へと続く光(が創る色)だったのかもしれない。

締め切りに間に合わなくて申し訳ありません。
建築物とは言いがたいですが、空間色を感じたものとして、学校のプールを挙げたいと思います。
今となってはもう入ることはありませんが、真夏の暑い日には、体育の授業でプールに入るのがとても楽しみでした。
水の中に潜ってみると、見渡す限り青い色が広がっていて、その時のすがすがしい清涼感が印象的でした。その青色は、槽の内側に塗られたものですが、まるで空間を埋めている水そのものが青いと感じてしまうような、不思議な空間にも思えました。

ご苦労様
立川君の復習も松永君のコメントもなかなか充実している。2年生の諸君は彼らのコメントをよく味わってください。
ところで、全体を通読してみると確かに立川君が言うように空間色に肉薄するコメントが殆ど0である。僕の説明が悪かったのかみんなの経験が少ないのか分からないが?それで仕方なく松永君は質料に関連づけて音や匂いも良しとしたのかもしれない。立川君の良しとした梨本君のコメントは確かに素晴らしいのだがよく見るとこれは引用のようである。
僕の経験はもちろんみんなの倍もあるので大学時代に気持ちを戻して考えてみると、例えば、コタツにもぐった時の赤外線のオレンジの空間とか(コタツだから建築ではないと思うこと無かれ。コタツも立派な建築だ)、病院の救急外来のところに着いている赤い電球の回りに直径1メートルくらいできる朱の空間とかがぱっと思い浮かぶ。でも純然たる建築と言うとやはりバラガンだったり、ロンシャンだったり、2年生だとまだ経験不足かもしれないが。
空間色ではなかったがみんなのコメント楽しく読みました。いろいろな経験は常に建築のプラスになっていきます。小さい感動を忘れずにメモするとか、絵にするとかそれがデザインへの第一歩です。

コメントを投稿