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第三講 お題

今日の講義では、厳格で規律が厳しく、ピュアな建築があり、それをexclusiveな親父建築と呼びました。例えば、ミース(初期)、篠原という建築家がその筆頭です。一方それを嫌い、揺るやかな規制でものの混入をよしとする建築もあることを指摘しました。これはinclusiveなオフクロ建築と呼びました。坂本伊東のその昔の建築がそうです。でも何でもinclusiveなあり方は果たしていいのだろうか?それだと後期ミースのただの箱が一番いいことになってしまいはしないだろうか?そこでもう少し主張するようになったのが強いオフクロでした。
さて質問をするために親父オフクロをもう少し別な言い方してみます。単にそこに家具や、人や、敷物、あるいは外の風景さえも入れないのが親父、入れるのがオフクロでした。そこで別な定義はその建物のどこも変えてはいけない、例えばプロポーションは絶対だから、天井高さを1センチたりとも動かせないという厳格な建築が親父、一方天井高も壁の位置も多少のことは問題ではない、そんなところで勝負しているのではないという建築があります。そういうのはオフクロです。さてそんな定義を一つ増やしたところで、お題ですが、「君たちの身の周りに、親父的表現とオフクロ的表現を見つけよ」とします。それは建築であっても無くても良い、アートであっても無くてもけっこうです。文章かもしれません。
尚コメントの書き方ですが担当直入に先ず結論を示してください。問題を再度書いてみたり、いろいろ考えたけれど分からなかったと書いてみたり、そういう不要な部分は書かないでください。
皆がなるほどと思うことを探し出してください。

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コメント

03t3068a 梨本耕平

親父的表現  →絵画
オフクロ的表現→現代アート

*絵画
絵画と聞いてキタナイものは思いつかず、それはただただキレイなものだと思います。そして、それ自体が完成された美しさであり、とても深いモノだと思います。
そこには厳格な威厳のようでもあり、芸術が特別なものであるというような排他的な印象を受けます。

*現代アート
ゲンダイアートと聞いて思いつくのは「自由」です。それは様々な表現が現れてくる中で、さまざまな表現を包括的に受け止め、芸術をより身近なものにしたと思います。
それは、絵画に比べたら浅いモノかもしれませんが、気軽に楽しめるモノであり、くるものは拒まない的精神を感じます。

04T3033A 草間康至

 陶芸、絵画、彫刻などの芸術作品……親父的。
もう完成してある芸術作品を絶対とするならば、ほんの少しの差がその作品を大きく変えてしまうことにも成り得ると思う。完成されている作品はもうそのカタチから動かし難い雰囲気がる。

日用品……おふくろ的。
冷蔵庫、電子レンジ、箸などの日用品はもう形が決まっているが、その生活の場面や使いやすさなどに応じて、大きさや長さを変えていっている。「この品物はもうちょっとこういう風だったらいいのに」というように、その品物にある程度文句や注文をつけることが出来る。

04T3001C
赤羽利哉

親父  →黒(の紙)
オフクロ→白(の紙)
 以下の文章では黒と白の紙の上に他の色(絵の具など)をかぶせることを想像して読んで下さい。
・ 黒(の紙)
黒とは他の色を寄せ付けない独自の殻をもつ。もし受け入れる色があるとしたら白の一色だけ。他の色は黒の中では輝けない。これはまさしく決まったものしか受け入れないという親父的なものではないかと思います。
・ 白(の紙)
白とはどんな色でも受け入れてくれる空間を持つものです。どんな色であっても白の上では自分をしっかり主張できます。そして白はどんな色でも受け入れてくれます。これこそまさしくオフクロ的なものではないかと思います。

04T3073A
藤江 将史

親父 : 江戸時代

江戸時代は鎖国によって、外国との通商・交易が禁止されていた(中国、オランダという例外もあるが)。外国人の渡来や日本人の海外渡航禁止など、他の文化をいっさい取り入れない厳格な規律は、まさに親父的だと思う。

オフクロ : 現代

現代は江戸時代と違って、鎖国のような厳格な規律はない。さまざまな文化を拒むことなく受け入れている。このような柔軟な姿勢はオフクロ的だと思う。

04T3004H
石川裕之

親父的  →俳句

オフクロ的→メール

俳句は文字の数、季語など決まった文章で書くことが求められていて、それに倣わない文章は受け入れないところから親父的と思った。

その逆にオフクロ的であるのがメールだと思う。メールは自由な文章で書くことができ、形式にのっとっていなくてもよい。形式に捉われないで書いた文でも、調和が取ることができることからメールはオフクロ的だと思った。

04T3034K 工藤 洋子

親父 →→→ 歌舞伎の観客の掛け声

オフクロ → お昼12時の番組での観覧者の掛け声

「高ぅ麗屋ぁ~」「十二代目っ!!!」「待っってましたぁ!」
お芝居最中に観客から掛かる声。
誰が掛けてもよいらしいが、そうはいかない。なぜなら1歩間違えればお芝居を台無しにしてしまうから・・・
“大向う”と呼ばれる常連団体がいるらしく、彼らの掛け声はお芝居をよりいっそう引き立ててくれる。なくてはならないものらしい。
「人」、「シーン」、「間」によって、言葉・伸ばし方・発音・トーンなどは全然違う。どれも完璧でないと舞台を盛り上げる掛け声にはならない。

「○○さーんっ」「そーですね!」「えぇ~??!!」
司会者やゲストに対し、思いおもいに言葉を投げかける客席。
一応声合わせ練習をし、声を出す合図をするADもいる。だが、伸ばし方やトーンはさまざま。
そんな中、時々自分勝手に声を掛けたり集団でも判る位に声を外した人に、司会者は温かい言葉を掛けたりもする。今誰かちょっと出遅れただろ?など・・・
テレビ越しに居る側としても、そんなハプニングもあってこその番組だと思って見ている。

これらを考えると、客ではなく舞台に立つ側も親父・オフクロ的な要素を持っていることに気付く。両者あってこその舞台、番組だから当然であろう。

完璧であるが故出せる面白さ、自由だから生まれ出る面白さ。どちらが良いかなど比べられるものではない。ホワイトかグレイかというのも、形の美しさか人の住む空間かも、同様に感じる。しかしまったく違うものだからといって共存できるものでもない。男は男、女は女、両方持つものは存在できないのと同じなのだなと感じた。

強いオカン。優しい親父ではない。。。授業後、なぜかメス化が頭に浮かんだ。
環境でオスがメス化する。どうしてメスになるんだろう?幼い頃思った疑問と同じ疑問が今回も出てきた。
人間や動物だけじゃなく建物まで…
私は風致地区や保護地区に建つ民家に頑固な親父建築さを感じ、それらやそこに住む人々にとてつもなく魅力を感じます。

04T3069B 樋川 俊樹

親父的表現  → メール
オフクロ的表現→ 手紙
 
 先にコメントした石川さんと少し考え方が違いますが・・。親父的建築はその場所に合うものしか受け付けない排他的なもので、例えばある人の設計した家にはその人の作った椅子しか置けないなど、どんなものを置くにしても適当な形が存在した。メールも同様に、様々な文字があるにせよ、その文字1つ1つはコンピュータが象った決まった字体である。また行もきっちり直線なので完成した文章はある程度整っている。
 一方手紙は、書く人それぞれの筆跡は異なり、また与えられた紙はどのようにでも自由に使える(例えば絵を描くことも写真を貼ったりもできる)。使う人によって全く異なった完成形になる。手紙はメールとは逆に包容力があると感じる。

04T3002A 阿部裕子

親父的表現は、安藤忠雄氏の設計した家
オフクロ的表現は、善光寺の柱
と考える。
某テレビ番組を見たとき衝撃を受けた。
安藤氏が設計した家を壊す瞬間だ。
使い終わった為、壊すという次元ではない。安藤氏自ら壊してくれというのである。
その建物は、RC造であった。
そして、壊すことになった建物は、型枠の微々たるズレ(私が見た限りでは)が、気に入らなかった為、もう一度埋め込み作業からはじめた。
施工の方々は、なぜこれでは駄目なのかという疑問があがるぐらいに微々たるものだと思う。しかし、その微々たるズレが安藤氏にとっては、最善の作品ではなかったようだ。
この事から、親父的表現をなされているものを安藤氏の設計した家とした。
次に、オフクロ的なものとして、善光寺の本堂の柱は、曲げがある事からである。
ズレを多いに生かし建物であるといえる。
曲げがあるから、今でも建っていられる善光寺。立てる前に地震が起きたときに曲げを生じても大丈夫なようにズレを作って建てられたという説を受ければ、善光寺の柱は、オフクロ的表現に当てはまるのではないかと思う。

04T3070F 人見祐策

 親父・・・写真
 オフクロ・・・スケッチ

 写真は現実をそのまま写すものであり、現実以外の混入を許さないと思う。厳格にありのままが表現されている点が排他的で親父的だと思う。
 一方で、スケッチは描き手の考えが反映される。濃淡、プロポーション、色などは人によって違うし、さらに「ここはこうだったらいいのに。」と新たに自分の考えを付け足すこともできる。そういった自由な点がオフクロ的だと思う。

04T3093E
山田 卓矢

親父的→塾(1対多数の授業)
塾での授業では生徒からの発言や意見などは求められない。もし、発言をしたとなると他の生徒の迷惑になりかねないからである。また、発言はしてはならないという暗黙のルールが自然と感じられる。これらから塾は講師からの一方的な情報を受け取るといった授業形態をとっているといえる。生徒からの発言を排他的要素と扱っている塾での授業は親父だと感じた。

オフクロ的→家庭教師(1対1の授業)
一方、家庭教師の授業は情報を受け取るだけといったことはない。分からない点を生徒が示し、それに教師が答えるというのが一般的だからである。このキャッチボールの繰り返しが授業の流れをつくっているといってよい。また、マンツーマンで授業をしているから発言しやすいというのも家庭教師の特徴である。生徒の発言に包括的な家庭教師の授業はオフクロだと感じた。

04T3031E 金 昌秀

親父→太陽
おふくろ→ブラックホール

 太陽は一見おふくろ的存在のように思えるが、ここでは親父的存在、例えば小さな小惑星がぶつかりに行ったとしてもほとんどが太陽の周りにあるガスによって消滅してしまう。
 一方、ブラックホールは何でも吸い込む、取り込むという点でおふくろと言えるのではないだろうか。しかし、なんでもかんでも吸い込んでしまうという点では、少し度が過ぎてしまうのではないかと思う。

04T3045E 庄司貴弘

親父→昨日(過去)
オフクロ→明日(未来)

・昨日は決して現在の自分の思いを受け入れてはくれない。昨日、自分が何をしたかを思い出すことはできても、それを変化させることなんて許されることではない。「過去」は誰一人として新しい思想を押し付けることのできないモノである。

・明日の形は必ずしも決まってはいない。これから自分がどうしていきたいのか、どうなっていきたいのかを受け入れてくれる。それがどんなに難しいことであっても決して不可能ではない。「未来」は今からどうやって行動していくかによって形を変えることのできるモノである。

04t3008A 牛山由偉

親父的 : 数学
数学の世界は計算をする世界であり、ある規則に従って数字を変化させていく作業をすることである。その規則に外れた考え方は存在しない。答えを導くまでにいろいろな方法があるとしても、どの方法も規則に従ったものであり、答えは同じものになる。他の要素は必要ない。こういう規則に従ったものしか扱わない一つの空間のようなものである数学は親父的であると思う。

オフクロ的 : 芸術
芸術の世界は何かを想像したり、感じ取ったりする世界である。あるテーマがあってそれに従うということはあるだろうけど、そこから想像されるものは無数にある。ここには正解、不正解はないし規則もない。つまり様々な要素を取り込むことができて自由な世界である。だからオフクロ的であると思う。

04T3042A 繁山 和夫
親父的表現は結果で、おふくろ的表現は原因です。
結果は動かしようのない事実ですが、結果に至る理由として筋がとおっているものなら全て原因だとみなせます。

親父的  短歌
オフクロ的  詩

親父的なものは規律があり、exclusiveなもので、オフクロ的なものはなんでも受け入れられるinclusiveなものであった。しかし、それを突き詰めたらただの箱が在ればいいということになってしまう。そこで現れたのが強いオフクロだった。私はただのオフクロ的だったときから、強いオフクロに移行していく過程で、ただ単に何でもかんでも受け入れるという要素から、若干の規則を含んでいる建築になっていったと思う。それは住む人の意向であったり、外観に対する制限だったりすると思う。自由に自由すぎた結果がただの箱になってしまったが、制限つきの自由を手に入れたことによってそのオフクロは強いオフクロへと進化した。
そこで私は親父的なものに短歌をあげたいと思う。短歌は57577の決まった形式があり、季語を入れたりする決まりや音韻や枕詞、掛詞など様々な技法もある。そこには決まった形式の中に気持ちを詰めこんで詠んでいる。その短歌から、俳句や川柳なども派生してだんだん規則はゆるくなっていく。しかし、その文章が決まりもなくなってただの手紙やメモとなってしまっては強いオフクロ的とは言えないと思う。そこで私はオフクロ的なものに詩をあげた。詩は形式的な決まりなどはないが、一種のリズムを維持しているという特徴(私たちが詩を詩として認識できる)を持っている。そういった意味で詩はオフクロ的であると思う。

工藤さんの親父性とお袋性は共存できないという意見に少し疑問。対義の関係ではないかもしれないが、片方を考える時、もう片方は考えないわけにはいかない。

親父的→上座敷
お袋的→上座敷以外の部分

3年の民家再生の課題で、対象となる民家を実測した時のことだった。

「子供の頃は、上座敷に入ろうとしたら、よく親父にげんこつをされた」

と、その家のご主人は、おっしゃっていた。
上座敷には、床の間や床柱がある。床の間には、掛け軸や花が飾られる。その場所は、完成しているものであり、飾ってある花や、掛け軸くらいは変わると思うが、床柱に傷などつけられないし、床の間も同様である。これは内向性、形式性に強くつながる。この点で親父的であると思う。
 
逆に、例えば土間を考えてみるとそこは炊事の場であり、物置であり、作業をする場所であり、時には子供の遊び場ともなる。大黒柱には、背丈を刻む傷もつく。それらは、お袋的建築(の部分)だ。

民家それ自体は、親父とお袋の要素を同時に持つものだと思う。行為が混在する部分が殆どであるという点でお袋的であり、上座敷の部分は非常に親父的だ。

だから、親父とお袋は比較はできないかも知れないが、両方を同時に考えない訳にはいかない厄介なものだ。これが親父とお袋という比喩につながる。だから、講義としても1つの判断基準としてまとめるのだと思う。

 そして現在は、特化とは言わずとももう少し強く親父の要素が求められている。その例として、21世紀美術館をあげたい。21世紀美術館は、cubeと円のみでできている。しかし、その内部はチケットさえ買えば(基本的には)自由に歩くことができる。強さの出し方としては建築物を構成する要素の限定をしていると思う。この強さの出し方は、自由からの逃走―第1講の重箱的平皿に通じ、何に強さを求めるか?は、第2講の、規範と逸脱に通じるのでないかと思う。
 
あと、2つ前の方、コメント3行はないと思います。申し訳ないが自分には、文の内容が理解できない。

下記のコメントは、02t3094f山田匠です。文頭に名前を入れ忘れました。

04T3055B 武智 三奈
  親父:試験勉強   オフクロ:人生勉強
 人生の中でほとんどの人が何らかの試験という物を経験します。試験勉強はいかに要領良く無駄を省くか、ということが重要になります。余裕がないときなど、その内容が人生の役に立つかどうかなどという事すらも考えず・・・。けどなぜか結果として、感心されたり、尊敬されたりしてしまいます。
 逆に人生勉強は、次から次へと新しいものを取り入れていきます。無駄と思われることでも、決して無駄にはなりません。新しいことへのチャレンジが大切です。そのことが成長へとつながります。 
 この二つと建築物をみて考えると、親父的なものは、結果のみ重視されます。成績であったり景観であったり。オフクロ的なものは、結果から、過程や内容が解ります。性格が人生を語ったり、用途のわかる空間であったり。親父的、オフクロ的の観点は正反対だと思いました。

04T3017K 岡本澄香

親父→神前結婚式
オフクロ→人前結婚式

神前結婚は、参列者は親族までと決まっていてその席順は決った形式に従います。多少の違いはあるのでしょうが神前結婚の式は神道のしきたりにのっとって行われ、入場、斎主斎員着席、修祓…と形式にのっとって行われます。ここでは純粋に二人が神に誓うことを目的としていて、個人の趣味や人柄を生かすなどの要素は全く必要としません。よって神前結婚は厳格でピュアな親父であると思います。
これに対し、人前結婚は家族、親族だけでなく友人、知人など、立ち会ってほしいと思う人を自分たちで考えて招待します。また宗教や形式に捉われない自由で個性的な式を演出することができるため、場所を選ばないだけでなく趣味に合わせた水中結婚式や船上結婚式、スキー結婚式などというものもあるくらいです。二人が誓いを交わすという結婚式の大前提を踏まえたうえで、決まった形式にこだわらず各々が好きな要素を自由に取り入れて新しいものを作り上げていく…これはまさにオフクロであると思います。

04T3071D 日比野温子

親父的表現:フランス料理
オフクロ的表現:ファーストフード

フランス料理と聞いてまず思い浮かぶことはずらりと並ぶテーブルセッティング。まずそこに親父的な規律を感じます。
そして食事中のマナー・・・。
ナイフとフォークの使い方だけでも、「端から順に使う」、「食事中にワインなどを飲んだりパンを食べたりするときはハの字形に、食事が終わったら平行に置く」、「ナイフは食事中も終了も内向け、フォークは食事中は伏せ、終了は仰向けに置く」といったように事細かく決められ、料理だけでなく食べる本人にも決められた優雅さが求められる。
さらには、ノーネクタイお断りといった店も多く、exclusiveな食事であり、親父的といえると感じた。

一方ファーストフードは最低限のマナーさえ守れば食べる順番や作法など特に決められてなく、どんな格好でも、誰でも気軽に食べることができるinclusiveな食事であり、オフクロ的といえると思う。

坂牛

工藤さんの比喩は今回も好調。阿部さんの安藤忠雄の話はまさに親父。短歌とか俳句とか確かに形式がある。しかし字余りなんていうセンスはオフクロ的だね。結婚式にも形式があるか!そうだね儀式は押しなべて親父的。!?

04T3057J
2年 塚田裕太

親父→壁
壁は、少しの力では倒れずに、頑丈な強い造りになっている。また、壁の向こうにあるものを見せずに、視界をとざし、向こうにあるものを取り入れない仕切りの役目をしている。このことが、強い、何も受け入れないと言う親父に似ていると思う。
オフクロ→ガラス
ガラスは、壁と違い、光や外部の物を取り入れ、視界をとざさず家の中を明るくする。仕切りにはなっているが何でも取り入れると言うオフクロに似ていると思う。

04T3047A 瀬戸洋平
 親父的表現 →アスファルト
オフクロ的表現→土
私がアスファルトを親父的表現だと考えるのは、舗装されている道路は人工的なもので、水平につくられています。これは道路を舗装する上での定義であると考えます。一方、オフクロ的表現である土には水たまりができるような窪みがあったり、グラウンドのように平らにすることもできます。さらに、芝生にしたり、勝手に雑草が生えることもあります。これはアスファルトにはあり得ない事で、これといった定義がないと思います。アスファルトはタイヤとの摩擦で磨り減っていきますが、それ以外のことは定義外であると思います。例えば、土には植物や生物が存在し、日々土の状態が変化しているかもしれません。それは私たちには見えたり、見えなかったりと、アスファルトにはない部分が多くあると思います。雨によって状態が通常と違っていても、アスファルトの場合はたかが危険度は知れていますが、土の場合は質や量によって異なります。このように、予想の範囲が大きく異なる所からも、親父的とオフクロ的な違いが分かると思います。

04T3043J 篠澤 朋宏

僕は幼い頃からずっと「道」というもの慣れ親しんで来た。書道、居合道、合気道というように・・・。だから親父的なものと言えばすぐにこれらが浮かんだのだ。

武道に始まり「~道」とつくものには必ず型が存在する。書道にしろ、茶道にしろ、居合道にしろ、厳格に定められた「型」がある。それは、昔から代々受け継がれてきたもので、それを守り抜く事に道の重みを感じる。この道を極める者にとって型は絶対的なものだし、受け継いでいくという義務めいたものがある。ここに親父的な要素を感じ取る事ができる。

 一方同じ土俵で比べるお袋的な要素を伴ったものは何か。色々探したが、何でもありって事でPRIDEが思いついた。ボクシングはもちろん、柔道から来た者がいたり、ムエタイ出身だったり、曙なんかは相撲から来ている。いろんなジャンルから挑戦者が現れ、必要最低限のルールの下お構い無しに殴り合い、勝者を決める。このジャンルを選ばず、来るものは拒まず的なところはお袋的であると思った。

04T3059E
坪井章訓
親父→店の料理
以前飲食店でアルバイトをしていたころ、味を変えてはいけないことをよく言われていた。たいていの店では作り方から調味料の量まできっちり決まっていて、すべてにおいて型ができてしまっているように思える。行列のできる店ともなれば、代々受け継がれている秘伝のタレなど味を変えないことが重要視されていたりしている。これはまさに他を受け付けないexclusiveではないだろうかと思う。厳格であり、他のものは受け付けず、形を守っている店の料理は親父的であると思う。
オフクロ→家庭の料理
これは言わないでもわかるかもしれないがまさにオフクロの味である。ある程度調理の過程は決まっているものの、家々によって調味料の量までは決まっていない。ほとんどが目分量である。また本で見たり、誰かに教わり、ためしに作ってみた料理が食卓に並んだりする。たいていの家庭では、日本食だけでなく中華料理などの海外料理までならんだりする。これはinclusiveなあり方であると思う。以前食べたことのあるおいしいものを家庭で作ろうとすることは、外の物を受け入れるまさにオフクロ的であると思う。

03t3020f 岡悠志

親父   時間の進む速さ
オフクロ 人が感じる時間

「過去」vs「現在」の例が多いのでその枠にかかってない例を提案します。

「親父」=「時間の進む速さ」は一定で時計がそれを確実に刻んでいく。季節や人の感情の介入を一切許さないものである。一定であることはピュアであるともいえよう。

一方 「オフクロ」=「人が感じる時間」はその人の感情や周りの影響をもろに受ける。楽しい時は一瞬にすぎ、つらい時間は長く感じるものだ。

そして時計は人が時間の概念を持った後、長い年月を経て完成させた。それが刻む「時」は正確で一定で完璧なものである。そして僕らが感じる時間のスピードは時計を基準にして、早い、遅いと感じる。つまり、それは一定であるはずの「時」からの逃避であるといえるのではないか。


以下は駄文です。自分でも理解しきれてませんが・・・
「親父」は完璧な存在。それでは「オフクロ」は不完全な存在か。完全なものから変化していくのだからといって完璧以上であるわけもない。それでは「オフクロ」は変化の途中なのか。だとすると、その変化が終わったとき「オフクロ」は完成を見ることになる。完璧な「オフクロ」。つまり「オフクロ」が「親父」になるということか。
ミースの「クラウン ホール」は「オフクロ」だという。しかし僕から見れば「親父」である。あのガラス張りの四角の箱の中には何も置いてはいけないと感じた。「親父」を抜け出し「オフクロ」を突き詰めた結果、そこには新しい「親父」が生まれたのではないか。時間軸で「クラウン ホール」をみるから「オフクロ」であるだけでその中身は何も寄せ付けない完成した「親父」であるように思う。「親父」「オフクロ」の定義(?)がそもそも「過去」に完成した「親父」からの脱出や逃避の結果が「オフクロ」であるから、たいていの事が「過去」=「親父」で「今」=「オフクロ」となるだろう。
繰り返すことで技術や物が完璧な状態に近付いて完成を向かえる。完璧を迎えた後の変化は後退というべきかも知れない。そこに新たな可能性があったとしても、変化の行き着く場所は「一般」や「大衆」であると思う。陶芸家が1つ1つ作った皿の技術が完成を向かえる一方で、その技術は大量生産へと変化したように・・・。結局は「過去」=「親父」で「今」=「オフクロ」だ。

04T3046C 杉山文野

親父:映画
オフクロ:生放送

大前提として、親父は美しくなくてはならない。
美しさの為なら、どんな妥協も許さない。

映画は、建築と並ぶ親父的表現の媒体であると思う。以前、テレビで黒澤明監督の特集を見た。撮影時、気に入る雲が出るまで、何ヶ月も待ったという。民家の屋根が見切れるから、取り外させたという。1シーン1シーン、どんなに短くても絶対に妥協しない。監督が思い描いた映像以外、何物も混入してはならない。役者やスタッフの苦労も、全ては美しさのため。これが親父的表現ではないだろうか。

オフクロは、美しさが最優先ではない。

生放送番組は、バラエティーでもスポーツでも、「リアルタイムで放送している」という臨場感がウリなのであって、司会者がセリフをかもうが、番組の後半がまきで進もうが、それほど重要なことではない。今現場で起きていることを全て受け入れ、それを伝える。これがオフクロ的表現であると考える。

坂牛

仕事を始める前に、ちょっとここに寄って皆の意見を見るのが楽しみです。ひとつだけコメント。岡君のクラウンホールはオフクロのようで親父的というのは卓見。そうかもしれない。クラウンホールはね。しかしクラウンホールはフレキシブルな(ミースはユニバーサルと呼んだのだが)スペースとしてあれを作り、多くの建築家があれを倣い、どのようにでも使える空間として世界中を席巻したのです。多くのフォロアーがあそこから見習ったのはオフクロ的キャラだったということです。だけどトップランナーというのはどこでも少し違うものでクラウンホールも少し違うのかもしれない。その昔シカゴにこの建物を見に行った時日曜日でこの建物は閉まっていて外からしか見れませんでした。果たして中に入っていれば少し印象も違うものになっていたのかもしれません。

04T3091J
安江昌晃

親父→本番
オフクロ→練習

 何度も繰り返すことができ、さまざまなことを取り入れることができるという練習が自由なオフクロ、一度しかないという制限がある本番が頑固な親父、『親父とオフクロ』の頑固と自由という例を考えていたらこのことを思いつきました。
制限する頑固な親父も何でも取り入れる自由なオフクロもあまり良いとは思えないので、丁度良い折り合いを見つけることが大切だと思います。

2年 04t3081a 三浦 淳史
親父→ハードコンタクト
オフクロ→ソフトコンタクト
そのままかもしれないけど、間違ってはいないと思います。ハードコンタクトは眼球のカーブには合わせることはできず、まさに親父的です。一方、ソフトコンタクトはいかなる眼球のカーブに対応します。そんな部分が包容力があって、オフクロ的です。実際、どちらも使用したことがありますが、着け心地もハードは親父っぽく、ソフトはオフクロっぽいです。

04T3039A  小林健太
親父 → 線路
おふくろ → 道路

線路を親父だと思った理由は、線路は決まったもの(=電車)しか通すことをしないからです。さらに、線路という決められた目的地に決められた道でしか進ませないというところでも親父的な性質が伺えると思います。
それに対して、道路は通行するものをほとんど拒みません。例えば、車やバイク、バスに自転車となどがあります。歩きでさえ通ることが出来ます。そのような広く受け入れるところがおふくろ的だと思います。

04T3088J 村山文緒

親父→漫画
オフクロ→小説

 この二つはどちらもある話を書いたものである。その中で漫画と言うのは絵で描かれているため、想像しなくても目の前にある絵で状況を把握できる。つまり読者にとって登場人物は絵があるがために想像する必要はなくその絵を変えることは出来ないのだ。その絵の目を変えたり一部分を変えることも出来ない。だから私は漫画を親父的であると思った。
 小説は絵が無い。つまり読者それぞれに想像する人等は違うのである。人それぞれに部屋を使えるようにしたオフクロ建築と似ていると思う。読者それぞれに想像を許す、小説。絵があることで絵以上にも以下にもならない漫画。これらは一見似ていると思うが、想像すると言う面で大きく違っているように思う。

04T3042A 繁山 和夫
補足 原因と結果は連続しているということと比喩的でないという点で、この問いの意図に反すると思われるかもしれません。ただ私は親父的表現(比喩)がないとおふくろ的表現(比喩)もうまれなかったと思いますし、原因と結果を並立的だととらえてもいいと思います。原因という事実と結果という事実は、相関関係はありますが、これらの事実に原因や結果という名前が付いていると考えたら別個のものととらえられないでしょうか。概念的なものではなく具体的事例として。また、原因は結果があってはじめて考えるのではないか。初めからこれが原因だと言って結果を予測しないだろう。仮説をたてるといっても結果がでないと仮説で設定した状況は原因となりえない。だから、結果は親父的だといえますし、原因はおふくろ的だと言えます。例えば、交通事故が起こったという結果があったとします。交通事故が起こったということは結果で動かしようのない事実です。それに対して原因は調べればいろいろあると思います。公に挙げられるのは、法律違反だとか交通ルールいはんなどですが他にも心理的要因などがあったかもしれません。この場合のように原因は筋のとおったものであれば受け入れられるわけです?

04T3064A 中井大海
親父→線の入ったノート
オフクロ→コピー用紙
線の入ったノートは線が入っていることで「決められた大きさの文字を書きなさい」と言われているように自分は感じる。そんなところが親父的だなって感じがする。それに対してコピー用紙には何の線も描かれていなくて、どんなサイズの文字でも書けるし、斜めに文字を並べることも、紙を横にして使えるし、絵だって描くこともできる。そんなところがオフクロ的だなって感じがする。実際自分は線が入っているノートが嫌で、高校の頃からコピー用紙が自分のノートです。そうやって考えると、自分はオフクロ的な考えが好きなのかなと改めて思い知った。自分事で申し訳ないです。

04T3018H
奥野耕司

 親父的表現  - 茶の湯
オフクロ的表現 - おやつ

 大まかに言えば芸術と日常ということなのですが、その中でもお茶を取り上げてみました。茶の湯には、部屋に入り、お茶を頂き、部屋から出るまで、事細かに作法が決められています。そして、その作法にのっとって執り行うことによって、美しく洗練された芸術としての茶の湯が完成するのです。もしも、その作法から外れたことをしてしまうと無礼だとみなされ、茶の湯ではなくなってしまいます。また、茶室はとても狭く、入り口も小さくなっており、外部の介入を許さない茶の湯だけの空間が存在していると思います。作法が最も優れたもので、それに合わないものは一切受け入れないという所が親父であると思います。
 一方、おやつというのはすきなときに、好きなものを、好きなように食べれます。ちょっと小腹がすいたからといって、冷蔵庫の前でポリポリ…ということも出来ます。厳格な作法など無く、自分の思うように行動できる点がお袋であると思います。

04T3019F 小倉 和洋

親父的なもの…スーツ
オフクロ的なのも…クールビズ

今年の夏、クールビズが現れた。それが今夏の話題の一つだったのは自分だけの思い込みではないはずだ。
クールビズは温暖化抑制のために、政府が考えた夏服のことである。それによってオフィスの冷房の温度を上げようという政策らしい。正直、格好悪いが…。しかしそんなことは問題ではない。クールビズの目的とは”温暖化抑制”なのだ。どんな格好でも涼しければクールビズと言える。そういった多くを受け入れ、重要なのが見た目ではないところがオフクロ的である。
一方、スーツ。インナーはYシャツ、ネクタイは絶対、足元は革靴、ベルトもしなくてはならない。と、決まりごとが多い。35度を越える猛暑の夏でも、凍えるような冬でも、スーツと言えばこのスタイル。つまり、スーツの条件には見た目のことしかない。これらのことからスーツは排他的(親父)と言える。そして、スーツは格好良い。

04T3098F  横島由佳

親父:スポーツ
オフクロ:レクリエーション

スポーツはどの種目にもそれぞれ決められたルールがある。そのルールは守らなくてはならない。ルールに少しでも反したことをすれば反則とみなされてしまう。しかし、ルールがあるからこそ決着がつくし楽しむことが出来る。
厳格できちんとした規制があるから楽しむことが出来るので親父的だという感じがした。

レクリエーションというのは娯楽であり、特にルールにとらわれずに自由に楽しむことが出来る。それにレクリエーションだと誰でもが楽しむことが出来るようにと自分たちで勝手に新しいルールをつくってもいいしルールを守らなくても良い。
厳しい規制がなくとても緩やかな規制でいいのでオフクロ的という感じがした。

04T3061G 戸堀一真
親父→かるた
オフクロ→トランプ

かるたは、読み札を読み、それに合った取り札を取るという楽しみ方のみで、親父的な頑固さがあります。また、一人が読み手になることは、皆が平等ではなく、一人だけが上に立っているかのような厳格さが感じられます。さらには、いろはかるたであれば、文字を覚えるための教材で、百人一首であれば、短歌を覚えるための教材ともなります。以上のことから、かるたは親父的だと言えます。

一方、トランプはかるたとは対極な性質を持っていると思います。様々な楽しみ方があり、時には手品にも登場するというオールマイティーで社交的な感じ、階級差のようなものは感じられない自由さというのはまさにオフクロ的だと思います。

かるたとトランプのどちらも何枚かのまとまりによって構成されていますが、これは建築でいうところの法規であり、親父的・オフクロ的のどちらにも最低限必要なものだと思います。

04T3086B 村上亜衣

親父的表現→センター試験
オフクロ的表現→小論文

センター試験・・・センター試験とは正解はひとつしかない。与えられた選択肢の中に必ずひとつ正解があり、それを選ばなければならない。その答え以外は受け入れてもらえないのだ。それは、非常に分かりやすく、変化しないものである。どんな考え方をしても選ぶ選択肢が違えば不正解という何も受け入れないところから親父的表現と考える。

小論文・・・小論文というものは私が思うに、何が正解なのか分からない。というか、正解というものはない。“小論文の書き方”といった参考書などが出ているし、ある程度の書き方の決まりはあるのだが、すべての人が違ったものを書き上げる。そしてそれは正解、不正解といった判断をされるのではない。柔軟な形で読み手側に受け入れられるように思う。よって、小論文はオフクロ的表現であるように感じた。

04T3084F
宮尾真紗美

親父:レクサスのディーラー
オフクロ:その他の日本車のディーラー

レクサスを親父としたのは、「お客様中心」の考えから、厳格な規律に基づいて高級、プレミア志向を追求しているという点からである。すべてのお客様に対して、質の高いおもてなしを提供するために外壁の素材からこだわり、店舗内のレイアウト、余計なものは一切置かず、高級車ディーラーとしての雰囲気をお客様に染み付ける。店舗だけにとどまらず、従業員の言葉遣い(単に丁寧な言葉を使うだけでなく喋る速さ、声量、抑揚などまでも)指の先にいたるまで礼儀作法が備わっている。恐ろしいほどに徹底された高級・お客様主義。それ以外のものは排除。高級感を植えつけることで、そこに来るお客さんまでデザインしているように思える。これは親父的ではないか。
一方、それ以外のディーラーはかっこいい車を並べているスペースもあれば、子供が遊ぶスペースもある。高級・お客様主義というよりは、もっとポップな感じで誰でも親しみやすいようになっている。それでも、車のディーラーとして、お客様に対してのおもてなしは欠けているわけではない。誰でも、来るもの拒まずといった感じである。オフクロ的であると思う。

04T3068D 羽田和彦

 オフクロ:シャーペン
 親父:エンピツ

 どちらも「書くもの」。シャーペンは、一本あれば芯を変えることで様々な濃さや色を使いこなせる。一本の芯を無駄なくすべて使い、芯さえあれば半永久的につかえる。今では振れば芯が出てくるもの、ボールペンと一体になっているもの、握る部分が異様に柔らかいものなど形は様々。オフクロ建築に似ていると思う。
 一方、エンピツといえば木でできた本体に一本の芯。違う濃さや色を使うには、別に用意しなければならないが、別に用意しなくてもモノクロの絵ならば濃淡で色を、筆跡で硬さや柔らかさ表すことができる。また、この省エネ、資源を大切にといったご時世で、芯を削り、木を削り、短くなったら捨てるというリサイクル無視の様式。「一本あれば十分」「使えなくなったら捨ててしまえ」といった頑固さが、まさに親父。そう思った。

04T3074J 藤田真理子

親父:ジェットコースター
オフクロ:お化け屋敷

ジェットコースターは一周何分であそこのカーブでは時速何キロなど、何回も何回もテストをされ安全でスリルを味わえるよう緻密に計算されできている。少々の誤差など安全上許されない。それは親父的建築であり、また乗る人が途中で怖くて降りたいと思っても止まってはくれない。一度乗ってしまったら最後まで乗るしかないのだ。これは親父的だと思う。

お化け屋敷は建物の中にはあらゆる仕掛け、照明がほどこされており、これはオフクロ的建築と言えると思う。そして自分たちで歩いていくので怖いと思ったらダッシュで逃げることもできるし、非常口から外に出ることもできる。これはオフクロ的ではないかと思った。

身近なオフクロ的な存在は料理。
一人分を作るときには特に、何を入れてもどんな味をつけてもそれなりに仕上がるし十分満足できます。私はかなり自由に色んな材料を思いついたまま料理するので、そんな点がオフクロ的だと感じます。
逆にそんな料理をする場であるキッチンが親父的存在です。
どこに何を収納するか自分でルールを決め、それをちゃんと守らないと次使うとき苦労します。また食材や調味料の管理やゴミの処理に気を使い、一定のルールを守っている点も親父的に思う理由です。

04T3094C 山中道雄

親父的表現 ストレート
オフクロ的表現 ナックル

ナックルは野球での変化球のことなんですが、ナックルは回転が全くといっていいほどないので空気の抵抗を大きく受け様々で自由な変化をします。これはまさにオフクロ的だと思います。またストレートは空気の抵抗で少しのスピードの変化はあるものの、変化はしないので親父的だと思います。

04T3087A 村瀬 涼介

親父的⇒写真
オフクロ的⇒スケッチ

まずオフクロから。スケッチは確かに自分が見た、そのままのものを描写するわけだが、少し現実と違うように描写してもだれも許さないわけではないし、ましてや現実のものを全く、寸分の狂いもなく描写できるはずもない。ほとんど狂いのないスケッチが世間に評価されてるとも限らない。どんなものでも受け入れられるもの。それがスケッチだ。
反対に親父的なものは写真だ。これは自分がみたそのままの映像を、寸分の狂いもなく1枚の紙に記録するものであり、自分が見た映像と違っては、それは写真と呼べないし、呼べたとしても心霊写真になるわけだ。ただ、そう考えたら心霊写真はオフクロ的になるのかとも思った。昔は魂をも吸い取る機械と呼ばれていたものだし、人の怨霊や成仏できなかった人の魂(通常、人間には見ることのできないもの)までも、心霊写真は受け入れる。そう考えるとオフクロ的だ。が、僕は心霊写真を信じていない、ので写真をオフクロ的と考えず親父的とした。

04t3032c 木村 知晃

親父的なもの  日本の小学校の算数
オフクロ的なもの  イギリスの小学校の算数


テレビのCMで見たのだけれども、イギリスの小学校の足し算は、「○+○=5、丸の中に入る数字を入れよ」という感じの問題をするらしい。これは答えが一つではない。いろいろな答えを認めるところがオフクロ的だと思う。これに対して日本の足し算の問題はといえば、「2+3=?」というのが主流だ。これは答えが一つだ。一つの答えしか許さないところが親父的だと思う。

03T3027C 兼子晋

学校の服装について考えてみる。

親父的  →制服
オフクロ的→私服

制服はいかにも学生らしくきちっとしていて一切のだらしなさをなくしたもの。厳格でそこには個性や着色といった遊びの様子が入ることができないもの。規律が厳しく固いイメージを感じさせる。そこが親父的。

一方、私服は制服とは違いそういった厳格なものを排除し自由を感じさせるもの。個性を引き出し遊び心も見ることができる。そこには学校には服装なんて関係なくもっと別のことを学ぶ場として捉えることができる。そこがオフクロ的。

今の学校は制服ではなく私服登校になっているところがよく見られる。実際小学校によく見られる。最近の学校の在り方を見直される中、一切の遊びを許さない感じの制服よりも子供の個性を伸ばすため自由な私服で過ごすという形に変わってきている。これは学校の服装にだけ言えることではないかもしれない。そしてそれがいいかどうかは置いといて学校での服装において制服が親父的、私服がオフクロ的であると感じた。

03T3100H 望月翔太

親父   ・・・文系の人が使う数学の公式
オフクロ ・・・理系の人が使う数学の公式

絶対にそうというわけではないのですが、そのような傾向があるということです。また数学に限ったことではないのですが、そのほうが分かりやすいと思いそうしました。

 文系の人が使う数学の公式とは、公式を丸暗記してそれを使って問題を解くことです。公式は定義ではないので、ある絶対的な事柄から導き出されて使いやすくされたものです。しかしその公式を文系の人たちは絶対的なものとして使っています(使っている人が理系の人よりも多い傾向にあります)。つまりどれだけ公式を覚えているかで問題を解けるかどうかが決まってきます。問題は公式を使って解くものだというところが親父的だと思います。一方理系の人たちは、公式は絶対的なことから導き出せばいい、そう考えています。(そう考えているはずです。)だから公式をいくつ覚えているかどうかとか、そんなところでは勝負していません。だからオフクロ的だと思います。

自分が理系の分類に属するため若干理系側に偏りがあるので、もっと中立的な立場になって書けるように努力したいです。

02T3045H
田中淳
すでに言及されているが
おやじ ――→映画
おふくろ ―→小説     である。物語を表現するものとしての。
映画は杉山さんが言及している美しさのためにすべてが成されているというのももちろん親父的要素ではあるが、私は映画と小説という二つのモノに関して「受け取り方」のちがいとして例に挙げようと思う。村山さんと似ている…。

映画は-映像といったほうがいいのかも-ひとつひとつの場面は監督によりすでに完成していて、その画を見せられているわけだから視聴者へはそのまま伝わることが大半である。もちろんその画に対する感じ方は違うであろうが根本的な「その状況」を形作っているのは少なからずとも監督の主観を通した画である。例えばある小説に「Aは驚いた」というくだりがあったとしよう、ここで読者は多様な場面を想像することだろう。しかし、これを映像で表現すると-映像で表現するということは-出来上がる場面はその瞬間にひとつの型に入ることになる。文字で表現することは映像で表現することより一層下から自由である。
はて、そうすると人間が考えていることを何かで表現することは少なからず自由を奪っているのだろうか…。

蛇足であるが最近の映画はデビット・リンチのように映画の中に一見まとまりそうなパーツをばら撒いて映画を理解しようとしても監督がしつらえた答えはなく、見た人が答えを作るしかないなんて映画もある。上で述べたこととは違う平面の話ではあるが、これは強いオフクロになろうとしているのなのかと感じることもできる気がする。
小説は文体も題材もより日常的なくだけたものが流行っていると感じる。昔一般的に言われていた文学としての威厳のある小説-弱親父的-からは離れてきていると思う。

04T3035H 2年久保田敏史

親父 → テレビ
オフクロ → ラジオ

 テレビとラジオの違いは画面が実際に見えるか見えないかということである。テレビでは全ての情報がその画面の中に現れているため内容を正確に事実どおりに把握することができる。しかし、ラジオの場合は音を聴くことしかできないのでそれによって場面を自由に創造できる。出演している人がどんな格好をしているのか、他に誰がいるのか、どんな雰囲気で番組が進行しているのかなどの不明確な要素は自分なりに推測しながらイメージを膨らませることができる。固定化された画像をそのまま取り込んで楽しむことができるテレビを親父、足りない情報を自分で自由に想像しながら楽しむことができるラジオをオフクロと呼べるのではないかと思う。

04T3040D
桜井愛海

親父  →テーマパーク
オフクロ→遊園地

「日常を感じるか、感じないか」という観点から、このように考えました。

テーマパークは、日常を感じさせない場所です。例えば、東京ディズニーランド。東京ディズニーランドが日常を感じさせない理由は、2つあると思います。
1つ目は、普段目にすることのない街並みと工夫された建築物があることです。東京ディズニーランドには、外国の町並みやメルヘンの世界、未来の世界などのテーマランドがあり、日本または現実にはない空間を楽しむことができます。また、遠近法による目の錯覚を利用して建物を実物より大きく見せたり、パークの中からは外の建物が見えないようにしたりといった工夫もあります。
2つ目は、キャラクターを重視していることです。ミッキーマウスをはじめとするオリジナルのキャラクターが数多く存在しています。パーク内には、キャラクターをメインとするアトラクションやショップがあちらこちらにあり、キャラクター(=ディズニー)の世界を強く意識させられます。
独自のテーマがあり(東京ディズニーランドでは、夢と魔法の王国)、徹底してそれを追及し、非日常の空間を作り出しているところに親父的なものを感じます。

遊園地は、日常のある場所です。これには、テーマパークと正反対の理由があります。
それは、たくさんの種類の乗り物がバラバラに配置されていることと、キャラクター性がないことです。遊園地には、普段私たちが利用している公園(広場)に、とにかく色々な遊具(乗り物など)が置いてある、というイメージがあります。また、特に決まったキャラクターはなく、普段テレビの中でよく目にしている芸能人やヒーローが、ショーのためにやってくることがあります。
特にテーマはなく、様々なジャンルのものが詰め込まれているので、オフクロ的であると思いました。

親父:エアコン
オフクロ:うちわ

 どちらも風を送る装置ですが、エアコンは常にある空間の定まった場所に設置されます。其れに対して、うちわは使用される場所が限定されません。つまり、形態性において、エアコンは親父的で、うちわはオフクロ的なのです。

03t3053b 武智靖博
 先ほど誤字がありましたので訂正させていただきます。
 形態→携帯

04TA345C 坂牛研究室 m2 深澤宏

 私の考える親父的表現は「信号」で、オフクロ的表現は「日常会話」の表現です。

 建築や美術などの表現行為には必ず、作者と読者が存在します。作者は作品を通して自らの感情や思想を表現しようとし、読者は作品を通して作者が伝えたかったことを理解しようとします。つまり、作者と読者は作品を通してコミュニケーション(意思の伝達)を行っていると考えます。
 この関係性の中で考えると、作品の表現が親父的かオフクロ的かの違いは、読者の介入の自由度が少ないか多いかの違いだと思います。
 例えるなら、親父的表現とは「信号」のようなものだと思います。ある絶対的な表現があって、その表現を知覚したものは、それに従わざるを得ない。信号が赤なのに、「自分は青に見えたから」といって勝手に進むのはあまり考え難い。その表現に勝手な解釈は許されない。そこには一方向的なコミュニケーションが成立している。
 それに対し、オフクロ的表現は「日常会話」の表現だと思います。日常会話では気軽に自分の意見や考えを介入させることができる。ある友達からの表現に対して「自分はこう思うよ」みたいな感じで参加することができる。そこでは双方向的なコミュニケーションが成立している。
 
 このように考えると、親父的かオフクロ的かという分類は、秩序か混沌か、あるいは静的か動的かという二項対立を形成しているように思います。人間はあるときは親父的な表現を求める一方、オフクロ的な表現も同時に求める傾向があります。その両義性の狭間の中で揺れ動いているのが、現代の私たちの社会の特徴であるように思います。

04T3009J 内堀 優磨

親父 : ハードケース
オフクロ:ビニール袋

ハードケースはその用途が決まっており他のものにはあまり使えないことが多い。例えばCDケースはCDしか入れることができない。また入ったとしてもあえて使わない。あらかじめ決まっていたもの以外受け入れないハードケースは親父だと思います。
それに対し、ビニール袋は大きすぎさえしなければどんなものでも入れることができる。入れたものの形に合わせて外観を変えることもできる。ビニール袋は入れるものをあらかじめ決められていない。使う側が自由に決めることができます。入れるものを選ばないビニール袋がオフクロだと思います。

坂牛
そういえば昔 青木淳という建築家が「遊園地」と「原っぱ」という言葉で僕の言う親父とオフクロを言っていたなあ。つまり遊園地は遊び方が決められているという意味で親父的、原っぱは何してもいいという意味でオフクロ的ということです。

04T3005F  泉 宏子

親父=黒電話 お袋=携帯電話
黒電話は通話という電話にとっての必要最小限の機能しかもっていないし、そこに何か他の機能がついたり、色や形といったデザインが変わってしまってもそれは黒電話ではなくなってしまう。
  携帯電話は、はじめは通話の機能しかなかったところに、メールやインターネット、ゲームや音楽などのさまざまな機能が付属されてきた。最近では機能とともにデザイン性も重視されるようになり、さまざまな色や形のものができている。しかし、このように最初とはずいぶん違うものになっても携帯電話はあくまでも携帯電話であり、初期の携帯電話もまた携帯電話である。

03t3087g 松岡澄生

親父的  →辞書
オフクロ的→インターネット

親父的には何らかの形式性や堅さ、古さを感じる。私は辞書だと思った。辞書には断固として変わることのない事柄、事象が事細かに陳列されているそこに私は親父的な威厳さがあると考える。

オフクロ的には快適性や共有感、現代的な事柄を連想させる。私はインターネットだと思った。何か検索するとその変わることない事実はもちろんそのことについての数多くの記事が載っている。私はそこにオフクロ的な包容力があると考える。

03T3102D
山内一矢

親父→落語
オフクロ→漫才
 落語とは身振り、喋りのみで幾人もの人物をただ一人が演じ、滑稽な物語や人情話、怪談などを表現する演芸である。落語家は単純な柄か無柄の和服を着用し、このとき、羽織の脱ぎ方一つをとっても約束事がある。
 それに対して、漫才とは観客の前での主に2人組による滑稽な会話を披露し、その内容や掛け合いの妙などで客席に笑いを提供する演芸である。主に2人で演じられることが多いが、落語ほど様式が決まってなく、最近では3名以上のグループが一つのネタを演じていたりする。さらに衣装は普段着のようなラフな格好であったり、楽器を演奏したり様々である。
 落語は漫才に比べて非常に制約が多い。そのために観客を笑わせるには、自分の技術によるところが大きい。近年、空前の漫才ブームであり、数多くの漫才コンビが存在する。そんな状況と漫才の自由な様式が相まって、他とは違う漫才のスタイルを確立しようと必死である。奇抜故に観客の目には新鮮に見える。そして、一時的に爆発的に人気が出る。しかし、そんな珍しいだけの漫才が長い間、人気を保てるわけもなく淘汰されていく。

坂牛研究室 m1 芦田貴文
私は、桜井愛海さんの、“ディズニーランドと、遊園地”の考え方から発展していこうとおもいます。
まず、見つけた表現は、コミック本です。親父的なもの、というとなんだかややこしくとられそうなんですが、、少女漫画にあるような長編恋愛物。そしてオフクロは、“ドラえもん”です。テーマパーク、長編恋愛物にあって、遊園地、ドラえもんにないもの。とは、ロマンです。“親父的な”恋愛物は、根底には厳格な恋愛観があり、余計なストーリーは話をおもしろくするものではなく、排除される。逆に、“オフクロ”的なものにあるもの、それは、科学的である、ということです。ある世界観を厳格にまもるテーマパークとちがい、遊園地は、高度な科学技術などを駆使し、すごいジェットコースターや回転物をバンバン押します。我が地元の“枚方○-ク”というところで考えてみると、なんかキャラクターは一応居るけどほんとどうでもよく、比較的大きい観覧車や、フリーフォールなどのアトラクションを重視する。“ドラえもん”では、コミック本ではどの巻、どのページからでも開いてもよく、終わりよいが、ドラえもんというメタは失わない。で、話を面白くさせているのは、未来志向なアイテムです。
オフクロ的なInclusiveであるということは、ただ入りやすかったり、自由であるということではないと思います。お袋は、何にもなくて自由だけなのではなく、やはりそこには容器がある。いろんなものを受け入れるためには、そのものを格納する棚がある。また、お袋は、親父や家庭を支えるために、さまざまな家電製品を駆使している(w。漫画の中で、そした、単にinclusiveではないというものに、“名探偵コナン”をあげたいと思います。この作品は、概ねどの本を開いても、面白いのではないでしょうか。ただ、ずるいところに、主人公とヒロインとの恋愛ストーリーが含まれていて、主人公に対する心境の変化などが描かれているので、テレビ版アニメなんかでは、特にどこから見ても面白いが、全体を通してみるとより面白くなる。コナンがOLに人気があるのは、そういった部分があるからだそうです。
 ただ、inclusiveではなく、その中にも親父的なロマンがはいっていることで、人を魅了させることができるのではないかと感じます。

04TA338A 中根雄一

「法律」は親父的で、「東京」はオフクロ的だと思う。
法律とは建築基準法などのことで、建物を建てる限りは必ず守らなければならない。それは支配的な秩序であり、絶対的である。そしてその法律の下でできているはずの「東京」という大きな都市は、何が起きても平然と受け止める器の大きさがある。篠原一男は東京について「無計画主義の結果についてこれほど寛容な国は珍しい」といい、そのような東京の混乱に正当な位置を与えようとした。つまり、オフクロ的である。
「法律」を武器にしている都市計画は、しばしばユートピアを目指してきた。ユートピアという理想の追求はもちろん、親父的である。また、工藤さんが、「風致地区や保護地区に建つ民家に頑固な親父建築さを感じる」といっているが、それは法律によって風致地区や保護地区と定められることによって、親父さを保っている。
そしてこの「法律」がオフクロ化してきているものも存在する。それは住民協定などの条例で、法律ほどの支配力はなく、住民が主体となっている。オフクロとまでは言えないが、優しい親父というところか。
親父的な「法律」を手のひらでころがしたのが、ガエハウスだと思えば、ガエハウスは強いオフクロだということがよく理解できる。

親父というのは完璧な調和であったり、排他的な秩序であった。それに対し、オフクロはさまざまなものを包括した秩序であった。つまり、親父もオフクロも秩序のあり方の違いがもたらしたものであるように思う。

04T3044G 篠原 昌寿
 私が考える親父とお袋をたとえるような身近なものは、親父が自動車でお袋が建物(家)です。親父が働くイメージが私には強かったのでこの2つを選びました。親父が外で働いて、その間に家事をお袋がするのがかつては普通だったような気がします。しかし最近では不景気などにより、親父一人の稼ぎでは食べていけない家が増えてきて、共働きの家が増えました。そのことなどがあるので親父が家の中で一番えらそうという家庭は大変少なくなったと思います。私の家ではお袋が一番権力を持っています。食べるためには仕方がない共働きですが子供の教育の面では良くないと思いますが、誰が一番えらいとか関係ない家庭のほうが和気あいあいとしてそうでよいなぁと思いました。

04T3083H 峯村亮佑

オヤジ : 工芸
オフクロ : 芸術

工芸品は伝統があり昔の製法でスタイルを変えない物が多いです。戸隠の竹細工「そばざる」をとっても、どこの店も形はほぼ一緒で、いまさら形を変える必要もない。まさに頑固で完成度の高いものだと思います。これは工芸品に統一して言えることなのではないかと私は思うのです。
一方、芸術作品は発想も自由、手法も自由で決まりがない事からそういえると思います。

04T3080C
松田龍一

親父→缶
お袋→ペットボトル
コンビニやスーパーでよく見かける両者だが、缶は開けてみないと中が見えない、ペットボトルはラベルの部分は中が見えないが他の部分ははっきり見ることができる。他にも缶の形の種類はそんなに多くないが、私が知る限りペットボトルの形の種類は様々なものがある。
少なくとも私は、缶は円柱の物だというイメージがある。でもペットボトルは丸かったり四角かったり平べったかったりうねってたりする。この形こそがペットボトルというのがないと私は思う。
このあたりにペットボトルの自由という物を感じる。

04T3052H 高柳翔太

 「お金」と「愛」というものは、この世の中でよく比べられる組み合わせのひとつである。愛はお金で買えないなどとよく言われ、私もそう思うが、ここでは道徳的な考え方を一切捨てて意見を述べることにする。私は、愛は親父的で、お金はオフクロ的であると考える。こんなことをいうと人格を疑われるかもしれないので先に断っておくが、将来お金をたくさん儲けたいわけでもなく、そんなにお金に飢えているわけでもない。愛というものは、一人の人が全世界の人を愛せることもなければ、一人の人間が世界中から愛されることもない。つまり愛されない人は必然的に排除されることになる。一方お金はだれにでも平等である。ある人がテレビで言っていたのを聞いて確かにと納得した。お金は持ち主がどのような人かどうかということを気にしない。お金があればそれと同等の価値があるものを提供してくれる。そこにはオフクロ的な意味が存在するのではないか。

04T3014E 岡崎友也

親父的・・・ピアノ
オフクロ的・・・バイオリン

 本来「音」は連続的なものであるが、音楽の演奏や評価にあたって便宜上、ドレミファ・・・のように音階が決められている。当然「ド」と「ド♯」の間に該当する音が無数に存在するはずだが、ピアノは音階で定められた音しか出すことができず、微妙な音の高低の違いは出したくても出せない。これが、ピアノが排他的・絶対的つまり親父的なものだと考える理由である。
 一方でバイオリンは演奏者が弦の長さを微妙に調節することによって音を奏でる。バイオリンにも楽譜はあるが、わずかな音の調節が可能であり演奏者の微妙な心の動きや感性を表現できる。ここにバイオリンの包容力を感じ、オフクロ的だと感じた。

02T3077F 三石智香

親父的・・・着物
オフクロ的・・・洋服

着物は帯の締め方にはいろいろ種類があるが、基本的な着方は決まっていることから親父的な物なのではないかと考える。
それに対して、洋服は一枚だけで着たり重ねてみたりスカートをズボンの上に着たりと、工夫しだいでいろいろな着方ができ、決まった着方というのはない。そういう意味で洋服はオフクロ的なのではないだろうか。

03T3026E 勝 良介

親父的表現      ⇒ 法律
強いオフクロ的表現 ⇒ 俳句、短歌
オフクロ的表現    ⇒ 詩、手紙、メール

言葉の表現形式、意思の伝達と解釈の自由さ の観点から、親父的表現とオフクロ的表現の検討しました。


*親父的表現     ⇒ 法律
法律は、守らなければならない社会の決まりである。そのために法律はきちんとした意味を万人に伝え、読み手の解釈の自由さや曖昧さを無くし、洗練された成文を残さなければならない。他の解釈が許されない法律や憲法などは、親父的表現であるといえよう。脇道に反れるが、そういった意味で解釈の自由さが残る「憲法9条」は改正すべきだと私は思う。


*強いオフクロ的表現 ⇒ 俳句、短歌
何名かの意見に俳句や短歌は親父的だという主張があったが、私はオフクロ的だと思う。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声
  
上記のものは松尾芭蕉の有名な句の一つである。私は、夏の日差しの強さ、頬で感じるひんやりとした石の冷たさや石の手触り、意識が遠のき、辺り一帯に降るような蝉時雨が次第に聞こえなくなっていく様子などを感じる。この句はたった14文字で、読む人の五感すべてを喚起し、無限の宇宙を表現している。 芭蕉(original)の句は洗練されたもので、オフクロにしては強すぎるオフクロ的表現であるが、俳句や短歌は、世の中の多くの人々(copy)が親しんできたように、万人を受け入れる余地がある。このように俳句や短歌は一定の規則を備えつつも、無限に世界を表現でき、読む人の自由な解釈の余地を持つ、強いオフクロ的表現である。

*オフクロ的表現   ⇒ 詩、手紙、メール
詩や手紙、メールなどは、表現の仕方も基本的に自由、受け取り方や解釈もまさに自由なオフクロ的表現であるといえる。

03T3026E 勝 良介

訂正

 芭蕉の句は 
誤14文字
正13文字 でした。

03T3041J 清水右一朗

親父的:鎖国(受動的、内向的)
オフクロ的:開国(能動的、外向的)

言うまでもなく、日本は江戸時代に幕府の方針によって鎖国政策していたわけだが、鎖国はまさに排他的で他の国の文化や技術を受け入れなかった。しかしながら、日本独自の文化を形成できたというメリットがあった。
開国以後は西洋の学問を積極的に取り入れ、近代化してきたが、日本のアイデンティティーが結果として失われてしまっていた。

まとめ
「親父的」は規律により制約を受けた状態(受動的で内向的)でつくられた美や文化であり、「オフクロ的」は規律からの解放され自由になった状態(能動的で外向的)でつくられた美しさなのである。
どちらが良いとは断定することはできないし、両者のメリットを取り入れようとしてもその行為自体が結局オフクロになってしまう。ただ、「親父×オフクロ」ができたら新しい世界観が誕生する(?)と思った。

03t3073g
野崎慎吾

親父的表現  →デジタル
オフクロ的表現→アナログ
この世の中にあるものを表現するのにほとんどのものはアナログかデジタルに分類して表現することができる。デジタルは厳格な親父的表現方法であり堅苦しいイメージがある。決まったもの、決まった方向にしか表現しない、型にはまったものである。時計板も決まったその時間、一瞬の時間だけが表示されており連続的なものではない。CDも決まった曲の頭からしか再生できない。しかし厳格すぎる分、まとまりがあり表現が他人に比較的伝わりやすいので現代はデジタルが受け入れられてきているのではないかと思う。
一方アナログは型にはまらず自由なオフクロ的表現方法である。時計を見ても3:55分ならば後5分で4時と受け取る人もいる。表現を受ける人の自由だ。アナログレコードも曲のどこからでも曲をかける人の自由であり、CDのようにきまった一方通行な表現だけではない。

03t3077k
波多野 貴壽

私が考える親父的表現・オフクロ的表現とは、石原プロダクションと、ホリプロです。石原プロダクションは私の考えでは、親父的表現に入ります。先代の裕次郎さんが築いた、映画を見た人・テレビを見た人に憧れを抱かせ、そこにその人がいるだけで感じさせられる圧倒的な存在感、このイメージを守り続けている石原プロダクションは親父的表現です。母親のように多くのことは出来ませんが、ここだけは負けないという一つのものがあるような感じがして私はとてもかっこいいと思います。これに対し、ホリプロはオフクロ的表現だと思います。時代に合わせて多くの芸能人をスカウトして世に出していく、アイドルからお笑いと様々な芸能人がいますが、ブームが去ってしまうと居なくなってしまう芸能人も沢山います。プロダクションが何でもこなしてしまうだけに、飽きられてしまう芸能人もいますが、中でも残っていくのはその人身が何でもこなしてしまう人です。例えば、俳優をやりながら、それなりのコメントも言え、司会もこなしてしまうような人です。このような人は芸能界でずっとやっていっています。そしてこのような人を母親的表現だと思います。

05TA340F
松永崇

親父   → 遺跡、廃墟
オフクロ → 生きられた空間

まずオフクロ的な生きられた空間について説明します。生きられた空間とは、人々が共有して使っている空間、日々変化を繰り返しながら安定し、静止することのない空間のことである。具体例というものはなく、病院、オフィス、学校、もちろん住宅も、人の営みのある空間すべてである。これらの空間は内からでも外からでも、行為や社会的背景から織り込まれてできている。そこでは空間と時間の共有している。

それに対して、遺跡、廃墟は、生きられた空間であったかしれないが、現在は生きられた空間ではない。親父的である。遺跡には人の営みはなく、そこに住んでいた人の痕跡・記憶が形式化されて存在している。この場所は静的で変化することはない。そしてこれからも変わらないだろう。
少し違うかもしれないが、工藤さんがあげた「風致地区や保護地区に建つ民家」は親父的建築に値するのではないか。それは、文化財として保存されているため、さまざまな規制がある。だから、そこに住んでいる人が自由に外観を変えたりすることはできない。でも生活スタイルは今と昔では違うため、使いづらい部分を変えることは可能。となると、風致地区や保護地区に建つ民家は、親父的建築なんだけど、少し違って優しい親父建築?遺跡と違って、今もなお人は住んでいるから。でもオフクロ的建築、強いオフクロ的建築ではない。
ただ風致地区や保護地区以外に建つ民家は、オフクロ的建築である。そこには人の営みが存在しているから。

03t3089c 松田大作
親父的なもの:重力
オフクロ的なもの:無重力

親父的なものとして挙げた重力は、地球に住むものなら誰でも与えられ、縛られるものです。また、g=9.8m/s²という絶対的なものをもち、地球上のものすべてに絶対的な権力で支配しています。絶対従わなければいけない、という点において親父的であると思います。
また、オフクロ的なものとして挙げた無重力ですが、これは重力反対語として捉えてください。決して無重力というイメージでとらえないでください。ここで、オフクロ建築は、親父建築に対してアンチを唱えた建築だと思います。絶対的なる親父建築に対するアンチです。篠原一男氏のような建築は美を求めるものではなくてはいけないというある種の先入観を乗り越えていくものとして、坂本一成氏や伊東豊雄氏がその先入観を乗り越えていきました。ここでは、3年の岡君が言うように過去vs.現在です。この戦いの鍵として、親父建築の先入観を挙げます。いつも思うことなのですが、こういう思想が転換される(ここでは、親父からオフクロ)ときは、必ずそれまで存在していた先入観が覆されていく、乗り超えられていくと思います。ですから、現在存在し、かつ絶対的で先入観のあるものを親父的として重力を挙げ、その先入観を確実に超えていけるものとして、無重力という言葉がオフクロ的であると思います。

ここから先は駄文です。
先日梅干野さんと話していたことなのですが、例えばある部屋(開口部は存在せず、ただ扉とドアのみが存在する空間)を真っ白にして、そこにプロジェクターである部屋の映像(例えば窓を映して、その窓から見える風景を映したり)を映し出せば、そこは立派に空間として、建築として存在するかという疑問です。これがもし立派に空間だと言われれば、では建築はただの箱でいいのか?という疑問にいたります。もしも、この空間が空間ではないと、じゃあ建築って何からできているの?という疑問が出てきます。そもそも建築って何でしょうか?建築って何からできているのでしょうか?線?理論?空間?絵(デザイン)?アイデア(発想)?構造?イメージ?これらの要素を同次元的なものとして扱うのは少々無理があると思いますが。何からできているにせよこれらは建築という一つの塊に収束してしまいます。坂牛先生、いったい建築とは何なのでしょうか?
授業と関係ないことですみません。けど、どうしても先生の意見を伺いたいです。

05TA324D 高橋伸幸

親父的表現 『結末が書いてある小説』
オフクロ的表現 『途中まで書いてある小説』

 『結末が書いてある小説』とはつまり「完成品」のこと。著者の世界がまとめられており、読者はそれを読んでその完成された世界を楽しむ。また、読み終わった後は同じ価値感・結末を共有することができる。そして、話の内容は変えることができない。結末があり完成しているので、いつまでも変わらない価値を提供しつづけることができる普遍的なものになる。
 それに対して『途中まで書いてある小説』とはつまり「未完成品」である。これは意図的に未完にしたものである。著者+読者で作品を完成させる、又は完成を目指す。途中までは著者が書き、続きを読者に書いてもらう、又は想像してもらう。ページ数は決まってはおらず、何人で続きを書いてもいい。途中まで書かれた内容に続くように書く人もいれば、そこから全く違うものにする人もいる。一行で終わる人もいれば、延々と書きつづける人もいるかもしれない。限定さえるものが無く、自由に自分の世界をつくることができる。つまり自分だけのものになる。
 このように考えると僕は、親父はオフクロの一部だと思う。小説で言うと途中まで書いた文章をそのまま続けて著者が結末まで書いたもの。つまり、著者+著者であり、選択肢の1つに過ぎない。親父とオフクロの違いは途中で利用者にその結末を委ねるか、自分がやりきるかの違いだと思う。
 では、強いオフクロとはどんなものか?
 それは選択肢を限定したものだと考える。小説で言えば、「続きには必ずこの言葉を入れてください」とか、「何ページまで」とか。又は、内容はそのままで読者を限定する。男性限定、女性限定、地域限定、国限定のように。そのように選択肢を限定することで自由でありつつある一定の価値を共用できるようになるのではないのだろうか。

04T3101K和田隼人

親父;映画館
お袋;DVD
 
 映像としての作品を鑑賞する際、映画館という存在はとても親父的なものであると思う。観客席としての整然と並べられたイス、照明は落としてあるし上映開始終了時間も決められている。決められた空間の中で作品を楽しむ。これこそ親父的である。一方DVDはというと、どこで観ようがお構いなし。DVDプレイヤーを用いて外でみることさえできる。別にイスに座る必要はないし、自分の好きな時間に観始める事ができる。用事だといって途中で一旦止めておいて続きを見ることも可能だ。DVDはオフクロ的であり、使う側に選択の自由が与えられている。
 私が考えるに、親父的なものであろうがオフクロ的なものであろうがどちらが良い悪いではなく、その対象になっている物事について考え、理解し、なによりそれを楽しむということがもっとも大切なのではないだろうかと思う。
 

05TA328G 中尾友之

親父的表現 → 暴れん坊将軍
オフクロ的表現 → マツケンサンバ

暴れん坊将軍を演じる松平健は完璧でかっこよくさらに負けることもない。それを見るもの誰もが演者に完璧なイメージを持ってしまう。ところがマツケンサンバは見るもの誰もが意表をつかれる。丁髷と刀を捨て、サンバを踊る松平健には誰もが度肝を抜かれたはずである。そこには完璧でかっこいいというイメージからは程遠い姿があり、これまでの演者が排除してきたものがあったわけである。
ここで重要なのは親父⇔オフクロの関係が、形式⇔自由ではないことである。自由なこと、何でも受け入れるからオフクロであるというのは確かにその通りであると思われる。しかしそれではミースのユニバーサルスペースをまねしたオフィスビルと変わらない(本家本元はどこかが他と違うんだろうなあ)。つまりただ無選択なだけでは混沌を生むだけで、多様ということにはならないわけである。
こうした観点から見てみるとマツケンサンバは松平健のタレント性を多様なものにし(決して混沌ではないはずである)、何でもやる若手芸人とは一線を画しているわけである。それこそ強いオフクロであり、かっこよさとかっこ悪さを併せ持った演者の魅力なわけである。

03T3092C 三森翔

親父・・・学校・仕事での生活時間
オフクロ・・・自分の生活時間

時間は世界中どんな人にも平等に与えられています。その平等に与えられた時間の中で今の自分の生活の中で私が親父的であると感じているのは、学校や仕事に費やす時間で、オフクロ的であると感じたのは自分の時間だと思います。学校や仕事は多くの規則があります。たとえば朝は9時までに学校・会社間に合わせなければならない、報告書や課題を期限にまで提出しなければならないなど。その作業以外には時間を使うことができなくて時間の使い方を制約している点では“exclusive”であるかなと思います。それに比べ、自分の時間は自由で本を読んだり、スポーツしたり、旅行に行ったり、デートに行ったり・・・など時間の使い方は人さまざまで“inclusive”オフクロ的要素を含んでいると思います。時間と言うものさしで考えてみると、両者には差がなく常に一定のリズムがあり、同じように感じれます。両者の大きな違いは時間の規制であると思います。これは親父建築、オフクロ建築にも見られる点であると思います。

私の考えるオヤジ的なものは「現代社会」であり、オフクロ的なものは「原始時代」です。
それはなぜかというと、現代社会に生きる私たちは学校や仕事などさまざまな束縛によって日々の生活がパターン化され、同じような毎日を繰り返しているからです。細かな部分は違ったとしても、ほとんどの人々は毎日を同じように過ごしているのではないでしょうか。
その一方原始時代に生きた人々は、今の私たちのような時間による束縛など無く生きたのではないだろうか。生きるために食料を採ったりと毎日繰り返す必要があるものもあったとしても、現代に生きる我々より束縛は少なかったのではないだろうか。
束縛されるものが多い現代社会はオヤジ的なもので、束縛されるものが少ない原始時代がオフクロ的だと考えました。

私が親父的オフクロ的だと思ったのは「ベランダに布団の干せるマンションと干せないマンション」です。
 外の目を気にして住人の行動を規制する「干せないマンション」は排他的で生活感というものを寄せ付けない感じがするので親父的で、住人が快適に過ごすことを優先し規制をしない「干せるマンション」は中にあるもの(住人やその生活など)を必死に守ろうとしているのでオフクロ的だと私は考えました。ちなみに、私はこのマンションのベランダに布団や洗濯物を干すことを許さないマンションには断固反対派です。そう考えると、私の考えはかなりオフクロ的なのだと思います。それは、私が布団や洗濯物を窓の中に押し込めることで守られる美しいままの外観よりも、道路から見えたベランダが全く統一感の無い布団に埋め尽くされていても、そこに住む人達がその日の夜フカフカの布団で気持ちよく眠れるという時間を大切にしたいからです。
以上が「親父的オフクロ的」なものに対する私の意見です。

04T3072B 平田雪絵
親父…制服
オフクロ…私服
 制服というのは、学校や会社で決められた格好で、厳しい決まりなどもたくさん定められている。でもそれは必要な格好であって、きちっとしている感じがある。人によっては少し違う着方もあるけれど、それは規則の中のものであって、厳しくしつけられているものである。
 私服というのは、何も決まりなどはないし、自分の好きなように選ぶことができる。そこで自分の個性を出すことができ、周りがいろいろに感じることができる。その格好はどうかなぁと感じる人もいれば、おしゃれだなと感じる人もいる。いろんな意見があったとしても、それはどこかで受け入れられると思う。誰かがどう思っていようとも、その人がしてはいけない格好など普段の私服ではないのである。
 親父には受け入れてもらえないものが多いきがして、オフクロは、どんなことでも受け入れてくれるような、そういうことをイメージした。

僕の身の回りにある親父的表現といえば、医者です。そのようにおもうわけは、ある人から聞いた話にあります。
ここに二人の親子(父親と息子)がいます。今日、二人でプラモデルを買いに行くことになりました。しかし、その道中で不幸なことに息子が車にはねられてしまいました。そして、救急車で病院に運ばれていきました。そして、その医者がその患者を見て叫びました、「息子だ。」と。その医者は、患者にとってどのような関係なのかと質問です。

答えは、医者は、息子の母親なのです。僕もこの話を口頭で聞いたときは、すぐにはこの質問にこたえることはできませんでした。医者というとすぐに律儀で誠実な男性を思い浮かべます。そのようなところも関係して、僕の身の回りにある親父的表現は、医者だとおもいます。
* 決して、差別をしたわけではないのでその辺はご理解願いします。

一方、僕の身の回りにあるオフクロ的表現は、料理だとおもいます。特に手間のかかる料理(煮物など)です。親父が作る料理は手間のかからない料理というイメージがあって、このように逆の発想で考えてみました。あと、台所という場所も親父がいるとなぜか違和感があるところなので、台所もオフクロ的表現ではないかと思います。

04T3030G 河辺 慈

僕の身の回りにある親父的表現といえば、医者です。そのようにおもうわけは、ある人から聞いた話にあります。
ここに二人の親子(父親と息子)がいます。今日、二人でプラモデルを買いに行くことになりました。しかし、その道中で不幸なことに息子が車にはねられてしまいました。そして、救急車で病院に運ばれていきました。そして、その医者がその患者を見て叫びました、「息子だ。」と。その医者は、患者にとってどのような関係なのかと質問です。

答えは、医者は、息子の母親なのです。僕もこの話を口頭で聞いたときは、すぐにはこの質問にこたえることはできませんでした。医者というとすぐに律儀で誠実な男性を思い浮かべます。そのようなところも関係して、僕の身の回りにある親父的表現は、医者だとおもいます。
* 決して、差別をしたわけではないのでその辺はご理解願いします。

一方、僕の身の回りにあるオフクロ的表現は、料理だとおもいます。特に手間のかかる料理(煮物など)です。親父が作る料理は手間のかからない料理というイメージがあって、このように逆の発想で考えてみました。あと、台所という場所も親父がいるとなぜか違和感があるところなので、台所もオフクロ的表現ではないかと思います。

02T3018A  4年 片岡 篤史

親父にあたる事例は「写実主義の絵画」で、オフクロにあたる事例は写実主義からの脱却を目指した「印象主義の絵画」。そして、強いオフクロにあたる事例は「インスタレーションアート」だと考えます。

「親父」とは、授業でも先生がおっしゃったように、「厳格・排他的・絶対的」などの例えとして用いられていましたが、それはすなわち、他からの干渉を受けずに、どこの場所・どの時間でも「それ」と分かるものまたはその「絶対性」が誇示されるものだと思いました。そういった考察から、写実主義の絵画というのは、「見たものをありのままの表現で」と言われるように、そのリアリズムこそが親父的要素だと考えます。

そして、その写実主義に疑問を抱き登場した「印象主義の絵画」は事物から受けた感覚的主観的印象をそのまま作品に表現しようとする点で、「見たまま(リアリズム)」に作者の主観を付加させる、すなわち他の受け入れを認めるといった点で、まさにオフクロ的要素の強い表現方法であると思います。加えて、この手法が用いられた当初は非難を浴びていたことも、伊東豊雄が「シルバーハット」をカッコワルイと言っていたことと近い印象を受けました。

そして現在、芸術は作品を単体としてではなく、展示する環境と有機的に関連づけることによって構想し、その総体を一つの芸術的空間として呈示するような方向も生まれ、「インスタレーションアート」なる芸術に発展しています。これは、ホワイトキューブの中での鑑賞という意図の強かった芸術から、場所性・時間性を持つアートとして新たな可能性を見出した点が強いオフクロとしての可能性を感じます。

そして現在において、これら3つの様式はどれも一定の評価を受けているというところが重要だと思います。つまり、それらは決して対立的要素として成り立つのではなく、「親父」も「オフクロ」も他を干渉することなく独立した基準の下に成り立っていると考えます。
だから、「写実主義の展覧会」も「印象派の展覧会」も「現代アートの展覧会」もそれぞれ人気があるように、篠原一男の建てた家も、伊東豊雄・坂本一成の建てた家も好まれているのではないでしょうか。

03t3090g 萬成恵佐

親父的なもの:祭り
オフクロ的なもの:祭りの準備

 ここで言う祭りとは学祭や文化祭といったニュアンスでの祭りを指します。
 祭りにせよ祭りの準備にせよどちらも楽しいものであると思います。しかし、与えられ物でしか楽しめない参加者、準備したものを提供することでしか楽しめない企画側といったふうに「消費」的な意味合いで祭りは親父的なものであると思う。
 しかし、祭りの準備は祭りという最終目標に収束しながらも考える楽しみ、作る楽しみといった「創造」的な意味合いで祭りの準備はオフクロ的なものであると思う。
 このような関係はまるで、お袋が作った料理を食べる親父みたいだと思った。では、強いお袋とは自分で作った料理を自分で食い尽くす主婦だろうか。

03t3804e
3年鈴木俊祐

親父→理想
オフクロ→現実

理想とは現実から自分にとってマイナスなものを排除していくものである。(それが他人にとってはプラスなものであっても)一方、現実は自分に起こるすべてのことを受け入れるしかない。(選ぶことはできない) このように考えると建築は人の生活が現実として営まれるので、芸術的にはマイナスの要素も受け入れるしかない。それが現実である。
篠原一男のように現実を受け入れず理想を追求するとカッコイイものができる。一方、現実を考えていくと伊藤豊雄のシルバーハットのようにかっこ悪いもの(僕は十分カッコイイと思っています。)ができる。両者はそれぞれを追及した極端な例なのかもしれない。優れた建築は理想と現実のどちらにも偏らないでよいバランスで共存しているものなのであろう。建築に限らず、親父とオフクロ両方いてよい子供育つということである。
それ(共存)が先生の言う強いオフクロということだと思います。そのように考えると別に強いオフクロではなくて弱い親父でもよいのでは?という疑問が出てきました。そこでもう少し考えてみると、強いオフクロというのはもともとただのオフクロだから、現実を前提としてそこにプラスアルファの理想がくっついているもの。弱い親父は理想が前提としてあって現実性も少し考えていくこと。つまり強いオフクロと弱い親父はそれぞれ反対方向から同じものを目指しているということである。したがって若干の違いはあるものの両者は≒である。

02T3051B 土屋光司

親父的表現・・・写真
オフクロ的表現・・・映像

写真はある瞬間を切り取った一枚の画である。そこには移り変わることの無い確かな一瞬が存在する。その一瞬を表現するために不要な存在は排除し、受け入れない。「写真は引き算である」という言葉を聞いたことがあるがまさにそのとおりである。

一方、映像は流れ、消え去っていくものである。一定の場所にとどまらず次から次へと表情を変化させていく。そして、ところどころに外しの要素があるからこそメインが引き立ち、全体としてのまとまりが生まれる。

親父としての確固たる意思が現れているかのような写真と、オフクロの大きな包容力の中で抱かれているような映像は、静的か動的かの違いはあれ根底では繋がっている。ただ映像は一瞬、一瞬の連続で生まれるという点に関して写真を包み込むものであることは確かである。オフクロは親父をたてているようで実は親父以上の確固たる信念を内に秘めているのだと思う。自由度の中に心地よい規制があるそんな映像がオフクロを超えたオフクロなのではないか。

坂牛

外から大学祭の歓声が聞こえます。午前中現在進行中の上海近郊での設計の打ち合わせを終えて、新幹線で大学に着きました。もうすっかり暗いのですが、研究室に入るとほっとします。一人になってコーヒー飲みながら、みんなのレポート見るのが楽しい。
この授業は偶然にも2年生かm2まで受講しているのでレポートも5学年分あります。そしてこうして並べてみるとみんなもそう思うでしょうが一年一年大人っぽくなっていきますねえ。この時期の一年は本当に進歩するものだ。知識はスポンジに吸い込まれる水の如く吸収されていきます。うらやましい限りです。この時期にめ一杯勉強しておいて損はないですよ。本当です。
さてだから5学年一編に絶対的に見ると圧倒的にm2有利かもしれません。だけど幼稚なさには幼稚な分だけインパクトもあるものです(着眼点がよければだけれど)。そうやって見ると、先ず二年生は工藤さん阿部さんの発見と分かりやすい文章が好感をもてます。3年生は岡君、松田君が一生懸命建築に食らいついている感じだ。若さが感じられて気持ちいい。四年生は卒計で疲れ気味。片岡君が頑張って書いたかな。m1、m2はまあみなはレベルが高いがその中でもきらりと光るのは高橋君の親父完結、オフクロ未完という発想です。そもそも未完の小説なんて不思議な対象を作り上げ、そこに読者がそれを完結させるというストーリーを展開する。これは美学上受容理論というもので作品は受容する側の解釈を持って修了するというものです。そしてその受容する側の比重を重くしてそこにオフクロ性を指摘したその着眼点は一歩抜けています。話しはそれますが、坂本一成はよく建物を銀色に塗っていましたが、その理由は工事現場みたいだからというものでした。工事現場、つまり工事中みたいな状態、完成していない状態にあこがれていました。今でも彼は木質系の材料を無塗装で使ったりします。これも仕上がってない感じ。判断保留状態。つまり様々な受け取りを許容しておきたいということなのです。

高橋君の対象だけではなく対象の受け取り側を含めた系の中に質問の対概念を引きずり込む発想の拡張。こういう点を2年生は見習ってください。聞かれたことに聞かれたとおり答えていても面白くないものです。友達との会話でもそうでしょう?相手の言うことを少しひっくり返したり、転換したり、拡大していくと、会話は楽しいし、発展してくものです。

坂牛
言い忘れた、坂牛賞は本当はこの中から厳選して一人にしようとおもったのだが、なかなか一人にする明解なクライテリアが示せないので名前を挙げた人全員に差し上げます。大バーゲンです。次回は質問も分量も少し厳しくします。

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