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第六講お題

坂牛
スケルトンとブラックボックス。

食べ物で言ったら、和食はスケルトンかな?刺身とか。一方フランス料理のソースとかブラックボックスだよね。分からないもの、あのナカミ。

と言う風にあるジャンルの中にある、スケルトンとブラックボックスを探し出して、どちらがどういう理由で価値が高いと考えるか、自分なりのしかし客観性の高い価値判断をせよ。

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02T3094F 山田 匠
風景のスケルトンとブラックボックスについて。

1.カヤバの秋の風景(場)はスケルトン

茅葺の屋根に利用される茅の生息場所カヤバではこの時期、茅狩(カヤカリ)が行われます。刈り取られた茅は、直径訳20cmほどの束にされます。さらにその束も6つ単位で束ねられます。6つの茅束が足となり、頭の部分で、イネ科独特の透き通った白い穂が白髪を紐で結ぶように束ねられ、その体の水分をぬくために数日突っ立っているのです。
この「茅のおばけ」が作業の進行と共に谷一面を覆いつくしていきます。
フランプトンのテクトニックに照らし合わせると
a. 部品…カヤのみ
b. ジョイント…カヤを束ねる結び
c. 構造…カヤの束が互いに寄り合いながら直立する。
d. 地面との関係…もともと生息していたカヤを刈って束にします。他の場所より養分が少なかったら、小さな茅が育つ。逆なら、大きな茅が育つ。だから、「茅のおばけ」は一様な大きさではなくさまざまな大きさでその姿を現します。よって、ディテール、構成要素、構造ともに殆ど同じものであるにも関わらず、布地どころか、谷という地形もあいまって、自然とも人工ともつかない異様ですらある風景(場)を生み出します。


2.自然公園の秋の風景(場)はブラックボックス
 
自然公園であれば、きっと遊歩道があるでしょう。そしてそこには、こんな看板が多分あります。
「遊歩道より中へは、絶対入らないでください」
こういった自然公園の管理はきっとその様な自然をそのまま残そうという意思を持つ人々が行っているのでしょう。
しかし、そういった行為は来園者に顔を見せることはありません。
この点で、自然公園の風景は人工的であるにも関わらず、その人工性を外にみせることはあまりありません。
この点でブラックボックスであると思います。

建築は、人を包み込むものと言う性質のほかに、場を生成する性質もあると考えます。
翻って、カヤバではこの時期、大人数を必要とする作業が展開します。それにあわせて(上述した風景を含め)、さまざまな場も展開します。この点からカヤバもまた建築であると考えます。そのカヤバを通底し、大人数の人々の参加とさまざまな場の生成を可能にしているものが、前述したカヤバのディテール、明快な構成、単一の材料などです。自分はカヤバのような建築物にあまり出くわしたことが無いので、カヤバ(スケルトン)の方に大きな魅力と可能性を感じます。

04T3034K 工藤洋子

スケルトン→短距離走のアスリート
ブラックボックス→ラリー車

両者とも、深夜テレビをつけると目にすることがしばしばある。
共に目指すものは速さ。
前者は洗練されることによって速さを増す。肉体も精神も極限状態までしぼりこまれた彼彼女たちの走る姿、筋肉を見ているだけでその凄さが強く伝わる。
後者はというと、車の性能・ドライバーテク・ナビゲーターの策略や的確な指示など、様々な要素の重なりが速さを造り出す。しかし、走っている映像だけでは全てが伝わってこない。(詳しい人は解るのかもしれないが)のちのドキュメント特集で、車の性能の変化やチーム内の作戦の変貌を見たときに、なるほど。。。と感じ、そこで素晴らしさを知ることが多い。そんなことを知らない人たちは、何で沢山のステッカーをを張った車が砂漠やでこぼこ道を走ってるのだろう?と考えることもある。(かつての私はそうだった)

アスリートたちに多機能性があるとは考え難いが、ラリーのように沢山の人手によって構成されるものと比べると、よっぽどか少ない構成であり少量で平明だと考える。(勿論アスリートは一人だけで頑張っているなど思っていないが。)

ブラックボックスは無限の広がりを許し、一方のスケルトンは無駄を許さず、絶えず洗練し磨きをかけ、前より大きくなることは許されていないという気がする。
増やすよりも減らす方が断然難しいので、私はアスリートやスケルトンな建物の方により魅力を感じる。

04T3083H 峯村亮佑
扇風機→スケルトン
エアコン→ブラックボックス

という見方を思いつきました。扇風機は羽がどういう風に回ってその結果どんな強さの風がきて、首を振ることによってどの方向に風が行くのか、視覚的に見える。一方エアコンは室内機と室外機から成っていて一見しただけではどういう仕組みで風が出ているのかわからない。
価値が高いほうはどちらだろうか。もし壊れてしまった時自分で直せそうなものは扇風機だろう。しかし自分はそこに価値を感じない。エアコンのように色々な機能がスリムに箱に収まって薄い存在感でいてくれたほうが空間もスッキリするし魅力的だと思います。

04T3084F
宮尾 真紗美

スケルトン・・・賞を取った人の論文
ブラックボックス・・・絵本

 賞を取った人の論文は、難しい専門用語がたくさん出てきて一見いやになるもの。しかし、それに携わる人が読むと大事なところ、最も主張したい部分が明確に表れていてとても分かりやすいのだと思う。大切な部分が表面に表れていて、それを保護するように、裏づけの文章が覆っている。スケルトンといえるのではないか。
 逆に、子供向けの絵本など文章が少なく絵や雰囲気で心に伝えてくるものは、大切な部分、最も主張したい部分が明確に表面に表れていない。少ない文章、その強弱、繰り返し、印象的な絵などからその奥にある最も言わんとしていることを探る。 大切な部分が見てすぐには分からないという点で、絵本はブラックボックスといえるのではないか。

 私が考えるスケルトンとは、表情豊かな人で、ブラックボックスとは、無表情の人です。理由は中身を心だと考えてみると、表情豊かな人と話しているとその人の気持ちが大体わかるけど、無表情の人だとどう思っているのか何にもわかりません。私はこの場合スケルトンの表情豊かな人のほうが話やすい感じだと思います。相手の思いがわからないと真剣な話ができないと思います。例えば、会社でコミュニケーションが取れなかったりする気がします。でも、表情豊かすぎも、相手に悪い印象を与えるときもあると思います。例えば笑うところじゃないのに笑ってしまったり。このスケルトン加減は難しいものだと思いました。

04T3017K 岡本澄香

スケルトン → 糸電話
ブラックボックス → 携帯電話

糸電話は2つの紙コップの底を1本の糸でつないだだけの驚くほど簡単な作りである。幼稚園や小学校の工作などで誰もが1度は作ったことがあるだろう。
糸電話は小さな子供でも作れるほどのシンプルな構成(平明性)で、紙コップと糸、たったそれだけの材料(少量性)で作れてしまう。
これほどまでに単純なつくりであるが、片方の紙コップに口をつけて話すと、もう一方の紙コップにちゃんと声が届く。
これは、糸が本来の役割を大きく逸脱した『音を伝える』という役割を果たしているからであり、ここでの糸は多様性を有しているといえる。

携帯電話は一見コンパクトでシンプルなデザインであるが、実際にはあの薄い厚さの中にいくつもの極小さな部品や技術を詰め込まれている。電話をかける、写真を撮る、ラジオを聞くなど多様な機能がついているが、それを構成する部品の種類や技術、構成などは私たちにはわからない。壊れたり調子が悪いときはショップに持っていき修理に出す、あるいは買い換えるしかないであろう。

便利さや実用性からいえば断然携帯電話のほうが上である。
しかし、(特に小さい子にとって)糸電話は人とのコミュニケーションを深めるものであり、規制品が先行する現代で、自分でモノを作るという意義を見出すものとして考えたとき、糸電話には奥が深い価値があると思う。

04T3064A 中井大海

スケルトン→人工知能
ブラックボックス→脳

人工知能といって思い浮かぶのが、ロボットとか。
今回愛知で開かれた万博でも、清掃に警備、接客などの仕事をしてくれるというロボットが紹介された。彼らに積み込まれているのが人工知能であるわけだが、さらに人工知能を深く見ていくと、全てが0と1の配列という、かなりシンプルな構成をしている。またそのシンプルさゆえにウィルスとかで脆く崩れてしまうようにも思う。

対して人間の脳というものは未だにどうなっているのか、解明されていない部分が多い。
脳死した人が再び回復することがあったり、事故で右脳を失っても生きることができたりといった強さのようなものを感じる。このように人間の脳には奇跡とも呼べる可能性が存在する。

最近人の暮らしは豊かになってきたと自分は思っている。この人工知能でも規模を大きくすれば幾らでも、多機能なロボットができるだろう。(そのためには規模を小さくし、容量を大きくしなければならないのだが)しかしそれは昔あった文化の「発展」とは違う感じが自分はする。根本は0と1、それは全く変わらない。根本が認識されているものはどこかで行き詰まってしまう気がする。そんな意味で根本のわからない、ブラックボックスなモノに自分は価値を感じる。

04T3093
山田 卓矢

スケルトン→ピーコート
ブラックボックス→ダウンジャケット
寒い季節になってどうしても目がいってしまうものがアウター。そんなアウターに今回のヒントを得ました。コートにいたってはウールの質感が出ていて、いかにも暖かそうです。コートは素材自体が直接外観となって現れているので素材感から暖かさが伝わってきます。一方ダウンジャケットにいたっては暖かさを生み出している羽毛をナイロン生地で覆ってしまうので、見た目ではその暖かさを伝えることが出来ません。その暖かさを認識するためには実際に試着をして、体でその暖かさを実感するしかありません。しかし見た目以上の温かさに驚くということもあります。見た目以上の機能が備わっているならば、それが驚きという感動となって現れることも考えられます。ブラックボックスには驚きを生む力があるのではないかと思います。そして自分はそこに価値を感じます。

坂牛研究室 m2 深澤宏

 私の考えるブラックボックスは「メトロポリス」で、スケルトンは「都市」です。メトロポリスとは流動する資本の力で内部から膨張し、引き裂かれているものであり、それは都市以上のものである。都市とは共同体であり、秩序立てられており、読み取りが容易なものである。
 例えば東京のような巨大都市は内部構成を読み取ることができない。都市計画が存在せず、資本の力で無計画に膨張している。渋谷や新宿を歩いていると不気味な感覚を感じるときがある。メイン通りから一歩脇へ逸れると全く異なる世界が広がっていて、実際にのぞいてみないと分からないような、不気味さを感じる。そこには理解不可能な、あるいは困難な他者というか、人間のアイデンティティを動揺させるような何かが存在する。ブラックボックスが内部の構成や動作原理が不明確なものを比喩的に表現する際に使われる用語であるとするならば、東京のようなメトロポリスは巨大な無意識を抱えているという点でブラックボックスであると言えるのではないか。
 一方、かつての都市は共同体であり、読みとりが容易であった。近所に住んでいる人はほとんどが顔見知りで、我が家にいるような安心感があった。隣の家では何が行われているかが大体予想できるような居心地のよさを感じる。このような読みとりが容易というか、予測可能という感覚がスケルトンであると思う。
 このように考えるとスケルトンとブラックボックスのどちらが良いかを決めるのは難しい。ブラックボックスは不気味だけど魅力的だし、スケルトンは安心だけど退屈な感じがする。大都市にいるときは故郷が良いと感じるし、故郷にいるときは大都市に魅力を感じる。「ブラックボックス/スケルトン」という図式は「不気味/安心」「意識/無意識」「秩序/混沌」というような多義的な二項対立を含んでいると思う。

04t3072 平田雪絵

スケルトン…ガスコンロ
ブラックボックス…電子レンジ
 ガスコンロは直接火がついて、なべの中身に火がとおって、熱が伝わっていくのがよくわかる。電子レンジは、光がついているだけで、電気なのでその熱が伝わっているのがよくわからない。関係ないけれど、電子レンジは四角い中に物を入れて閉じてしまうから、いかにもブラックボックスというかんじ…?電子レンジではなく、電気コンロも考えましたが、食べ物に火が通っていくのが見えなくて、中がどおなっているかよくわからない、という点で、電子レンジにした。
どちらのほうが価値が高いかというとそれはわからないけれど、時と場合によって違ってく売ると思う。電気はお金がかからなくて楽だけど、時間がかかる。ガスは火が通るのが早いけど、危険である。でも、ガスコンロは料理をしている実感みたいなものがするからいいなと思う。。

04T3094C 山中道雄

スケルトン:キャッチャー
ブラックボックス:バッター

これはピッチャーが投げたボールに対してなんですが、キャッチャーはキャッチャー自身がサインを出して、ピッチャーがボールを投げます。だからそのボールがどういう変化をするのか、ストレートなのか、カーブなのか、はたまたフォークなのか、全てわかって、ボールを受けます。
しかし、バッターからしてみれば、ピッチャーの癖をつかむなどをするしかその変化がわからない。だからブラックボックスだと思う。
同じピッチャーから投げられてきたボールでもこうも違いが出てくる。
実際に自分は野球を何年もしているのですが、バッターとしてはピッチャーの球をある程度予想をしなくてはならないのでかなり難しい。しかし、この難しさが自分にとっては大きな魅力であるし、プロ野球などをテレビなどで見る人たちにとっても大きな魅力であると思う。

04T3001C
赤羽利哉

ブラックボックス → ゆで卵
スケルトン → 生卵

 私はゆで卵を作る場合よくこんなことが頭に浮かぶ。「もうかたまったかな?」もし卵の殻がなく中がどんな風になっているかが分かればいいのにとよく思う。実際、ゆで卵は殻を割ってみるまで中の状態がわからない。そんな殻に囲まれていて中の情報が分からないところがブラックボックスに思える。
 それに比べ生卵は多くの人が中身を知っている。それは今までの経験からくる多くの情報を持っているからである。スーパーの卵売り場にいってこの卵の中身はどうなっていますか?なんて聞く人がいるわけない。明らかに分かるものとしてスケルトンと言えるのではないでしょうか。
 どちらの価値が高いか考えた場合、建築ではスケルトンだと私は思う。しかし、日常の中で気を惹かれるものはブラックボックスのほうが多い気がする。例えば福袋はその良い例ではないでしょうか。安い、お得、そんな曖昧な情報だけでも多くの人は福袋を買ってしまう。その中に何が入っているのだろう?そんな気持ちが情報には負けない何かを与えてくれる。そう考えるとブラックボックスも価値があると思います。


04T3101K 和田隼人
 スケルトン;hhstyle.com原宿本店
 ブラックボックス;hhstyle.com/casa

SANN(妹島和世+西沢立衛)の手により設計された透明なファザードを持つhhstyle.com原宿本店は、まるでギャラリーのように、そして理想のスタイルをイメージするのに最適な空間となっている。透明な外観からは世界中から届けられる最新の家具が展示されている様子が良く見える。この建築物はまさにスケルトン。全面ガラスで中身は隠しようが無い、というか隠す必要が無い。通りからこの建物の流れが自然だし、単純に美しい。
一方、hhstyle.com/casaはというと、「黒い鉄の塊」という言葉がピッタリなブラックボックスな建物。一見したら中身はわからない。(ファザードを一直線に分割するスリットは印象的だが近くに寄らない限り、中身をしっかりと把握することはできないだろう)安藤忠雄がこのような今回のプランでこのようなブラックボックス的な建築物を造る様になったワケは、周囲に住宅が多いので、高さを抑えてコンパクトにする必要があった。将来道路になるかもしれない場所であるのですぐに撤去できるように木造か鉄骨造にしなくてはならなかった。さらに全体が借地で、10年借地権と5年借地権に分かれており5年借地権のところには建物を建てないように、そして斜線規制や日影規制に合わせて形を作っていったところ「折り紙のような軽い鉄板で覆われた建築」が浮かんできたということらしい。
一見しただけではどのようにしてこの様な形になったのかはわかりにくい。しかしそこにはしっかりとしたコンセプト、条件が織り込まれている。
面白いのはこの二つの建物が一軒をまたいでいるだけで、すぐ隣に並んで建っているということ。私はどちらかというとスケルトン的を好む傾向があるけれど、hhstyle.com/casa
にも魅かれる。ただのもの珍しさだけではなく、ブラックボックス的なものにはそれを見た人の感性を惹きつける何かがあるのだと思う。

05TA340F
松永崇

オフィス・会社は機密データなどがあるため、限定された領域であり、ブラックボックスである。しかし最近のオフィス傾向として「見えるオフィス、見せるオフィス」といったコンセプトを掲げてレイアウトされるオフィスが増えてきている。こういうオフィスは、外部からの目というものも考慮されていて、スケルトンである。
しかし、オフィス・会社にある書類を着目して考えてみると、上述したことが逆転する。「見えるオフィス、見せるオフィス」というコンセプトを掲げたオフィスは「ブラックボックス」で、よくあるオフィスは「スケルトン」である。
後者は、各自席が与えられていて、机には書類が山のように積まれているオフィスのことである。机を見ると、誰もが書類であることがわかる。その空間は、一目でオフィスであると感じる。だからスケルトンである。前者というのは、後者とは逆で自分の席をもたないオフィスである。そこには書類などはほとんどなく、すべての情報、データは、コンピュータにデータベース化されている。これは「ブラックボックス」である。さらにこのようなオフィス空間は机と椅子がランダムに配置されていて、誰もが毎日自由に席を選ぶことができ、一見その空間は、オフィスとは思えない。直観的にその空間が何であるのか、理解できないという部分から考えると、「ブラックボックス」である。
 最近このようなオフィス空間について、「ガイアの夜明け」というテレビ番組で特集が組まれていた。オフィス空間を良くしていくには、様々な方法があると思う。今回取り上げたオフィス、オフィスには一見見えないオフィスは、シンプルであるが、そこにはブラックボックスが存在する。つまり、書類をデータベース化する、技術で覆い隠しているという行為がある。データベース化するという行為・技術は、人の環境を豊かにしてくれる。データベース自体が壊れてしまったら、一般の人ではどうすることもできないが、データベースを利用することは、社員であれば、自由にできる。ポピュラーな技術である。だからこのような環境を作りあげる技術、そしてそれにより生まれる空間、ブラックボックスは価値のあるものだと考える。

04T3002A阿部裕子

スケルトンを振り子時計とし、
ブラックボックスをデジタル時計として考えました。
 私が考えている振り子時計とは、振り子が有る辺りから上を見上げると時計の針やゼンマイの部品たちが見えるようなものを想定しています。(時計がある部分が蓋のようにずれ中身が見られるものもあります)また、振り子時計は、重錘の重りが下に降りようとする力をエネルギーとして時計が動き、 長い振り子が左右に振れて時間を刻む様になっています。この様に振り子時計は講義中に出てきたswatchの話の様に中身が見えてちょっとかっこいいと言うだけではなく、振り子と言う機能を使うことで水や砂を利用していた昔の時計から歯車機構や脱進機機構と言う時計からの進化したものとなっています。その進化後、今の時計へと変貌していったと言えるのではないでしょうか。
 次に、デジタル時計がブラックボックスと採り上げた理由を挙げたいと思います。私がデジタル時計といえば、パソコンや携帯、車、ラジカセ、他にも多くのものの中にある時計を連想します。これらは、何かに付属した時計です。付属しているものは、一つが壊れてしまうと全てが使いようのないものになってしまいます。例えば、車の時計が壊れてしまった。修理してもらおう。と考えたとしても、時計だけの為に車を手放す事をする人は少ないのではないでしょうか。この様にたやすく修理に出せない。又は、自分で直せない、取り外せない、などの点から、これらの時計はブラックボックスだと考えました。
 この事から、私は、修理に個別に出せる事や、時計の始まりに大きく関わってきている事、自然の理に適っている造りをしていると思われる振り子時計の方が、価値が高いと考えました。

2年 塚田 裕太
スケルトン→サランラップ
ブラックボックス→アルミホイル

サランラップは、日常でよく使い特にご飯などの余りなどをラッピングしておくことに使われる。サランラップでラッピングをしても中にある物はすぐに何が入っているのかがわかる。また、レンジで温めているときもサランラップは、水滴がラップにつき温まっていると自分で見てもわかる。このような点からサランラップをブラックボックスと考えます。
また、アルミホイルは、中に何が入っているのかがわからず、温めても中の様子を伺うことができない。これはブラックボックスだと思います。
こちらの方が価値観が高いのだ!と決めるのは難しい。なぜならサランラップは様々な所に使えて中がよく見えるが、ブラックボックスは、見えないけれど何が入っているのだろうと食べる人を考えさせたりもする。また高温にも耐えられる。このように、それぞれに良い点を持っているために価値観をつけるのは難しいと思う。

学籍番号を書くのを忘れました。04T3057J塚田です。

04T3004H
石川裕之

スケルトン:写真のネガ
ブラックボックス:デジカメのファイル


…と思う。写真のネガは見ただけで撮った写真はどのような内容であったか知ることが出来る。そのため、写真のネガはスケルトンだと考える。一方、ブラックボックスとしたデジカメのファイルは開いてみないと内容を知ることは出来ない。

どちらが価値が高いか考えてみるが、どちらも魅力的であり甲乙は付けがたい。
スケルトンは授業でも述べられていたが、単位面積当たりの情報量が多い。見えるうちにすべてを詰め込み洗練されている点で魅力的であり価値が高いと考える。しかし、逆に見えている部分のみで入ってくる情報はこれ以上増えも減りもしない。その点で広がりのなさを感じる。
ブラックボックスは、見かけの情報量は少ない。ただ、ブラックボックスの中に入っているものを連想することによる広がりは大きい。もしかしたら、ファイルの中には整理し忘れていた写真が入っているかもしれない。思っていたよりたくさんの写真を保存していたかもしれない。このような想像がブラックボックスの許容量を実際のものの何倍にもする。その点で価値が高い。
しかし、想像といっても完全なブラックボックスでは連想も限られる。ファイルに何も名前が書かれていなかったらまったく想像が出来ない。
なので理想は、授業で先生が設計した照明のような一部がスケルトンのブラックボックスが価値が高いと思う。

04T3091J 安江昌晃

スケルトン→老人
ブラックボックス→幼児

幼児と老人は同じ人であるけれど、その先に広がる可能性は全く異なる。
老人は見るだけでその先の可能性がほとんど無いことやまったく無いことが分かる。しかし、幼児の場合はそれと異なり、これからどうなるのかは見ただけでは分からない。このような点から考えてみると、可能性が無いような老人は見ただけで分かるスケルトン、数多くの可能性が存在する幼児は見ただけでは分からないブラックボックス・・・ということになる。
スケルトンとブラックボックスのどちらの価値が高いかというと、この場合、可能性の有・無で考えることになる。そして、可能性は少しでも多いほうが良いからブラックボックスのほうが価値が高いと思われる。見ただけで分かってしまうスケルトンと見ただけでは分からないブラックボックスでは、この場合にかかわらずブラックボックスのほうが良い。分かってしまうということは、それ以上、考えることが無くなってしまうということであり、たいして楽しみが無い。分からないからこそ考えるのであって、そこには様々な可能性があり、それらを考えることのほうが分かってしまうよりもはるかに楽しく、その行為そのものに価値があると思われる。このような理由でブラックボックスのほうが価値は高いと思われる。

04T3070F
人見祐策

スケルトン:花火
ブラックボックス:万華鏡

主張したい情報が隠されているかどうかという点で考えてみた。花火が夜空に大きく打ち上がると、私たちはついつい花火を見てしまう。花火を見ようと思っていたわけでもないのだがなぜか見てしまう。花火はその美しさ見てもらえなければ意味がない。主張したい情報(美しさ)を隠すことなく人に伝えようとしている。スケルトンだと思う。そこには人の意図的な行為はない。花火が一方的に情報を伝える。万華鏡は一度見ただけでは何かわからない。ただの筒である。のぞきこんで初めて筒の中に広がるたくさんの情報(美しさ)がわかる。「のぞきこむ」という行為を意図的にするからこそ情報を得ることができる。外からではわからない中身の美しさがある。ブラックボックスだと思う。
情報を得るための行為がスケルトンにはなく、ブラックボックスにはあるのではないか。
隠された情報を得たときの喜びの方が大きいので、ブラックボックスの方が価値があるのではないかと思う。

04T3039A
小林 健太

ブラックボックス → 掃除機
スケルトン → ちりとりとほうき
僕は今回の題材を見て思ったことは、とりあえず原始的なものと現代的なものを考えていけばブラックボックスとスケルトンのことになるのではないのだろうかと思いました。その中でも分かりやすかった掃除機とちりとりを例に挙げました。
ちりとりとほうきは見た目通りごみを集める役割のほうきとごみを拾う役割のちりとりとのようにはっきりとわかります。それに対して、掃除機はこの二つの役割を一つにまとめたもので中身がどのようになっているかは外からでは分かりません。そのあたりがブラックボックスと言えると思いました。
価値の高いというのはどこをどのようにとるかによって違うと思いましたが、あえて挙げるとすると便利さであると思います。ごみを取る・部屋を綺麗にするという目的を果たすということには変わりがないわけなので、あとはどれだけ楽にスピーディーにということだけだと思いました。このことから便利という面から考えると掃除機のほうが価値が高いのではないかと思います。

04T3069B 樋川 俊樹

スケルトン・・・人力
ブラックボックス・・・電波

 スケルトン、ブラックボックスは実体そのもので考えればmake of かmake fromの違いで、スケルトンは原料実体のカタチやテクスチャを残して完成されているもの、ブラックボックスはきれいに見せるためなど様々な目的のために加工され出来上がったものであると考えます。しかしこれらは人工作用によるもので、私は自然に作用されたブラックボックスがないかと探しました。
 まず電波について、普段何気なくPCや携帯からメールを送るときに押す送信ボタン。しかし一般の人は送信ボタンを押したことで電波がどう発信され、何処を飛んでいくかは分かりません。一方手紙はポストに入れれば人が運んでくれる。手紙がどの道を通り、相手に送られたかはわからないものの、仕組みが単純な故にある程度スケルトン化されています。電波は目に見えない分、自然とブラックボックスになってしまうのだと思いました。また手紙やメールの話について加えると、そこに書かれた文字も筆跡や紙の使い方など手紙の方が情報量を多くすることが可能でスケルトンだと感じます。
 ブラックボックスは何も考えずに使用すれば便利であったり見た目が良かったりしますが、価値の観点で考えれば、スケルトンはブラックボックスに勝る情報量の多さ、地域性や人間性が出せる、また原料そのもののカタチが浮き出て個性が強く出せる分、スケルトンの方が優位と感じます。

04TA338A 中根雄一

「授業のレポート」
 建築のモノサシのレポートがスケルトンで、某授業のレポートはブラックボックス。建築のモノサシのレポートは、課題内容から、全員のレポート、そしてその評価までリアルタイムで全て見ることができる。そこでは、間違えてしまった文章まで公開される。なので、スケルトン。後から見ることができるではスケルトンではなく、リアルタイムで見ることができるからこそスケルトンだと思う。
 対して、某授業のレポートは出してもどう評価されているのか全くわからない。中にはそれをちゃんと評価しているのか疑わしいときもある。本当かどうかわからないが、学部のある授業ではレポートにカレーの作り方を書いて単位を取った人がいるという話を聞いたことがある。もしわかってて単位をあげていたのなら、ある意味面白い先生だ。ともかく、出したっきりのレポートはブラックボックスである。
 スケルトンであることに平明性が挙げられると思うが、ここでのスケルトンは一見しただけでわかるとは限らない。建築のモノサシのレポートを全く関係ない人が見ても何がなんだかわからないかもしれない。しかし外部からの参加者がいるように、決して身内に閉ざされているわけではない。他にもこのようなスケルトンに古い民家の小屋組がある。天井によって隠されていないその小屋組は、ときに複雑であり、見る人が見たら修理や増築の歴史を読み取ることができる。しかし、何もわからない人が見てもその奥深さを感じることができたり、何かを発見するかもしれない。
 このようなスケルトン、つまり見ただけではわからないかもしれないが、その奥にあるものを隠していない、そしてそれを知りえる可能性があるというものに魅力を感じる。これはブラックボックス的な要素を含んだスケルトンだと思う。

04T3068D 羽田和彦

    スケルトン=前にいる試験監督
 ブラックボックス=後ろにいる試験監督

僕自身、過去にこのようなことはしていないと誓って書きます。カンニングをしようとしている不良少年Aがいるとします。このAにとって、前にいる試験監督はスケルトン、後ろにいる試験監督はブラックボックスであると思います。前にいる試験監督は、Aから見えるのでいろいろな情報を得ることができます。どこにいるか、どこを見ているか、何をしているか、これらの情報からチャンスをうかがってAはカンニングを実行するでしょう。しかし、後ろにいる試験監督からは、テスト中に後ろを向くわけにもいかないので情報はほとんど入っていきません。仮に、後ろで試験監督が眠っていてもAは実行できないでしょう。Aは、「近くにいるかもしれない。」「自分を見ているかもしれない。」といった『かもしれない』という不確定なものによって縛られてしまいます。ブラックボックスです。
 スケルトンとブラックボックス。どちらの価値が高いかというのは、その場合によって違ってくると思います。この場合、Aにとってはカンニングがしやすいのでスケルトンである前にいる試験監督。試験監督からすると、不正を楽に阻止できるのでブラックボックスである後ろにいる試験監督が価値が高いのだと思います。

04T3031E 金 昌秀

スケルトン→子供の表情
ブラックボックス→大人の表情

子供というのは感受性がとても強くて、その場その場で受けた感情を惜しむことなく顔や態度で表現する。そこからその子供が不機嫌なのか、悲しいのか、それともうれしいのかというのが、その表情を見ただけで瞬時に読み取ることができる。
一方、大人というのは特に社会にでるようになると、なかなか自分の感情をありのままに表現することが出来なくなる。例えば上司にぺこぺこして笑顔で会話しているのを見ても、この人が本当に機嫌がよくて笑っているのか、それとも内心ではムカついているのかは見ただけでは判断できない。
今の僕たちの立場から見ると、大人の表情に偏っていると思う。したがって誰もが幼いときに無邪気に笑ったり怒ったりした子供の表情のほうが価値があるのではないだろうか。

04T3005F 泉 宏子

スケルトン=色
ブラックボックス=色彩

 ここでいう色というのは、物体がそれぞれ持つ物体の色(カッツの面色・表面色・空間色など)のことです。これらの色はその情報を隠すことなくただひたすらに色としての情報を発しつづけています。そのため私たちは特別な意識なしにそれを色として認識できます。ある物体を何かで覆ってその色を隠したとしても、その覆った物体にもその物体自身が持つ色の情報があるので、われわれの視界には常に一面に色が広がっていて、色がないという状態にはなりえません。

 これに対して色彩というのは、その色を細かく分類わけしたり、色の起こす現象や仕組みをとくことです。これをするには前に述べた色を経験的に知っていることが前提となります。大まかな色の分類や配色など、中には無意識的に身についているものもあります。しかしそれが起こす現象の裏づけや専門的な分類は、意識的に学ばなければ身につかないことです。例えば、物体の表面の色・透明な色ガラスやカラーフィルムを通してみた色・水を満たしたガラスの容器にインクをたらしたときの色…
などと説明すればたいていの人が今までの経験からそれにあった色を想像することができるでしょう。しかし、それらがカッツの分類によるとそれぞれ面色・透明面色・空間色…
などという名称がつけられていることを経験から連想できる人はいないでしょう。

 以上により、私は色はスケルトンで色彩はブラックボックスと分類できると思います。

04T3019F 小倉 和洋

スケルトンー具象画
ブラックボックスー抽象画

スケルトンの平明性の観点から考えてスケルトンの具体例として具象画を挙げたいと思います。具象画は見たままを絵にしているから、描かれているものは明らかです。
一方、抽象画は何が描かれているか全然わかりません。この抽象画で有名なのがピカソですが(ピカソしか知らないけど・・・)、そのピカソの絵を中学の教科書で見た記憶がありますが、正直何が描いてあるかは全くわかりませんでした。その絵はゲルニカで、戦争をテーマにかかれていると聞いてもどこが?って感じで理解できませんでした。こんな風に抽象画は何が描かれているか知っていても理解できないこともあります。そういうわかりにくさがブラックボックスだと思います。
具象画と抽象画のどちらかがいいと決めてしまうのは難しい。具象画にはわかりやすく、作者の思いがストレートに伝わるが、面白みにかける。抽象画は見る人によって受け取り方が変わり、面白みがあるが、理解しがたい部分が多く、作者のおもいがうまく伝わらない。どちらも長所と短所がありどちらかが必ずしもいいとは限りません。
しかし、建築は美術品と違い住む人が実際に使うのだから、設計者の意図がうまく伝わってないとその建物を最大限に使いきれません。だから建築に関してはスケルトンがいいと思います。

04T3005F 泉 宏子

すみません、価値判断をしていませんでした。

 無意識に情報を得られ、それをより多くの人と共有できる色のほうが価値が高いと思います。

04T3098F 横島 由佳

スケルトン:洋服
ブラックボックス:着物

 洋服はTシャツやズボンなどそれ1枚できれいに着こなすことが出来る。小物とかは使わなくても着こなすことが出来る。あえて小物を使うとすれば、ベルトをつけたりペンダントなどをつけるぐらいである。
着ているものや使われている小物が一目で分かる。だから、スケルトンではないかと思う。
 
 着物は一目見れば帯と着物だけで着ているように見える。しかし、この2つだけで着物が着れるわけがない。着物をきれいに着こなすには着物と帯のほかに肌襦袢や伊達締めや帯枕など10個以上の小物がなくてはならない。これらの小物が使われていることは着物を着ている人をぱっと見ただけではとても分からない。見えないところに多くの小物が使われている。だから、ブラックボックスではないかと思う。
 
 着物は広げてみればただの1枚の布のようなものである。しかし、帯やさまざまな小物を使えば立派な衣服になる。洋服とは違って着物は着慣れている人ではないと簡単には着こなせないものであって、とても奥が深いものだと思う。着物にはどんなきれいな洋服にも勝てるきれいさがある衣服だと思う。

04T3055B 武智 三奈
 スケルトン:兵隊    ブラックボックス:ボディーガード
 普通に思い浮かぶ兵隊の格好といえば、明細の服を着て、ヘルッメットをかぶり、ぶ厚いブーツを履き、銃を背負い、祖国の国旗を身につける、という格好で見ればすぐわかります。ボディーガードの格好を想像すると、スーツを着ていて、銃を隠し持ち、表情を変えず、周囲に溶け込む格好をしています。両者とも、過酷な訓練を積んできたのはかわりなく、それなりの能力を秘めています。それを表面に出すか出さないか・・・。兵隊と戦うのは他国の兵隊です。ボディーガードの相手は誰かわからず、ある意味周りはすべて敵と思っているのかもしれません。
 このことを考えると、私が思うスケルトンとブラックボックスの違いは、フェアとアンフェアでもあるのではないのかな、と思いました。フェアな環境だとスケルトンができるし、スケルトンにすることによって、フェアなことのアピールにもなります。なのでブラックボックスはどこかアンフェアな感じを漂わせています。

04T3073A
藤江将史

 政治というジャンルについて考えてみると、国会がスケルトンで各省庁がブラックボックスであると思う。
 国会はよくテレビ中継をされたり、ニュースなどで放送されたりして、何が議論されているのかがある程度国民にわかるようになっている。このように情報がオープンになっている点で、国会はスケルトンであると思う。
 一方、各省庁は国会と違って、何が議論されているのか、どのようなことを行っているのかなど、詳しい中身が国民にはわからない。各省庁には特別会計というものがある。これは国の国家予算とは別に各省庁に与えられるもので、いわば国の裏の財布である。各省庁が特別会計をどのように使っているかは公開されない。明るみに出たものでは、必要のない施設や道路などの無駄遣いばかり。他にもさまざまな問題がある。国民には実態が把握できないという点で、各省庁はブラックボックスであると思う。
 国民は国民の代表者である政治家が、何を行っているのかを知りたいという願望がある。だから不透明な各省庁(ブラックボックス)よりも、情報公開が行われている透明な国会(スケルトン)の方が良いと思う。

2年 04T3081A 
三浦 淳史

スケルトン→普通のショッピング
ブラックボックス→インターネットショッピング
私は普通のショッピングがスケルトンで、インターネットショッピングがブラックボックスだと考えました。なぜなら、普通のショッピングは町に出歩き自分の目で買いたいものあるいは探しているものを確認できます。そこで欲しいと思ったものや自分の探していたものがあれば迷いなく買うことができます。もちろん、お金の面などもあり、買ってしまって後悔することもあるかもしれませんが、商品自体が違うということはありません。一方、インターネットショッピングは写真や文字でしか情報が得られず、実物を確認することは出来ません。写真の光加減で実物とは全く違う色や質感になってしまう場合があるのです。また、ボタンクリックだけで購入可能だからついつい必要のないものまで購入してしまうのです。ですから、後悔する確率が非常に高いのです。この点からブラックボックスだと考えました。
 価値判断は非常に難しいです。商品にもよりますが、私は実際に確認して購入したい派です。しかし、忙しい方でそのような余裕がない方もいるので、人それぞれだと思います。

04t3008A
牛山由偉

スケルトン:自分
スケルトンとはあるものの中身を強調しているもの、中身に意識が集中するものであると僕は思う。そこで「自分」とはスケルトンであると考えた。自分は自分であり他人ではない。だから、思っていること、考えていること、感じていることなどが自分の中でだけ見えている。ここがスケルトンなのである。言葉にして他人に伝えたりすれば他人も知ることができるだろうけれど、必ずしも本当の中身を他人が知ることができるとは限らない。つまり自分だけには自分の中身が分かっているのである。

ブラックボックス:他人
ブラックボックスとは外形しか見えないもの、形など表面的なものだけに意識がいくものであると思う。そこで自分以外の人がそうであると考えた。先に述べたように自分だけに自分が見えることは他人にとっても同じこと。他人の中身は見えないのである。だからその人の行動や表情、言葉など表面的なものでしかその人を知ることはできない。ここがブラックボックスな部分である。

スケルトンとブラックボックスをこのように考えると、価値の判断は難しい、と言うかできないと思う。だけど、僕は表面的なものよりも、中身の見えるものの方が魅力を感じるし、引き付けられるものがある。

04T3061G 戸堀一真

スケルトン→からくり時計の時計部分
ブラックボックス→からくり時計のからくり部分

 からくり時計は、各時00分になったときに限って、中から人形や鳩などが出てくるのと同時に、音楽がながれたりして時間を知らせてくれるというものである。常に人の目にさらされているという点で、時計部分はスケルトンである。それに対して、からくり部分は、普段は隠れていることが多い。だからこそブラックボックスである。しかし、からくり部分は常にブラックボックスというわけではなく、からくりが動いて中から現れたときには、スケルトンに変化する。

 この例で考えると、価値判断をするのは難しいことである。時計がなければ、それはからくり時計ではなく、単なるからくりになってしまう。逆に、からくりがなければ単に時計である。からくり時計であるためには、どちらも必要なのである。普段は時間を見るという実用的な用途で使われる時計だからこそ、からくりが付くことで、からくりの価値が上がる。さらに、からくりには、たいていは見えないからこそ、からくりが現れたときの驚きや楽しさが相乗されるのではないかと思う。

04T3040D
桜井愛海

 スケルトン     → サーカス、中国雑技団
 ブラックボックス → マジックショー、イリュージョン

サーカスでは、人間が空中ブランコや綱渡り、玉乗りなどで人々を楽しませています。これは、体を鍛え、何度も何度も練習を繰り返して身につけた技ばかりだと思います。一歩間違えば命に関わる大事故につながるものが多いので、中途半端な心構えや並大抵の努力ではできるようにはなりません。サーカスで成功するには、度重なる失敗で挫折をしても、あきらめることなく挑戦し続ける忍耐力と熱い気持ちが必要です。困難を乗り越えて成功した技だからこそ、努力の跡と、肉体の美と、生命の強さが、見ているほうに伝わってくるのではないでしょうか。人間というありのままの姿(形)で、鍛え上げられた肉体と人々を惹きつける大技を披露するサーカスや中国雑技団は、スケルトンであると思います。

一方、マジックショーやイリュージョンでは、ショーの中でとても不思議なことがたくさん起こりますが、その全てに仕掛けがあるのです。お店に売っている手品グッズを使えば誰でも簡単に手品ができますが、テレビでよく見るMr.マリックや引田天功は、一体どんな仕掛けを使っているのでしょうか。それは全くわかりません。しかし、様々な仕掛けを生み出す頭脳と技術には脱帽です。何がどうなっているのかわからないからこそ、わくわくできるマジックショーやイリュージョンは、ブラックボックスであると思います。

どちらもそれぞれの価値を持っていますが、私はスケルトン要素のあるサーカスや中国雑技団のほうが価値が高いと考えます。練習に練習を重ねて身につけた技は、人間の可能性を感じさせてくれます。努力や肉体の美、そして可能性をダイレクトに見ることができるのは価値のあることです。

04T3042A 繁山 和夫
ブラックボックス:録音して聞いた自分の声
スケルトン:録音機を使わずに聞いた自分の声
以上の声の聞こえ方が違うと感じたことは誰でもあると思います。前者は空気の振動を通して聞こえたもので普段他人が聞いている声です。後者は空気の振動と声帯の振動など複数のものの振動による声です。録音機を使わずに聞いた声は、自分だけにしか聞こえないもので、他人が決して聞くことのない声で、これこそがスケルトン的な声だと思います。一般には他人が聞く声や録音して聞いた自分の声が本当の声だと言われますが、ここではある要素を欠いたものとしてとらえることができ、また後者には発声した本人にしかわからない部分もあるということでブラックボックスだと思います。このように考えると前者は純粋なもので後者は不純なものだと思います。

04T3018H
奥野耕司

スケルトン : 俳句
ブラックボックス : 小説

 わずか17文字だけで構成されている世界一短い文学といわれている俳句であるが、一見17文字というと情報量が少なくブラックボックス的感じがするかもしれない。しかし、その中には実に多くの情報が秘められていると思う。俳句からは、17文字に表現されている情報のほかにその背後にある情景、思い、感覚などさまざまなものをを想像することが出来る。
 このように、外観だけでなくその中にこめられている情報を読者が想像し、その世界に入り込める点がスケルトンではないかと思う。
 一方、小説は場面の情景や、登場人物の様子など細かく描かれている。そうすると、想像の入る余地がほとんどなくなり、文章に表現されている情報以外はあまり入ってこなくなるのだ。
 外観で情報を提示し、想像の余地をなくしている点がブラックボックスだと思う。
 このように考えると、私はスケルトンに魅力を感じる。目に見えているもののみでなく、そこに秘められた情報を少しでも多く読み取りことが大切なのではないかと思う。

04T3052H 高柳翔太

 スケルトン…過去
 ブラックボックス…未来

 大学二年になってそろそろ就職のこととか真剣に考え出している今の自分にとって、まず、はじめに浮かんできたのが時間というものだ。過去というものは今まで自分が過ごしてきた時間であるから、自分にとってスケルトンである。しかし未来というものは自分にはわからない。もちろん他人にもわからない。今自分は建築学科に通っているが、もしかしたら明日には何らかの事情でやめているかもしれない。それ以前に明日死ぬかもしれない。しかし、この何が起こるかわからないブラックボックス的要素に僕は魅力を感じる。何が起こるかわからないというのは言い換えれば何でも起こすことができるということ。今は建築学科の一人の生徒かもしれないが、後々ビッグな建築家とともに名を連ねることになるかもしれない。未来というのはどんな可能性ももっている。もちろん過去を完全に否定するわけではないが、過去の栄光や出来事にいつまでもしがみついていたら前には進めない。未来の積み重ねが過去になるのだ。未来はとても魅力的である。

04T3025A
加藤絵梨

スケルトン:ボールペン
ブラックボックス:サインペン
 私が、この課題を見て身の回りでスケルトンとブラックボックスがあるかなと考えていた。その時ふとボールペンが目に入った。見たとおり、ボールペンは透明でインクがどれだけ残っているかが一目で分かる。一方、サインペンは周りが覆われていてインクがどれだけ残っているのか分からない。使っていて次第にかすれてきてインクがなくなったのが分かるのがサインペンだ。そういう点でボールペンの方が価値が高いと思う。

04T3043J 篠澤 朋宏

スケルトン・・・小さい頃遊んだ道具を使わない遊び(ドロケイ、ポコペン、ダルマさんが転んだ等、他多数)
ブラックボックス・・・テレビゲーム

 前者はとても単純だが、それゆえに本質を突いている感じがする。例えばドロケイ。泥棒と警察に分かれて、警察が泥棒を追いかける遊びである。“泥棒になった人が警察にタッチされたら牢屋に入れられる。泥棒が牢屋にいる仲間にタッチすればみんな脱走できる”と言った感じである。ルールはこれ以上ないくらいシンプルで簡単。ルールさえ飲み込めば小学生なら誰でも遊べる遊びである(現在の小学生がドロケイを知っているのかも疑問だけど)
ぱっと見た感じではとてもミニマルだが、遊び方の工夫次第では幾らでもバリエーションが増える遊びでもある。この点からもスケルトンであると判断できる。
当時の僕らも家の中で遊ぶ事はもちろんあった。テレビゲームもしたし、卓上のゲームもした。しかし、圧倒的に現代の子ども達は外で遊ぶ事が少ない。

 一方後者のブラックボックスについてだが、ブラックボックスが見えない分だけ発展性を予期させるという解釈も納得するが、僕の挙げた今回の例では当てはまらない。「子供達が遊ぶ遊び」という観点から見た時、テレビゲームは広がりを持たないブラックボックスになる。その時間は面白おかしく過ごせても、結局後には何も残らない。テレビゲームはテレビゲームなりに楽しいし、僕もよくやっていはたが、終わった後に良く分からない虚無感に襲われるのだ。「何時間も一体何をしていたんだろ?」みたいな感じになる。
しかし、外で友達と遊べば、発見や喜びは家で遊ぶ時に比べて計り知れないものになる。感受性がとても刺激され、色々な感情が飛び込んでくる。五感全てに刺激を与えられるのだ。
外の空気と触れ合えば、“晴れている、雨が降っている”“熱い、寒い”を肌で感じ取れる。
競争して“かけっこ”すれば、風を全身で感じ、転んで擦り傷作れば痛さも感じる。草のニオイや土のニオイもそうだ。小さいころに遊んだ記憶(家に帰るのが遅くなって起こられた記憶とかも含めて)は未だに残っているし、人間が成長していく過程の中で、特に幼少期においては最も大きな影響を与えると考えられる。
 
 以上から、“道具無しで遊べる外遊び”の方が、より豊かで発展性を伴うものとして価値があると判断する。

04T3047A 瀬戸洋平

スケルトン‥‥‥‥‥詰め合わせ
ブラックボックス‥‥福袋

私が思うに、詰め合わせの商品を買うときは袋が透明で中身が見えると思う。例えば、パンやお菓子やバスセットなど様々な詰め合わせがあるが、それらはもともと詰め合わせてあるものや、自分で好きなものを選び詰め合わせとして購入することも可能だ。いずれにせよ買い手の好みで買うことができ、種類も選べるので、価値は高いと思うし、明らにスケルトンであると思う。また、商品の組み合わせにも魅力を感じる。
そして、私がブラックボックスだと思う福袋は長所も短所ももつ難しいものだ。福袋は中身の総額から考えると相当お得である。しかし、あけてみてそれが欲しかったものかどうかには疑問がたえない。価格以前の問題に自分が欲しいものなのかどうかが重要である。そう考えると価値は低いであろう。逆に中身は想像を超える場合も少なくないので見えないという所がやはりおしい。このようなことから福袋をブラックボックスだと思う。

04T3046C 杉山文野

スケルトン:ブログ
ブラックボックス:日記

ネット上で自分の日記を公開する、いわゆるブログですが、これは誰でも見ることができるので、スケルトンであると考えます。ブログは、誰でも見ることができる上に、見た人はコメントを残すことができます。それによって、書いた人も、誰が見て、どういった感想をもってくれたのかがわかります。さらにアクセス解析などを利用すれば、コメントを残していなくても、どんな人が自分のブログを見ていったのかまでわかります。これは非常にスケルトンな関係であると思います。
一方、日記(ここではノート、手帳などに書かれたもので、公開していないものとします)ですが、これは基本的には書いた本人しか読むことができないし、他人はその人の日記というものが存在するかどうかもわかり得ません。もしも何かの拍子で、他人の日記を見てしまうことがあったとしても、書いた本人はその日記が読まれたことには気づきません。これはブラックボックスな関係であると考えました。
そもそもスケルトンというのは、見せることが前提であり、見せる用にできています。つまり極端な言い方をすれば、ブログは、他人を意識して書いているので、多少の脚色があってもおかしくはありません。
逆に日記は自分しか見ない、他人には見せないものなので、ありのままの、素直な自分を出せると思います。だれもコメントは残していってはくれませんが、私は日記というものを自分を見つめなおす道具と捉えているので、日記(ブラックボックス)のほうが価値があると思いました。

04T3086B
村上亜衣

スケルトン;生で見るスポーツ観戦
ブラックボックス;テレビでのスポーツ観戦
例えばサッカー観戦。よくテレビでサッカーの試合が中継されている。テレビを通してみる試合は画面に映される部分しか眼にすることはできない。もちろんカメラはボールを中心にプレイしている場面を追っている。時にはアップで迫力のある映像であったり、全体を移して選手の動きを映したりといった感じで私たち視聴者に映像を届けてくれている。しかし、もちろん試合では映像に映っていないところで絶えずすべての選手が動いているのだ。そういった面でテレビやラジオでのスポーツ観戦はブラックボックスであるといえる。
一方、スタジアムに足を運んでするスポーツ観戦は、近くでプレイを見ることはできないが、テレビとは違って自由にすべての選手の動きを見ることができる。これはテレビでのスポーツ観戦に対してスケルトンであるといえると思う。
実際に今、私はテレビで見るほうが多いが、昔はよくスタジアムに足を運んで試合を見に行っていた。テレビで見るほうがお手軽だし、何度も得点シーンなどを見れたりといいところもたくさんあるのだが、やはり生で見るスポーツ観戦のほうが、選手や他の観客の熱気なども伝わりわくわくできるので魅力的であると思った。

04T3045E 庄司貴弘
 
ブラックボックス―→ドラえもん
スケルトン――――→ASIMO(HONDAの開発した2足歩行ヒューマノイドロボット)
 まず、ブラックボックスとはどんなものを言うのだろうと考えたとき、僕には「中がどうなっているのかを知りたくてたまらなくなるけど、知ることのできないもの」という解釈が生まれました。そこで思いついたのが「ドラえもん」です。あいつはタヌキのくせに日本語(外国語も?)をしゃべりまくっているし、歩行するどころか全力疾走までしやがる猫型ロボットです。さらに摩訶不思議なおもしろ道具を数え切れないほど買い占める経済力を持ち、それらを下っ腹にひっつけている自分より小さくておしゃれなポケットに全て収納してしまうことができる、という超超超リッチなロボットです。しかしながら、残念なことに2005年現在では完成に至ってはおりません。あのメカニズムをもし理解し、手に入れることができれば特許許可局にまっしぐらは間違いなしです。そんな魅力のかたまりであるドラちゃんをブルーながらもブラックボックスとしました。
 それに対して2004年にHONDAから発表されたASIMOは現代の人類の持つ技術を最大限までしぼりだしてつくりだした2足歩行ロボットです。人に動きを合わせることができたり、軽い走りなどは可能であり、つい数十年前から見るとおどろくほどの進歩であると思います。しかし、ASIMOにはしっかりとした設計図が存在します。あの白いbodyの中に何が入っていてどういうメカニズムなのかは既知のものです。むしろ現在ロボット開発に命をかけているような人からすると、こいつをどうやったらドラえもんに近づけていけるのかが頭から離れないはずです。ちょっと例に無理があるかもしれないけど、「仕組みがわかっていて、外からも見えてしまうがゆえに欲望をなすりつけられ、さらなる発展が望まれているもの」をスケルトンとし、その例としてASIMOを挙げました。
 これらの自分なりの考えからすると、あきらかにブラックボックスの方が価値の高いもののように思えますが、ひねくれものの僕はスケルトンに魅力をかんじます。スケルトンなもの、つまり現実に存在し、その価値がはっきりしているものの方が、今この瞬間に利用することができるものであり、どうなっているのかも分からないブラックボックスよりもすぐに行動に移すことのできる魅力的なものであるように思います。新しいものばかりを求めるのではなく今あるものを使ってどこまでいけるのか、そこを追求することが重要だと思います。

02T3045H
田中淳
スケルトンは見えているもの・感じられるものがその物体を作っている実体・本質であり、容易に中身と関連付けることができる。それらは洗練されているともいえるし、つまらないと感じられることがあるかも知れない。競技用の自転車など機能的能力が求められるモノには見つけることができる。しかし、建築においてはその明快さゆえに逆に多様性を生むことができる。例えば民家などはその純粋性ゆえに地方などによっていろいろなバリエーション、また住む人に合わせることが後々可能であるし、個性も持つ。

ブラックボックスといえば不思議な感じをうける。そしてびっくり箱的楽しみがある。先生が挙げたフランス料理のスープなどは含まれている多様なものが作り出す集合として結果的に絶妙な味を生み出す。しかしその味は食べてみるまで分からない。
すでに多様なものを内包「してしまって」いるのである。求められるものが終着であるならブラックボックスは魅力的なこともある。

だが、建築はそうではないと思う。建築が作り出すもの求められるものはそこで終わるのではなくそこからの可能性であり、それを感じさせるからこそ魅力的だと思うことが最近ある。出来上がってそこで終わってはいけないのである。そのため中根さんが指摘したように-見ただけではわからないかもしれないが、その奥にあるものを隠していない、そしてそれを知りえる可能性があるというもの-の存在は歓迎すべきであると思う。

しかしもともとスケルトンの集合がブラックボックスだと思う。そう考えると全てがどこかブラックボックスである。二つの関係はモノがどうあるかべきかと求められる性質によって可変的である。建築においてはしつらえるべきではなく、~になりうるということが重要であると思うのでスケルトンの方が魅力的に感じる。

04T3065K 中島早央里

 一人暮らしをしているとたまに実家に帰った時、友達や両親との会話はいつも以上に盛り上がります。そんな時よく話題にのぼるのが『思い出話』です。私はこの思い出話がスケルトンだと考えました。私が言う思い出話とは昔体験したことを思い返し懐かしんだり、当時の感情に浸ったりということを指します。私はこの友達との思い出話が大好きですが、そう感じるのは私だけではないとおもいます。思い出話の内容はたいてい、自分も会話の相手も一緒に体験した内容がほとんどで、共に同じような記憶を持っています。相手の話に共感し、自分も過去の記憶を思い出して当時の自分や自分がいた環境を思い返す。ただそれだけのことがなぜかとても楽しくて、いつまでたっても会話が途切れることがないのはきっと、過去の自分を相手の中に見ることができて、お互いが心を開いている所にもあると思います。そんな点も私がこの思い出話をスケルトンだと考える理由です。
 これとは違い、親から聞く私の幼い頃のエピソードやそのときの私の様子、また当時の両親の考えていたこと等の話はブラックボックスです。昔々の私に起きた出来事についての話という点では思い出話と違いはありませんが、この場合、私はその事を覚えていないし当時自分が何を考えていたかももちろん分かりません。自分のことなのに親から聞いて初めて知る自分の姿。幼い頃の話なんだから当たり前だとは分かっていても、不思議な感じがします。しかしいくら両親が昔の私の姿を話し聞かせてくれても、すべてを知ることはできないし、両親も気づかなかったような出来事や私の変化がきっとあったはずです。そんなところもブラックボックスだと考えました。
 思い出話と両親から聞かされる話、私にとってはどちらも素敵なものですが、私は両親の話により価値があると考えます。その理由は、両親は私の幼い頃の話をする時ただ淡々と当時の出来事を話すわけではありません。どんな小さな出来事でも大切物を扱うように話してくれます。その話の中に両親の私への想いが込められているように感じることができるからです。

04T3059E  坪井章訓
スケルトン→地元
ブラックボックス→長野
車を運転している時や自転車に乗っているときに地元ならば道には詳しく、今どこにいるのかわかる。また、冬の寒さもどれくらいなのかも今までの経験からわかることである。人によって地元はちがうけれど、自分の地元についてはどれだけ離れていても詳しく説明できる。これは自分にとってスケルトンであるからだと思う。一方、今年きたばかりの長野市では今までのこととがらりとかわることが多く未知のものである。僕だけかもしれないが、一本道を間違えただけでも今どこに通じる道に来ているか見当もつかなくなってしまう。あと、この寒さ。0度をきるのは早すぎだろとも思った。地元ではありえないことばかりで不安にもなる。まだまだ知らないことの多い長野市は二年生にとってブラックボックスだと思った。自分にとって価値が高い方はブラックボックスである長野だと思う。知らないところへいくことで、新しい事を発見でき、今までにない経験もできる可能性を十分に秘めている。今までの経験してきたことも大切だが、さらに経験をふやせるブラックボックスの方が、価値があると思った。

04t3032c
木村 知晃

スケルトンなもの:数学
ブラックボックスなもの:国語
数学は一つしか答えを持たないし、どんなに複雑に見えても実際は簡単な形に変わったりする。ある理論、定義に基づいて展開されるので、理路整然としている。
それに対して、国語は、僕個人の意見かもしれないけれど、わかりにくい。数学だったら答えを見て、解き方を教わればたいてい納得できるが、国語の場合、答えを見ても納得できないことがたまにある。そして、それをわかりやすく説明するすべがない。「ここでこの人は悲しんでいるでしょ、ね、ほら、よく読んだらわかるから。」こんな感じのイメージだ。あくまで曖昧。言葉や文は曖昧なものだし、はっきりそれとわかるように書いてあったら問題にならないっていうのもあるかもしれないけれど、すっきりしていない。そのようなはっきりしていないところがブラックボックスだと思う。また数学だったらグラフなどを用いて、視覚的にわかりやすくしたりすることもできるが、国語はそういうこともできないような気がする。そういった視覚的なわかりにくさも国語をブラックボックスにしている要因だと思う。
学問としては、すべてを理論的に解釈できるという部分で、数学の方がより価値があると思う。というか学問らしい学問であると思う。

04t3080c
松田龍一

スケルトン→ブランドの新品の服
ブラックボックス→古着

ディオールやエルメスのようなハイブランドでなくてもユニクロや無印良品などの服でも、サイズ、着丈、生産国、素材などがタグに詳しく書いてある。実際に手にとって服を着なくても大体どのようなものなのかが分かる。

古着屋で例えばジーンズを見てみる。タグに書いてあるサイズよりウエストが細かったり、ズボン丈が短かったりする。これは前にジーンズを穿いていた得体も知れない人が、たくさん穿いてたくさん洗ったり、裾詰めしたりした結果だ。古着のジーンズは、穿くまでどんなウエストで、どんな丈なのかがはっきり分からない。
これはジーンズに限らず、Tシャツやスウェットなども結構タグが飛んでたりしてサイズが良く分からないことがある。

ブランドの新品の服はタグや値札のところにいろいろな情報があり、視覚のみでもある程度それがどのようなものなのかが理解できる。しかし、古着は視覚で得られる情報が明らかに少ない。

私はどちらかといえばブラックボックスのほうが好きだ。「何じゃこりゃ?」と思い、好奇心旺盛な人ならこれがまず何か知りたいとかき立てられるはず。人は生まれながらに知ることを欲するみたいですし。

04T3009J
内堀 優磨

スケルトン:模型
ブラックボックス:立面図

立面図は一面ではその建築物の外観をすべて把握することはできない。また全ての面の立面図があれば、ある程度の様子はつかめるだろう。しかし、内部の様子などはわかりません。よってブラックボックス的だと思いました。
模型はそれだけで外観や立体感が容易に分かります。また開口部から内部を覗けば内部がどのようになっているかよく分かります。情報量の多い模型はスケルトンだと思いました。
情報量が多いスケルトンに価値があると思います。
建築で考えてもやはりスケルトンのほうがいいと思う。例えばお店では、内部が見えないところよりも、内部の様子が良く分かる所のほうがはいりやすいと思う。よって私はスケルトンに価値を置きます。

T043015C岡野瑛貴

スケルトン:歌手が歌う歌
ブラックボックス:普通の人が歌う歌

なぜ歌手が歌う歌がスケルトンかというと、歌手というのは、自分の歌が人々に知られることを良しとしておりテレビや有線などで曲を流す。しかも普通の人は歌手と直接関わりを持つことはまずない。スケルトンのボックスに入っている対象(歌手)を見物客(普通のひと)が触れることができないのと同じだ。
一方、普通の人が歌を歌う場合はそのほとんどが、自分の満足のためや友達などと楽しむためである。カラオケボックスのような限られた空間で、内輪だけで楽しむことを主としている。ブラックボックスにはいっているかように外からの関わりがない。

情報がどの方向に向けて流れているかによってスケルトンかブラックボックスか分かれるのだと考えた。

04T3035H 久保田敏史

スケルトン - 雑誌の表紙や目次
ブラックボックス - 文章
 雑誌の表紙や目次は本中に書かれている文章をスケルトン化したものである。それぞれの文章を束にして構成される雑誌は多種多様なことが書いてあるため、その内容を知らせるために表紙や目次を使って読み手にメッセージを送っている。このメッセージは読者が読みたいであろう内容の文章を簡潔にまとめ、それをインパクトのあるキャッチコピーのような形で載せられている。読み手の目に留まるように、シンプルではあるが内容が連想しやすく、「読みたい」と思わせるようなメッセージの集合体である雑誌の表紙や目次はスケルトンであると考えられる。私の考えるスケルトンとは強いメッセージ性により知覚されるものであるからである。
 次に、雑誌の中に掲載されている文章がブラックボックスとして考えられると思う。確かに文章を読めば内容が理解されブラックボックスとはならないかもしれない。しかし、私たちはその雑誌の中身を全て読んでいるわけではない。読みたいと思うところだけ読んで他のところは飛ばしているはずだ。そうすると、読まれなかった文章はおそらく二度と読まれることはない。つまり文章の元々の性質がブラックボックスなのではなく、その後の展開によってブラックボックスになっていくものもあるということである。
 このように私は、中身を知ることのできないものがブラックボックスになるというよりは、中身を知りたいと思わないものがブラックボックスになっていくのではないかと考える。スケルトンの持つ強いメッセージ性にもひかれるが、私は知覚しないことで実施上どんどん増えていくブラックボックスのほうが人によって違いが大きいので魅力的に感じる。

03T3804E
3年 鈴木俊祐
ブラックボックス→パソコン自体
スケルトン→パソコンの使い方
これは無数にある中から選んだ一つの例に過ぎません。世の中のすべての人がこれと同じ状況の中で生きている。
パソコンは現代では一家に一台はかならずあり、小学生ですらインターネットなどを簡単に使いこなしてしまう。これはパソコンの使い方が非常にわかりやすく誰でも一目瞭然で理解できる。私はこのような意味でスケルトンだと考えている。一方、パソコン自体のシステムまたは構造は情報技術者などのほんの限られた人間しか理解できていない。私たち一般人にとっては完全にブラックボックスである。また授業でも出たマックも構造自体はスケルトンで目には見えているが実際何がどうなっているのか意味不明である。これは本質的にはブラックボックスのままである。
このように考えると人間にとって重要なのは物事のスケルトンの部分(この例ではパソコンの使い方)だけで本質的なものであるブラックボックスの部分(パソコンの構造あるいはシステム)には価値がないのである。

04T3067F 野原麻衣子

スケルトン→洗濯板
ブラックボックス→洗濯機

共に衣類をきれいにするためのものです。

洗濯板というのは今の時代めったに見ません。今はどこの家にも洗濯機があって、一人暮らしをしている学生でも立派な洗濯機を持っているのが普通です。洗濯物を洗濯機に突っ込んで洗剤をいれたらスイッチを押して、次に呼ばれるまでわたしたちは洗濯機のそばを離れ、別の行動をすることができます。その間、洗濯機の中で起こっていることはなぞに包まれています。ピーッと鳴って洗濯機をあけると洗濯物はきれいになっています。まさにブラックボックスです。

一方、本物(木製)の洗濯板は実際見たことはありませんが、注目したいのは無印良品から出ている洗濯板。17×10の手のひらサイズの商品なのですが、白くてとってもかわいい姿をしています。凹凸がある以外はただの板と言った感じで隠された部分はなく、まさにスケルトンです。旅先で使える洗濯板がほしいという消費者の声から生まれたそうなのですが、昔の洗濯板の水切れに優れたデザインを生かしつつ、素材を曲がりやすいポリエチレンにしていて、より乾燥しやすく衛生的に使用できるようにされています。2004年のグッドデザイン賞やドイツでも権威ある賞を受賞したそうです。

面倒だという気持ちが多くの発明を生み、洗濯機のような電化製品ができたのですが、機能美の蓄積といえる長い歴史の中で生まれた洗濯板のデザインは、実用性と美しさをかねそろえ、洗練されたすばらしいものであると思います。今の時代になって消費者に求められてできたという点でも価値が高いといえるのではないでしょうか。

04T3033A 草間康至

スケルトン…テレビ
ブラックボックス…ラジオ

テレビの場合、そこに流れている情報の内容や、その構成されている要素が視覚によって認知できる。対してラジオは音のみで、そこから情報を得ようとするとき、例えばそのラジオのパーソナリティがどんな人物かは想像するしかない。
「百聞は一見にしかず」という言葉があるように聞いているだけでも多くの情報を得られるが、やはり見ることで得られる情報の方が多いと思います。そういった意味でテレビはスケルトン、ラジオはブラックボックスといえると思います。
そして確かにテレビはラジオより優れていますが、決してラジオがだめだということではないと思います。自分が何か作業していて、テレビの画面を見れずに音を聞くしかない時は音で番組を構成したラジオの方が良いはずです。スケルトンは見ることで目を楽しませます、そしてブラックボックスはそれ以外のことで、例えば、聴くこと、その中身を想像することで見るものを楽しませると思います。私はこのように考えるのでラジオ、“ブラックボックス”の方を好みます。

03T3041J 清水右一朗

スケルトン→紙幣
ブラックボックス→お金で買えるもの

この二つは価値がわかるかどうかという問題である。紙幣というのはたとえば1万円札であれば、1万円の価値がある。それ以上でもそれ以下でもないが、価値というものが客観的に示されている。これはスケルトンといっていいだろう。

一方、お金で買えるものというのはその人の判断によって価値が決まる。たとえば、仮に1万円で購入した暖房器具があったとする。この時期に暖房器具というのは毎日使うほど重宝するものである。もっと言えばないと困るほどのものであろう。それは1万円以上の価値があるのではないだろうか。
しかし、夏の時期に1万円の暖房器具は押入れの一番奥に埃をかぶってむしろ邪魔扱いされるほどのものである。それは1万円の価値どころか全く価値のないものであると思う。

このように一見値札から価値がわかっているかのように思っているものでも使用者や時間やそのた様々な要因によって、実は価値が全く違うものであることがわかる。これはまさにブラックボックスではないだろうか。

また、1万円の値札で本当に1万円の価値があるものは「ブラックボックス的スケルトン」と位置づけることができるのでは??と思いました。

04T3014E 岡崎友也

・スケルトン・・・紙の辞書
・ブラックボックス・・・電子辞書

 言葉を調べようと電子辞書を開くと電池切れで画面が点かない・・・。このような経験を何度もしたことがある。なんとも悲しい気分になるものだ。この瞬間、電子辞書はとたんにブラックボックスと化す。最近ではコンパクトな名刺サイズながら辞書○冊分というような膨大な情報が詰め込まれている電子辞書も多い。つまり外観から中の情報量をうかがうことは困難である。
 紙の辞書はどうか。たいていの場合それらは分厚い。中身の情報量に比例して厚さも増していく。言い換えれば辞書を構成している各コンテンツ(単語や用語)が骨組みとなって辞書のボリュームをつくり上げている。そして紙の辞書のメリットとしてよく言われていることは、単語を検索する過程で必然的に目的の単語の前後のそれにも目が行くことである。英和辞書の場合、派生語が載っていることが多い。ここで重要なのは、単語とその意味まで視界に入ることだ。電子辞書の場合にもリスト形式で上下の単語は出てくるが、意味は個別に検索しなければならない。最近の電子辞書は紙の辞書の性質に近づいているのかもしれないが、やはり紙の辞書の情報の開放性には及ばない。
 ブラックボックスよりもスケルトンのほうがより多くの情報を発信している。様々な辞書が詰め込まれた電子辞書のほうが情報量としては多いかもしれないが、実際に私たちが得るものとしては紙の辞書のほうが多いような気がする。だからスケルトンのほうが優れていると思う。

03T3092C
三森 翔


スケルトン:生演奏の楽器の音
ブラックボックス:スピーカーから出る楽器の音
今回のレポート課題も音楽を聴きながら書いた。
生演奏は自分が会場に足を運び、バンドやオーケストラの演奏を見て聞くことができる。よってどのような楽器が使われていて、それらの楽器からの音を聞きわけることができる。ダイレクトに音を聞くことができると言う意味でスケルトン。
スピーカーから出てくる音というのはコンポという媒体を通して音を聴き手に届ける。どんなに大音量にしても実際に使っている楽器は細かい部分まではわからないし、スピーカーの性能の違いにより聴いている音はまったく違うものになる。この意味でブラックボックス。
生で音を聞くというのは臨場感があり楽器本来の音を聞ける点で価値がある。一方スピーカーらの音は自分が好きなときに好きなだけ聞くことができる点で価値があると思う。


建築で考えてみる。自分が気に入った建築があるとする。
実際に見に行くとその建築の色や素材感などの細かな部分や建物内や周りの空間を感じ味わうことができる。→スケルトン 本やインターネットで気に入った建築を見ることはすぐにできる。しかしその場の雰囲気や細かな部分は写真では判断できない。→ブラックボックス
①の例と同じように生で見ることと媒体を通してみるのでは感じ方が変わってくると思う(いい意味でも悪い意味でも)。松本にあるまつもと市民芸術館を見に行ったとき、写真や本で見たときのガラスからこぼれてくる光と、実際に見に行ったときの光とは全く違った。いい意味で裏切られたと思った。

どちらの例にしてもスケルトン・ブラックボックスの2つとも価値は大いにあると思う。しかし直接目で見て、肌で感じて経験することは価値があると思う。感じることによって得られるものは大いにあると思う。よってスケルトンのほうに価値をおきたいと思う。

 ふわぁぁぁぁ、今日も徹夜です。研究室生活とっても大変です。が、有意義でもあります。今日は夕方からゼミです。ゼミが終わったら、何かおいしい物を作って、ボジョレー開けようかな。
 さて、スーパーマーケットへ行って商品を買うとき、何をみて買いますか?私は、生鮮食品を買うときは、ラベルをしっかり見ます。例えば、『黒毛和牛 ステーキ用、○○円』、鮮魚コーナーでは、『日本産 アサリ、バターソテー用、○○円』。どっちもうまそう!私は、あまり海外産のは買わないようにしています。ポストハーベストとか、BSEとか、あれだけ話題になると、すこし敬遠してしまいます。海外産のものは、ブラックボックス的。国産だと比較的スケルトン的であると感じます。でも、最初にあげた二つは、ラベルによると国産のものらしい。では、それらはスケルトン的だから・・・。でない事もあるそうです。まず、『黒毛和牛』。これは、国内産と表記していない限り、海外に住む黒毛和牛の肉の場合があるのです。そして、『日本産 アサリ』。これは日本産とついているから・・・といって、安心できません。海外でとってきたアサリを再び国内の浜辺にばらまいてその後収穫すると、『日本産』という国籍を取得することができる方法があるとの事です。
 つまり、私たちは、嘘ではないかもしれないが、スケルトンであるように見せたものに完璧にやられてしまっている。それは、ブラックボックスの表面についたスケルトンな皮膜である。ならば、私はいまスケルトンな素材のマウスを使用しているが、それも、中の基盤が見えたからってなんぼのもんじゃい!見えているものが本質か?いいたくなる。そこで、極度にブラックボックス化されたもののもつ魅力をいいたい。もうすぐクリスマス。そのプレゼントが、スケルトンな包装で全部見えていたら、なんかつまらないとはおもいませんか?中身がみえないからこそ、楽しみが増幅される。さらに、お化け屋敷。これも、極度なブラックボックス化されることで恐怖心と好奇心を引き立てる。
 どちらの場合も戦略的に利用されて活かされている。しかし、人を直感的に思考停止に追いやる事の出来るスケルトンは、恐ろしい一面をもっているのではないでしょうか。

04T3087A
村瀬 涼介

スケルトン⇒男心
ブラックボックス⇒女心

これはぼくが男だからこういえるのだが、自分と同じ性を持つ男性の考えや価値観、選択のしかたとかも大体は理解できるし予測もできたりするからスケルトン的。しかし女心というのはどうも理解できない部分が多いしつかみづらい・・というと世の中の女性に対して罵声を浴びせられそうなのであまり深くは言えないが、これはブラックボックス的。ただ恋愛においては、相手の心が、つまり女心がわからない、予測できないからこそ恋愛は楽しいのだと思う。そういう観点から見ればブラックボックス的な女心のほうが魅力的だ。

03T3080K 平岩宏樹

スケルトン→○○100%ジュース
ブラックボックス→○○味の炭酸飲料

どちらも皆さん飲んだことがあると思います。スーパーに行くと100%ジュースや様々な味の炭酸飲料なんて大量にある。
さて、ここで100%ジュースと炭酸飲料を比べてみる。100%ジュースは成分そのまま。オレンジジュースならそのままオレンジ。オレンジが入っている。そこには裏切りもないし、パッケージを見たら大抵大きな文字で「オレンジ100%」と書いてある。
一方、炭酸飲料の○○味ってのは私にしたらよく分からない。何が入っているのだろう。とりあえず、その味の果物は入っているのだろうか??炭酸だけは絶対に入っているのは分かる。よく考えたら入っているものを私は炭酸しか当てることができない。ファンタオレンジを例に取ると、成分は果糖ぶどう糖液糖、香料、酸味料、ビタミンC 、カロチン色素と書いてある。と、言うことはファンタオレンジにはオレンジは入っていない。あの色もオレンジの色じゃなくてカロチン色素の色だ。これは裏切りだ。オレンジ味なのにオレンジが入っていない。でも、たしかにファンタオレンジを飲むとオレンジを想像する。オレンジをまったく使わずにあのオレンジの味を演出しているのだからコカコーラ社はなかなかのものだ。私たちはファンタオレンジを買うとき、そこには果汁ジュースとしてのおいしさを追求していない。あのシュワシュワ感と風味、のどごしを求めている。
そう考えたらファンタのあの味はファンタとしてあるべきで、オレンジ味を語りながらオレンジが入っていないことに罪はない。訳の分からないブラックボックスを飲んで架空の味を想像し、その飲み物の味として知覚され、刷り込まれている。そんな力を持つこのブラックボックスはすごい。
しかし、私は訳の分からない炭酸飲料より、100%ジュースのほうが騙されていない気分になるので100パーセントジュースのほうが好きだなぁ。

02T3018A  片岡 篤史

“キョウカイをはかるものさし”の範疇であることより、そのキョウカイを「修理」というフィルターに置き換えて考察をしたいと思います。

「機械」の修理と「人間」の修理(=治療)を対象に考えると、スケルトン的なものは「機械の修理」で、ブラックボックス的なものは「人間の修理」になると考えます。

機械の修理はその原因や箇所によらず、多くはカバーを取って検電器にでもかけてショート部分を探して部品交換したり、プログラムの異常・バグを見つけて修正する程度ではないでしょうか。つまり、「修理」というキョウカイをまたぐ際の行動・作業がある想定された枠の中に限定されるのではないでしょうか。これは、視覚的な「スケルトン」を意識した場合にも、「キョウカイの向こうが見える=その用途に潜在的な限定をかける」ことにつながると考えました。
一方で、人間の修理(=治療)には、「(本来は)とりあえず~」といった部分がないように感じます。病気の原因により薬・手術を始め多くの治療法(=フィルター)があり、時に悪性や急性などのように想定の範囲外となる例外的な状況も多数見られます。このように「治療」のキョウカイにおいては、その作業・行動は非限定・多様化されると思いました。この点が「ブラックボックス」的で、見えないものの向こうへの期待を如何様にも取ることができる印象を受けます。

「スケルトン」的にすることはそのキョウカイの向こうを無意識のうちに認識させたい場合に有効で、「ブラックボックス」的にすることは、多様性や期待感を生み出すのに効果的ではと思いました。

03t3053 武智靖博

 スケルトン:過去
 ブラックボクッス:未来

 スケルトンとブラックボックスの特徴は中身が見える、見えないだけではないと思います。
 
 今回の講義の話を引き合いに出させていただくと、スケルトンの例ではヴィトンの透明なバックの話がありましたが、確かにこれは中身が見て分かります。しかし、何が入っているかすべてのものが分かるわけではありませんし、見えていてもそれが何なのかが分からない場合もあります。情報量は増えますが、それがすべてではないということが言えます。 
 そこで、過去はスケルトンであるということが出来ます。過去という概念の膜に包まれた、今現在より過ぎ去った時間は中身の見えるものです。過去には直接過去と間接過去があると思います。直接過去とは自分が実際に経験したもので、その場の雰囲気など臨場感のある情報として残っているものです。間接過去(人から聞いた話や、授業で学んだ歴史)はその事実を知るだけで、ある一つの事件に関する情報量としては明らかに直接過去より劣ることになります。しかし、誤解してはならないのは、直接過去であっても見えていない部分はあるということです。自分の経験した過去でもその真相を知らないということはいくらでもあります。すると、先ほど話したスケルトンの見えるものと見えないものがあり、また見えるものの中にも分からないものがあるという性質に当てはまります。
 
 さて次にブラックボックスですが、坂牛先生は授業中に建物の壁や天井を例として取り上げていました。確かにこれは中身が見えないのでブラックボックスですが、天井や壁ならば設備などが入っているはずです。実際の正確な情報は得られませんが、どのようなものが入っているかはなんとなく分かるのです(予想だにしないものが入っている場合もありますが)。
 未来についても同じようなことが言えます。未来について僕らはある程度予測することが出来ます。学生だったら明日何の授業があって、バイトはないだとか、飲みに行くであるとかそういったレベルです。誰にも正確な未来は分かりませんし、予期せぬ出来事だって起こりえます。つまり、未来はブラックボックスなのです。
 世の中や講義に登場したスケルトンやブラックボックス(ヴィトンの透明なバックや建物の天井や壁)と呼ばれるのは既定されているもので、今回の場合は過去は既定ですが、未来は未定になりますので、そこの性格の違いはありますが、今回の論点には影響を及ぼすものではないと考えました。

 
 スケルトンとブラックボックスのどちらが価値が高いかということを論じるのは重要なことではないように思います。というよりはその使い分けに価値を置くべきではないでしょうか。例えば、ソファーで考えると、普通のソファーは皮や合皮、布などといった素材で覆われています。中身が見えないのでこれはブラックボックスということになりますが、これを透明なビニールにすると、中の構造までが見え、スケルトンになります。普通の部屋にこのようなソファーを置いたら浮くことになりますが、その性格をうまく生かせる部屋や空間はあるはずです。このようにブラックボックスをスケルトンにしたり、また逆のことをすると違った価値が生み出されるのです。両者の持つ性格を効果的に使える方法にこそ価値があるのではないでしょうか。

03t3043e 新宮 敬章

スケルトン・ブラッックボックス
ファンズワース邸

 ファンズワース邸は外壁がガラスである。だから人々は周りから家の中身を見ることが可能である。ゆえに外側の人は否応でも見る・見てしまう・見えてしまう。それらの点では間違いなくスケルトンであろう名実ともに。しかし外側の人のそれらの視点は無意識的に人がいる空間または人が居るであろう空間を捉えており、その向こう側の景色、もしくはそのガラスによって作られるものを捉えないだろう、無意識的には。建物の反射と透過によってつくりだされる景色を意識的に見たときに、もはや人が居る空間を捉えていない。まあそれは人の意識によるものだから当然だと思うが。つまりファンズワース邸は外側から見た時に、人の意識の切り替えによってその建築物はスケルトンにもブラックボックスにもなりうるのではないだろうか。それは他の事柄にも当てはめる事ができると思う、普遍的ではないだろうが。
 またどちらの方が価値が高いかであるが、ここでのスケルトンは人が居る空間つまり中身である。またブラックボックスは建物に映る・透ける景色、外側と言えるであろう。これは外側の人の視点に限られるが。外側の人間からすれば、建物による景色の方が価値があるかもしれないが、やはり建築空間であるゆえにスケルトンを挙げたい。なぜなら建築空間は人の為につくられたものであり、人間を秩序づけるからだ。

05TA328G
中尾友之

スケルトン:生中継
ブラックボックス:収録番組

私はテレビ局でのアルバイト経験から書かせていただきます。
単純に視聴者としてみた場合、生中継はリアルタイムそのままの映像を流すので、成り立ちが確かめられる状態=tectonicな状態であるといえる。つまりここでいうスケルトンであるといえる。
また収録番組は編集後の映像を見ているわけなので、時系列上の成り立ちが確かめられない状態にある。つまりここでいうブラックボックスであるといえる。
一方番組の収録の一部をお手伝いさせていただく立場から見ると、ブラックボックス的な収録番組も(時系列的にどのように撮っているか分かっているので)、スケルトン的に見える。これは一般の人にはわからない部分が見えるのでおもしろい。
以上からスケルトンとブラックボックスを考えてみると、コーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』で指摘していた、実の透明性と虚の透明性を思い出す。つまり生放送はそのまま見える状態(グロピウスのバウハウス校舎的)であり実の透明性、収録番組は視聴者が想像することで見えてくる状態(ル・コルビュジエのガルシュの邸宅的)であり虚の透明性ということである。実の透明性としての生放送には、編集という手が加えられていない素材そのままの魅力があり、虚の透明性としての収録番組にはこちらが読み込むことで見えてくる素材の魅力がある(知らないと分からないわけであるが)。

05TA324D 高橋伸幸

ブラックボックス「+」
スケルトン「-」

 スケルトンとブラックボックスの違いはその「複雑さの度合い」の違いだと思う。中身が同じでもその覆っているものの複雑さによって人に与えるイメージは真逆になるし、覆っているものが同じでも中身の複雑さによっても同様のことが起きる。僕はそれを複雑さの+、-で表せると思う。
 ブラックボックスの場合、それはモノの複雑さを増やしていったものである。まさに足し算である。複雑になればなるほど+の度合いが高くなりブラックボックスになっていく。結果、多機能になり多くのことをこなすことが可能になる。また守ることには適していると思う。何重にも重ねられているため重要なものを守る意味では最適である。しかし、複雑すぎて不明確になる。不明確であるため人に不安を与えてしまう。
 逆にスケルトンの場合、それはモノの複雑さを減らしていったものである。それは引き算である。複雑で無くなる=単純になるほど-の度合いが高くなりスケルトンとなる。結果、単純であるため明確になり、人に不安を与えない。しかし、複雑さが減っていき能力が限定されるため、決まった仕事・表現・機能しかできない。つまり応用が利かなくなる。そこに不安がある。
 この2つの特性を考慮しているのが坂牛先生の「多機能性」「平明性」「少量性」の考え方である。ブラックボックスとスケルトンの長所を取り入れ、短所を省いたものである。つまり、+と-のバランスがとれている状態、±0の状態といえる。
 現在は複雑なもの=ブラックボックスの方が確実に多い。つまり+に行き過ぎている状態である。それは多機能で便利かもしれないが、明確ではない。そこには確実に不安が付きまとっている。そう考えるともう少し-に、±0に近づけるべきである。そのよう現代の中にいるせいか、僕は単純明快なスケルトンの方に魅力を感じる。

03T3020F
岡悠志


スケルトン 吉本新喜劇
ブラックボックス 国会中継

 製図の提出間近で、とっても焦っております。どーも、岡です。
今回の講義でとった自分のノートを見返しますと、字がとっても汚かった。文の途中でミミズみたいになってるのとかあるし。そー言えば睡眠不足・・・もとい体調がよろしくありませんでした。ブラックボックスなノート。。。まーその汚いノートを読み返してみると、スケルトン=形と中身で視覚を刺激、単位面積あたりの情報量が多い。とあります。確かにそんなことを先生は言っていました。さしみは見た目の綺麗さ(外国の人はわからないだろうけど)と中身の素材本来の味、その見た目から判断できる期待通りの味によって魅力的になるのであろうと思いました。


 まーそんな刺身と似ている(?)ものなのですが、スケルトンなものとして吉本新喜劇を挙げるのです。僕は大阪出身なので、土曜は昼ご飯食べながら吉本新喜劇を見るわけです。毎週見てるとわかるのですが、出てくる人は決まってる、役柄もいつも一緒、同じギャグ、ストーリもほぼ同じみたいなもので先が読める。そんな吉本新喜劇なのですが僕はいつも同じギャグで笑うし、わかってしまうストーリーにとても満足するのです。それは僕だけではなく会場のお客さんも。それは期待通りになることへの満足であり、期待すること自体がそのものを魅力的にしているのでしょう。


 続きまして国会中継ですが、おもろないです。かろうじて小泉首相が出てくると注目しますが、他の名前も知らない人が話しているとホント眠くなります。話している内容がチンプンカンプンですし。政治について無知な僕は国会中継の内容をまったく理解できません。それは専門的であり国家という大きな単位の話であるからでしょう。XLな話が専門の衣を羽織って僕の目の前に現れようともそれはボラックボックスなのです。

03T3100H 望月翔太

スケルトン   :知恵の輪
ブラックボックス:黒ヒゲ危機一髪

スケルトンは、中身が視覚的に見える、構造・機能が見える、でもその視覚的に見えているものはなんだかわからない。専門の人が見ればすぐにわかるだろうが。Macなんかはもちろんそうだし、スケルトンのバッグも実際見えてはいるが、その中身を機能的にどう使うかは、そのバッグを持っている人にしかわかったもんじゃない。つまり視覚的に見えてはいるが、その本質的なところはほかの人が見てもわからないのである。それをおもちゃにしたのが「知恵の輪」。全部見えているのになぜか取れない。スケルトンです。

一方ブラックボックスは、中身が見えない、好奇心・期待感を煽る。その先に何かが待っている。その感情をさらに増幅させるために仕掛けを作る。建築で言えば、コルビュジェの住宅で・・・すいません名前忘れました。見事なまでに、明→暗→明の繰り返し。さらに感情を増幅させるために、広→狭→広の繰り返し。広くて明るい空間をさらにそう感じるための狭くて暗い空間。この先に広い空間があるのだとうすうす感づいてはいるが、さらにそれ以上のものを感じる。それをおもちゃにしたのが「黒ヒゲ危機一髪」。剣という日常ではありえないものを持ち(プラスチックですが)、樽に刺す。数ある樽の穴から見事当たるとなぜかヒゲをはやしたおっさんが飛び上がる。ビビる。おっさんが飛び上がるのはわかっているがビビる。これで、もとから穴がひとつしかなかったら大して驚かない。数ある選択肢の中から自分が選んだものだけが当たるのだからその驚きは大きくなる

価値の高さは、当然といえば当然だが1人で遊ぶなら黒ヒゲよりも知恵の輪のほうが、値が高いのは明らか。黒ヒゲを1人でやっても、多少は驚くことはあるだろうが、他人と自分が競うようにして遊ぶのだから、他人がいたほうが驚きも大きくなる。知恵の輪はある種自己満足に近いところがあるから、だから1人でやるなら知恵の輪、2人以上なら黒ヒゲのほうが、価値が高いと思われる。

03T3038J 崔志宏
スケルトン→写真
ブラックボックス→イメージ
 写真は確率が高い、物事がはっきりに表現できます。例えば、人の髪や眼の色、あるいは扮装などがすぐわかります。風景の写真なら、花草の種類と色、または建築物のデザインなどもわかります。
 イメージは心の中に思い浮かべる像、抽象的な感じである。人のイメージとしたら、人の高さぐらいしかわかりません。風景のイメージでも、どんな物を存在することが判断できるだけである。
 そのため、建築を考えたら、やはりスケルトンのほうがいいと思います。ちょっとだけのミスでも、建物が倒れるかもしれない。ですから、設計の図面はもっともっとスケルトンになる必要があります。

02T3051B  土屋光司

スケルトン・・・電話
ブラックボックス・・・メール

携帯電話を使う際、電話で伝えようかメールで伝えようか考えたことが誰しも一度はあると思う。そんな時あなたはどのような選択をするだろうか?
電話は相手との言葉のキャッチボールにより成り立っている。そこには例え曖昧な表現やわからない事柄があったとしても即座に対応できる平明性が存在している。リアルタイムでやり取りがなされているわけである。しかし相手をそこに感じることができる分、自分の意思だけではコントロールできない部分が存在するのも事実である。また時間や場所などの外的な要因に縛られる事が多いのも事実である。丸裸にされる分、洗練されたわかりやすい言葉を駆使しなければ成立しないのである。
一方、メールは一方通行である。送ったら送ったきり、相手がそれに何らかの反応を示さなければ伝わったのかさえ確認できない。また情報の欠如や、時間差などが発生してしまいリアルタイムでやり取りはなされないのである。しかし必要な事柄を事前に選定し、ピンポイントにそしてコンパクトに情報を伝えられる。また場所や時間に縛られる事が無いため自らに依存する部分が大きい。ある程度情報に制限がかけられる分、相手を引き込むだけの深みを持った言葉を駆使しなければ成立しないのである。
 電話を「攻めながら守る」とするならばメールは「守りながら攻める」と言えるのではないだろうか。スケルトンは開かれている分、端的にストレートに伝わらなくてはならない。ブラックボックスは閉ざされている分、興味をひきつけるような仕掛けを持っていなければいけない。これらは状況によって使い分けるべきで、それぞれ価値があるべきである。しかし個人的には、自らの解釈を必要とし入り込む余地をわざと残しているブラックボックスに引き込まれることが多い。

坂牛

急激に寒くなってきた。今日はマイナス2度くらいまで下がったようだ。夕食食べて「寒い、寒い」と騒いでいたら、研究室の4年生にクールな口調で「こんなのは寒いうちに入りません」と言われた。ウっ厳しい!

さて今回のコメントずっと読んでみていささか低調。どれも同じ。それは質問が少し幼稚だというのにも起因する。70人近くがとりあえず皆答えられるように、設定している質問だから、その質問にあまりまともに答えると皆同じになっていく。

せっかくネットで他の人の答えが覗けるのだから、少し出し抜いていかないといけない。先ず最初の10個くらい読んで、だれもが割と具体的に、双方の事例を挙げているというこの当たり前の事実をつかむと、僕ならついその逆をやってみたくなる。つまり先ずは具体的な例を挙げない。次に双方の事例を挙げない。

そんなのただのひねくれものではないか。うんそうかもしれない。でもためしにそう考えてご覧。そういう視点で皆のコメントを読んでみると。先ず抽象的コメントとなっているのは高橋君の複雑性の+-。次に事例を一つしか挙げてないのは、新宮君のファンズワース邸。

さてではこの二つが傑出しているかというと少し悩む。確かに考え方の着想は他より面白いのだが、その事例と説明が的を射ているかというとそうでもない。なるほどなああああああとため息が出るほどではない。特に金曜日の夜皆のコメントを見る場合は頭がかなり疲労困憊しているので、よほど刺激的で魅力的でないと駄目である。

ということで今回は前代未聞、の坂牛賞なしである。残念。

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