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第四講お題

やっとゼミが終わりました。さすがに疲れました。でもここで帰らずに今日の復習です。本日の講義はやや複雑でした。箱と袋は二つの定義がずれてかかっていたのです。箱とは事前的に決定するルールによってできたものであり、そしてそれは純粋幾何学的な場合が多いのです。一方袋とは事後的に決定するルールにより、そしてそれは不定形なもの、形の無い場合が多い。

さてところで、今日のお題ですが、「箱建築と袋建築と思えるものを身の回りに探してみよう」です。ただし、その時に使う定義はあくまで第一定義。事前的に決定するか事後的に決定するかという定義です。純粋幾何学か不定形かはここでは使いません。しかしそうなると自分の設計したものならともかく、人が設計したもので事前的事後的かなんて分かるはずも無いのです。そうたしかに普通に考えればそうなるのです。しかしそれは推理です。この推理がポイントです。説得力ある推理を聞かせてください。幾何学的だから事前的、不定形だから事後的というのはとりあえず推理の理由としては認めません。それ以外の根拠を示してください。対象は建築じゃなくともかまいません。
例えばこんな例はどうでしょうか。スーパーマーケットの裏に行くと商品名の書いたダンボールがつみあがっています。例えば洗剤。このダンボールには洗剤が1ダースあるいは2ダースきっちり入る大きさに作られています。このダンボールは洗剤の箱の大きさに合わせて、事後的にその大きさが決定されているという意味では袋です。一方、包装用具屋さんで引越し用のダンボールとか売ってますようね。あれは規格サイズで作られているでしょう。もちろん中身は最初に無いのだから、中身にあわせて大きさが決められているのではありません。その意味でこれは箱的箱なわけです。
ぱっとこんな例が思い浮かびますが、これに倣って、考えてください。

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コメント

04T3004H
石川裕之

袋的なものは、(キリスト教が国の宗教になる前の)ローマ帝国の神話や日本神話などだと思う。

二つのうちでローマの神話を例にとって僕の考えを説明したいと思う。
ローマという国自体について、上にあげた時代はローマ帝国が領地を拡げている時代で、領地を拡げるには各地に暮らす多くの民族を従わせる必要があった。多くの民族を従わせるには、各民族特有の考え方を…つまり信仰の対象である多くの神々を従わせる必要があった。従わせるといっても無理矢理「ローマ帝国の神が絶対だからそれを信じなさい。」のような政策で領地を拡げていったのではない。もしそうなら地中海を一円する巨大帝国にはならなかったと思う。ローマ帝国は袋的な神話を用いて各地の民族に接していった。「あなたたちの神はウチ(ローマ帝国)の神様とコレコレの血縁で親戚なんだ。だから我々人間同士も血縁同士にならないか。」という態度でだ。つまり、ローマ帝国はローマ神話という袋を用意し各地に存在した神々をその袋に入れることで神話を形成していった。これは入れ物(神話)を事後的に決定するルール(各地の神々)で形作られ袋的であると思う。


また、箱的なものはキリスト教やイスラム教をあげる。

これらの宗教はその宗教ごとの考えを持って各地に接していった。つまり、キリスト教を例に挙げると宣教師たちは[キリスト教の考え]という形、大きさの変わらない箱を持って布教活動をしていった。「この箱に合う人はどうぞお入りください。」というようにだ。この箱は形、大きさは変わらないため人々がその箱(キリスト教の考え)に合えば入ればいいし、合わなければ入らなければいい。この考え方は事前的なルールであると言え箱的だと思った。


以上のことを考えてみると他の宗教について詳しくないがもし上に上げたような形で他の神話、宗教が成り立っていったのだとしたら、多神教→袋的、一神教→箱的とまとめていえるのではないかとも思った。

坂牛
なるほど面白い。

ただこの話しを延長していくと親父オフクロと同様の議論となりそうなので、石川君以後の人はもう少し、形に直結するものをさがしてみよう。

私が考える身近にある箱とは、ワイングラスです。袋とは、普通のコップです。理由はワイングラスは事前的にワインを飲むように設計されていて、日常生活で使うにはあまりににも使いにくくなっていると思います。普通のコップは何かを飲んでもらおうと事前的には決まっていません。牛乳を飲んだり、ジュースやコーヒー何でも飲みます。時には「ワイングラスがないから普通のコップで飲もうか?」というシーンもあると思います。しかし、逆は普通ないような気がします。これらのことにより私が思ったことは、箱とは外観重視で、袋とは使いやすさなどを重視しているように思いました。これは建物にも言えると思います。私が今設計製図で考えている住宅は断然袋のほうに属するなと思いました。

04T3018H
奥野耕司

箱 : 掃除に使っているときの掃除機
袋 : 布団圧縮袋に使っているときの掃除機

 掃除機というのは、その名のとおり掃除をするために開発された機械です。開発者は、掃除機は、掃除のためだけに使われると想定して開発したと思われます。したがって、掃除機がごみを吸い上げるために使われるということは事前に決まっていたことになります。よって、箱的ではないかと思います。
 しかし、その掃除機を今は布団圧縮袋の内部の空気を吸い取ることにも使われています。それは、もともと想定していた使い方とは全く異なっているわけです。掃除機を開発中のころ、開発者はこんなことに掃除機を使うなんて考えていなかったでしょう。袋の空気を取り出すという使い方は、事前に決まっていなかったので袋的になるのではないでしょうか。
 つまり、製作者が想定していた使い方=事前に決まっている・箱、想定していない別の使い方=事前に決まっていない・袋、であると思います。こう考えると、前回の親父とオフクロにもつながっていくとも思われます。

04T3047A 瀬戸洋平
私は箱的なものと袋的なものを自動車から見つけ、その種類の中から軽やセダンタイプを箱的なもの、ワゴンタイプを袋的なものとしました。
普通の乗用車は、乗車する人数や荷物の積める量に関して、一般的なものでしかありません。むしろ大きさよりも、性能やデザインを重視していると考えます。もし体の大きな人が5乗できる車に乗ったとしたら、一人乗れなくなる可能性も十分に考えられます。荷物であっても限られたスペースに積まなくてはならないので、形が事前的に決まっているセダンタイプは箱的なものだと思います。
一方、ワゴンタイプでは、後部座席の空間をいかに使いやすくするか、効率面の重要性が考えられています。新車種もセダンタイプに比べ少ないし、新型が多くなっていると思います。そして私は3列目のシートが、人数や荷物の量に応じてたたむこともでき、融通がきくという所に事後的なものを感じ、ワゴンタイプは袋的なものであると思います。
さらに、車全体を箱的なものと考えると、屋根にキャリアを付けた車は事後的なものとなり、袋的であると考えられると思います。これからの季節、雪山シーズンとなり、袋的な車が増えてくるのでしょう。

03T3041J 清水右一朗

私が考える、箱的なものは自社ビルで、袋的なものは貸ビルです。

自社ビルというのは施主がビルの使用者となる一方、貸ビルは施主がビルの使用者にはならないのが一般的です。1フロアごとに会社が違ったりしますし、入れ替わる可能性もあります。
また、自社ビルというのは設計するときに、会社の特徴を知っているわけですから、事前的にデザインできるわけです。だから、箱的。
それに対して、貸ビルというのはどんな企業でも受け入れられるcapacityを重要視した設計がなされていると思います。さまざまな企業が入居してから、産業やそこに訪れる人などが決定され貸ビルの個性が誕生する。そしてそれは自社ビルと異なり、企業が入れ替わることによって変化が生じる。このように貸ビルは事後的に特徴が出るので袋的であると思いました。

あと蛇足ですが、自社ビルでも袋的ではないかと思うものもあります。もちろんそれは前述した観点とは違ったものなのですが。丹下健三が設計した山梨文化会館です。山梨文化会館は新聞社とテレビ局をもったグループの自社ビルです。竣工後、増床できるように設計されています(実際に増床された)。当時は、メディアの可能性は未知なるものがあって、企業としての成長を予想したものであるようです。そういう意味では事後的なデザインをしたので、丹下さんはモダニズムですが、この建築に限っては袋的なのではないかとおもいました。

04T3014E 岡崎友也

 街があり道路があり建物があってこそ作成できる“地図”は袋的だと思う。さまざまな種類や縮尺の地図が存在するが、それらはすべて地上構造物が実在するからこそ事後的に作成できるものである。新しく道路や建物が造られるとそれに合わせて地図も刻々とその形を変えることになる。山・川・道路・建物・・・という各要素がそのまま地図という全体像を形づくっていることになると考える。
 一方で“設計図”は事前的であるという点で箱に相当するだろう。設計者が考えた案が実際に施工されるとき、この設計図という型枠に従って要素となる各箇所が作られ、決して逸脱して施工してはならない。設計図そのものが箱的存在として私たちの目に訴えるものではない。しかし目的を考えれば、設計図は何かものを作るからこそ必ず事前に存在し、またそれは施工対象が過不足なくきっちり収まる箱のように思えた。
 余談になるが、案内地図などの地図は見る人に分かりやすくするため、道路や川などは直線で書かれていることも多い。地図作成者の意図により様々なバリエーションが生まれる。つまりは妖怪的であり、またオフクロ的でもある。同様に設計図にも親父性をひしひしと感じられた。

04T3017K 岡本澄香

箱 → 四角い消しゴム
袋 → カドケシ

消しゴムに求められる最も単純な要素は字が消せること。
MONOに代表されるような至ってシンプルな四角いデザインの消しゴムはもっともポピュラーな形であるが、「消しゴムとはこういう形である」とでもいわんばかりに全てが四角い形をしている。特に目立った特徴もなく、字を消すという単純な目的に向けて四角という元より決められた形に作られている。よって四角い消しゴムは事前的に決められた「箱」と言えると思う。

ところでカドケシを知っていますか?
カドケシは10個のキューブが集まったデコボコなデザインの消しゴムで、28個ものカドを有している。この消しゴムは四角い消しゴムと違ってカドが丸くなっても次々と新しいカドが使えるため、細かな部分を消すのに非常に便利である。また少し固めになっているので普通に使っている限り割れる心配もなさそうだ。このカドケシはおそらく、消す時に便利なカドをできるだけ多く取り入れようとしてあれこれ考え、試行錯誤の末にたどり着いた一つの形なのだろう。これは事後的に決められたものであるので「袋」だと思う。

04T3035H 久保田敏史

 私は本は箱、ノートは袋と考える。
本とノートはどちらも紙の束でできている。この2つの相違点は真っ白であるかそれとも何かが書いてあるかである。本を買う人はその本が読みたいから買う、ノートを買う人はそのノートに何かを書き込みたいから買う。どちらもそれぞれの目的はあるが、本の場合はその本が読みたいから買うのであるから他の本では意味が無い。しかしノートは特定の内容が書かれているわけではないので枚数や値段などで選ぶ。これは言ってしまえばどんなノートでもかまわないということである。使用の目的は、漠然と何の教科のノートにするかとかいうことは決まっているかもしれないがその利用の仕方はそのとき次第である。はじめは自主勉強のノートだったが使っているうちに落書き帳になっていたなどということはよくある。このように、本はただの紙の束にあらかじめ文字を記しておくことで本として存在し内容を変えることはできない。ノートは書かれた中身や書く人によってその存在をいかようにも変容できる。以上より、箱は何を入れても形の変わらない事前的なもので、ここでは初めから役割が与えられている本である。対して、袋は入れたものによって形が決まる事後的なもので、つまりここでは書いた内容によって事後的にその役割が決まるノートである。

04T3087A
村瀬 涼介

僕は箱的なものをチョコレート菓子や一個一個包装されたチョコと考え、袋的なものを板チョコと考えた。チョコレート菓子(例えば具体的に商品名を出すとするとダースやLOOKやOREOなど)はおやつとして食べるのを楽しむこと、を目的として作られている。言い換えれば事前的に決まったものを形として、商品として作っている。
それに対し板チョコはそのままたべるのも良し、細かく刻んで溶かして自分の好きな形に調理するも良し、アレンジを加えてさらにオシャレな料理などをつくってもよし、である。言い換えれば、板チョコは自分の用途、目的に合わせて、つまり事後的な決定に基づいて利用するものであると思いました。

03t3020f
岡 悠志(3年)

箱建築→多目的ホール
袋建築→教室

まず始めに、「事前的」「事後的」という言葉「事」がはっきりわからず、借りてきた言葉のようでしっくり来ないので「作為的」「必然的」という言葉を使わせていただきます。一応下の方にその言葉の説明も書いとります。

さて、
僕の高校には多目的ホールなるものがあった。その使用方法は部活動、学年での集会、文化祭のステージ、体育の授業などなどまさに多目的であった。これは色々な活動が出来るような適度な箱として「作為的」に多目的ホールがつくられたからだ。ある程度の大きさがある壁で囲まれた箱を作り、その大きさに合わせて活動してたまでである。つまり「箱建築」なのだ。

そして、もちろん僕の高校には教室があった。クラスごとに、同じ大きさの。教室を作るとき40人の生徒と一人の教師が授業できる大きさの箱をつくる。その大きさや形は入る人数と用途が明確であるため「必然的」に決まる。つまりは「袋建築」だ。

「作為的」「必然的」の説明・・・

まず「袋」から説明する。「袋」は、その境界が、形が出来上がるとき人間の意志とは別の何かによって作られたもので、形が「必然的」にできるものを指す。たとえば、洗剤が12本入るような箱を作ろうとするとき、その形(ここでは主に大きさ)は洗剤12本分がきっちりと収まる形になる。これは人の意志とは別の「12本の洗剤」が形を決定している。人から見れば「必然的」に形が決定したこととなる。つまり「袋」だ。また、講義でも出た奥村信一氏の住宅についてだが、その形(外観)は法律や周りの環境によって勝手に決まると彼はいう。つまり彼から見れば「必然的」に形が決まったことになる。よって外観は「袋」だ。そしてその中身は彼が「作為的」に決定していくのだから「箱」となる。そのため奥村氏の住宅は「袋の中の箱」と位置づけできよう。そしてzoomorphicで見られるような動物の形をした建築物は、その動物を選ぶのは人であるが形を決定しているのは動物であり、「袋」だ。たとえば、鳥にしようと決めたのは人であるが、建築の形は鳥から外れることは無く、鳥というものにより「必然的」に決められたことになる。
「箱」は人が「境界」を作るとき「作為的」につくったものに対し使う。先に述べた「必然的」とは自然に出来上がるようなイメージであるので、その反対のイメージとして「作為的」(「人の手が加わり不自然にできた様子」の意)を選んだ。だから、水平と垂直を否定して斜めを使った建築をつくっても、人が「作為的」にそうしたのだから「箱」になるし、妹島和世氏が箱建築を嫌い四角形をずらしたり、円形を使ってもその形は人が「作為的」に作ったものなので「箱」となる。曲線だろうが直線だろうが関係は無い。

04T3071D 日比野温子
 
私は調理道具というカテゴリーの中に箱的・袋的な道具が混在していると思う。
袋的なもの・・それは例えばたこやき機。たこやき機であることを象徴する鉄の丸いくぼみは、たこやきを作るための事後的なルールでかたちづくられたものだといえる。中身の後に形が出てきたのであり、そういう意味でこれは袋的といえる。そこに入る中身(具材)も、溶いた小麦粉に刻んだ蛸や紅しょうが・削り節といったものを前提としているでしょう。
一方、フライパンは箱的。これは、炒め物・焼き物や揚げ物といった料理全般に使われるものであって、何を作ろうともかたちは事前的に決まっている。中身に何が入るかよりも耐久性や焦げのつきにくさに重点が置かれ、その事前的に決定するルールにのっとって造られている、という意味で箱的である。

 ときにこれは料理をする場合にもいえると思う。「中身」=「作る料理」とすれば、事後的に使用するのがたこやき機、事前的なものがフライパン。フライパンを出して今日は何を作ろうかと考えることはあってもたこやき機を出してから献立を考える人はいませんよね?

04T3073A
藤江将史

 私は袋的なものは個人の戸建て住宅、箱的なものはマンションやアパートであると思います。戸建て住宅は、住む人のさまざまな要望や意見などを聞いてからつくられます。利用者のニーズに合わせてから家の形が決まっていくので、これは事後的なものであり、袋的であると思います。
 一方マンションやアパートは、はじめは住む人がいないので利用者の要望などがありません。事前的に形やデザインなどが決まっているので、これは箱的であると思います。
 戸建て住宅にも箱的なもの、マンションやアパートにも袋的なものがあると思いますが、大きな意味でとらえると、このようになるのではないかと思います。

04TA338A 中根雄一

デジカメを例に挙げると、事前的なものは画像の画素数であり、事後的なものは画像のデータ容量、そしてできた画像は箱の中の袋である、と考える。

事前的とは、包み込む側に合わせる、つまり規格・形式・純粋幾何学の美しさや強さ・プラトンのいうイデアなど、作り手側に強く依存する。対して、事後的とは包み込まれる側に合わせる、またはそれを取り巻く環境に合わせる、という受け手に強く依存する。

デジカメの話に戻ると、デジカメは風景などの対象を写真として包み込むものである。このときの一枚の画像データについて考える。まず、画素数は包み込む以前に決まっている。たとえ暗闇を写そうが、その箱の大きさは決して変わらない。画素数は包み込む側に合わせた箱となる。そして、データ容量(蓄えられる情報量)は対象によって変化する。これは包み込まれた側に合わせた袋となる。したがってデジカメの画像は箱の中の袋となる。

デジカメ同様に、建築についても箱の中の袋を考えてみる。そこで、思い当たるのが、リートフェルトのシュレーダー邸である。その外観はレッド・アンド・ブルーチェアにも見られるように、抽象的な形の構成の仕方によって決まる。かつ規格材のようなシンプルな材で構成されている。構成主義的なデザインやシンプルな材の使用はリートフェルトの理念であり、箱的である。内部は、間仕切りがガラガラと動き、そのときどきによって空間を変化させることができる。それはnLDKという記号では表すことはできない。(nLDKという考え方は極めて箱的)これは、包み込まれる側に合わせることになり、袋的である。よってシュレーダー邸は箱の中の袋となる。

ここでは、箱と袋が共存する、両義性に魅力を感じ、箱の中の袋の事例を挙げてみた。そして、これらの事例について注意しなければならないことがひとつある。それは、決して事前的なものは不変で、事後的なものが可変ということではないということである。問題は、決定ルールが作り手側か受け手側のどちらに強く依存しているかということである。

04T3069B 樋川俊樹

・箱的 → サッカーのスタメン選手
・袋的 → そのサッカーチームのファンの数
・箱の中の袋 → チームの中でゲームに参加した選手

 サッカーに限った事ではないが、サッカーなら11人、野球なら9人、バスケなら5人などと、スポーツではコートに立てるメンバーの人数はあらかじめルールブックにより決まっている。この人数の枠の中で選手を選抜してスタメンを決めるので、これは事前的で箱あると考えます。一方、そのチームのファンは絶対数が常に変動し、ファンの母数はその時々で決まり事後的な袋である。「ファンは100人までですよ。」などと初めから決められているファンクラブは見たことがない。また参加した選手について、ベンチ入りまで含めたチームの中でも交代で選手が入れ替わることができ試合に参加できるので、これを箱の中の袋だと思った。
 先の坂牛先生のコメントにも書かれていましたが、今回のテーマは第一定義または建築以外で考えているせいか、親父とオフクロの話に非常に似ていると感じた。完成か未完成か。しかし忘れてはならないのは今回の「箱か袋か」は境界を計るモノサシであること。上記の例だとファンの人数は限りなく増えるのでドラえもんの四次元ポケットのようですが、考えるべきは形式か内容かどちらに重きが置かれているかという論議だと考えます。

03T3804E
鈴木俊祐

箱はサヴォア邸
袋はロンシャンの教会
サヴォア邸はコルビジェ自身が提唱した近代建築の5原則という事前的なルールにより構築された建築であることが明らかである。まさに箱の中の箱である。一方ロンシャンの教会は分厚く傾いた壁であり、ランダムに配置された大小様々の色ガラスがはめられた窓は適当にばら撒かれているようでいて、どこかに隠された制御線があるようでもあり不思議な魅力をたたえている。後期のコルビジェは自身が提唱した原則を明らかに破っている。これは自らが築き上げた20世紀の箱建築を自らで乗り越えようとしたのである。これらのことから私はロンシャンの教会はコルビジェが構築した箱を事後的なルールにより脱構築し人々を包み込む袋を目指したものだと考える。つまり、コルビジェは人生の前半でサヴォア邸(箱)を構築し、後半でロンシャンの教会(袋)を脱構築したのである。

坂牛研究室 m2 深澤宏

 私が考える箱建築は「新築」で、袋建築は「転生(コンヴァージョン)」です。

 事前的な建築とは目的がはっきりしている建築だと思う。設計者がそこで行われる行為を指定して利用者はそれに従うような建築。つまりその建築を作った人(作者)が「ここではこの行為をしなさい」とその建築を見た人(読者)に訴えかけてくるような建築。学校なら教育する為の箱、病院なら治療するための箱というように、設計者が指定した行為に利用者が従っている。新築の建築は、大抵の場合このような作者の意図が感じられる空間となっている。なぜならその建築を作った時の社会状況が、その行為との間にズレを起こしていないから。
 それに対し事後的な建築とは目的がはっきりしていない建築だと思う。設計者の意図が感じられず、利用者が自由に行動できるような建築。このような建築はコンヴァージョンに見ることができる。建物が建設された当初に想定されていた機能は、何十年か経つにつれて周辺環境との間にズレが生じる。学校であれば、都心部の人口減少で廃校になり、本来の教育を行う場としての機能がなくなり、ニュートラルで自由な状態になる。学校というものが「教育する」という記号内容(シニフィエ)を剥ぎ取られ、中性的な「建築形態」としての記号表現(シニフィアン)の状態に転換される。そうなることではじめて、人間はなにか自分の力でその環境を変えられると感じるようになる。廃校を美術館に転用した場合は、新築の美術館に感じられないような、そこで行われる活動の自由さを感じるが、それは作家(その空間の読み手)が作品を創作し、環境の質を変えることを許容するような、自由な空間となったからである。青木淳はこのような建築を「原っぱ」と表現し、ロラン・バルトは「零度」の状態と表現したが、これは袋建築に近いと言えるのではないだろうか。
 このように考えると箱建築と袋建築との違いは、作り手の意図が感じられるか感じられないかの違いであるように思う。

04T3002A阿部裕子
 箱建築的なものを、電子辞書とし、
 袋建築的なものを、ペーパー辞書と仮定します。
 まず始めに、電子辞書は、買った直後から、嫌、電子辞書としてつくられた瞬間つまり事前から決められたものがその辞書内に入っており、変わることがありません。つまり、電子辞書は箱建築だと言えます。その逆として、ペーパー辞書は、ペーパー辞書がつくられた時から内容に変わりがありませんが、使う人によっては、いろいろなものに変貌します。例えば、辞書を引いたところにマーカーを付ける人、目印を付ける人、また、暇で、パラパラ漫画を書き込む人、使えば使うほど辞書は厚くなっていきます。このように事後(スパンが長い事後ですが)によっては、使っていくうちに変化がありうるものとして、袋建築と言えるのではないでしょうか。このようにスパンが長い事後が、本当に袋建築となるのか考えてみました。この講義の始めに、箱とは、何が入っても形は変わらなく、形があって事前的にあるもの。また、設計した瞬間にあるもの。袋とは、形が変わる。また、ものによって変わり、事後的にあり、設計しながら形が変わるものと定義されていたように思います。その事から、辞書を使っているうちは設計している最中と考えます。そのものが使えなくなったときにそれらの辞書の設計は終わったと考える事によって、今まで私が述べてきた仮定が成立できるのではないでしょうか。

04T3055B 武智 三奈 
 箱的:国会  袋的:内閣
 今旬な話題として、小泉内閣閣僚が決定されました。現在の内閣は、与党の自民党、小泉首相、社会情勢、政策などさまざまなものが反映して築き上げら得ます。そのことが事後的ではないかと考えました。
 そして衆議院選挙を考えます。国会の議席数は事前的に決まっておりそのなかでいくつ議席を確保できるかの戦いです。選挙毎にその内容は変わります。その点で箱的だと思いました。
 本当は、最初逆の考えでした。袋的が国会で箱的が内閣だと思っていました。内閣閣僚のポジションは決まっていて、そこに自民党員が決められた人数配置される、と考えれば事前的です。国会も選挙が終わって初めて与党、野党、議席数がわかり、その時代の特色というものが事後的に決まります。しかし、坂牛先生の事例を読み返して上に述べたような結論になりました。いろいろ考えていると、両方とも箱的なのかもしれないし、考えれば考えるほどわからなくなってきます。とりあえず上に述べた結論ということにしておきます。

04T3034K 工藤洋子

朝、服を決めるときに箱的考えの時と、袋的考えの時があります。
箱的な日・・・
使いまわせない服を着るとき、どうしても同じものをあわせてしまう。
同じ店で上から下までトータルして買ってしまった時など以ての外だ。買った翌日は、雨であろうが雪であろうが、それが着て行きたくて仕方がなくなる。
袋的な日・・・
特に何も考えていない日は引き出しを開けてから考え始める。
天気や気温、その日の予定で選んでいく。どうでもいい時などは1番上においてあるモノや、取り込みっぱなしで畳んでないモノなど片っ端からとりあえず着ていく。
それから、その服に合うものを着ていったり、重ねてみたり、スカートにしたりパンツにしたり・・・
いつの間にか初めに選んだものを脱いでいたりもする。

今回の課題も、視点の置き方が凄く難しく感じます。
少しでも焦点がずれると、箱が袋に、袋が箱へと変わってしまい、授業中は混乱してしまいました。提出されていくレポートを見ていても混乱が解けずに悩んでいました。具体的な意見のようで、視点が具体的には定まっていないものが多いような気がしました。
そんな中、「事前的とは、包み込む側に合わせる、作り手側に強く依存する。対して、事後的とは包み込まれる側に合わせる、またはそれを取り巻く環境に合わせる、という受け手に強く依存する。」という中根さんの定義が自分の考えと近いのかな?と思いました。
けれど、私の例を、作り手=服 受け手=選択する意志 と無理やりこじつけられなくもないですが、しっくりと表現できない分、やはり少し違うのだと思います。

充分に箱と袋の定義を消化しきれていませんが、今の製図の住宅設計で参考にしている清家清氏の「私の家」「続私の家」などのあの敷地は袋的な使われ方をしていると感じました。

04T3088J 村山文緒

箱的→扇風機
袋的→エアコン

この二つに共通することは、夏の暑い日に部屋を涼しくし、人を快適にすることである。皆今年の夏もフル活用したであろう、この扇風機とエアコン。この二つの大きな違いは、扇風機は風を送るという行為しかしないと言うことであろう。その点で扇風機は箱的であると思う。扇風機のあの独特な形は、風を送るという行為しかしない。扇風機を作るときからその行為は事前的に決められていて、そのために、あの形をしている。だから風を送るという行為しかしない扇風機は、作られる前から事前的に決められているので、箱的であると思う。
次に、エアコンについてであるが、エアコンは冷房、暖房、送風といろんな機能が付いている。あのエアコンの使い方は人それぞれであり、ある範囲内であるが事後的に決定される。だから私は、扇風機が箱的、エアコンが袋的だと思った。

04T3045E 庄司貴弘

 僕は箱建築的なものは旅客機で、袋建築的なものは電車だと考えます。
 旅客機も電車も乗客を運ぶという点では同じ役割を果たしていますが、その乗客の乗り方に違いがあります。旅客機ははじめから何人を運ぶことができるかを考えられて設計されています。さらに乗客はチケットを購入する時点で席を決め、必ずその指定した席に座らなければなりません。もちろん立ったまま乗ることはできません。それに対しては電車では決められた席はありません。切符を買うことまでは一緒ですが座る場所までは指定されず、乗車してから席を決めることができ、立っている乗客もいます。また都会の朝の通勤ラッシュと田舎の私鉄を比べるとわかりますが、同じ大きさの箱の中でも乗せる人の数はその地域や時間、状況によって変化します。
 それらの点から考えると旅客機は事前に考えたとおりに乗客を乗せることのできる事前的な乗り物であり、電車はTPOで乗客数も座る席も変化する事後的な乗り物であるといえます。

04t3008A
牛山由偉

箱的、事前的:道路
僕は箱的なものは道路であると思った。道路は車の幅や長さ、人の大きさなどそこを通るものを考慮してできているものである。こう聞くと袋的であるように感じるかもしれない。しかし、道路は必要なスペースが確保されているだけであり、その大きさは決まってしまう。道路を通る車や人などに合わせてこの大きさは変えることはできない。道路の幅にはさまざまな大きさがあるけれども結局どの道路も車などをの大きさを元にあらかじめ出来上がったものであり変化はしない。だから、その道路を使う人は決められた幅の中で通行しなければければならず、道を譲ったり、譲られたりせざるを得ないのである。このようにある大きさに従わなければならない点が箱的であると考えます。

袋的、事項的:川
川は事前にある大きさがあるものではなく、そこを流れる水の量によって変化し続けていくものである。法律などで確保すべきスペースは決まっているのかもしれない。しかし、川はそのスペースに必ずしも従ったものではなく水量によって変わってくる。日本でもそうであるけど、同じ川でも暑い日が続いたりすると流れる水が少なくて幅が狭くなったり、逆に梅雨や台風などの時には量が多く幅の大きなものになる。つまり、川は中身(水)によって形が決まる不定形なものである。だから袋的であると考えます。

04T3084F
2年 宮尾 真紗美

袋:自然に流れている川、小川
箱:ドブ

 自然に流れている川はさまざまな条件で、その形・様子を刻々と変化させる。大雨の日には蛇行して流れていたものが、一気に岸が削られてまっすぐになったりする。最初に水が流れたときとは違う形になる。事後的である。袋的だと思う。
 一方ドブ。ドブというか、岸や底をコンクリートなどでがちがちに固められてしまった川など。これらは、流れる水の量など関係なく、一定の形をしている。最初に作られたときと同じ形。事前的である。箱的であると思う。

04T3059E
坪井章訓
袋的なもの → レンタルDVD
箱的なもの → 市販録画用DVD
DVDには大きくわけて2種類ある。録画できる回数が一度だけか、何度も録画と削除できるものかである。なかでもレンタルDVDははじめから映画が録画してあり、内容の変更ができなくなっている。つまり借りてきたり買ったりしたDVDでは見ることしかできない。これは事後的に使用方法が決定付けられているということではないだろうか。だからレンタルDVDは袋的だと思った。市販されている録画用DVDには内容がない。つまり製造者がつくった段階では何に使われるか決まっていないことになる。中にはホームビデオの映像を編集したり、お気に入りのドラマを録画したりして永久保存版にする人もいるかもしれない。実際僕はお気に入りの映画コレクションをしていた。つまり何もないなかに自分の好きなものを取り入れていくことができる。単に事前的に画像と音をいれることができる様に作られているのである。だから市販録画用DVDは箱的であると思う。

04T3065K 中島 早央里

箱的:柄のついた布
袋的:無地の布
布から好きなものを作るときのことを想定します。柄のついた生地はそれだけでインパクトはありますが、他の生地と合わせる時どうしても選択の幅が狭くなります。パッチワーク等に使う時も同様です。それにその柄によって作るもののだいたいのイメージは決まってきます。一方無地の生地は他のどんな生地にも合わせやすく、また見た目に淋しさを感じたら刺繍したりアクセントになる小物等を縫い付けたりすることもできます。こんな点から柄物の生地は箱的、無地の生地は袋的だと考えました。

04T3061G 戸堀一真

箱的:形に意味を持つ建築
袋的:増築をされた建築

形に意味のある建築の例としては、東京カテドラル聖マリア大聖堂である。上空から望むと、キリスト教を象徴する十字架がデザインされているという点は、事前的でない限り実際に形となって現れることはありえないし、設計の段階で事前的に取り入れられたと考えるほうが自然である。そういう意味から形に意味を持つ建築は箱的だと思う。

箱的に対して袋的なものは、増築を施された建築だと考える。元の形状に手を加えることは事後的である。また、形状に意味が隠されたものを増築することは、大半の場合、その意味を失わせることである。仮に、意味を持つ建築に増築をしたとしても、増築をした時点でその意味を失い、事後的になってしまう。だからこそ、形に意味を持つ建築と、増築をされた建築というのは、対極のような存在であり、これによっても増築された建築を袋的であると言うことができる。

2年 04T3081A 
三浦 淳史

箱的→インスタントカメラ
袋的→デジタルカメラ
インスタントカメラの用途と言えば、ただ写真をとるだけです。しかも、鮮明度は会社によってさほど変わるものではありません。以上よりインスタントカメラは箱的だと考えます。一方、デジタルカメラはさまざまな用途があり、今では動画も撮れるほどになってきています。機能も日々進化を遂げて、夜景や花火、至近距離を撮る場合にも対応できるようになりました。大きさも小さく薄くなりこれは袋的だと私は考えます。

04T3093E
山田卓矢

箱→家庭用のお弁当箱
袋→コンビニのお弁当容器

身近にある箱と袋を見つけろといわれて思ったのがお弁当です。高校時代に母親が作ってくれるお弁当は毎日おかずが違いました。でも、おかずが入れられている弁当箱はいつも同じ形をしていました。その為におかずどうしがギシギシに詰め込まれていたり、逆に明らかに手を抜いただろうと思うくらい弁当の空間が感じられる時もありました。あらかじめ大きさの決まっている容器におかずが詰め込まれているという行為が僕には箱的に感じられました。そこで僕は家庭用のお弁当箱を「箱」と考えました。それに対するものがコンビニなどで売られているお弁当です。コンビニにはいろんな種類の弁当が陳列されています。しかもその容器の大きさは様々です。これはご飯の量やメインのおかずの量が考えられてから容器の大きさを決めているからだと思います。しかもおかずの多い弁当の容器を見てみると、少し盛り上がった仕切りまであります。どこに何が入るのかがしっかり決められているコンビニのお弁当容器は「袋」だと考えられました。

04T3086B
村上 亜衣

袋的;ハンガー
箱的;タコ足洗濯ばさみ

 ハンガーもタコ足洗濯ばさみも洗濯物をほすための道具です。ハンガーはタオルなどをかけることもできますが、基本的にはシャツなどがしわにならないようにあのような三角の形をしています。スカートやズボンをほすためのハンガーも同じだといえるでしょう。これは初めからどの洗濯物を対象としているかが決まっているといえる。事後的、袋的だと思う。

タコ足洗濯ばさみ、、、という呼び方でいいのかわからないが、洗濯ばさみがたくさんついたものだ。これは、シャツやスカート、ズボン、タオルをほすことも可能のうえ、靴下や下着、ハンカチなどさまざまなものをほすことができる。これは使う人によって代わってくるし、事前的であると思う。よって、箱的であると思う。

04T3025A
加藤絵梨

箱的→カラーボックス
袋的→引き出し
カラーボックスは使う人や目的によって用途が違う。本を入れたりすることもできるし、雑貨などもしまっておける。だがカラーボックスなどに入れる引き出しはカラーボックスにぴったりと入るように大きさが決まっている。引き出したその箱の中に納まらないと意味をなさない。だから、箱的なのはカラーボックスで袋的なのは引き出しだと考える。

04T3001C
赤羽 利哉

箱的 → 軽自動車
袋的 → リムジン

リムジンは明らかに袋的である。あんなに大きくて日本の道路事情や運転のしやすさを全く考えないで、ただ中に乗る人の快適性だけを考えてつくられ、明らかに袋である。

それに比べ軽自動車はどれだけ道路事情に適していて、燃費が少なくすむのかなど、車の中身だけでなく、まずはその車の機能から考えられている。

今回のテーマを考えるにあたって、いくつか考えたのですが、どれも見方次第で箱的にも袋的にも変わるのではないこと思いました。例えば紙幣(箱)と硬貨(袋)。紙幣はそのものの価値ではなく、使いやすさや見やすさを重視して作られている。硬貨(特に昔のお金、小判など)はそのもの自体に価値を持っている。しかし、少し見方を変えてみればこの二つには対称点よりも共通点のほうが多い。それを考えるとどちらも袋であったり、箱であったりする。例えば両方、加工をすることによって意味を持たせるという点では紙幣も硬貨も箱的と言えるのではないでしょうか。そんなことを考えたら比べられるものは全て箱にも袋にも見方次第でなりえるのではないかと思いました。

04T3043J 篠澤朋宏

今回のテーマにおいて、事前的なものをノート、事後的なものをルーズリーフと捉える事にする。ノートは種類によっても様々だが、枚数は30枚、40枚と決められたものが売られている。これは規格で定められた枚数(ルール)、つまり事前的であり「箱」であると考えられる。
一方、ルーズリーフは紙が一枚一枚になっていて、閉じるバインダーによっては幾らでも枚数が増やせる、つまり事後的であり、「袋」であると考えられる。

「事前的」、「事後的」を考えていて思ったことだが、明確な利用目的の有無という視点で捉えると箱と袋が真逆になってしまうのである。
明確な利用目的ありきでつくられたものは、目的があった上でかたちが決まったという事で事後的になり、それは袋になる。しかし、それ以外のものには対応しない、つまり発展性を伴わないもの、(revolve)と考えると箱的なものになる。

一方規格で作られたものは利用目的に制約がない、これは目的の前に事前に形が決まっていると考えると事前的であり箱になる。しかし、利用目的が明確に決められていない事から幾らでも応用が利く発展性を持つもの(evolve)になりえると考えるとこちらが袋になるとも考えられるのではないだろうか。今回の講義はとても複雑でしたが、得るものもその分大きかったように思います。

04T3098F 横島由佳

袋的なものは家具である。
家具にはいろいろなサイズ・デザインのものがある。ある空間があってその中に合った家具が置かれます。何もない空間にその空間に合ったデザインやサイズのものをあとから置いてひとつの空間を作り出します。部屋の空間を考える時に家具を置くのはあとから考えられるので事後的である。

箱的なものは間取りである。
間取りはそれぞれの部屋を使う目的に合わせて私達が過ごしやすいサイズを考えてつくられている。つまり事前的である。先生が例に挙げていた洗剤の箱と似ているところがあります。

04T3057J
2年 塚田 裕太

箱→小学校、中学校
袋→高校、専門学校、大学

小学校や中学校は、義務教育で小学校6年中学校3年の9ヵ年行くことが義務とされています。つまりこれは、学校へ入り勉強をすることが決められている。だから、小学校、中学校は箱的であると思いました。
これに対し、袋的なものには高校や専門学校や大学があげられると思います。これは、箱的な小学校、中学校のように義務教育ではなく、自分の意思によって学校へ入ることになる。このことから、高校、専門学校、大学は袋的であると思いました。

坂牛研究室 M1 芦田貴文
 オーダーメードスーツとレディメードスーツ そのちがい 
 スーツには、既製品と、その人にあわせてつくられたオーダーメードスーツがある。でも見た目ではいったいどれくらいの人がその違いを見分けることが出来るだろうか。しかし、着用する人にとってはおそらく大きな違いがある。既製品スーツは、規格にそって作られたスーツから、自分の身体に合うものを選び出さなければならない。規格という事前的ルールによって作られた箱的なものである。対してオーダーメードスーツは、着用する人の身体の寸法を測って体系に合わせて仕立てるもので、身体という事後的な要素によって大きさが決定されるため、袋的スーツといえる。オーダーメードスーツは、しっかりしたものほど、とっても動きやすく、また素材やデザインも好みに合わせることが出来るため、とっても快適なものとなる(だろう)。
 オーダーメードスーツでは、人の寸法に合わせるものだといったものの、それはその人の体にぴったり合わせるモノではない。その人の体が仕立てたときから体の大きさが変化しないものならば、身体とスーツとの関係は一義的である。しかし身体は、さまざまな活動に応じていろいろな体位をとらなければならないし、時間が経てば体系も変化する。その変化に対応するために、遊びをつくらなければならない。その遊びが人とスーツとの調和をはかり、より身体を自由にさせるのである。スーツは、一面では社会的地位を表す道具としても用いられることもある。時代時代にカッコイイ形もあることだろう。しかし、そのようなうつろいやすい要素で決定しても、時間が経てば表象している意味も変化してしまう。でも本当にいいものは、その身体とスーツとの間の遊びをはかってつくられたもので、そしてそれをつくることがカッコイイと私は思う。身体を、食べたら太るとか、そういう事で事後的に変化する袋的なものとしてとらえると、オーダーメードスーツと身体は、袋の中の袋の関係にあると言うことができるのでは?

04T3070F 人見祐策

 袋的・・・スケジュール帳
 箱的・・・無地のノート

 スケジュール帳のどのページを見てもわかるが、それぞれのページには意味がある。日付けや曜日などによって書き込むべきスペースが区切られている。これはどのようにしたらスケジュールを管理しやすいか、どれだけの書き込みスペースが必要かを考慮されたうえでつくられている。つまりは日付け、曜日、書き込む分量によってスケジュール帳を形成しているのである。そのため事後的、袋的であると考えられる。
 一方、無地のノートはなにも書いてない、大きさの同じただの白い紙の集まりである。何を書いてもいい、使い方は自由だ。書き込む内容は決まってなく、大きさのみが決まっている。その大きさの制限の中でいろいろ書き込まれる。この大きさのみが定まっているという点が箱的な意味合いをもっていると思う。そのため事前的、箱的であると考えられる。

04T3031E 金 昌秀

箱的→コンビニ
袋的→デパート

日頃僕たちが活用しているコンビニ。コンビニというのはあらかじめ売るものが決まっている。例えばジュースやお弁当、本、タバコなどどこのコンビニでも売られている。どのコンビニもたいていの大きさは決まっていて、そこにこういった食べ物や本などを置いている。これは事前的に建てられたものだといえる。
さて、次にデパート。デパートはコンビニと違い、デパートによってあらかじめ売るものが決まっていない。ここのデパートは洋服だけが売られている、あそこのデパートは食べ物が売られている、といったように、その売るものによって、階数が多くなったり大きくなったりします。これは事後的に建てられたものといえる。

箱的なもの:市販で売られているグローブ
袋的なもの:オーダーで作るグローブ
これはグローブだけでなく、スパイクやなどにもいえることなのですが、市販で売られているものは、プロ選手のモデルなどその選手が使いやすいように作られていて、もう形としてあるものなので事前的と思います。
しかし、オーダーで作るものは自分の好きなように、自分の手や足の形に合わして作れるので、袋的だと思います。

04T3046C 杉山文野

箱的:100円ショップの価格設定
袋的:すし屋の時価

100円ショップに並ぶ商品が全て100円なのは、言うまでもなく100円ショップだからです。コンビニやスーパーの相場より高かろうが安かろうが100円ショップの中では全て100円です。つまり、この100円という価格は事前的に決定しています。それが最も顕著に現れるのは、「4個で100円」の表示があるお菓子です。1個では30円程度の値段ですが、100円ショップに置くからには100円という価格設定に合わせなければならないため、「4個で」という現象が起こるのだと思います。以上より、100円ショップの価格設定は、箱的価格設定だと思います。

すし屋の時価は、完全に事後的です。漁獲量や質によって魚の価格が決まり、ネタの仕入れ値によって、すし一貫の価格が後から決まってくるのです。よって時価というのは、袋的価格設定だと思います。

04t3032c 木村 知晃

僕は袋的なものをボールとします。ボールというものはサッカーボールだったり野球ボールだったり、それぞれ使う用途に合わせて、その用途に適切な大きさで作られています。それぞれのスポーツで使いやすいように大きさが事後的に決められているという意味で、ボールは袋だと言えると思います。
反対の箱的なものとして僕は風船を挙げたいと思います。ボールが使うスポーツなどによって、おおよその大きさが決められているのに対して、風船にはそもそも大きさというものがありません。形も色々なものがあります。そもそも膨らましたり、つついたり、割ったりするものが風船なのだから、何かに束縛されて大きさや形が決まっているというわけではないのです。そういった意味で風船は箱的なものだと思いました。

04T3042A 繁山 和夫
箱的:砂時計(時間の指定がないもの)
袋的:腕時計
まず砂時計についてです。砂は粉末状のものですから容器によって砂の固まりの形も変化します。砂をいれる容器のデザインは砂の形に合わせる必要がないというよりもむしろ砂の形を決めるのは容器の形です。この点で外部のデザインから考えるのが普通ではないでしょうか。内部のデザインは砂の質です。容器に入れる砂は色をつけたり、砂の質を変えたりできますが、そのようなことに左右されず容器の形は自由に決めることができます。
以上のことから箱的だと思いました。時間の指定がないものとしましたが、指定がなくても砂時計の機能は果たしているからなくてもいいかもしれません。
次に腕時計ですが、人の腕の太さを考慮しないと腕時計として成り立ちません。それから腕時計のデザインを考えるので袋的だと思います。

04T3015C 岡野瑛貴

箱的なもの:体育館
袋的なもの:運動場(グラウンド)
この2つはどちらもスポーツをするための場である。しかしそれぞれの場所で行うスポーツは多くが違うものである。体育館という箱の中で(限られた空間の中で)私たちはバスケやバレーなどを行う。体育館という場所を聞いてほとんどの人はこれらの決まったスポーツを思うのではないだろうか。
一方運動場だが、こちらは体育館に比べ空間の制限が少ないため行うスポーツも多く、さまざまなことができる。だからといってバスケなどができないわけではなく、運動場にバスケゴールのあるところもある。体育館と運動場は共通する部分もあるのだ。そこがより、袋的、箱的の結びつきました。

04T3039A
小林 健太

箱的 → 人型ロボット
袋的 → 人間
人型ロボットを箱型だと考えた理由は、ロボットを作るにあたって別に人型にする必要はありません。しかし、人型ロボットというのは人の形にうまく機械を埋め込んでいきます。このことが決められた型に入れていくという箱型の考えにあっていると思ったからです。
それに対して人間を袋的だと考えた理由は、人間というのは頭があり、手・足もあります。それは人間の体の中にある内臓や筋肉など必要不可欠なものを袋的な考えで包んであると思ったからです。このように人間の形というのは必要なものをくるんで、その結果、人という形になったと考えると人間は袋的だと思います。

04T3074J
藤田 真理子

箱的:ティッシュペーパー
袋的:トイレットペーパー

 どちらも何かを拭いたり同じような目的で利用されるものです。しかしティッシュペーパーは事前的に一枚の大きさが決まっています。これは箱に入れるために一番最適な大きさになっているという点では事後的で袋的ですが、利用という目的からすると一枚の大きさが決められているので、いっぱいのものを拭きたかったりしたら枚数を多くするしかありません。これは事前的に大きさが決まっているので箱的だと考えます。
 一方トイレットペーパーは、ある一定の幅の紙が何mか巻かれているだけでそのときに利用したい分だけ使うことができます。これは事後的に量が決定されるので袋的だと考えました。

04T3064A 中井大海
袋的→電信柱の電線
箱的→地中化した電線
いつも空を見上げれば存在する蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線。海外を見れば地中化なんて当たり前のようにしている。
どうして日本は電信柱にしたのか?自分はより地域の発展について行き、臨機応変に対応できるように電信柱の電線にしたのではないか、と考えている。だからそっちに家が建つからそっちへの電線が、こっちに家が建つからこっちへの電線が、と繰り返され、電線の張り巡らされた地域が形成される。よって電信柱の電線は事後的な性格があると自分は考える。
地中化した電線はまず地域全体としての像を設計者は描き、細部は後から考えている。と思うため事前的な性格があると自分は考える。
今自分の中ではイメージとしては地中化の方がより良い

もうちょっと言うと袋って何らかの意図があってモノを入れるけれども(硬いものを下に入れるとか)、結構周りから見たらぐちゃぐちゃ感がある。また、いっぱいに入った袋、箱にチョットしたモノを入れるとき袋なら多少伸縮するから問題はないが、箱ならまた全体を整理して入れなくてはならない。←そんなところで電線は袋、箱に似ている。と思う。

05TA340F
松永崇

先生の例が間違ってないというか、正しい。そこには議論の余地なし。僕以前にコメントを書き込んでいる何人かは、先生に絶対服従というような感じになっている。つまりある決定事項(先生の例)のもと、コメントが書かれている。箱的のような気がする。
きっと先生がここに分かりやすい例と記したのには、おそらく2つの意味がある。1つは今回のお題のハードルを下げて、わかりやすくするため。2つ目はその例の中に何かを隠しこむため。(まちがっていたら、申し訳ありません)
僕は、この例の中に、決定事項を歪めるものが含まれているのではないかという気がする。どういうことかというと、ある決定事項をただ正しいとして、何ひとつ疑うことなく流すのではなく、決定事項を俯瞰的に、客観的に見ることで違う視点がうまれ、それが袋的につなげられるではないか。
そこで先生の例について考えてみる。先生の例は、洗剤を入れるダンボールは袋(事後的)で、引越し用のダンボールは箱(事前的)。この「事」となっているのは、ダンボールを作ることである。では「事」をダンボールの中に入れるものとしてみると、洗剤というのは事前の決定ルールになる。だから箱的になる。箱と袋は視点を変えれば逆転することもある。どちらかが正しいとか間違ってるというのではない。

では、今回のお題に入りたいと思う。身のまわりのものから思いつかなかったので、ヴェンチューリの『ラスベガス』という本の中にでてくる建物を参考にしたいと思う。
ギルド・ハウスは袋的で、クロフォード・メナーは箱的である。
クロフォード・メナーはポール・ルドルフが設計した建物で、その時代のお墨付きの代表的な建築である。つまりモダニズム建築である。この建物はある決定ルールがあり、それに従って設計されているため、箱的である。一方ギルド・ハウスはヴェンチューリが設計した建物である。ヴェンチューリはこの本でモダニズム批判を行った。彼はモダニズムという時代の流れの中で、モダニズムについて分析し、その中から独自の理論を展開している。ギルド・ハウスには時代性にとらわれず、いくつもの決定ルールがある。どれか一つに固執しているわけではない。だから、袋的である。

04T3068D 羽田和彦

 僕もこの箱と袋を考えていくうちに、箱が袋に、袋が箱になってしまったりと、ごちゃごちゃになって軽く混乱してしまいました。そこで、坂牛先生の例のようなものを探してみました。僕が考えたのは、貯金箱。「○○円貯まる貯金箱」が袋。ある金額分が溜まるためには硬貨が何枚入ればよいのか、それをしっかりと計算して、作られていると思います。形は大抵円筒型。形はそれほどきにしていないような気がします。箱は「ブタの貯金箱」。こちらは逆に、いくら入るのかということよりも、形を重要視しています。この形が坂牛先生の言う、規格サイズにあたると思います。先生の例と、同じような答えになってすいません。

04T3083H 峯村亮佑

箱的 → ボディーソープ
袋的 → せっけん

子供のころはせっけんしかなかったように思うが、最近では普通に出回っているボディーソープ。これはシャンプーのように液体ですぐに泡になる。濃さも量も毎回ほぼ一定の使い心地。しかも体を洗う専用の物なので分類としては箱的。
一方せっけんは、量も自分で決められれば泡立ちも自分の加減次第で決まる。しかも体を洗うもよし手を洗うもよし顔を洗うもよしで。用法用量は使い手次第という部分が事後的で袋的だと思いました。

04T3067F 野原麻衣子

箱的なものをフォークやナイフ、袋的なものを箸と考えました。
例えば、フルコースは左右の外側から順番に使うという決まりがあります。魚料理用のフィッシュナイフは特にわかりやすいですが、そのほかのフォークやナイフも料理に合わせて形状がやや変わっています。つまり、特定の料理を食べるために事前的に設計されたものだと考えられます。一般的に使われているものでも、フォークはさすまたは拾う、ナイフは切るなど、用途が限定されています。
一方、箸はそれだけで大体のことができます。「この箸で白いごはんだけを食べてほしい!」と思ってお箸を作る職人さんはいないと思うのです。むしろただの棒が二本あるだけなので、食事のとき以外にも活用できる場所がみつかりそうな気さえします。

03t3053b 武智靖博

箱的建築:21世紀美術館
袋的建築:フランス国立図書館

 まず箱的建築と考えるのは、SANAAの21世紀美術館です。これは実際に見に行った建築ですが、この敷地は周囲から自由にアプローチできるという特性がありました。ここに僕がこれを箱的建築に上げた最大の理由があります。
 ぼくの推理によると、敷地内にはほとんど背の高い木はなかったように思いますが、これは視界を遮らないことで、建築物それ自体と歩行者あるいは、周辺敷地に膜を作らないことを意識してのことだと思います。植栽などで意識的に隔離しようとする美術館はよく見ますが、ここでは逆にそうすることで、開かれたイメージを与える初源的かつ効果的な手法になっていました。そして、ここで浮かび上がってくる設計コンセプトは「気軽に出入りできるような開かれた美術館」です。あくまでも推測の範囲ですが。となると、建築物の形態もコンセプトに包括的に展開されていくのも当然です。その最も適した形が円だったのです。
 円にすることで、表情の裏表はなくなり、建物を囲むガラスのファサードは周囲の町並みを映しこみ、あくまでもそのエリアの一部だと主張しているように感じられました。そのような効果も狙って最初に敷地にドーンと円を置こうと、事前的に決めたのではないでしょうか。
 
 次に袋的建築ですが、ドミニク・ペローのフランス国立図書館は袋的だと考えます。これも実際に見に行ったのですが、とにかく印象的だったのが中庭でした。これほど強烈に訴えてくる中庭は初めてでしたが、全体とのバランスの均衡は崩れてはいませんでした。妖怪にはなっていなかったのです。ここに袋的建築と推測できる理由があります。
 中庭を囲む建築から中庭を望むと、まるで逆にこちらが中庭に林立する大木に囲まれているかのように錯覚してしまうほどでした。もしこれが狙いであるとしたら建築物の計画は事後的になったはずです。もしかしたら当初は中庭は中庭でなく、違った形で同じ効果を期待して計画されていたかもしれません。やはり強い性格の中庭が最初にありきで、建築物のほうから事後的にその距離を埋めていったのではないでしょうか。

 今回の箱と袋という概念は一見相反するものに見えますが、お互いに侵食しあっている部分があり、特に箱的要素が袋的要素に強く働きかけている場合が多くあると思いました。坂牛先生の例で言うと、洗剤の大きさという事前的要素があることで、事後的にダンボールの大きさが決まるということです。だから箱と袋という概念は純粋な両向きの矢印で結ばれるのではなく、箱から袋に向く矢印が膨らむ感じになると思うのです。ちょうど英語の前置詞のofのように対象の影響を引きずる感じです。さらにこのような状況はこれまでに登場してきた「人間」と「妖怪」などにも通じると思いました。
 

04T3040D
桜井愛海

箱 → 琉球畳
袋 → 一般的な畳

琉球畳は、正方形で縁のない畳です。これは単に、2:1の一般的な畳を半分にしただけの畳(半間)なので、箱的だと思います。アメリカやヨーロッパのライフスタイルが好まれてフローリングの床が使用されるようになり、日本の住宅では畳の部屋が減ってしまいました。しかし最近では、機能性や美しさが見直され、琉球畳が多く使用されています。正方形で縁のない琉球畳は、和室にはもちろん洋室にも合っています。

一般的な畳は、日本に昔からあるもので、大きさは、縦が約180センチ、横が約90センチです。実は、畳1枚は、「人が1人寝そべって足りる面積」だと言われているそうです。つまり、畳は人間の身体を基準にして、その大きさが決められているというわけです。メートルという単位があるにもかかわらず、いまだに「間」や「尺」が使われているのは、それが袋的なやわらかさ(自由、可能性)をもっているからではないでしょうか。
高校の授業で、「4畳半にはわび・さびがある」という話を聞いたことがあります。それはたしか、4枚の畳(4人分のスペース)が半間を囲み、向かい合うことができるからである、ということだったと思います。

04T3019F 小倉 和洋

 袋建築として「富弘美術館」を、箱建築として「ビアニマーレ・ノマディックミュージアム」を挙げたいと思います。この二つは今年四月号の新建築に紹介されていた建築です。
 
 まず、「富弘美術館」ですが、これは一見するだけだと箱建築に思われるかもしれません。それは形が正方形をしているからです。箱建築の定義として「幾何学的」というのがあり正方形はまさに幾何学的な形です。しかし、ここで説いているのは、事前的か事後的かです。その点において「富弘美術館」は事後的であり、袋建築です。それは、この美術館が星野富弘という詩画作家の作品を展示するために設計されたものだからです。入れるものに合わせて設計するのは事後的です。
 さらに、形から見ても袋建築だということがわかります。さっき幾何学的で箱的と言った事と矛盾しますが、一見するとただの箱ですが、全体の形を見るのではなく部分部分を見ると袋だとわかります。その部分というのは一つ一つの部屋が大小さまざまな円で作られていることです。円もまた幾何学的な図形ですが、富弘美術館の設計者のヨコミゾマコトさんの新建築でのコメントで「星野氏の作品は小ぶりなのもばかりである。それゆえに湾曲した壁に展示しても支障がない」と述べられているように、円というのは小ぶりな作品なら支障はないが、大きな作品になると支障が生じる図形ということになります。それは入れるものによって形を変える”袋”といえるのではないだろうか。
 
 次に「ビアニマーレ・ノマディック・ミュージアム」について説明したいと思います。これもまた、富弘美術館と同じでこれも特定の写真家グレゴリー・コルベール氏のための美術館です。しかし、決定的な違いがあります。それは「ビアニマーレ・ノマディック・ミュージアム」はグレゴリー氏のための美術館というよりも、建築のための美術館のように感じるからです。それがどういうことかというと、この美術館はは建築の新しい可能性を示すためのものに見えるからです。グレゴリー氏の移動式の美術館という要望はきっかけにすぎず、わかりやすくいうと、「移動式でコンテナを積んだ建築物」というものが中に入るものよりも前にある建築なのです。だから「ビアニマーレ・ノマディック・ミュージアム」は箱的に思います。
 
 今回、美術館の比較としてこの二つを挙げましたが、これも同じ雑誌に載っていて、隈研吾さんの福崎空中広場はよりいっそう箱的です。理由は「ビアニマーレ・ノマディック・ミュージアム」と同じで、さらに特定の誰かのための建築ではないところがより事前的に思いました。

04T3052H 高柳翔太

 子供の頃にたくさんの工作をしました。特に僕は粘土でロボットを作ったりお城を作ったり、そのときそのときの気の向くままにいろいろ工作していました。しかし、小学生になり、知らないうちにプラモデルを買ってつくるようになりました。プラモデルは買ってあけた時そこに組み立て説明図があり、どんな人がつくろうがたいてい大きな違いがないようにつくられています。一方小さな頃に夢中になった粘土遊びは、つくる人の意思によって姿が変わり、同じものをつくるように指示してもまったく同じものはできないものです。そこに箱か袋かの違いがあると思います。そして、箱というものは、この社会で生きていくためのマニュアルのようなものにも感じます。誰かが何かの目的のために何かを作って、別の人がその人の狙いどおり使う。そのようなルールがすでに決められているものが箱。しかしそんな箱も見る人が見れば袋になるかもしれません。境界線はあってないもののように思います。

04T3009J 内堀優磨

箱:飲食店の料理
袋:自分で作る料理

 飲食店の料理は、メニューから客が選び注文して食べる。メニューに載っている料理の中に入っている食材や味付けは、料理人が「これだ」というものに決まっておりいつ食べても同じであるはずだ。これは事前的であるので、箱と考えることができる。
 それに対して自分でつくる料理は、料理の名前は同じでも中に入っている食材も味付けも全然違うことが多々ある。また途中から別の料理になることもある。そのときの気分で出来上がる料理。これには初めから決められた形式がありません。よってこれは事後的であるので袋だと思う。

03T3038J 崔志宏
箱:洋服
袋:和服
 私は今衣料販売のバイトをやって、なんか服に気になって、洋服と和服の例を挙げたいと思います。
 まず、洋服は箱の代表的なものだと思います。洋服のサイズは一般的に二種類に分かれます。ひとつはS、M、L、LL、3L、4L等、もう一つは7号、9号、11号、13号等が、実際の意味は全く同じです。人の高さと太さの不同によって、自分の体に合うサイズを選びます。これは事前的に決定するから、洋服は箱です。
 次に、和服は袋的です。和服はサイズがないけど、誰でも着られます。例えば、同じ和服を着て、背が高い人の腰下の部分が長い、背が低い人の腰下の部分が短いです。そして、太い人の帯で作った結びは小さくて、細い人のはとても大きいです。ですから、和服は事後的に決定するものです。すなわち、和服は袋です。
 洋服と和服のデザインでも着る方法は不同ですが、やっぱり服です。

04T3101K
和田隼人
 
 ライトの「落水荘」というか、それを含めた全体像の中に箱と袋が存在していると思う。この設計ではコンクリートによって水平のレベルを数多く作り、そのうちの3つが主屋を構成し、それが水平な岩棚を思わせるようにすることで周囲と調和させて、抑制したやり方でスケールを周りに合わせている。わざと岩棚を取り除いてみたり、逆に付け加えてみたりすることで、低いレベルと高いレベルとの間に自然の状態では存在し得ないつながりが生じたりもしている。つまり、この落水荘を取り巻く自然環境が箱、落水荘そのものは袋であると思う。西ペンシルヴァニアの森深く、ミル・ランの町の近くを流れるベア・ランと呼ばれる渓流をまたぐようなロケーションは変えることのできないものとして事前的に決まっている。箱である。周囲の環境に溶け込み、住む人間の日常の暮らしの中に周囲の美しさと劇的な効果を織り込もうという意図のもとにつくられた落水荘。事後的にそのかたちは決まっている。袋である。

04T3091J
安江昌晃

箱的なもの→参考書
袋的なもの→ノート

箱と袋、事前的なものと事後的なものと聞いて思い浮かんだものが参考書とノートでした。はじめから書いてあることが決まっている参考書は事前的なもの、最初は何も書かれていないけれど、それを使う人によって、使う方法によっていろいろな内容のものになるというノートは事後的なものだと思います。この例の場合、袋的なものはその使用方法によっていろいろな形になることが出来るけれど、箱的なものが必ずしも事前的なものであるかというとそうではなくて、その箱的なものの中に袋的なものも入っているような気がします。
 いろいろな制約を受け、最初からそのもの自体が決まっているという事前的なものの中に袋的なものをつくることや、変化を加えて結果的に出来た事後的なものの中に箱的なものをつくるということは、その全体をどちらかに統一していなくてそのようなものが世の中には多くあるということが分かりました。袋的な箱も箱的な袋も良いものだと思います。

坂牛

今回はぐっとみんな面白くなってきた。講義のテーマのせいもあるし、問題の出し方もあるけれど、ザーッと読んでみて引っかかるものが多い。
ところで昨日、上野の都美術館でやっている、プーシキン展を見てきた。時間も無いので閉館ぎりぎりに行って駆け抜けるように見てみた。ラッシュアワーのような混み方だからもとよりゆっくり味わうなど不可能なのだが。そうやって走るように見て、自分の目にふと留まる奴をもう一度逆向きに走るように見て、最後にもう一度気になったものだけ一分くらい見る。なんで僕はこれに眼が留まったのか?
さて僕の眼に留まったのは。ルノワール:黒い服の女たち→中央の女性の肌の色が異様に明るくそこに吸い込まれそうだった。ポール:シニャック:サントロペの松ノ木→色が美しい。モーリス・ドニ:ポリフェノス→人物ヌードの肌色が妙にオレンジで美しい。マティス:金魚→馬鹿みたいな中心的な構図があっけらかんとしていい。ピカソ:アルラカンの女→二人の女の姿勢が平面的だが90度顔の向きがずれていて・・・・(話すと長くなる)
さてこうやって見るとピカソマティス以外はほとんど色に感動しているのである。考えて見れば印象派近辺の時代とは線を捨てて色に移行した時だから当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、僕の基本的な感覚として、形より、色に惹かれるところがあるのかもしれない。
みんなも美術展をこうやって駆け抜けるように3回見ると(全部で長くて30分)自分が何を欲するのか見えてくるかもしれません。
(余談でした)

さあ締め切りまであと10時間まだ出していない人はがんばって。

04t3033a 草間康至

箱的なもの…京
袋的なもの…江戸

在るカタチが少し大きいような気がしますが、今回の課題の対比で1番初めに思いついたものがこれです。
その都の中の一つ一つをとってみれば少し変わった見方も出来るかもしれませんが、全体としてみるならば京は箱的なものと考えられます。何故なら、そこに建てる土地からその都に見合ったものを選んでいる。この場合、平安京を例にとるなら怨霊を恐れて、都市としての快適さ(水害が多い)がないのも承知で四神相応の地を選定した上、碁盤目状に都を造ったのは箱的としか言いようが無いように思われる。後者の江戸は元々未開拓のところを人が集まり、そして人口が増えるにつれ、当たり前のように街も大きくなっていきます。どんどん膨らんでいくその様は節操のないように見えます。袋的なものが節操がないというのは違いますが、後付でどんどん膨らんでいくその様は袋的といっていいと思います。後者にある種の法則性があるにしても、前者のように徹底はしていないように思える。
 こういう理由で僕はこのように考えました。

04T3080C
松田龍一

箱→CD
袋→(そのCDを出したバンドの)ライブ

この夏にでっかいロックフェスに行ってきておもったのだが、CDの曲と同じ曲をライブで聞くとかなり違ってました。音が悪かったり、ギターのリフが原曲と全然異なったり、バンドのメンバーでないサポートの人がいたりと違った部分が多々ある。
このあたりにCDで聞く曲が箱的で、ライブで聞く曲が袋的であるのではないかと感じる。
CDも造る段階で、出来上がって録音に使用としていた曲に色々アレンジを加えることができる。ライブはあくまで原曲をもとにしている。このことを考えるとCDは袋の中の箱、ライブは箱の中の袋といった方がいいかも知れない。
今回の課題は考えていると何か訳がわからなくなってくる。ものすごくあいまいな境界で出来ている物だと僕は感じた。

03T3026E 勝 良介

袋的なモノ: 鉄道システムの一部としての電車、新幹線の車両
箱的なモノ: 鉄道車両と車両の中身(座席、内装など)の関係においての鉄道の車両


* 袋的なモノ:電車、新幹線の車両

電車などの鉄道車両の形は、2本のレールの幅(軌間)やホームの高さ、架線などの送電設備という鉄道のシステムや鉄道を利用する人間のスケールなどの様々な要件によって、車両断面の形状や扉類の位置や高さの形状は制約を受け、鉄道車両の形は鉄道のシステムのルールや法律によって決定される袋的なモノといえる。

さらに700系、800系といった新幹線の先頭車両は、高速に快適に運用するために流体力学から導かれた複雑な3次曲面からなり、運転台の居住性や運転手の視認性といった人間工学的な考慮のされたカモノハシ型といわれるような形状をしている。このように、新幹線の車両は四角い在来線の車両に比べてさらに「袋度」の高い袋的なモノといえる。


* 箱的なもの:鉄道車両と車両の中身(座席、内装など)の関係においての鉄道の車両

箱的なもの=事前的に「形」が決まっているモノの例として、まずペットボトルと水の関係が浮かんだ。ペットボトルの容器は何種類かに規格化されたものであり、容器の形によって中身の水の形状も変化する箱的なモノと捉えた。

鉄道車両とペットボトルという例では、比較検討ができないので、< ペットボトル-水 >の関係を乗り物や鉄道関係のものに当てはめた結果…、<鉄道車両のボディ-車両の内装>の関係がふさわしいのではないかと考えた。(乗り物というカテゴリーで<電車-自動車>というような比較をした時、自動車やバス・飛行機といった乗り物は、すべて「人間の移動手段」としての役割をもった袋的な形状を成すから。)

<鉄道車両のボディ-車両の内装>の関係について
鉄道車両は、システムの一部として外的な要素で形が決定される(袋的なものである)が、決定された形は規格化され量産される。この規格化された鉄道車両のボディ(構体)に合わせて、利用する人が使いやすいような、座席の配置や個数、吊り革の高さや形状、サインなどが決められていく。よって、まず容器としての車両の形があり、中身が容器に合わせて決定される箱的なモノと考えた。

03T3102D
山内一矢

箱→現代美術館
袋→古典美術館
 古典美術館とは印象派代表であるモネの絵画であったり、ルネッサンスの巨匠であるミケランジェロの彫刻であったり、そういった昔から存在する美術品を展示する美術館を指しています。古典美術というのはすでに存在しています。各々に合った展示室を造るという意味で古典美術館は袋的ではないかと思います。
 それに比べて現代美術館は美術館がすでに存在し、展示品が変わり様々な展示会が行われたりします。そういう意味で箱的だと思います。現代美術館では美術館と美術品が同時進行で作られる場合もあります。そうなってくると、芸術家と建築家の共同作業になり、芸術家は美術館の内装や空間に意見をします。展示する空間も含めて芸術となり、建築家の意思とは別の意思が入り込んで形が決まります。まさに箱の中の袋ではないのでしょうか。
 長野市における美術館を例に挙げてみると、長野県信濃美術館は箱的であり、東山魁夷館は袋的であると思います。

03T3092C 三森 翔

 箱建築・・・修学院離宮
 袋建築・・・桂離宮

* 袋建築・・・桂離宮
 袋的建築として私が考えたのは、桂離宮だと思います。桂離宮はご存知のとおりブルーノ・タウトが絶賛し、グロピウスに「限りなき簡素とつりあいの故に最も近代的」と言わせたほど、建築と庭園の調和が優れているといわれます。 作られたのは江戸時代の初めで、最初の建設は1615~1616年頃とされ、このとき桂離宮の中心的建築である古書院が、1641年には中書院、1658年に新御殿が次々と建設され、二度による増築を経て現在の姿となり今も残っています。ブルーノ・タウトが『泣きたくなるほど美しい』といったように古書院からや新書院からの庭の眺めはすばらしく、増築したのはこの景色を最大限に引き出すためであると考えられます。これは3年の岡君の言葉を借りていうならば『作為的』であると思います。庭があり、“美しい景色を活かしたい”という意図のもと増築されこの行為は事後的である。よって袋建築であると思われます。

* 箱建築・・・修学院離宮
一方事前的の例としてあげた修学院離宮ですが、これは桂離宮と並ぶ江戸初期の代表的な山荘で、修学院離宮は,寛永6年に退位した後水尾上皇が企画した洛北の地にある広大な山荘です。現在離宮は上・中・下の御茶屋から構成されており,そこからは山々を背景に,京都の市街が一望できます。どちらも景色を眺めると言う観点では違いはありませんが、桂離宮はある一画の空間の美しさを発見しそこに新たに増築をしていて、修学院離宮はそこの空間にある美しさを初めから最大限に活かすために作られていると考えられるため事前的で箱建築であると思われます。

袋的なもの…病院や薬局で売られている薬。
箱的なもの…体にいいとされる食べ物。「この病気に効く」といわれる薬草など、しぜんにあって、人の体の助けになるもの。
 植物などは、生命で、ひとのためにあるものでなく、生物としてはじめからあって、それを調べてみると、人の病気を治すものであることがわかって、世の中で使われるようになる。
 薬は、人の病気(風邪など)があって、それを治すために、いろんな研究などを重ねてつくられたもの。事前に目的などがあったうえでつくられたので、事後的かなと思いました。

02T3045H
田中淳
袋的なものと箱的なもの
これらは何人かの方が言及していたように「事」の次元を変えることで箱・袋は境界があいまいになっていく。もしかしたら「完璧」な箱的なものは存在すらしないかもしれないし袋も存在しないのかもしれない。今回は純粋に中身と外装の関係で書こうと思う。

例としては
週刊~ 月刊~ といったマンガ雑誌
これは中身とは関係なしに予想される購買層や陳列のしやすさといった要素から毎週毎月規格化された大きさにいくつのもマンガが封じ込まれている。
こういった点で箱的であると思う。

単行本
これらもある程度箱的でサイズはそろっているが最近は特に厚さやサイズがそれぞれのマンガに合った?サイズになっていることがある。あるマンガはサイズが大きすぎると読みにくく、またその逆もありえる。これらは出版する内容によって作られているので袋的であると思う。

03t3087g 松岡澄生

箱的 事前的 :今日
袋的 事後的 :昨日

今日という時間の中にこれから起こる出来事が入っていく、という容量不明という意味で事前的と考えると今日は箱的であり、したこと感じたことを起こった出来事として考えると事後的に昨日は袋的だと思う。例えば、昨日の4時から1時間私はスーパーに買い物に行った。今日から見ればしてしまったことしてその事象があると考えると袋的だ。今日の4時から1時間はまだその時間がきていないため何をするか様々な選択肢があるという意味で何をするか決めるか箱的だと思う。

02T3051B  土屋光司

箱的・・・クラシック
袋的・・・ジャズ

講義のはじめに一度先生が今までの題目を整理した。そこで決定的に前回までと今回が線引きされた部分がある、それはナカミ(前回まで)かキョウカイ(今回)かである。ナカミは物の本質を問うているものであり、キョウカイは物の境目を問うているものであると受け止めた。そこで気付いたことにこのキョウカイは必ずしも真ん中に、そしてくっきりと明確に引かれていないということである。講義の最後で先生がグレーにすることの大切さについての話をされたがそこには私も同様の考えを持っている。物事、白・黒で割り切る事はとても筋が通っているが特に人間を相手にした場合、白・黒で割り切るにはどうにも腑に落ちない部分が多々あるように思う。それは私たち人間の心や気持ちというものが本来確かなものではないからなのではないか。とかく曖昧さは世の中から排除される傾向にあるがその曖昧さを突き詰めた先には何があるのかとても興味がある。マラルメやオバルに通ずるように、あえて不均衡にそして曖昧にぼかすことで物が本来持っている力に委ねること、他の力を借りることは一つの有意義な手段に思える。

そこで今回のお題についてクラシックとジャズを挙げてみたいと思う。クラシックはベートーベンやショパンといった作曲家が残した譜面に忠実に演奏を再現し、その中で演奏家の表現、解釈を出していくわけである。決められた箱に合わせる形でいかに個性を出して演奏するか。言い換えれば箱の形は変えずに箱の色は何色にするのか、のような感じである。一方ジャズは、映画音楽やミュージカル音楽等を題材にして演奏者がテーマをアレンジして、即興演奏をするのである。同じ題名の曲でも全く同じ演奏は存在しないということである。「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」と言われるのはそのためである。形の自由に変化する袋の中でのびのびと個性を出して演奏する。言い換えれば袋の形を気にせず自由に詰め込もう、のような感じである。しかしジャズは即興演奏に変わりはないのだが一定の決められたルールの中で演奏している、そういった意味で実はその袋は箱の中にあったと言ってもいいように思う。自らの力の及ばないところというのは存在する。そこに強引に力を加えれば火に油を注ぐようなものであり逆効果である。流れに身を任すとはちょっと野暮な言い方かも知れないが、自分がきちんと舵を握ってさえいれば受け止めてくれる海原もあるものである。

03t3068a
 梨本耕平

    箱…大人
    袋…子供
 
  「大人」と「子供」という表現があるようにそれらの間には境界があります。

「大人」という表現は社会のルールやら様々な事前的に決定するルールによってできたものであり、決められた型に属するものだと思います。

また、「子供」が事後的に決定するルールによりできたとは思いませんが、「子供」は「大人」になるモノと考えるとこの定義は当てはまると思います。そしてそれは不定形なものです。

このように考えると「袋」は「箱」になれるが、その逆は難しいことです。
「箱」に対して「袋」は未完成の、型にはまっていない、可能性を持つモノだと思います。

03t3043e
新宮 敬章

箱的―発明品の模倣、発明品の生産品
袋的―発明品

発明されたものは、例外はあるだろうが、多くは事後的であると思われる。なぜなら、発明とは新しく物事を考え出すことであり、さらにそれを発明品と限定してみると、それは事後的であって事前的ではないはずである。新しいものというのは、予定されるべき形や機能はあるとしても、それを具現化する流れは誰も分からないし、本人もいそれに然りである。もし発明品が事前的であったとしても、それはおぼろげなる思念であり、箱的な強烈な形は無いと思われえる。それが、新しい物事を考え出していくならなおさらそうであろう。そしてそれを袋とした時に、箱的なものとはその発明品の模倣であると思われる。新しく生まれたモノは、世に浸透するためにそれらを大量生産されたものが出回る。人々はそれらの形と機能を簡単に手に入れることができる。それは発明者の発明品とは違い、純粋に形と機能だけであるだろう。故に、その機能を持った形として人々に浸透するため、人々の中では先入観に似たような事前的に思いついてしまうのではないだろううか。つまり、他者が発明したモノは自分自身でそれを見て使い、それが文化的に普及したときにもう事前的に、箱的に決められたものとして認識されているのではないだろううか。あらかじめある形として。

03T3027C
3年 兼子晋

箱的・・・一般的に売られている靴
袋的・・・特注された靴

靴は基本的に決まったサイズの大きさで作られている。それにおいて人は自分の足の大きさにあった靴を選ぶ。つまり一般に売られている靴は靴のサイズが事前的に決まっていてそれに対応した大きさを選ぶのだから箱的。反対に特注された靴はその人の足のサイズが決まっていてその人の足に合わせた大きさの靴が事後的に作られるわけだから袋的。だから形においても特注された靴の方が個人の好みになって面白くなったり、色も自分で決定できるから不定形になるのではないか。一方、一般の靴はたまに面白いものもあるがやはりそれは個人よりも大衆にむけたものが多いと思う。
これは服についても同じことがいえると思うがここは敢えて靴にしてみました。

03T3100H 望月翔太
 
袋的…お客様第一主義的店

 客がほしいものを陳列する、客がこれを買うからこれを陳列する、といった完全お客様第一主義的な店。ほとんどの店はこれに当たると思う。飲食店・電化製品店・スーパーマーケット、コンビニエンスストアなどなど客のニーズに合わせようと必死である。「お客様は神様です!」とまで言う会社もあるとかないとか。こういった店ではニーズに合わせた陳列方法・レイアウト方法…『トライアングルの法則!』のような(今勝手に付けた名前ですが)客の行動に応じた方法を考え出している。
 というわけで「客」があってその後に「店」が決まってくるので袋的。

箱的…オレのデザイン見てくれ的ショップ

 よく個人でやっているショップ、自分で作った服などを並べている店、自分のデザインを売っている。こういった店には、それを作った人に共感した客が集まってくる。「お客様第一」を否定するまでにはいかないが、それよりもまずデザイン優先。まず店があってそこに客が集まってくる。
 というわけで「客」よりも先に「店」があるので箱的。

施主が絶対、施主の言った通りに設計しますといった設計事務所。「こんなところに柱があるのは絶対やだ」といったデザインばりばりのアトリエ。これにもあてはまるなぁと思った…。そう考えると、デザインを優先させればさせただけ「箱的」なものとなってくるのだと感じた。

03T3080K 平岩宏樹

箱→碌山美術館
袋→諏訪湖博物館・赤彦記念館

この2つはとても規模の小さい美術館や博物館だ。規模が小さいゆえにそこに作品を詰め込むことにゆとりはない。しかし、そのアプローチの仕方は明らかに異なっている。それの違いが、この袋建築と箱建築に当たると思う。
碌山美術館は安曇野にあり、荻原碌山の作品を展示してあるところだ。その規模は幅7m奥行き18mしかない。展示室が1部屋あるだけの美術館だ。(今では別棟なども建っているが、ここでは最初に建てられたものを考えていく。)この美術館は昭和33年に今井兼次の設計により作られた。その外観は教会にそっくりで、赤煉瓦で作られており、アーチの窓をつけている。はた目には教会と見間違えるくらいだ。これは、今井兼次も荻原碌山もキリスト教信者で、はじめからこの教会風の形にしようとして計画されているのではないかと考える。この建物の中に碌山の作品を展示するとき、彼の精神性と、建物の持っているキリスト教的空間が、合わさるように計画された美術館だ。これは、まさしく今井兼次は最初に教会風の(キリスト教的空間を連想させるような)形をつくろうとしてこの美術館を計画したはずだ。
また、諏訪湖博物館・赤彦記念館は1993年に伊東豊雄の設計によりできた博物館で、諏訪湖畔に建ち、銀色に輝く外観が印象的だ。2階にある常設展示は、諏訪湖に関する資料を展示した諏訪湖展示室と、アララギ派の歌人・島木赤彦の作品や遺品を展示した、赤彦展示室の2つに分かれている。この博物館も規模が小さい。敷地も細長く、その中にうまく配置している。この博物館は最初に島木赤彦についての展示と諏訪湖の風俗についての歴史を展示しようとして作られている。そのため、この狭いく細長い敷地に無駄な形など存在できない。最初に島木赤彦コーナーと諏訪湖の風俗コーナーを配置し、その後特別展示室、事務室など計画し、それによって建物の外観などが決まったように思える。諏訪湖博物館は独特のフォルムを持っていて、一見箱建築のように思えるが、2階に島木赤彦コーナーと諏訪湖の風俗コーナーを配置しようと決めたとことから(細長い敷地の形状から考えてそうせざるを得なかったのかもしれないが。)あのフォルムが生まれてきたのだ。この部屋とこの部屋がいるからこうしようという過程で生まれたあの建築はまさに袋建築だと思う。

3年 春本雄一
前々回から参加させてもらっています。宜しくお願いします。

ハコ的:建築家の自邸
フクロ的:クライアントの為の住宅

ちょっと書き込むのが遅くなってしまったので、他の人と内容が大分被っているが気にせず書くことにする。
まず、ハコ的要素を持つものとして建築家の自邸を挙げた。これは、当たり前ではあるが自分自身のために建てるわけであって、その建築家の理論・思想などを十分に反映させることができる。つまり、その建築家のアタマの中には事前的に自邸が出来上がっているわけだ。
対して、クライアントの為に建てる場合ではそのクライアントの要求する条件・予算など、住宅を建てるという事実は揺らがないが、そのカタチ・インテリア等は相談するまで分からない。つまり、クライアントという名のパラメータによって、でてくる値が変化するわけだ。

02t3094f 山田 匠

『箱からできた袋』を通して、箱的要素と袋的要素を説明する。

青木淳の「ルイ・ヴィトン・表参道」だ。

箱的要素→事前的決定事項→トランクのような箱型の基本単位。

この建築物を外から見れば、横に穴の空いたまさに幾何学的箱の積み重ねだ。青木淳も解説として、「トランクを積み重ねる様に。」としている。つまり事前決定事項として「トランクのような箱型で作る」と言う事実が存在する。
これは、坂牛先生が袋として紹介した例の、洗剤にあたる。

では、どこが事後的か?

講義中で坂牛先生は、奥山先生の住宅を、「袋に入った箱」として、建築家の意図によっていない部分を―法律などで、自動生産される部分を―袋的である、としている。中根さんの言い方を借りれば造り手の意図の排除だ。

青木淳も決定ルールを、徹底的に行うことで建築物を形成し、作り手の意図の排除を行っている。青木淳の言い方を借りればは、決定ルールのオーバードライブ(暴走)だ。意図が排除されれば、その空間をどう使うかは、自由になる。これは坂牛先生が袋として紹介した、洗剤用の段ボール箱にも当たる。そう、洗剤用のダンボールも空になれば、他に都合のいい物が入れられる。

袋的要素→事後的→基本単位というルールの徹底により生まれた(生まれてしまった)形態。

つまり、決定ルール自体は、青木淳の決めた「トランクのような横方向に穴の空いた箱の積み重ね」という事前事項だ。しかしそれが、徹底されるということで青木淳の意図を離れ、あの形は自動生産される。最初からあの形を想定していたのではなく、ルールを徹底していった結果あの形になった。だから空の洗剤用段ボールに衣類がしまわれる様に、あの建築物はヴィトンでなくても、多分本屋にも、靴屋にもなりえる。

よって「ルイ・ヴィトン・表参道」は『箱からできた袋』と言える。
これが、袋の中の箱でも、袋に入った箱でもない。また違った建築的応答の1つだ。

05TA324D 高橋伸幸

 箱: 押し入れ
 袋: 専用ケース

「押し入れ」も「専用ケース」も収納するという共通の機能を持っている。しかし、形成される順序が違う。
 まず箱とは「事前のルールによりカタチがあり、後から人やモノが合わせるもの」を指していると考える。極端に言えば、中身のことは考慮せずカタチのみを追求したもの。例として「押し入れ」を挙げる。ここでの事前ルールは標準規格の決められた押し入れの大きさである。その押し入れは何を入れるのか全く考えられておらず、無秩序でただ収納するという機能を満たしているものである。しかし、応用範囲が広い。
それに対し、袋とは「人やモノというルールの源があり、それにカタチが合わせるもの」である。極端に言えば、中身が完璧にフィットするカタチを追求したものであり、中身にどれだけフィットするかが評価されるポイントである。例として「専用ケース」を挙げる。専用ケースはその名の通りあるモノだけを収納するものであり、中身の大きさ・形に合わせてつくられている。他のものは入れることはできない。そのため、中身にとっては完璧なものであるが、応用が利かない。
この2つの長所と短所を違う方向から組み合わせたものが「箱の中の袋」と「袋の中の箱」であると考える。「箱の中の袋」とは「押し入れ」の中に専用の収納空間があること、又は収納するものを仮定したものである。そこには秩序が生まれ、目的がより明確になる。例としてクローゼットが挙げられる。「袋の中の箱」とは「専用ケース」を他の目的でも使用できるようにすることである。それは完璧にフィットするものがあるがその他のモノも収納できるものである。
このように考えると「箱の中の袋」と「袋の中の箱」の差はあるものの、目指しているのは共通していると考える。また、現在では純粋な「箱」や「袋」は少なくなる一方で、「箱の中の袋」や「袋の中の箱」という新しい「箱」「袋」が誕生、増加しており、当たり前になっているとも考える。

02t3094f 山田 匠 補足です。
武智君の、これまでものさしで出てきた2つの事柄は、「対立する2項ではない」というのは新しくないけど、洗剤用ダンボールが「箱的要素を持つ」に共感します。

03t3089c 松田大作
箱建築→DNA
袋建築→性格

箱はある基準となるモデュールが決まっていて、それを意識的または無意識的に使用して決まった形になる。つまり、箱(建築)はそれがある前に箱以外の前提が存在する。箱以外の前提とは、洗剤の大きさであったり、人間の大きさでモデュロールという基準を作ったり、生まれる前の決定事項であったりします。それらにしたがって箱が決定されていく。これらは、設計の前段階における事前的なことであると思います。
一方、袋はモデュールとか関係なしに決まっていく。つまり、基準となるものが存在しません。性格って、DNAが関係することも多少はあるが、その人が生まれて、いろんなことを経験して、性格が決定していくと思います。よって、性格は事後的要因に因るところが多く袋的といえます。けど、その性格を極限まで小さくしていくと、多分DNA が関係していくと思います。
箱と袋は、箱→袋で箱の先まで視点をずらしていくと、すべてのものは箱的建築になってしまう。つまり、極小の視点で考えると、そこには一つの前提が存在する、メートル法という。また、視点を袋の後ろに持っていくと袋と箱の二つが存在する。これは極大の視点で物を考えている。つまり、lim建築で視点→0とすると、箱になります。また、lim建築で視点→∞とすると、箱と袋の二つが出てきます。だから、m1の松永さんが言うように視点の問題です。もしこの視点の話が正しいのならば、いったい建築を袋と箱に分割するキョウカイは何なのでしょうか?

03t3073g
野崎慎吾

今回の議題をひとつの敷地で立てられている建築を考える。
その中で箱的なものといったら、私が思うに建築物本体であると思う。外見、内装などいろいろ自由にできる袋的なものであるととらえる人もいると思うが、それらの自由な表現も依頼主の意図、構造制限、斜線制限、など決して設計者の意図が自由に通るようなものではない。限られた多くの条件の中で作り上げる(箱のように決まったものの中に落とし込む)様な箱的なものであると思う。
 そしてこの要素の中で袋的なものは建築物の周りの庭、建築物の周りのアプローチなどであると思う。これはどう建築物までアプローチするか、またどう建物を引き立てるかという決まっていない状態から自由に作ることができるものである。建築というものはこの袋的要素と箱的要素の組み合わせにより成り立っているものだと思う。
 私が好きな建築のひとつの谷口氏による豊田市美術館はとてもよい袋的庭(アプローチ)と美術館からできているが美術館も動線自体が展示室になっており箱的要素のはずがその要素をいいように崩壊させ袋的なものにするということをしていると思う。こうすることによって型にはまらない袋的な美術館が出来上がったのだと思う。

03tt077k
波多野貴壽

 私が考える箱的なものとは、商品として研究される事・ものです。これには、必ず消費者の年齢や性別を考えて研究が進んでいくはずです。例えば、ある化粧品などは30代からの化粧品としてコマーシャルをしています。こらは、始めからある年齢を対象に売る事を前提に研究が進められていると思います。これに対して、袋的なものとは、研究者が独自に進めていく研究です。例えば、ノーベル化学賞を受賞するような研究です。テレビなどで見ていても多くのことに役立ちますというコメントは聞けても、具体的なものはなかなか見えてきません。しかし、その研究が知らないうちに身のまわりのモノとして存在していたりします。研究を始めたきっかけも、誰かや、何かを対象とした商品を作るために研究するのではなく、そこに疑問を感じたからなどの理由が多いと感じます。箱と袋で私はこのような事を考えました。

05TA328G 中尾友之

箱:トイレ
袋:居間

まず箱とは、ある対象においてそれがそのものの論理だけでかたちがつくられるものである。そういう意味で事前的であると解釈できる。一方袋とは、それが他のものの論理によってかたちがつくられるものである。定義を他にゆずっているので事後的であると解釈できる。
身近な建築の例である住宅を考えてみる。どんな家でも決まった形のトイレがあるように思われる。つまり住宅を設計する際トイレは事前的なもので、見た目もいかにも箱的である。また居間は実は住宅では当然あるように思われるが、よくよく考えてみると居間が居間の論理だけでかたちづくるのは難しいことに気付く。つまり居間は当たり前のようにあるように見えつつ、近くの食卓、南側にある、続きの畳の間…といったものによって形づくられ、さらに家族が集まっているという状態でしかないわけである。またトイレのない家では生活は大変そうだが、別に居間がなくても生きていけそうである。以上の意味でトイレは事前的で、居間は事後的であるといえる。
また話題に出ている箱的袋と袋的箱についても考えてみる。つまり前者はそのものの論理だけでつくられているように見えて他のものの論理によってかたちがつくられるものである。それは坂牛先生が例として出された「洗剤」の箱が入った箱=袋のことである。また袋的箱であるが、定義をほかにゆずっているように見えて実はそのものの論理だけでかたちがつくられているものである。それは使用者に使いかたを委ねているように見えるが、じつはそんなに使われていないような多目的ホールに代表されるのではないのでしょうか。

02T3018A  片岡 篤史

今回の課題では、事例は「袋」のみを挙げるものとし、「カスタマイズ」という行為または「カスタマイズされたもの」をその「袋」の事例とする。

このような考察に至ったのは、今回の課題の「事前的」「事後的」という言葉に左右された部分が大きい。
私の中では考察を重ねるほどに、「事前」の中に「事後」がすっぽりと収まるベン図が描かれていった。つまり、事前のルールはどちらかといえば大きな枠としてのルールという印象を受ける。先生の事例を引用するなら、引越し用のダンボールは「入れる」という大まかな行為をルールとして設定した外形になっているのではないかと考える。一方で、洗剤を入れるダンボールは、「入れる」行為の内、その対象を洗剤に特化した結果できた形であり、「入れる」という「事前的」ルールから逸脱していない以上、先に述べたような「袋(事後)」が「箱(事前)」にすっぽりと包まれるベン図に行き着く。
そのような考察過程から、「カスタマイズ」という行為は本来のルールからは逸脱しない範囲で、自分のルールを事後的に設定し、変化することで「袋」と言える。これを具体化すると、車のカスタマイズ(これは外形が変わる)や、パソコンのカスタマイズ(これは外形には変化は現れない)をはじめ、高橋さんの挙げた「~専用」もある種のカスタマイズに含まれると考える。

そして、建築ではコンバージョンなどがそれに近いものと考え、先日拝見した「リサイクル-異議申し立ての建築-」における「先天性の否定」という表現もコンバージョンが「袋」的要素を持つものと推測する。

03t3062a 戸成 一平
自分は北九州市立美術館について
箱  展示室、エントランス等
袋  資料閲覧室
というふうにかんがえました。事前的なものと事後的なものは、どの建物にも少なからずあるように思えます。美術館は展示室、エントランス等に重点をおかれて設計されているもが主流であるでしょう。この美術館でも突き出した宙に浮いたような展示室が一番印象深いものであり、設計時もその特徴を重視したものとなっていたことは間違いないようにおもいます。これがこの建物での箱といえます。この美術館の中はすべてが同じ空間の中にあるような印象をうけました。しかし、資料閲覧室だけは、どこか違う場所に迷い込んだような感覚を覚えました。設計上作らなければならなかったから、狭い二階の片隅に追いやられたように思えたその部屋の窓からは北九州の町並みがいちぼうでき、その日見たどの絵画より目に焼きつきました。事前的なものを箱とし、事後的なものを袋とするならばこの部屋をこの建物での袋だといえるでしょう。建物内での袋と箱がどちらもいいあじを出しているように思えました。

03t3090g 萬成恵佐

箱的:「蓮華王院本堂(三十三間堂)」
袋的:「京都国立博物館」

 今回は京都のほぼ同位置に存在するこの二つの建築を挙げてみたいと思います。

 前者の三十三間堂ですが、この建物は千体の仏を安置する為だけに建てられたお堂です。千一体に増えることは無く、九百九十九体に減る事も無い。千体の仏を安置する為に最適であるように設計され、千体の仏は一度安置されれば動かすことは無く、ずっとこのままのカタチを保ち続ける。このように中身の為の箱、箱の為の中身、この両者の関係が最適に設計され完結している点が三十三間堂を箱的建築であると思う理由です。

 逆に京都国立博物館ですが、こちらの建築は中身(展示物)を入れ替える建築です。建物は中身の為に設計されたわけではなく、中身も建築を一切意識していません。私はこのような建築は人間の意識を内に向けさせると思います。内に様々のものが入ると言うことは、建築としての意味は内に入るものに大きく左右されてしまいます。故に、人はその中身を見て建築を判断し、袋の形を決めるのではないかと思う。このように内と外の関係は最適ではないかもしれないが、中身によって建築の形が決まる。私はそれ故、京都国立博物館を袋的建築であると思う。

 このように書くと、常設展示の美術館は箱的、入れ替え展示の美術館は袋的であるように感じてしまうかもしれないが、私はそのように意図したつもりは無い。常設展示だからといって、内と外の関係が最適で完結している美術館はそれほど多くない。また、入れ替え可能だからと言っても人々の意識を強く内に向けされなければ、中身で建築の形が変ることも無く、それほど内に強く意識を向けさせる建築も少ない。だから、今回私は具体的な二つの建築の名前を挙げた。

坂牛

朝さらりと皆の文章を読み、午後皆さんと製図をして、ご飯を食べて、今は自宅で再度みなの文章を読みました。朝読んだときちょっと引っかかったもの。サイ、小倉、武智、松永、藤田、杉山、芦田、篠澤、工藤、阿部、岡、午後書いたものでは、片岡、中尾、土屋。それでもう一度読んで残ったもの。土屋、武智、藤田、篠澤でした。
土屋君のはまあ分かりやすい。形式を崩さないクラシックと形式を壊すジャズの対比。しかしそれは事後的事前的ということではないのが例としてはやや弱い。
武智君の話は妹島さんの美術館が箱だというのは異論がないとして、ペローの図書館が袋というのは、一見箱な建物に対する、真っ向から逆な読みをして、ちょっと考えさせられた。いや設計のプロセスとしては僕には今でも箱だと思えるのだが、アノ場所に行って(僕も行ったことがあるが)ぼーとしていると、確かに森を感じるのである。つまりこの建物は事後的に作られたのかもしれないと現象してくる建築を感じるのである。
藤田さんのトイレットペーパーとティッシュはまったくその通り。簡明である。
篠澤君の指摘もまたその通り。事前的な箱は、無目的的であり、それは応用範囲が広いので、箱の持つイメージとは裏腹に、フレキシブルだということになる。一方事後的な袋は目的的であり、袋の持つイメージとは裏腹に、スペシフィックになるのである。こうしたイメージと実態の逆説を暴くのはレトリックとしてはうまい。

それではまた来週。

ところで、生協に『現代住居コンセプション』が入荷されて平積みされています。なかなか良い本ですので住宅の参考書に是非一冊。『10+1』もなんだか入荷し過ぎでいっぱいあるようなので、これから意匠をやりたい人は是非一冊どうぞ。

そうそう毎度言おうと思って忘れてしまうのですが、これから4年生、大学院の2年生が卒業設計やら、修士設計を行います。デザイン系に進みたい3年生、2年生は是非そういう先輩の手伝いをしていろいろなことを学んでください。授業だけでは覚えられないことがたくさんあります。他の大学では先輩の手伝いで一人前になっていくというのは当たり前のことなのです。

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