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第五講お題

今日は物の肌理の話。この字は「はだり」と読むのではないよ。「きめ」と読むのだよ。さてこの肌理を今日の授業で使用した言葉を使って説明するとこうなる。歴史的な建物は「でこざら」、モダニズムは「のっつる」最近は「のっざら」とか「でこつる」になってきた。この傾向を機能面、人間の知覚の本性、コンピューターアルゴリズム、アート等から説明した。
そこで今日のお題。自分の身のまわりで上記4つの肌理から二つの例を探し出して欲しい。そしてそれらはあなたにとって意味があり好ましいものとそうでないものであること。そして何故自分はそうかんじているのか2つを比較しながら説明して欲しい。分量は自由。

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私は水面が好きです。水面は4つの肌理の中の、どれに該当するか考えましたが、水面は周りの状況によってどの可能性もあると思いました。荒々しい渓流は「でこざら」静かな水溜りは「のっつる」風による細波は「のっざら」何かによるうねりは「でこつる」。つまり、水面の例で考えるとすべて好きなのですが、あえて言うなら、この中で一番好きなのは「でこざら」な水面である。岩に当たって水が持ち上げられる様子が「でこ」水しぶきが「ざら」である。どちらも躍動的であり、水の生命感を出している。
好ましいと思えないものは「のっざら」であるおろしがねややすりのようなものである。小さい頃に、遠目はつるつるであるが近くによるとおろしがねのような小さな突起が全面についている塀(そういう塗装なのだろう)があり、それにより手の甲をザザーッとやってしまったことがある。「のっざら」は遠くから見たときと近くから見たときの質感が違うという一種の危険をはらんでいる。

すいません。まだ途中でした。
「でこざら」はそのものの性質が分かりやすいのに対して、「のっざら」は分かりにくい。危険なものと分かっていれば近寄らないが、近づいてから危険だと判断するのは遅い。しかし、近づいてみて初めてそのすばらしさに気づくものもある。
分かりやすさの点を優先すれば「でこざら」が優れていて、サプライズを求めるためには「のっざら」が良いのだろう。
分かりやすいほうが痛い思いはしないと思うのでやはり「でこざら」がいいです。

こんにちは。杉浦早紀です。
私は今回の課題を食べ物に例えて考えてみました。朝ごはんによく登場する、納豆と冷奴です。どちらも大豆製品ですが加工の仕方によって味も形も全く違います。納豆は「でこつる」で、冷奴は「のっつる」です。納豆は大豆を発酵しただけなので大豆の形がそのまま残っていて、納豆菌によってつるつるしています。豆腐は大豆を粉々に砕いてから、にがりによって固めます。それにより四角くつるつるしています。私は豆腐は好きですが、納豆の食感があまり好きではありません。同じ大豆製品なのに好き嫌いがあるのは「でこつる」と「のっつる」の違いではないかと思いました。

こんにちは。大塚です。
好ましいものはのっつるの例として赤ちゃんのほっぺたです(でこざらのような気もしますが)。おうとつが少なく、すべすべした見た目に人は誰でも好感が抱けるはずです。そのすべすべつるつるの感触が気持ちいいと感じられるのはもう本能的な感覚なのかもしれません。ともかく私個人としては、のっつるが好ましい感情にわかりやすく直結するのです。
一方好ましくないものはのっざらの例としてプールサイドです。一見好ましいのっつるかと思えば裸足で立つとざらざらで若干痛い。ビーチサンダルが履きたくなります。滑り止めの役割を担っているのもわかるけど、たいていのっつるの床が多い中、騙されたみたいな気になります。その裏切られた感とざらざら自体の持つ感触が私には好ましくありません。

五名 美恵です。
私は自分の爪の表情から「のっつる」と「でこざら」を発見しました。自分の爪が「のっつる」か「でこざら」かという爪の表情を見ることで、自分の健康状態が把握出来ます。
まず、爪の状態が「のっぺら」なとき、つまり、のっぺらでつるつるしていて、そこに生き生きさを感じることが出来るとき、今の自分は体調も良く、元気なんだと知ることが出来ます。
逆に、爪の状態は悪く、でこぼこでざらざらしている「でこざら」のとき、自分の健康状態は良くないなと感じると同時に、体調を崩さないようにしないと、と気づかされます。
このように、「のっつる」な爪は、健康状態が良い自分を表していて好ましいものであり、「でこざら」な爪は健康状態が悪い自分を映し出しているので、好ましくないものだと思いました。

「でこつる」と「でこざら」の例を見つけました。
それは、ダウンジャケットとコートです。
ダウンジャケットは、ナイロンなどの生地に綿の層が挟まれています。「でこつる」です。
このような構造につくることが出来るのは、綿や空気を挟む生地が肌理細かく、隙間がないから出来るものです。もし、綿や毛で出来ていたら中から綿が出てきてしまい、空気を中に閉じ込めることは難しいでしょう。そして、なんと言っても、隙間風を一切許さないダウンジャケットはとても暖かいのです。
一方、コートは生地が綿や毛など、ナイロンに比べると肌理の粗いもので出来ています。「でこざら」です。そのため、空気の層を挟むことが出来なく、ダウンジャケットよりも暖かさに欠けます。しかも、生地自体が重いからコートも重くなってしまいます。
なので、これから寒い中、自転車で通学する私にとっては、軽くて暖かいダウンジャケット(でこつる)が好ましく、コート(でこざら)は好ましくないと思いました。

僕が与えられたキーワードから思い浮かべたものはゲレンデです。一般的なゲレンデは所々に凹凸(でこぼこ)はあるものの、山の斜面に真っ白な布が敷かれているような、のっぺりしたものに感じます。斜面は激しく転倒すれば擦り剥けるくらいざらざらしています。だから、一般的なゲレンデは「のっざら」だと思います。そして、単純に滑りやすいという理由で「のっざら」なゲレンデは好ましいものです。それに対して、モーグルで使われるゲレンデには遠目で見ても分かるくらいの凹凸があります。やはり前者と同様で、斜面は踏み固められたり、削られたりした結果できたざらざらなものです。よって、モーグル用のゲレンデは「でこざら」だと思います。僕はモーグルをやっている人が転倒して大ケガしたところを見たことがあるので、イメージでは「でこざら」なゲレンデは好ましくないものです。

でこつるとして本棚をあげます。本棚は、見た感じはかくかく四角く角張っていて、でこぼこですが、表面はきちんと磨かれていて、つるつるしていると思います。そして、本の大きさに合っていて隙間無くきちんと入る合理的なところが好きです。また、のっざらとして舗装された道路をあげます。平らで、どこまでも先の見える道路はのっぺりとしていると思います。表面を見ると、ざらざらで転ぶととても痛いです。なので、私は舗装された道路があまり好きではありません。

のっざらの例として紙ヤスリ、でこざらの例として金属ヤスリを挙げる。また自分が好むものは紙ヤスリでそうでないものは金属ヤスリである。
まず紙ヤスリは名前のとおり見た目は紙であり、のっぺりしているが、表面はヤスリだけあってざらざらしている。紙ヤスリは紙であるので折ったり、曲げたりすることで様々な形の物の表面を磨くことができる。また、紙ヤスリのざらざらはあらゆる「もの」を磨くことによって、その「もの」はつるつるになるが、ヤスリ自体もつるつるになり、自分の機能も失うことになる。そういった臨機応変に対応でき、なにかのために自分が犠牲になるというところが紙ヤスリの好きな理由である。
 また金属ヤスリはいろんな形状があり削る面が四角だったり、三角だったりしている。一概にでこぼこしているとは言えないが、目が粗いところなども踏まえてでこぼこと感じた。金属ヤスリは形を変えることができないので、細かい作業には向かない。また大胆に削る時には、断然金属ヤスリの方が効率的であるが、力を入れすぎると余分に削ってしまう。そういった扱いが難しい所は好まない。時には金属ヤスリのような大胆さも必要かもしれないが、自分は紙ヤスリのような、いろんな状況に対応でき、誰かのためになにかができるような繊細さをもつ人間になりたいと思う。

僕は今回の質問の答えに「のっつる」と「でこざら」の2つを取り上げたいと思います。
まず僕の中で好ましいものとして硬式の野球ボール「のっつる」を考えます。ぼくは小学校から高校までずっと野球をやっていました。この硬式野球ボールが「のっつる」に当てはまるかどうかは人のイメージによって違うかもしれません。でも新品の硬式ボールは球体でつるつるしているのでここでは「のっつる」としたいと思います。なぜ硬式野球ボールがぼくにとって好ましいかというと、やはりずっと野球をやってきたのでこの硬式ボールにはたくさんの思い出があるからです。
次に好ましくないものとして軟式の野球ボール「でこざら」を考えます。あまり近くで野球のボールを見たことのない人は硬式と軟式で何が違うんだと思うかもしれませんが、実際に近くで見ると、重さや手触りや素材がまったく違います。この軟式の野球ボールはよく見ると球体ではありますが、でこぼこしていて触ってみるとざらざらしています。なので軟式の野球ボールを「でこざら」とします。なぜこのボールは好ましくないかというと、僕が高校生のときに遊びで軟式ボールを思いっきり投げたら肩を痛めて練習ができなくなったという苦い思い出があるからです。

僕は、「でこざら」と「のっつる」の例に 豆腐(絹)とおからをあげます。どちらがどちらの例かは一目瞭然で、豆腐がのっつるの例で、おからがでこざらの例であります。豆腐というと今の季節だと鍋とかによく使われ、冷奴としてもお酒のつまみにもだされたりします。食感が滑らかで、見た目にも水を含んで光沢を放っていてきれいです。その一方、おからというと大豆から豆腐を作る過程での搾りかす。まあ、豆腐と比べて、見た目はいいとはいえない。彩りもいまいちといったところ。食感はざらざらで、なんか口の中にいやな感じで残るというなんともいえない。皮肉にも栄養はたくさん含まれているとのこと。
昔では、ただ同然で豆腐屋で売っていていたのも、好かれていなかった理由かもしれない。
個人的には、見た目がよく、食感もいい豆腐、つまり「のっつる」がいいと思います。

いちょう切り、半月切り、乱切り、他にもいろいろな切り方があると思いますが、みんなはカレーや煮物を作るときに、人参をどの切り方できるのかなと、晩ご飯を作りながらふと思いました。どの切り方も鋭利な包丁で切るから表面はつるつるになると思います。いちょう切りや半月切りは人参をすべて同じ形に切りすっきりとした「のっつる」となり、見栄えがよく、料理もおいしそうに見えると思います。反対に乱切りは人参を回しながら大体同じ大きさになるように斜めに包丁を入れて、でこぼこした形になります。「でこつる」です。形は不恰好に見えるかもしれないが、切り口が多い分、味がしみ込み易いという利点があります。僕は見栄えがよい切り方よりも食材によく味がしみ込む乱切り「でこつる」が好きです。家庭的な雰囲気がでるところも好きです。
味がしみ込み易いなら、なぜ万人が乱切りにしないのか?料理は味だけでなく見た目を楽しむものでもあるとよく聞きます。料理はおいしいものを作る事が作り手の一番の目的ではあるが、おいしそうに見せる事も大事なのだと思います。建築で建物の機能(味)とデザイン(見た目)をうまく組み合わせることが大事のように。

このお題の答えとして、のっざらな物とのっつるな物をあげたいと思います。
 まず、のっざらな物で思いついたのは、ひげを剃る前の肌です。ひげを剃る前は、男の人ならわかると思いますが、手触りはざらざらしています。一方肌自体は大きな凹凸もなく、のっぺりだと言えると思います。ひげを故意に生やしている人もいますが、ひげがぼさぼさしていると、だらしなく見え、さわり心地も良くないので、自分ではあまり好ましいとは思いません。
 これに対して、のっつるなものには、ひげを剃った後の肌が当てはまると思います。のっぺりな所は、剃る前も後も変わりませんが、剃った後は、ひげのざらざらは一掃され、手触りはつるつるになります。ひげを剃った後のほうがさっぱりするし、好ましいと思います

05t3075a 長野みなみです。
私の考える「のっざら」はじゅうたんである。遠くから見てみるとのっぺり。多くの枚数が敷き詰められていると、どこまでが1枚かわからないぐらいである。しかし、触ってみると、「ざらざら」。その「ざらざら」の感じで、暖かいかどうかがわかるぐらいだ。家具屋さんを思い浮かべてみると、よくわかる。じゅうたんを買おうと家具屋さんに行った。じゅうたんを選ぶ基準は、遠くから見る、「のっぺり」感。それと同時に、「ざらざら」とした手触りも選択基準の中にはいってくる。そして、この時期に暖かいもののひとつとして好ましいので、「のっざら」の例をじゅうたんとあげた。
一方好ましくないものとして、「でこつる」を建設中の建物のガラスと考える。建物としては「でこぼこ」。しかし、ガラスが入っているところは「つるつる」。そのうえ、ガラス注意の張り紙までしている。それほど「つるつる」ということだ。張り紙をしているということは、やはり現場にいる人にとっては、危ないもののひとつではないだろうか。張り紙で危険を回避できる。ということで、好ましくないもので「でこつる」の、建設中の建物のガラスをあげた。

加藤光です。
今回のお題は肌理ということで、ものの表面の状態、質感、感触など表面について考える。そこで自分は、小さい頃から好きな食べ物で、最近はあまり食べていない「プリン」にしようと思う。そして、そのプリンとはよくあるイメージのカップに入ったプリンで、ふたを開けたときの表面について考えていこう。
まず自分の好きな方として、少々値段は高いがとてもおいしい、ケーキ屋や専門店の手作りのプリンを挙げる。これは「のっざら」である。原料も、卵や牛乳など自然のもののみでできており、食品添加物は使われていない。そのためその表面はつるつるとはいかないだろう。肌触り(舌触り!?)がざらざらというわけではないが、表面をよく見ると少なからず凹凸が見て取れると思う。
反対にそこら中に市販されているプッチンプリンなどのような、値段は格段に安いが甘いだけのものは好きではない。そしてこれは「のっつる」である。原料は、卵の代用品にコーンスターチや卵粉などを使い、食品添加物も多く、ゲル化剤でゼリーのように固めてある。それにより表面は、ゼリーのようにつるつるしており、なにか人工的な光沢が感じられる。
このように考えてみると、のっざらとのっつるの違い、つまりざらざらとつるつるという表面の肌理の違いとは、自然にある天然のものを主に使用するか、人工的に作り出したものを主に使用するかの違いであると考える。

僕は「でこつる」と「でこざら」の例をあげたいと思います。「でこつる」と考えるものはガラスのコップで、「でこざら」と考えるのは陶器のコップです。これらは、僕が普段使っているもののことなんですが、ガラスのコップは手に持ってもつるつるしてて持ちやすいのですが、陶器のコップは手に持つとざらざらしてて肌触りがあまり好きじゃありません。さらに、コップを口に運んだときもガラスのコップはつるつるしてて口元に違和感を感じないのですが、陶器のコップはざらざらしていて口元に違和感を感じあまり好きじゃありません。
だから僕は「でこつる」のガラスのコップが好きで、「でこざら」の陶器のコップがあまり好きじゃありません。

例としてあげるのは地面についてです。まず舗装してあるアスファルトの道路は「のっざら」である。アスファルトは人が歩いたり、車輪が転がったりするため、ある程度平らにしてあるから「のっぺり」感が作られている。でもその表面はざらざらしていて、小さい頃アスファルトの道路で転んで、このざらざらにやられていた。また舗装していない砂利道は「でこざら」である。加工されていないので表面はでこぼこしていて、そこにある砂利もざらざらしていた。
アスファルトのほうが歩きやすく快適です。「のっぺり」という肌理が道路らしい表面だと思う。建物らしい肌理も、表面をでこぼこみせたいか、内部との関係からでこぼこしてくるかという場合以外では「のっぺり」がそれらしいと思う。
しかし地面という例をあげてしまったので、これらは2つとも一定の「のっぺり」を持ち合わせている。そうでなければ地面ではない。砂利道は表面をよく見ると「でこざら」だが、地面として見ると「のっざら」ということ。建築で考えたら近くから見ると「でこ」に見えたものが遠くから見ると表面の「ざら」に見えることと似ていると思った。

 僕は古本屋の本棚を「のっざら」、多くの店にある商品棚を「でこざら」として例を挙げたいと思います。

 まず、古本屋の本棚には主に文庫本や漫画(コミック)本がありますが、それらは各コーナーとして同じサイズの本が陳列されています。本棚全体を眺めてみると表面的にはのっぺりしていて、漠然と漫画本のコーナーなら漫画本の本棚、文庫本のコーナーなら文庫本の本棚を構成します。しかし本そのものをとって見てればもちろんそれぞれ違います。僕たちは、漠然としたその本棚から、背表紙を見て本それぞれの違いを判別します。この違いを僕はざらざらと解釈しました。
 
 一方、多くの商品棚を「でこざら」としましたが、例としてコンビニの商品棚を考えてみようと思います。コンビニにはひとつの棚に多くの種類の商品が陳列されています。棚全体をみても、きれいに陳列されているとしてものっぺりとは言えないと思います。本の判型とは違って、商品ごとに大きさも形も異なるため、棚全体の表面はでこぼこといえるでしょう。そしてこの場合も商品の種類によって包装のプリントやデザインが違い、そこが判別要素となります。

 また、僕は「でこざら」である商品棚のほうが利用の面にも好ましく思います。「のっざら」である古本屋の本棚のうち、文庫本を探すときは結構大変です。

僕は、「のっつる」と「でこつる」を、人間にたとえてみました。
まずは「のっつる」。これを女優と考えます。綺麗な女優は肌がなだらかでつるつるしています。そして服装に関してもたまには派手な服も着ますが自分の好みで、でこぼこしている服よりものっぺりしていて落ち着いた服装をした女優のほうが有名、そしてきれいだと思います。個人差もあるとは思いますが、有名な女優を思い浮かべればそう思っていただけるはずです。つまり、のっつるとは人間で言う「美」なのではないかと思います。
やはり、美しい女優(のっつる)は好きですね。

続いて、「でこつる」。これを最近の男のアイドルと考えます。最近、男でもアイドルは、「肌がつるつる(でこつる)。」のほうがカッコイイという流れがきている様な気がします。でもぼくは「でこつる」な男は好きではありません。男らしさが欠けている気がしてなりません。ついでに説明すると、男らしいのは「でこざら」な男優だと思います。かっこいい男優の顔や体は女優とは逆に、のっぺりではなく、でこぼこ(筋肉や、輪郭)していて、ざらざら(髭)しているといっても過言ではないと思います。そのほうが男らしくて濃いイメージなので僕は好きです。

西川友也です。
今回のお題では、毛糸の手袋で「でこざら」と「のっざら」を例えてみました。
まず「でこざら」は滑り止めのイボイボがついている手袋を例にあげてみました。滑り止めがついたでこぼこした手袋だと、ただ暖かいということだけではなく自分が持ってるものを落としにくく、またさまざまな面で効果があります。
一方で「のっざら」は何もついてないただの毛糸の手袋です。普通の手袋だとものを持ったときに滑って落としてしまうことが多いと思います。
よってただの毛糸の手袋より、「でこざら」である滑り止めがついた手袋のほうが僕はいいと思いました。

のっざらとのっつるについて。

のっざらなものとして畳を挙げ、のっつるなものとしてフローリングを挙げる。

肌理という観点からみると、それら二つには意味がある。
畳もフローリングものっぺりしていて、畳のざら感は、稲藁を編みこんでいるから空気を保持していて、フローリングのつる感は、塗料で木目を強調させている。

好ましい方は、やはり畳である。空気を保持することによって温かみが生じ、温もりを感じられるからだ。そうでない方は、フローリングである。木目を目出させるのは良いのだが、いざ触ると冷たさを感じるからだ。

自分がそのように感じるのは、畳の上ではスリッパが不要だという点と、フローリングの床ではスリッパが必要だという点を最近特に感じるからだ。
床仕上げ材として使われているから、畳とフローリングは毎日当たり前のように触れているけれども、肌理について深く考えたことが無いのでいい機会だと思った。

最後に、畳の部屋は暖かい。畳を発明した古の日本人に感謝の意を述べる。

のっざらとのっつるについて。

のっざらなものとして畳を挙げ、のっつるなものとしてフローリングを挙げる。

肌理という観点からみると、それら二つには意味がある。
畳もフローリングものっぺりしていて、畳のざら感は、稲藁を編みこんでいるから空気を保持していて、フローリングのつる感は、塗料で木目を強調させている。

好ましい方は、やはり畳である。空気を保持することによって温かみが生じ、温もりを感じられるからだ。そうでない方は、フローリングである。木目を目出させるのは良いのだが、いざ触ると冷たさを感じるからだ。

自分がそのように感じるのは、畳の上ではスリッパが不要だという点と、フローリングの床ではスリッパが必要だという点を最近特に感じるからだ。
床仕上げ材として使われているから、畳とフローリングは毎日当たり前のように触れているけれども、肌理について深く考えたことが無いのでいい機会だと思った。

最後に、畳の部屋は暖かい。畳を発明した古の日本人に感謝の意を述べる。

05t3016e  小澤 明也です。
今回のお題に対して、「のっつる」と「のっざら」例をあげてみます。
まず「のっつる」の例として、ドコモのD902iをあげます。D902iは大画面液晶をもったスライド型携帯です。その見た目は大画面液晶が形のほとんどを占めるだけあって、のっぺりしています。そして表面にはグロス加工がされており、つるつるした質感となっています。次に、「のっざら」の例としてD902isをあげます。先程D902iと同じではないかと思うかもしれませんが、このD902isにおいては表面をマット加工するというマイナーチェンジを行っています。この変化が携帯のデザインに与える影響は大きく、違った感じの印象を受けます。変更をおこなった理由はというと、ユーザーから「傷がつきにくくして欲しい」、「指紋がつかないようにして欲しい」という意見が多かったからなようです。
これらを比較して考えると、やはり私にとっては「のっつる」の方が好ましく、「のっざら」の方はあまり好ましくありません。何故そう感じているかというと、「のっつる」というものは、世の中にある物質の表面にある凹凸をできるだけ取り除いた人工的な肌理であり、その触り心地はそう簡単には味わえないからです。普段味わうことのできないものを、身近なものといて扱えるのですから「のっつる」のD902iは好ましいものと感じているわけです。それに対して、「のっざら」のD902isの表面は普段からものに対して感じているざらざら感を味わえるので、質感に惹かれるものを感じず好ましくないのではないかと考えました。ということはD902がグロスからマットになった理由として、私が感じていることとは逆のユーザーの意見が多かったということもあるのでしょう。

僕はでこざらとのっざらの例を歯ブラシで考えてみました。歯ブラシの毛先の先端の表面だけ見るものとします。
表面だけ見るとでこぼこでざらざらの歯ブラシとのっぺりしていてざらざらな歯ブラシの2種類があります。のっぺりの歯ブラシは昔からあり、でこぼこの歯ブラシは歯の奥の隙間も磨けるように改良したものです。
僕は歯磨きの時間がすごく長いです。虫歯になりたくないからです。だからのっざらの歯ブラシでは奥まで磨けているか軽く不安になりそうだからあまり好きではありません。だから改良を重ね奥まで磨けるでこざらの歯ブラシのほうが好きです。あとやわらかい歯ブラシのほうが好きです。

今回自分は「のっつる」と「でこつる」をあげたいと思います。着眼点としては触れるということです。例として駅の券売機についてかんがえました。このごろ普及してきた画面のボタンをおす券売機を
「のっつる」、今まで主流のボタンがある券売機を「でこつる」と考えます。「のっつる」だと触ったときの感触が四つのなかでもっとも小さいです。経験として、画面の券売機をおしたときにいつも不安になります。そこで自分は「のっつる」は好ましくないと考えました。に対して「でこつる」であることは「ざら」が入るよりは感触に刺激する度合いは小さいとおもいますが、「のっつる」より格段に高い位置づけになります。券売機ですとどこをおしたのか、ちゃんとおせているのかというところがはっきりするので、自分は「でこつる」が好ましいです。

金 昌植です。自分は意表をつかれるのが好きです。それが物であれ人間関係であれ同じことです。今回の4つの中ではのっざらが当てはまると思いました。物で例えると自分はラグビーをしているのですが初めてラグビーに関わったときどうしてあんな複雑な形をしてのっぺりしていてつるつるしているボールを先輩たちはいとも簡単に投げるこができるであろうかと疑問に思っていました。しかしボールを近くで見て触れてみるとその表面は微小なイボがついていてざらざらしていました。自分の中で楕円はつるつるしているというイメージがあったのであっけにとられました。何故だかわかりませんが・・・。もちろんその結果投げやすくはなっていますし自分自身ボールに愛着がわきます。逆にのっつるやでこざらは嫌いです。のっつる、でこざらであろうと思い込み終わってしまうのはさらに嫌いです。人間関係で例えるとあの人はのっぺりしているからのっつるであろうとか、奥底まで突っ込もうとしないからです。したがって自分はあらゆるものに対してそうではないのではないかと常に期待してしまいます。

私たちの祖先が二足歩行になってもう何十万年も経っていますが、その歩くという事の歴史に対して、靴の歴史というのはエジプト文明のサンダルが起源と言うように意外と浅いものだったりします。
今回僕は、今では外を出歩くのになくてはならないモノ・靴について「でこざら」・「のっざら」の観点から話したいと思います。

「でこざら」…モカシン
「のっざら」…コンバースオールスター

まず「でこざら」について話します。モカシンはサンダルとともに靴の起源と言われる履物である。見た感じはザラザラしているし、触っても皮のザラザラ感がある。
この生々しい動物的ザラザラ感が僕は嫌いで好ましい物とは思ええません。

次に「のっざら」についてです。オールスターはご存知の通りぱっと見ると、のっぺりと言うかクタッとしているのがわかります。しかし触ってみると布のザラザラ感はあるし、鉄やゴムを使うことでの素材のザラザラ感?も感じられます。僕はこちらのザラザラが好きなのですが、それは人工的ではあるけれども長年、色々な人に愛されてきたことが、人工的な物(オールスター)を動物的・人工的を越える何かに昇華させたことが、色々な人に愛され、僕もそれを好ましいと思った理由だと思う。

05T3086F 藤岡佑介です。
僕はのっつるとのっざらについて比較しようと思います。
まずのっつるでは、平らでつるつるな平面で構成されている物として、機械を連想しました。物にもよりますが、大体の機械は人間の使いやすいように、また怪我をしないように、表面にとがった部分がありません。それにぱっとみ機械には光沢があって、実際触ってみてもでこぼこした部分はなく、平面が多いと思います。
次にのっざらですが、例として動物、特に犬を挙げます。犬は寒さから身を守るために、全身を毛で覆われていますが、その毛並みは綺麗に揃っていて、シルクのように見えたりもして、とても綺麗です。しかし実際は体中毛が生えていて、つるつるしてはいません。
 この2つを考えるとき、のっつるとでこつるは完璧で完成された物、のっざらやでこざらは不完全でどこか欠点があるものととらえました。のっつるである機械はインプットされたことを完璧に実行し続けますが、のっざらの動物には失敗をしないものなんて存在しません。僕もよくミスをしたりして、後悔する事も少なくありません。ミスをしない完璧な存在に憧れたりもしますが、そんな完璧な物よりも、どこか抜けていて不完全。でも温かい感じのするのっざらに、とても親しみを感じます。なので、ミスをしないのっつるよりも、欠点もあるけどどこかぬくもりを感じられるのっざらの方が、僕は好きです。

僕は泳ぐことは好きではない。泳ぎに自信がないし異常に疲れるからだ。しかしスキーやスノーボードで滑ることは好きである。泳ぎほど疲れないし、うまく言えないがスノーボードはとても楽しい。なので今回は水と氷(雪)について考えようと思った。まず水はのっつるである。水には固定された形がないが、波や流れ出る水にしてもその姿はのっぺりとしていて表面はつるつるしている。(つるつるしていると言う表現はただしくないかもしれないが明らかにざらざらはしていないし一番近い表現はつるつるだと思う。)泳ぐことが嫌いな僕には水はあまり好ましいものではない。
つぎに氷について述べる。氷はつるつるではあるがのっぺりしているとは限らない。氷はでこつるである。冷蔵庫の中でつくられる氷は四角形の形をしていてでこぼこしている。水は一瞬だけならでこぼこした形にもなるがすぐにもとののっぺりとした形にもどってしまう。しかし氷はでこぼこした形のまま凍ればいつまでもでこぼこしている。僕はスノボやスキーのことが連想される氷や雪は好きである。

05t3009b 浦嶋潤昇

これから示そうとする二つの比較は全くの相反するものではなく、同じ「安全」だが人工的な安全かそうでないかを比較しようとしている。

・「のっざら」・・・タイヤ、スタッドレスタイヤ
私は良く車やバイクを利用するのでタイヤを例に挙げてみる。「タイヤを書いて」と言えば、誰もが円を書くだろう。見た目はのっぺりである。高木さんが「のっざらは危険である」と示していた。自分もその経験があるから良く分かる。しかし、今は「のっざらは安全である」と思うことがある。それは車やバイクのタイヤの場合、のっぺりしているからスムーズに、ざらざらしているからすべらない。実に良くできた「のっざら」であると私は考える。これから冬の季節に入るが、スタッドレスタイヤは「きめの細かいのっざら」で、スタッドレスタイヤのCMを見るとつるつるザクッと止まるタイヤの姿は実に気持ちがいい。
「のっつる」は誰もが「擦り切れたタイヤ」と考えられるのであえてその例は挙げない。

・「でこつる」・・・親父のげんこつ
男子なら親父のげんこつは、一度は食らったことがあるだろう。自分も一度だけ経験がある。悪いことをしたとき、親父は殴ってくれた。げんこつのイメージは名前からしてごつごつして岩みたいな感じである。しかし、岩みたいにざらざらしていない。岩で引っかいたみたいに後味の悪い怪我はしない。親父のげんこつはごつごつして「ドシーン」と衝撃があったことは覚えているが、痛みは覚えていない。たしかにその時は痛かったと思うが、それ以上に悪いことをした自分の心が痛かったことは覚えている。親父のげんこつは「でこ」で衝撃をあたえて「ざら」で思い知らせるのではなく、「でこ」の衝撃だけ与えて、「あとは自分で考えろ」という意味をこめた「つる」の厳しくも優しいが感じがある。
そんな親父のげんこつ(でこつる)、私は大好きである。

上の4つの中から「のっつる」と「でこざら」について例を述べたいと思います。
まず「のっつる」のほうの例として皿をあげたいと思います。皿をというものは料理をのせるためのものであるからだいたいが平らでのっぺりしていて、触るとつるつるしている。
次に「のっざら」の例としてまな板。まな板を少し離れて見てみると白い長方形の壁のようでとてものっぺりしているように感じる。そして、手にとってみるとざらざらしている。
皿とまな板を比較してみると、皿は料理を食べるとき、まな板は料理を作るときに使用する。僕は食べることは好きだが、料理を作ることは苦手である。つまり、ぼくにとって皿というのは意味があり好ましいものだが、まな板はそうではないものだと思う。

鍛治陽介です。僕がでこざらだと思うものはレコードでのっつるだと思うものはCDです。レコードは溝に針が触れることによって音がでるので表面はでこぼこしているし、CDはくわしくは分かりませんがレーザーの反射によって音を出しているので表面は(目で見ると)つるつるしています。しかし表面の形状だけではなくそれぞれによって出される音にもでこざら、のっつるがあらわれていると僕は思います。僕たちが日常的にきいているのはCDです。CDは音がとてもクリアで、音とびも少ないです。それに比べレコードは溝の部分にほこりが入りプチッ、プチッ、と雑音が入ってしまいます。すっと音楽が流れていくCDに比べ、レコードは抑揚のある感じを受けます。一般的にききやすいのはCDだと思いますが、僕はレコードの音の方が好きです。なぜならレコードの方が個性を感じるからです。ほこりによる雑音はほこりの入り方によって変わる、つまりレコード一枚一枚音の鳴り方がちがいます。どれも同じようにきれいに音が出るCDよりも愛着が生まれるはずです。
 建築で考えてものっつるよりもでこざらの方が親しまれるのではないかと思います。

05t3045j 澤田亮です。
私は「のっつる」と「でこざら」について述べたいと思います。まず、のっつるとはスカーフであり、これは肌触りがすべすべしていてとても気持ちがいい。特に絹を使っている高価な物は最高だと思う。次に、でこざらは毛糸のマフラーだと思う。これはスカーフと比べるとよくわかると思うが、表面に凹凸があり、よく見ると細かい繊維(毛?)が出ている。これがまたなんともいえないくらいにチクチクして不快である。以上のことから、私はのっつるのほうが好きである。

 「のっつる」と「のっざら」について考えてみました。
 まず、わたしが「のっつる」だと思ったのは、コピー用紙やレポート用紙などの紙です。どこからどう見ても、のっぺりしていてつるつるしていると思います。わたしは、よくこれで手を切りました。いまでもそうです。なので、これはわたしにとってはあまり好ましくないものです。
 次に、わたしが「のっざら」だと思ったのは、和紙です。遠くからみると和紙はのっぺりしています。しかし近くで見てみると繊維が粗く、コピー用紙などに比べてざらざらしていると思います。私は、小さいとき障子の張り替えをよく手伝っていたので、和紙はとても身近に感じられます。理由は上手く説明できないですが、和紙はとても暖かい感じがするので、わたしにとっては好ましいものです。

今回はひとつの物について考えて、時間によりでこざら→のっつるなどと表情が変わるものを探してみました。
『かき氷』です。できたてのかき氷=でこざらです。氷が削られざらざらし、そしてシロップや練乳がかかっています。そのざらざらがかき氷のおいしい感触です。つるつるの削ってない氷でも水でもだめでざらざらだから良いのです。おいしいです。

一方、時間のたったかき氷=のっつるです。とけて氷から水になり、シロップも水にとけて色も一色になります。かきごおりの感触はなくなり、しゃびしゃびになるから好きでないです。

私はのっつるとでこつるで考えてみようと思います。
これらの例として、私が持っている汁物用のプラスチック茶碗を挙げます。私はプラスチック茶碗を二つ持っています。プラスチックの茶碗はもちろん「のっつる」です。ですが私の持っている茶碗のうち一つは「でこつる」なんです。それは私が何も考えずにその茶碗を使ってレンジでチンしてしまったからなのですが…。その茶碗は一部が熱で溶けてどろどろになったまま固まってしまって、言葉通りでこぼこしています。本当に気持ち悪いです。だから出来るだけのっつるの茶碗をつかうようにしています。
同じ材料で作られていて同じ用途のものなのに、一方を気持ち悪く感じてしまうのは、こうであって当たり前と決めつけて考えていたからだと思います。それなのに実物が違う容姿をしていたのでそれに違和感を感じ、気持ち悪く感じたのだと思います。

 私は「のっつる」と「のっざら」を取り上げ、前者を雪が積もって凍った道路、後者を広い敷地に積もった新雪に例える。私の出身地は雪がたくさん降り、消雪機能がついていない道路は、春が来るまで雪で隠れてしまうことが多い。外出するとき、特に通学するときは、のっぺりしたただの道路を歩くのではなく雪のせいでつるつるになった道路を歩かなければならない。除雪車が通った後はさらにつるつるになり、何度も転んだいやな思い出がある。また小さい頃は冬でもよく外で遊んでいた。広い(のっぺりとした)公園や、家の庭に積もったざらざらした(!?)新雪の上を走り回るのが大好きであった。(新雪はざらざらというよりはふわふわのような気もするが…)
 つるつるしているものもいいが、転んでいたいのはいやなのでのっぺりざらざらの新雪が好きである。

まず、「でこざら」の例として道路、特に水道工事などをした後の舗装された道路をあげたいと思う。工事のために1度穴を掘って、また埋め戻して舗装するのでまったく元通りとはいかないのはわかるが、色が違って、段差があって、起伏があるというのはあまりにもお粗末だと思う。他にも気になるのは歩道と車道の境の段差である。これらの道路は見た目も悪いし、車で通ると振動や騒音が気になるし、自転車で通ると尻は打つわ、かごの荷物は飛び出すわで散々である。さらに、いまや人口の大部分を占めるお年よりは散歩に苦労しているのではないか。つまり、デザインを犠牲にしたにもかかわらず、その形状が機能に生かされていないのである。逆に1つの街の道路を全て均質にのっぺり滑らかに仕上げたらどうだろうか?僕はそうすれば町全体がスマートにしまって見え、交通も快適に行えると思う。無駄な公共事業に使う税金をぜひ道路舗装に使ってほしいと思う。次に「のっつる」の例として同じ交通の視点から、新幹線をあげたいと思う。新幹線の表面は高速走行時の空気抵抗や、騒音を抑えるためにできるだけ起伏や突起をなくすようにデザインされている。しかし、起伏や突起と排除したことで新幹線の外観は物足りなくなったりしただろうか。僕はむしろ、箱型の列車のときよりも洗練されたデザインになったように感じる。つまり、機能を追及した形状がデザインに生かされていると思う。

現代人は目が悪い人が多い。僕もその中の一人である。
そこで目の悪い人にとっては必需品の「コンタクトレンズ」と「メガネ」。
まずは、コンタクトレンズ。
これは、「のっつる」である。コンタクトレンズを使っている人にとってはわかるだろう。これがざらざらしていたらとても目に入れられたものではない。
僕は、昼間はこのコンタクトレンズを利用している。激しい運動をしてもそう簡単には、目から落ちることはない。また、汚れていない限り、目に入れているという感覚もほとんどない。
サッカーなど、動くことが好きな僕にとってコンタクトレンズは好ましいものである。
次に、メガネ。
これは、「でこつる」である。レンズだけならば、コンタクトレンズと同じようにのっつるであるのだが、耳にかけるとこ、鼻にかけるとこ、いろいろなモノが集まってメガネを構成している。メガネ全体で見たらでこぼこしているように見える。
このメガネ、運動には向いていない。今は技術もあがってきて、運動にも対応できるようなメガネもあるのだろうが、とても運動時にメガネをかけようとは思わない。レンズに触ると、指紋がついたりしてしまう。何より、僕はあの装着感(メガネをかけてみたレンズの際)が嫌いである。そんなことでメガネは僕にとって好ましくないのである。

僕は煮込みうどんを作るのに欠かせない調理器具について考えることにしました。
でこざらは土鍋です。土で作られたこの鍋は鍋全体に熱がいきわたり調理時間が短縮でき、かつ保温性に優れているのでいつまでもあつあつでたべられます。だから僕は土鍋が好きです。
でこつるはステンレスの鍋です。一般的に使われているこの鍋は表面を焦げ付きにくいようにコーティングしてあり使い勝手はとても便利です。しかし煮込みうどんを作る際には、煮込む時間もかかるし、そのまま食べることもできません。煮込みうどんをつくる際にはこの鍋は好きではありません。

でこざら・のっつる・でこつる・のっざら
前回の講義は欠席しましたが、コメントさせてもらいます。
「でこつる」と「のっつる」の例をあげる。
「でこつる」例としてシャワーを考える。シャワーから出る水の様子は流動性があり粒として散らばっている。しかし粒を一つずつみたときはつるつる(あくまでもイメージの世界でつるつるしていると感じているだけだが)しているので「でこつる」と考える。
一方、「のっつる」の例として浴槽に溜められた水を考える。溜められた水には動きがなくのっぺりしている。またシャワーの例と同様につるつるしているので「のっつる」と考える。
のっつるは落ち着きがあり安心感があるように思う。浴槽に溜められたお湯は僕を安心させてくれる。特に寒い冬の季節は湯ぶねにお湯を溜めてゆっくりできるお風呂が好きだ。

でこざらとのっつると聞いて、私が思い出したのは大きな木の幹です。
くすのきの幹にはでこざらの皮がついています。
けれども、この皮はつめを立ててみるとペリペリと剥がれ、なかからのっつるとした、新しい木肌が表れます。
のっつるとした木肌が好きで、小さい時にでこざらの皮を爪で剥がして遊びました。
けれどもいっっぱい剥がして、木がほとんどのっつるになってしまうと、なんか興味を失ってしまいます。
でこざらよりものっつるが好きなのだけれども、もっと好きなのは、のっつるを隠し持っているでこざらな気がします。

僕がのっつるだと思うものは、鼻セレブという少し高価なティッシュです。のっざらだと思うものは、ティッシュ配りの人に配られる安いティッシュです。僕は、花粉症で花粉が舞う時期になると、とても苦労します。このとき活躍するのが鼻セレブです。安いティッシュは、使うとざらざらしていて鼻が赤くなってしまいますが、鼻セレブはつるつるすべすべしていてぜんぜん赤くなりません。なので、のっつるが好きです。両方とものっぺりだけど、よく見ると違う。遠目から見ると同じようなものでも、近くで見たり、触ったりするとその違いに気づくので、近くで見たり、触って確かめるなどすることは重要だと思いました。
身の回りのものすべてに、のっぺり、のっつるなどの肌理が計画されていて、それも、それぞれ勘案し適したもので計画すると思います。建築でも、他のものでもそれを決めるのはとても難しいことだと感じました。

 私は、「のっつる」と「でこざら」について、台所にあるもので考えてみました。
 まず、「のっつる」だと思ったものは、ボウルです。ボウルは、料理の材料を混ぜ合わせる時や、野菜を水にさらしておく時など、幅広い用途で使え、使用頻度も高い道具です。そして、その使いやすさは、形が、「のっつる」であることが理由のひとつだと思います。でこぼこしていたら、かき混ぜにくいと思うし、表面がざらざらしていたら洗うのも大変だと思います。ボウルは、「のっつる」であるからこそ、料理をする時に都合がいいのだと思います。
 反対に、「でこざら」だと思ったものは、すり鉢です。すり鉢は、中に溝があるためでこぼこしているし、表面もざらざらしています。これは、ごまや山芋をするときは非常に便利ですが、使用目的が割と限定されているので、その用途以外の時に使いづらい、という欠点があります。また、洗うときにも、でこぼこがあるために丁寧に洗う必要があります。
なので、私にとっては、「のっつる」であるボウルの方が使いやすいため好ましく、逆に「でこざら」であるすり鉢は、あまり好ましくないものであると考えました。

僕の大好きな寿司の材料である、魚で例を探してみました。
のっつるで好ましいものの例としてうなぎを挙げます。うなぎは誰もが好きな食べ物ですが、あのつるつるした肌は食欲をそそります。このようにのっつるなものは敵意を感じず、好感をもてるので好ましいと感じました。
一方、のっつるで好ましくないものの例として、サメを挙げます。サメの肌は「鮫肌」という言葉があるようにざらざらしています。サメのざらざらは凶暴さの表れであり、恐ろしさを感じるので、好きではありません。

私はのっつるを磨き上げた廊下、でこざらを草が生えていたり砂利が敷き詰められていたりする土の道だと考えました。この場合、私が好ましいと思うものはでこざらです。砂利が敷き詰められていれば、転んだときに痛い思いをするかもしれないし、草が当たり一面に生えていたら少し歩きづらいということもあるかもしれませんが、舗装された道路よりも自然であるし、景色が楽しめたりささやかな発見が出来そうだからです。磨き上げた廊下がなぜ好ましくないかというと、滑って転びそうだと思うからです。人の手によって磨き上げられた廊下はきれいだと思います。しかしワックスを塗ったばかりはとても良く滑ります。それだけでなく、人の手にかかっているため無機質さが強調されているように感じます。このため、私はでこざらな道が好ましいと思いました。

のっつる ビニール
のっざら 紙

スーパーやコンビニで買い物した時にもらうあのビニール袋。とても便利なものだ。ただ、冷たいジュースをあの袋に入れていると、ジュースの容器にできた水滴でビニールに引っ付くのが嫌だ。雨の日に着るカッパ。あれを連想させられる。雨の日、カッパを着てて歩いていると、雨が隙間から入ってきたり、汗をかいたりして、カッパが引っ付いてくるうっとうしさ。ビニールが引っ付いてくる感じが気に食わない。

一方、紙というのはいろんなキメがあるが、僕はざらざらしたのがいい。例えば、紙袋。ブランド店はたいてい紙袋を使っている。デザインやブランド品というイメージもあるが、品がでている。方や、パン屋さんでもらうような普通の紙袋(僕の勝手なイメージだが)はいい味を出してくる。ビニールとは違ったしわのつき方も良いし、持った時の感触も落ち着く。

同じ素材でも、便利だと感じたり、うっとうしいと感じる。同じものでも、素材が違うと高級感が出たり、落ち着きを与える。普段気にしていない素材が意外に人に与える印象が大きいのかもしれない。

私は、「のっつる」なものとして鏡をあげます。そして、鏡を私の嫌いなもののひとつとしてあげます。理由は単純で、すぐ汚れてしまうからです。鏡はすぐに指紋やほこりがついてしまうので嫌です。鏡だけでなく、ほかの「のっつる」したものも、傷や汚れが目立ってしまうと思います。その点で「のっつる」したものは、初めはぴかぴかとキレイですが、その「のっつる」感は一時的なものになってしまう気がします。そういう理由で私は「のっつる」したものを好みません。
次に「のっざら」なもので、私の好きなものとしてビデオデッキなどの少しざらつく感じの金属を例にあげます。好きな理由は、前の話の続きになりますが、汚れが目立たないからです。あの金属は初めの状態を維持することができると思います。古くなっても変わらない質感を持てることは重要なことだと思います。だから、「のっざら」なざらつく金属が好きです。

 私は「でこつる」である消しゴムが好きです。新品の消しゴムはデコボコしながらもつるつるで使いやすいです。細かいところなんかも消す事ができます。しかし、使っていくうちに消しカスが出てきます。きれいに消しゴムから離れてくれればいいものをそうしてくれない消しカスがいます。それによって「でこざら」な消しゴムになってしまいます。こうなってしまうときれいに消してくれなかったり、余計なところまで消します。だから私は「でこざら」消しゴムが嫌いです。

のっざら・・・Tシャツ
でこざら・・・マフラー
今回、自分の肌に直接纏う物の質感について考えてみた。

まずTシャツについて。Tシャツは細い糸を編んだ布からできている。近くで見ると繊細な網目を見ることができ、ざらざらであることが分かる。一方、遠くから見ると、網目の繊細さゆえにざらざらとした質感が分からない。実際着ていてもすっきりとした着心地である。

次にマフラーについて。マフラーは毛糸を編んでできる。毛糸はTシャツに使われている糸より太く、ごわごわしている。ゆえに、近くで見ると網目がはっきりと分かり、また、遠目にみても毛糸の網目を認識できる。

分かりにくい表現かもしれないが、すっきりとごわごわ、この違いはどこにあるのか考えた。結論は、編み目のキメの細かさである。Tシャツはきめ細かく編まれているので、すっきりとした着心地が実現し、遠目に見るとその網目がわからないくらいつるつるとした印象である。一方、マフラーは、キメの細かさにはかけている。網目が粗いのでごわつき、遠目でも網目が認識できる。
僕は、Tシャツはほぼ毎日着るが、ごわごわしたマフラーは敬遠しがちである。この例にあるような繊細さと粗さは物の表情や人の好みを変える大きな要素であると思う。

05T3066A 辻 真由子です。
まず「のっぺりつるつる」は、赤ちゃんの顔です。ほっぺたはぷるんとしていて、鼻は低くてのっぺりしている感じで、お肌はつるつるで、かわいいので私にとって意味が好ましい「のっつる」だと思いました。
次に、「でこでこざらざら」は、昆虫です。昆虫は、見れば見る程細かい部分に色んなものが付いていて、でこでこしいし、あんまり触りたくないですけど、触ったらざらっとしてすごく気持ち悪い感じがします。なので、私にとって昆虫は意味が好ましくない「でこざら」になりました。

私はざらざらが嫌いである。例えばパンでいうと、フランスパンやパンのみみのようなざらざらしたものはのどがかわいて嫌いだ。みためは「のっざら」なものといえる。一方、蒸しパンはみためはのっぺり、したざわりはつるつる。中はしっとり。あまりのどもかわかず、小さい子にもお年寄りにも食べやすい。だから私は「のっつる」の蒸しパンが好きだ。

まず、「のっつる」だと思うものとしてホワイトボードをあげます。ホワイトボードは見た目も白く、つるつるしていています。書く時はインクのペンを使うので力をいれずに、普段使っているペンと同じようにさらさらと書く事ができます。また、消す時はほこりが舞う事もなくすぐにまた真っ白なものに戻ります。
次に、「のっざら」だと思うものとして黒板をあげます。黒板も遠くから見るとホワイトボードと同じようにのっぺりしているけれど、近くで触ってみると少しざらざらしているし、チョークの粉が指に付いたりしてしまいます。またチョークで文字を書くので書きにくく力を加えないといけません。そういう点で欠点が多いものだと思います。
よって私にとって「のっつる」であるホワイトボードは好ましく、「のっざら」である黒板は嫌いなものです。

口コミ-同じ情報でも人によって伝え手、受け手によって情報の伝わり方が微妙に異なってしまう。主観的な要素が加わりやすく斑のある点は「でこざら」
新聞-客観的な情報を同時に多くの人が共有でき、一様ではあるが情報を伝えるため合理的・機能的な姿は「のっつる」
インターネット-そこには主観、客観によらず多くの情報が存在する。様々な情報を任意に選択することが出来きる。情報の形はさまざまであるが、同じ情報がインターネットを通じ共有することが出来る点で「のっざら」
TV-情報と映像が組み合わさり同時に同じ情報を得られるようになり、情報量が増大するとともに、同じ情報が与えるインパクトはより強く印象に残るものとなった点が「でこつる」

「のっつる」では情報を得るために機能的・合理的な姿になり、「のっざら」「でこつる」にかけて新たな要素と組み合わさることで情報量が飛躍的に増えたことで様々な変化が可能となった。また「のっざら」「でこつる」のように相反する要素が組み合わさることで流動的に変化するものに。しかし、ツールの進化により与えられる情報量が圧倒的に増えてより機能的な姿になったが、それとともに情報過多とも言える状態では必要な情報を選択し選ぶという必要性が出できたと思います。

こんばんは。
のっつるとのっざらで考えてみました。
地球と地球儀
地球をのっざらと考えました。宇宙空間から見た時、画像でしか見た事ありませんが、物凄くなめらかな球形をしているように見えます。でも日常では、そんな事はまったく感じません。地表より中も、いろんな物質でつくられています。
一方地球儀(安価なもの)はボールのようにまんまるで、それは距離を変えても変わりません。中身は空洞です。
地球の表面だけを似せた「地球儀」のネーミングは最適で、普段眼にすることののできない地球の姿を捕らえていて見ていても飽きないので地球儀は好きです。最先端技術で地球儀を造ったらおもしろそうだと思いました。

 僕が「のっざら」だと思うのは、海岸の砂浜です。砂浜は広くのっぺりした感じですが、裸足で歩いてみるとざらざらしています。しかし、そのざらざらした感触は痛いというわけではなく、歩いていて心地よい感じがします。誰でも一度くらいは、砂浜で走り回ったことがあると思いますが、とても気分が良かったはずだと思います。だから、僕は砂浜の「のっざら」が好きです。
 次に「でこつる」なものの例として河原を挙げます。河原には、小石などがたくさん落ちていて「でこぼこ」していますが、川に近いところの石は水で濡れていて、滑りやすくなっています。僕は子供のころ河原で遊んでいるときに、滑ってケガをしたことがあるので、河原は嫌いな「でこつる」だと思いました。

僕は「のっざら」と「のっつる」について考えてみました。

のっざら・・・無農薬のりんご
のっつる・・・農薬使用のりんご

と考えました。もちろん好きなのは「無農薬のりんご」です。一見のっぺりしているようにみえるが、無農薬のため虫に食われていたりして表面はざらざらです。見た目は良くはないでしょう。しかし、中身は甘味のあるしっかりした実が詰まっています。一方「農薬使用のりんご」は表面に光沢があり、見た目も美しい。しかし、中身は無農薬に比べ甘味がなく、みずみずしさもかけています。
無農薬のりんごをくれたおばあさんに感謝します。

りんごを人間に置き換えるなら、見た目はそこそこ、中身は最高が「のっざら」、見た目は最高、中身はそこそこが「のっつる」といったところでしょうか・・・

上田聖子です。
 私は目が悪く、コンタクトレンズと眼鏡の両方を使い分けています。好き嫌いは人それぞれありますが、私はどちらも愛用しています。この二つは、同じ原理で物を見ることができますが物の肌理という観点から見ると違いがあります。
 私はコンタクトレンズを「のっつる」、眼鏡を「でこつる」と考えました。コンタクトレンズは見た目は目にフィットするように婉曲を描いてのっぺりしており、また手触りもつるつるしています。一方、眼鏡は耳に掛けるところや鼻で眼鏡を支えるためのでっぱりなどがあり、でこぼこしていますが、レンズ自体やフレームはほとんどがつるつるしているように思います。
 このような違いがありますが各々がその特性を生かした形をしており、最近ではニーズに合わせて様々な色もみられます。両方共、私にとって必要なものであり、意味のあるものだと思いました。

自分は雲が「でこつる」の例として挙げる。雲は遠方から見ればでこぼこしていることは明確。近接して見ればいわゆる霧の中で、一面真っ白の中にひとり立っている状況になる。その時雲は白という均質さを持っていることが視覚的に捉えられる。以上より「でこつる」。ただ自分の考える雲の魅力はそこにはない。視覚的な感覚と触覚的な感覚の相違性にある。
一般に人は手が届く範囲のものは触れることでその肌理を読むことができる。しかしそれ以前に視覚的にも捉えている。その際人は経験的に対象の触感をイメージしているのではないか。
例えばコンクリート。今や何処にいてもお目にかかれる身近なもので、触れてもどれくらいざらざらするかは視覚で認知、イメージできる。つまり視覚=触覚、だからコンクリートに触れようとも思わない。逆に先に挙げられていた鼻セレブというティッシュの例は違ってくる。あれは一目に見たとき他のティッシュとは変わりないのだが、触れたとき初めて他との差異、魅力がわかる。つまり視覚と触覚の捉え方が違うわけだ。
最後に雲に戻り、触覚的に捉えてみる。すると無数の水滴が肌で感じられ、「ざらざら」と捉えられる。つまり視覚では「つる」、触感は「ざら」、つまり「つるざら」。同じ距離感だけれども視覚、触覚で表情が違うところ、また視覚に捉われず、触感というあまり使われない感覚が開かれるところが大変面白くて好ましい。

こんばんは牛田 侑希です。前回はありがとうございましたv
物によって、また時と場合と状況、気分によっても、ある肌理が好ましかったりそうでなかったりするので決め付けることはできませんが、でこつるとのっざらについて説明したいと思います。

その前に、つるつるとはきれい、シンプル、冷たい感じ、また極端に熱い感じだと思います。素材的にはガラス、プラスチック、磨かれた金属、大理石とゆうように、ちょっとひやっとするような比熱が大きい素材が多いように思います。ざらざらとは、素材には木、布、毛、岩、汚れなどなどで、ときには不快にさせられることもありますが、なんか暖かく、ぬくもり、なじみやすさがあると思います。そして触感的に刺激があるので感触が得られます。

本題に入りますが、好ましい例に洋式トイレをあげます。これはでこつるです。みればみるほどイビツな形をしています。おおよその人間にフィットするような形で、機能的にも無駄のないものです。表面はというとつるつるしています。どこのトイレもコーティングされた陶器や金属やプラスチックです。これは汚れがおちやすいように、などなどの理由からでしょう。このようにでこにおいてもつるにおいても意味があり、無駄の少ない形などが大変好ましいです。
ちなみに、でこぼこの中でもなめらかなでこぼこが好きです。角のないでこぼこです。講義の1ページ目にでてきた歯のガラスのやつとかとても好きです。

好ましくないものには茶色ダンボール箱をあげます。これはのっざらです。引越しなどには欠かさないものですが、表面のざらざら感がほこりっぽくって好ましくありません。また簡単に傷つきへこんだりしますが、のっぺりしているだけに、その傷やへこみが目立ち好ましくありません。

のっつるのものとして『新幹線』をあげます。新幹線は空気抵抗を減らすために流線型に近い形となっています。初期の新幹線はまさにのっつるです。しかし現代の新幹線はシャープなのっつるとなっています。しかしパンタグラフはでこざらとなっています。表面に凸凹を作ることにより騒音を軽減させています。新幹線は全体としてはのっつる、部分としてはでこざら、この二つがうまく交わり合い素晴らしいものとなっています。うまく融合し、洗練されていっているところが好きです。
でこつるのものとして『普通電車』をあげます。普通電車はまわりに窓やドアなどもありでこぼこしています。しかしその表面はペンキなどで塗られつるつるしています。速度では新幹線には及びませんが趣があり好きなでこつるです。
二つとも好きなものになってしまいました。嫌いなものがなかなか見つかりませんでした。どのような肌理でも意味があり、良さもあるので嫌いなものとくくるのに抵抗があったからです。
遅れてすみませんでした。

京都造形芸術大学・神山

肌理から考える現代建築はなかなか面白い分け方になりそうだなと感じた。
新八代駅前にある乾久美子の『きらり』なんかは「のっざら」になるのだろうし、西沢立衛の『森山邸』は「でこつる」になるのかなと考えた。

それぞれの分け方

○「のっざら」
ある輪郭や形態(全体性)を持っているし、任意の場所から認識できるが、解像度を上げていくとモノの物質性や多様な構成要素を見つけることができるもの。

◇「のっざら」→『山(四季・色)』
信州の山は、特に四季をはっきり表現していてきれいであるが、時期的に現在「山」では紅葉を見ることができ、多様な色を楽しむことができる。
街から山の紅葉を眺めたとき感じるのは目に映る連なる山全体の色。もちろん一様ではないく、様々な色合いを感じ秋を感じるのである。
しかし、例えば登山をしたとして、見えるのは紅葉した葉やその葉を持つ木の色、また落ち葉の色や土の色である。また山の起伏を感じたり、山のにおいを感じるのである。

つまり、「のっざら」とはいくつものレイヤを持っていてそれらのレイヤをそれぞれ部分的にも統括的にも感じることができるモノとも言うことができると考えた。


●「でこつる」
離散的なもの。一つのモノとして完結しているが、集合形式として視覚・触覚的にも離散性をもっているもの。

◆「でこつる」→『山(認識として)』
「でこつる」にも「山」が当てはまると考えた。これは、我々の認識の中での「山」である。
また街から山を眺めたとして、見えている中の山に名前があったとしてもどこからどこまでがその山であるかといったことは誰にも言えない。目印があったとしても「あの辺」ということになる。山の名前を知らない人にとっては見える山はただの山であるのだ。
つまり、我々が山として認識しているのはスカイラインをなぞったようなもので、実は幾つにも分かれているし、何重にも奥行きのある集合形式なのだけれど、我々が認識できるのは、スカイラインであり、登ったとしてもその山の輪郭は逆に全く捉えることのできないものになってしまうのである。


「きらり」も「森山邸」も好きな建築である。そして、山への好みも同じである。もし建築的に考えたとして「でこつる」的な建築はこれからの多様化する生活や情報社会の中でそれらをある種包含するという意味では近いのかなと考える。

早稲田大学・立川創平

遅くなって申し訳ありません。


【2次元⇔3次元で考える】

■でこつる:彫刻:3次元→2次元
■のっざら;絵画:2次元→3次元

僕は美術館に行くのが好きなので、彫刻と絵画で考えた。

まず彫刻は3次元の立体で、ほとんどのものは凹凸を持っている。遠くから見ても「でこ」だと分かる。一方絵画は2次元の面に表現されたものであり、遠くから見ればどれも「のっぺり」としている(ここでは描かれている内容については考えないものとする)。

では近づいてみるとどうだろう。

3次元の立体だった彫刻は、近づいてその表面に意識を集中するにつれ、2次元の面として認識されることになる。その時、その表面は「つるつる」してくる。ここでの「つるつる」は、対象の表面に集中することで、2次元化することを指しているが、実際にも彫刻はつるつるしているものが多い。

一方、2次元の面だった絵画は、近づくにつれ、絵の具の盛り上がりが3次元の立体として認識されるようになる。つまり表面は「ざらざら」してくる。これは図集の写真では分からない。

彫刻を遠くから見た時、ほとんどの場合その面を予測することができる。そして大体はつるつるしている(大理石の彫像を想像して欲しい)ことが想像できるし、近づくとそれが正しかったと分かる。一方絵画は近づくことによって予測不可能な反転を見せる。のっぺりと見えていた絵画が、近づいて作家のタッチを見ることで、圧倒的な空間性を獲得することがある。

僕はその反転、次元的な昇華の体験が好きだ。2次元から3次元への拡張は、非常に意味のあることだと考える。彫刻が嫌いなわけではなく、彫刻を見るときの近づき方が問題なのかもしれない。そのことに気付いてから僕は、彫刻に近づいて、その全体を意識から追いやってから、ゆっくり下がりながら彫刻を見るようにしている。ぜひ試してみて欲しいのだけれど、そうすると2次元の面が3次元の立体に昇華していく、絵画に近づく時のような反転を感じることができる。この時、意識としては、細部から全体に「近づいている」。つまり「でこつる」だった彫刻が、「つるでこ」=「のっざら」という反転を獲得するのだ。

この2次元から3次元への反転は、絵画に近づく時や彫刻から離れる時に限らず、「のっざら」なもの全てが持っているし、「のっざら」の本質だと考える。建築においても、その反転を空間化すれば、利用者の記憶に残る体験が可能になるだろうし、それをぜひ実現してみたいと思う。

おはようございます。坂牛研究室M2の高橋伸幸です。
前々回に続き今回は僕がコメントの批評をさせてもらいます。
そのため坂牛賞とは別に高橋賞を選ばせてもらいたいと思います。

コメントを一通り読ませてもらいました。
コメントは大きく
1.全く違うものを比較する人、
2.似ているものを比較する人、
3.ひとつのものを違った見方をしている人
の3つに分けられます。
この中で僕が魅力を感じたのは3つ目のひとつのものに注目した人のコメントです。違うものや似ているものはそれぞれの差を見つけやすいですが、ひとつのものから違う側面を見つけるのは難しいです。それに挑戦した人の中で3人に注目しました。

一人目は高木さんです。水面の状態を表現していたいました。水面という流動的で変化の多いものしっかりとした自分の見解で分類できていて、なるほどと感じました。
二人目は梅谷君です。カキ氷が時間とともに肌理だけでなく価値も変化していくという考えが興味深かったです。この時間による変化はどんなものにも言えると思います。多くのものは時間とともにその肌理の変化とともに価値が下がっていくと思います。その当たり前なことを再認識させられました。今度は反対に時間が経つことで肌理が変化して価値が上がるものはないかなと考えてみてください。
三人目は梨本君です。もともと物質の表面を区別するを言葉を情報の伝達方法というソフト面に置き換えていました。その梨本君の発想転換は読んでいて引き込まれました。
ということで高橋賞は高木さん、梅谷君、梨本君の3人にあげたいと思います。

「でこざら」「でこつる」「のっざら」「のっつる」のうち今回選んだもの以外の残り2つについても今回それぞれの書いた内容の視点で見たらどんなものがあるのか、ぜひ考えてみてください。新しい発見があるかもしれません。
最後にコメントを批評していて反対に僕が勉強になることばかりでした。次回以降のコメントも楽しみにしています。

かなり遅れてしまい、申し訳ありません。ずっと考えていたのですが「自分にとって好ましくないもの」が見つかりませんでした。
なので、とりあえず好ましいものについて書きます。
僕が発見した「でこざら」。それはモンブラン(ケーキ)です。昨日食べました。
いつもは感触なんてあまり考えないのですが、このレポート(?)を出され、気付きました。
みなさん知っての通り、モンブランは栗のクリームみたいなものが細くきれいに絞ってあります。
これがでこぼこ。
そして、見た目はつるつるっぽく見えるのですが、表面をかるく舐めてみるとざらっとしました。
このモンブランの「でこざら」のどこが好きかというと、表面がでこぼこだけど、そのでこぼこが規則正しいでこぼこな点です。これはたぶん自分の几帳面な性格から、整った形が好きなんだと思います。あと、ざらっとした感触も好きです。この方が何か食べてるって実感があると思います。

でも一番好きなところは味ですけどね。好物です。


好ましい方、好ましくない方、両方書かなければならないのにすいません。

遅くなりました。すいません。
高橋さんのコメントを読んで、同じもので時間の経過につれ価値が上がるものについて考える。
「でこざら」と「でこつる」について比較します。
 「でこざら」なもの - 木。 「でこつる」なもの - 流木。
木や枝が川などに流され表面の皮がとれたものが流木だが、これらは自然の力で時間が経つとともに表面が滑らかになっていく。僕はこの流木の手触りが好きだし、見ていても飽きない。自然なままの木も好きではあるが、質感についてみれば流木は、僕にとってではあるが、時間の経過に連れて価値が上がったものだと考えられる。

「非常に難しい」
これが今回の課題に対するまず初めに浮かんだ答えだった。授業を聞いていてもいまいち4つの肌理の区別がつかなかったし、どうとでも解釈できてしまうような気がしたのが今回の講義中に出てきたいくつかの事例。
 そんな中でも自分なりのモノサシで基準を定めて、世の中にあるものを4つの肌理で分類してみるのも修行。これもひとつの進歩か・・・。
 頭の中で二次元座標をイメージしてみた。第一象限から第四象限。これをもとに一日の生活を事細かに時間をかけて送ってみる。
やはり「トイレットペーパー」が気になる。ふと考えてみると、これは『のっざら』に近いものだろうが、『のっさら』と言いたいところである。しかしそういうと『のっつる』としたほうがよさそうな気もしないでもない。私の思考を混乱させるという意味も込めて『のっざら』としよう。
 トイレットペーパーは非常に肌理を重視してほしいものだ。この肌理ひとつで一日のテンションが決まると言っても過言ではない。そういう意味で、この紙の質は他の紙の質とはかけ離れている気がする。それは人の肌に直接触れるという大きな使命を課せられているからだ。よって肌理も人肌に近いものが採用される。というか必然的にそうなる。人間にとって『のっざら』という質感が最も親しみやすいものなのかもしれない。

 続いて『でこつる』に関してだが、銀歯と照らし合わせてみた。悲しいかな、私はすでに自分の歯を一本失っているのだ。そしてそこには銀歯がある。この銀歯の『でこつる』を感じるたびに、歯磨きの大切さを再認識する日々が続いているが、それと同時に自分の歯を失った悲しみも思い出してしまう。『でこつる』の中には意外と凸凹した思い出が隠れていたりもする。
 肌理には、表面に美しさやインパクトを与える効果に加え、思い出を記憶するメモリーのような効果を持ち合わせていると実感した。人間が常に人肌に近い質感を求めたりするのは、安堵感を与えてくれるのがこの質感だと、肌理のメモリーに記憶されているからだろう。
 
最後に、大幅に提出が遅れてしまい申し訳ありませんでした。

少し遅れて恐縮です。全員のコメント読まさせてもらいました。これだけあると本当大変です。高橋君の分類はなるほどと思うものです。時間によって変化というのは一つ切り口としてあるわけです。そして変るということに着目すれば立川君のように視点によって変るというのもありますね。そもそも凸凹とざらざらというのは肌理あるものの視点距離を変えた場合に見て取れる表面の差異なわけです。そしてこの距離の差による表象の差を問題にしたのがヒルデブラントの『造形芸術における形の問題』です。立川君はせっかくだからよんでみたらどうでしょうか。

さて僕は今回はあえて賞は出しません。また次回を楽しみにしています。次回は坂牛研院生の中尾君が批評します。

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