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第二講のお題

院生と話していたら、先生の話は2年生には難しいと言う。しかし僕はそうは思わない(と思う)というのは確かに2年生は上級生に比べ知識は少ない。しかし僕の授業は原則的に、ものの考え方、原理原則を問うているのである。言えばそれは建築の哲学である。哲学に予備知識は要らない。算数の足し算を1から習うようなものである。だから2年生にも分かるはずである。
よって授業中はよく聞くようにしよう。開き直って寝る人は次回から来ないでよろしい。
名前を覚えて来たので、寝ている人は欠席とする。

さてそれでは今回のお題だが先ずその前に授業でも言ったように、今回は11人目からは自分より前に書いた人のどれかについて賛成反対部分賛成などの意思を表示しそれを用いて自分の論を展開して欲しい。

さてそれでお題だが、今回は「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」とする。西洋建築の伝統は人間を基準にした比例関係であり人間の寸法は見習うべき規範である。その規範が部分的に著しく崩壊したものを妖怪と呼び、具体的にはそうした、全体的規範からではなく部分から考えられた建築を妖怪建築と呼んだ。お題の主旨は建築に限らず(建築でも良いが)そうした妖怪を探し説明せよというものである。例によって難しければ、archiveで東大のレポートも見てみよう。」

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コメント

04T3042A 繁山 和夫
私が妖怪だと思うものに和製英語があります。和製英語とは、日本人が英単語を組み合わせて日本語の感覚でつくった英単語のような日本語です。英語はイギリス人がつくったもので、イギリス人のものの考え方が反映されています。辞書にもあるように語源があります。勿論日本語にも同様のことが言えます。さて、ここでいう全体的規範とはイギリス人のものの考え方です。この規範は日本人の考え方でつくっている地点でその規範は崩壊しています。また、和製英語と言われるように日本人にしか通じない言葉なので、イギリス人の立場ではなく日本人の立場でとらえてみたら日本語なのに英単語を使っている点が日本語の規範を逸脱していると思います。部分は単語です。全体は和製英語を使用しても文法は日本語なので、日本語という体系を指します。

04TA345C m2 深澤宏

 はじめまして。坂牛研究室のM2の深澤宏と申します。今回の講義から参加させて頂きます。

 妖怪といったときにまず始めに思いつくのが、一つ目小僧とかろくろ首といったいわゆる化け物の類です。これらのものの共通点として、「人間の形をしているけどある部分が異なっている」ということが挙げられます。例えば、一つ目小僧なら本来二つあるはずの目がひとつしかなく、ろくろ首なら首だけが異様に長い。そして、普通の人間と異なる部分は、それ以外の外見が普通であればあるほど、際立つように思えます。
 見慣れたものが、普段とは異なった形態をしているがために、思わずその部分に注意が向いてしまう。一つ目小僧なら目に、ろくろ首なら首に注意が向く。このような異化作用を備えたものが、妖怪の一つの条件であるように思います。このように考えたときに、自分の周りには、妖怪が結構多くいることに気付かされます。
 例えば、僕たちは携帯メールなどで顔文字を良く使います。
 「ありがとうm(_ _)m」みたいな感じで。
 この絵文字の「m」「_」といった文字は、本来の言葉を表記するための記号としてではなく、「m」は「床についた手」、「_」は「下を向いた目」というように、図像的記号として作用しています。このように日常的に見慣れたものが、普段と異なる使われ方をしたとき、私たちの興味は、記号の意味内容より、文字そのものへ向かいます。普段は単語を形成するため文字に過ぎなかったものが、普段と異なる使われ方をしているため、興味が文字そのものへ注がれる。これは、「ろくろ首」において、普段気にも留めることがなかった「首」という部分が、「伸びる」という日常起こりえない作用が起こることによって、「首」そのものへ注意が注がれる作用に似ていると考えます。つまり、顔文字「m(_ _)m」は妖怪であると言えるのではないだろうか。
 最近は「m(_ _)m」のような絵文字は日常的に使われるので、感覚が麻痺しているけど、携帯メールを使い始めた頃は、顔文字を使うことに対して少し違和感があったのを覚えています。もしかしたら一つ目小僧やろくろ首も見慣れれば妖怪としての性格が薄まるのではないだろうか。

04TA338A 中根雄一

まず妖怪と聞いて思いついたものを2つか挙げると、
市営の立体駐車場
これは長野駅前で見ることができる。一切窓がなく、その上7.8階の高さがあり、それこそ妖怪「ぬりかべ」のようである。全体のプロポーションなどおかまいなしで、車を積んでいったら出来上がったという感じである。
レゴブロック
小さい頃、遊んだ記憶があるが、個々の部品を自由に組み合わせていくという、まさしく部分から出来上がる。作る形は自由で、やっているうちに次々と形が変わってゆく。
この二つには明らかな違いがみられる。それは立体駐車場には全体像があるが、レゴは全体像がみえにくい。または終わりがない、ということである。全体がみえないということによって、不安と同時に期待が膨らむ。それは地平線の彼方をみたときに感じるものと似ているかもしれない。つまり、部分から成り立つからこそ、全体の可能性は制限なく広がることができる。
そもそも、妖怪とは何なのか? 妖怪はある要素を強調したような姿や能力を持つ。それはときに人間を超越する。もちろん、講義でいっている隠喩としての妖怪と、水木しげるの妖怪を混同してはならない。しかし、全体的規範からはずれるからこそ得られるものがあるのではないか。そうすることで、妖怪の人間を超越した姿や能力を得ることができるように思う。よって、部分から考えることは、大きな枠組みから開放された自由な構成を可能にし、何か新しいものを生み出す可能性を持っている。ここでやっと、「建築は発見だ」と言った、先生の最後の言葉につながるように思われる。
どうも始めに挙げた例が悪すぎてわかりにくいかもしれないが、先に挙げた両者の違いは、実はたいした違いではない。全体がみえる、みえないの違いであったが、実際、建築として成り立つためには、全体がないということはあり得ない。上記の例は、建物か建物じゃないかの違いにすぎない。そのように考えていくと、もしかしたらあの市営の立体駐車場は何か新しいものを暗示しているかもしれない、という馬鹿げた考えは否定できないのである。

05ta304k 芦田貴文
 「共同体」というものを、妖怪的なものと呼ぶことができるのではないだろうか。妖怪的な共同体は、身近なものを挙げるとすると、学級にみることができる。学級は、その学校に通う人々の個、つまり部分が集合し、全体、つまり学級をつくりあげている。学校は、社会の縮図の様なものであると言われたりするが、この構造は、現代の資本社会においても同じことが言えるのではないだろうか。企業や官庁も、それは個の集合の共同体であると見ることが出来る。
 しかし、そもそも共同体は、個が集まったような形態だけであるとは言えないであろう。身近なものでいえば、家族、または、山村などのコミュニティーは、それが全体であり、全体が個々を規定していると見ることが出来るのではないか。そこでは、部分は内部発生的なものであるといえる。
 建築において、この共同体を体現するものとして、白川郷の合掌造りの集落があるのではないか。これは、大きな屋根の下で、大家族が暮らせるような全体を造り上げ、その中に個を内包する。これは全体から部分を造り上げていると言えるのではないか。
 現代においての建築も、全体から部分をつくるという手法が常套手段となっているといえるだろう。オフィスやホール建築は、入ると見込まれる全体を、資本主義のやり方にのっとって予測し算出し、全体をまず規定するのである。しかしながら、現代の資本主義の社会では、集落的コミュニティーや家族のような全体的な共同体は分節、解体され、個々に主体性を持つようになったのである。
 ここでいえることは、白川郷的な共同体では、人も建築も全体から組み立てられていたが、現代では、部分から全体が構成されている人間の共同体と、全体から部分へという建築の構成の仕方の所に、矛盾やズレが生じているのではないだろうか。
 現代の建築は、そのズレを補正するために分節化が進んでいる状態と捉えることが出来ないだろうか。それはつまり建築が人に近づいて妖怪化しているということだ。しかし、すでに私たちが、妖怪になっているといるだろう。

05TA324D 高橋伸幸

身の周りにいる妖怪とはどんなものか?
 妖怪とは部分が普通よりも多かったり少なかったり、つながったり離れたり、伸びたり縮んだり、色が違うものだと思う。つまり、妖怪は普通+α 又は 普通-α みたいなものである。
 そこで注目したのが携帯電話である。携帯電話の本来の機能は電話をかけることである。しかし、現在では多種多様な機能が携帯電話には備わっている。時計になり、メールを送れ、写真を撮ることができ、インターネットまで利用できる。また、ゲームができ、テレビになり、音楽も聞け、財布代わりにもなる、など機能は増え続けている。それは初期の携帯電話からは予想できないほどである。つまり、初期の携帯電話を「普通」とすると、現在の携帯電話は機能という部分が過剰に集まった「妖怪」と言えるのでないのか。
 自分が最初、携帯電話を購入したときは画面が白黒からカラーになったときであった。その次はカメラがついたときである。どちらの場合も今までと大きさや重さ、形状が変わらないにも関わらず新鮮味を感じた。それは携帯電話に備わっている機能が自分にとって今までと違うからである。初期の場合は電話をするという共通唯一の機能があったため、その価値判断には全体像が大きく関わっている。それに対し、現在では明らかに機能が携帯電話の価値に大きな影響を与えている。また、全体像(デザイン)からそれぞれの機能(部分)を決定することは無く、機能から全体像が決まっている。つまり、機能という部分が携帯電話の「普通」を呑み込み別のもの(妖怪)に変身させているのである。
 普通とは自分が基準のことである。そのため自分にとって違うものでも他の人から見たら普通であることなんてたくさんある。しかし、「いつもと違うぞ」または「自分とは違うぞ」と思ったときに妖怪は自分の目の前にいるのだと思う。

05TA340F 松永崇

 まずは妖怪建築について確認する。妖怪建築というのは、先生がおっしゃったように部分から考えられた建築のことである。あと妖怪という定義に必要不可欠なものは全体性の存在を意識させることである。
 僕が妖怪と聞いて思いついたのは、インターネットの世界である。ホームページに入るといたるところにリンクが貼られていて、ネットサーフィンしているといつの間にか全く見たことのないページにたどり着いたり、思いがけないものを見つけたりする。インターネットと聞くと、誰もがほしい情報なら何でも手に入る四次元ポケットのように思っている。つまり、インターネットというものに全体性の存在が意識としてある。でもそれは誰かがデータを載せなければ、見ることも知ることもできない。インターネットのデータは、無限に存在する。インターネットの世界は、部分の集積体なのである。
 そのように考えると、前回の講義の「重箱と平皿」でやったヒエラルキーとスーパーフラットという考えに近いものがあるのではないかと感じた。ヒエラルキー(ツリー構造)というのは、ひとつにまとめあげるための単一の大きなシステムが整備されている。スーパーフラット(データベース・モデル)というのは、すべてを規定するような大きなシステムは存在しない。今回の人間がヒエラルキーに相当し、妖怪がスーパーフラットに相当する。
 ここで言ったことを簡単にまとめると、社会的規範というものがヒエラルキーで、そのヒエラルキーというものがくずれた、崩壊したものが妖怪、つまりスーパーフラットである。

05TA328G
中尾友之

そもそも「妖怪」ってなんだろうか。
ここでは、(見習うべき規範である)全体の秩序が部分的に著しく崩壊しているもの、全体的規範からではなく部分から考えられたもの、と命題から読み取れる。また一般的に妖怪は人間にとって恐怖や驚きの対象である。つまり全体の秩序が部分的に著しく崩壊し、それが恐怖や驚きの対象になるもの、また全体的規範からではなく部分から考えられたもので、それが恐怖や驚きの対象になるものが「妖怪」であるといえる。
そんなもの私たちの周りにあるだろうか。そんなものが周りにあふれていたら、とても平常心では生きていけない(お化け屋敷にずっといたらそれはそれで恐怖の感覚は麻痺しそうだが)。つまりあまりないからこそ妖怪であるわけだが、ここで敢えて取り上げるとしたら、
・田園の中に新しく作られた道路(路線幅員がはじめから決まっている道路)
・日本の都市(外国人にとって東京は驚きの対象であるといわれる)
を挙げてみたいと思う。
まず前者は突如として表われる真新しい道路のことであり、これまでの周辺敷地のスケールからは逸脱したものである。それは路線幅員がはじめから決まっていることから、必然的に全体の秩序(見習うべき規範=周辺環境のコンテクスト)から逸脱したものになる。
また後者は全体像がなく、無秩序に拡大していくものである。それは西洋の秩序だった街並みからは逸脱したものであり、欧米人の驚きの対象になるわけである。
しかしいずれにしても見習うべき規範、全体的規範は確固としたものではない(都市に見習うべき規範なのあるのだろうか、またあっても意味があるのかわからないが)。確立された見習うべき全体的規範(=慣習といってもいいのか)を著しく崩壊させる部分を見てみたいものである。

04T3055B 武智 三奈
 妖怪は人間の部分を増やしたり減らしたりしたもの・・・。障害者!?と、普通に思ってしまいます。しかしそれは、あまりにも失礼すぎます。手がなくても手の代わりを果たすものを持っています。話せなくても、意思の疎通は可能です。健常者とかわらない生活をおくっています。人間らしくないもの・・・。犯罪、核兵器、戦争・・・。ニュースのトップをかざるような凶悪殺人事件。決まってその犯人は、幼少時代に問題を抱えていてある感情が欠如していると言われます。とある国での核開発、核実験。未だなくなることのない戦争。本当に私には理解できません。感覚や感情というものが違います。と、21世紀の現在、日本で暮らしている私はそう言えます。しかし歴史を100年にも満たさずさかのぼると、日本も戦争をしています。日本兵の大虐殺、という悲しい事実もあります。21世紀の現代でも、日本をでると、未だ銃弾が飛び交う戦乱地域があります。それはすべて同じ人間が行っていることです。時代や地域、環境が違うだけで、人間は妖怪になってしまうということです。自分が妖怪になるかもしれないし、もしかしたら逆に妖怪と思われる感覚や感情をしているのかもしれません。自分の周りの人すべてが妖怪になりうる可能性があったり、これからなる可能性があるということです。
 坂牛先生は「建築は現代の人間にマッチしたものの発見」とおっしゃっていました。たしかに、今ある歴史的建造物など見て、そこで生活するのは、考えられません。すごく納得できました。その反面納得できなきこともあります。時代は変わっているし人間も変わっています。しかし人間は必ずしも良い方向に変わっているとは言えないと思います。国交問題、宗教問題、環境問題・・・。そのような問題だらけの現代にマッチするものを本当につくっていいのでしょうか。そこが疑問に思いました。

03T3102D
山内一矢

 身の回りの妖怪ということで、部分から構成した結果、浮かび上がる全体。何があるだろうか?ふと思いついたのは音楽。音楽において部分に相当するのはおたまじゃくしであり、全体はそのおたまじゃくしが集まって奏でるメロディーではないかと。
 自分が楽器を演奏することができないから、あまりわかってないでかもしれないけれど。作曲するときというのはいきなり、全体を作るのは無理だと思う。全体の雰囲気というのはある程度想像できるかもしれないが、それを作り上げていくのはやはり一つ一つの音符からじゃないだろうか。部分から全体への構築が音楽では太古の昔から行われてきた。現代では様々な楽器や器材が開発され、メロディーはより複雑になってきている。
 文章を書いていて思ったが、この文章というのも部分から構成されるものの一つかもしれない。無数にある文字の中から選び、文章を作り上げる。それぞれ意味を持つ文字が一つの文章の中で統合され、大きな意味を持ち、人のココロに訴えかける。
 音楽にしても、文章にしてもそれぞれの部分が持つ人の捉え方は同じかもしれないが、その部分によって出来上がったものの捉え方は人それぞれである。素晴らしいと感動したり、陳腐だと嘲ったり。
 これらは建築においても同様のことが言えるのではないだろうか?科学の発展によって様々な建築材料が開発され、時代の流れとともに必要な機能が増え、建築を構成する部分は無数に広がった。それと同時にその構成もより複雑化している。しかし、部分の捉え方はあまり変わらない。ガラスはガラスであり、トイレはトイレである。ただ、建築においては「部分というものを強調し、全体像に囚われないで全体を構成する」ということが見られるようになってきたのではないかと思う。

坂牛

なるほど武智さんの言うように現代人が現代人にマッチしたものを作っていいのか?こんな沢山の問題を抱えているのに。
という発言は半分理解し得るのですが、しかし、あなた自身も現代人を構成している一人なのです。あなたが明日を開く正しい現代人である自覚と認識のもとに、自らに適性なものとは何かを考えていくべきだと思います。
選挙に行かず、国を憂う人たちが私の周りには多くいます。そういう人に僕は不快感を覚えるのですが、選挙に行かないならノンポリを決めよ、国を憂うなら少なくとも責任を果たせ。さらに言えば、文句ばかり言う奴は本当に正しいと思えることを実行できない。常に僕等の前には現実があるのだと思う。それを少しでも我々に合うように変えていくしか現実は良くならない。と僕は思います。どうでしょうか??

04T3043J 篠澤朋宏

全体的規範からではなく部分から考えられた建築を妖怪建築と坂牛先生は定義されましたが、これはあくまで物理的な側面でしか捉えていないように思います。本当の妖怪は、一人ひとりの中に潜んでいるものであり、単に物理的側面(部分的に発達あるいは欠落している)だけでなく、精神な要素も加味されたものだと考えているからです。

妖怪建築とは全体像を無視して作り上げる人間の副産物であり、それを作る人間こそ妖怪であると僕は思います。ルールやモラルという判断基準を忘れた者達が己の欲望の赴くままに動いている様はまさに妖怪そのもの。それは何も建築だけに言えることでは無く、罪を犯してしまうのも、感情のバランスが崩れてしまった故に事件を引き起こしてしまうのです。
確かに妖怪建築は、既存の枠に捉われずに、自由な発想の下に作られたもので、見る者の関心を強く惹きます。そこに住む人も、毎日その建物から好奇心を掻き立てられたりする事は想像に難くありません。このように考えれば良い面もありますが、しかし裏を返せば、こうした建物には秩序が無いのと同じだと考えます。個人の考えや発想を思うがままに形にしたものには、第三者の存在(客観性)を完全に無視しています。余りにも自由すぎて、モラルのモの字も無いような建物が乱立してしまっては、無秩序な社会が形成されるのは明らかであるし、現実にそうなっています。妖怪建築は現代社会をうまく表していながら、混沌とした社会を作っている原因でもあるという相関関係がそこには成立しているのだと思います。
 
妖怪建築もそのうちに影を潜める事になるのではないかと考えてもいます。あまりにも自由すぎると人間は束縛される事を欲するからです。奇天烈な建築が街を埋め尽くした事を嘆き、原点回帰と銘打って秩序のある建築が将来再び見直される日が来ると思います。

04T3073A
2年 藤江将史

 今回のお題は「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」というものである。何があるだろうとしばらく考えてみるが、なかなか思いつかない。ということで、とりあえずすでに書いてある人の文章を読んでみることにした。
 読んでみて思った。さすがに院生の方々はすばらしいことを書いている。なるほどと思うことばかりだ。その中で注目したのは、高橋伸幸さんの携帯電話が「妖怪」であるという考え方だ。この意見はまったくそのとおりだと思う。初期の携帯電話は、普段どこででも話せる電話を作るという、全体像からつくられていた。しかし、今ではカメラ、テレビ、音楽などと、電話からかけ離れた機能ばかりを取り入れようとしている。これは、機能をどれだけ詰め込めるか、どのような新しい機能を取り入れようかと、機能という部分が真っ先に考えられている。携帯電話はまさに「妖怪」だ。
 そこで思った。普段読んでいる少年ジャンプやマガジンなどの雑誌も「妖怪」じゃないのか。これらは、それぞれ独立した作品(部分)が集まってひとつの雑誌(全体)というものができている。この作品はおもしろいから載せよう、この作品は人気がないしおもしろくないから載せるのはやめよう、この人の書くものはおもしろそうだから載せてみようなどと、まず部分から考えて全体が出来上がっている。これはまさしく「妖怪」ではないのか。
 これまでに書いた10人くらいの文章を読んだが、たくさんの「妖怪」が挙げられていた。自分の周りには、まだまだ自分の気づいていない「妖怪」がたくさんひそんでいるのかもしれない。

うーん
今回の話は少し難しいかなあやはり、
そこで陥りやすい間違い集
①部分からできていれば妖怪と思うこと→部分からできているだけではだめ、部分が規範から逸脱しなければならない
②妖怪は規範から逸脱するから無秩序だ→規範が常に秩序とは限らないし、規範からの逸脱がアナーキーを目指すものではない。あくまでずれをうむところの中に表現の強度があるということである
③妖怪建築が妖怪社会を生むという過信→建築は君たちが期待するほど社会的影響力を持つものではない。だから無責任でよいといういみではなく、建築には建築でできる範囲のことしかできないものであり、ある学を学ぶということはその限界を知ることでもあり、それを知らず遠吠えするものはただの愚か者である。

04t3008A 牛山由偉

妖怪とは何か?妖怪と部分とはどういうつながりがあるのか?講義を聞いてから、そしてコメントを見ながら考えてみた。深澤さんのコメントにあるようによう妖怪とはいわゆるおばけであると僕も思った。一つ目小僧、ろくろ首これは確かに妖怪である。ではなぜ妖怪と呼ぶのか?それは本来人間の形をしているものが部分的に異なった形をしているからである。そう、つまり妖怪とは、本来の形(様式)が部分的に異なったもの、普通のものにそうでないものが混ざったものである。さらに妖怪とはは高橋さんのコメントにあるように普通+α 又は 普通-α であり、あくまでも部分的に異なったものであり(±α)であり本来の形を超えることはないものであると思う。
一つ目小僧で言うと、人間の形(本来の形)がありその中の一部分である目が普通とは異なったものになっているだけで、そういう異質なものが入ったことで人間の形を超えた例えば怪獣や別の生き物になることはないのである。だから妖怪と呼ばれるのだと思う。こう考えると、妖怪と部分がつながる。又、妖怪には異質な部分があるわけで、決して部分が集まっりそれが異質に感じるというものが妖怪というわけではないはずである。

身近なところにある妖怪のいい例は、高橋さんの言う携帯電話であると僕も思う。携帯電話は本来の機能は電話であるが、そこにプラスしてメールやカメラなどがあるわけであり、電話という機能を超えた例えばメールがメインのものであったりすることはない。だから携帯電話が妖怪というのは納得できる。しかし、現在多くの機能が加わり本来の電話という機能が薄くなってきているように感じる。だから携帯電話は将来、妖怪ではなくなってしまうのではないかと僕も思います・・・・。

04T3034K  工藤 洋子

規範や全体という囲いがあるからこそ、逸脱・崩壊できる。

中根さんのレゴの例や松永さんのインターネットといった例を読み、うーん・・・と思いました。
それらの規範の囲いはグニャグニャしていてどんなことも枠内に納まり、崩壊・逸脱には至らず、はたして先生の言う妖怪といえるだろうか?

規範の形が早々変わらないもの。なかなか浮かばず、長い時間かけて造られてきたものではないかという漠然な括りが浮かんできました。自然や生命や社会やら、建築も・・・?

そんな規範のあるもので、部分的から考えられて出来たものはなにか?
身近な模範として浮かんできたのは「生物」。そこから連想されたものはキティちゃんでした。
猫の体のしくみから考えたら、あんな二本足で立っている姿など創造できないはずではないでしょうか?
主となる顔を考え、爪や鼻の穴など、可愛さには不必要なものを除去し、最後に猫だとわかるよう、全体のバランスを整えるように手足やしっぽを付けて出来上がったであろうキティちゃんは、可愛さを逸脱させた妖怪といってよいのでは、と考えました。

大きな事を考えていたはずが、例がちっぽけになってしまい、大変恐縮です。
沢山の間違えや勘違いに対し、ダメ出しのお言葉を頂けると嬉しいです。

04T3004H
石川裕之

僕の考える身近にいる妖怪とは、「部分が普通のものから逸脱していて結果、全体として変わっているいるもの」と考えていたので、「妖怪とは部分が普通よりも多かったり少なかったり、つながったり離れたり、伸びたり縮んだり、色が違うものだと思う。つまり、妖怪は普通+α 又は 普通-α みたいなものである。」という、高橋さんの意見に賛成である。

では、それは何か。身近にいる妖怪。なにか適切な例が欲しい。


漫画の「ドラえもん」。


ふっと思いついた。ドラえもんが妖怪というわけではないけれど、あの漫画の中の世界におけるドラえもんは妖怪的要素であると思う。ドラえもんのいない「ドラえもん」(「」は漫画の意味でのドラえもん)の世界は実際の社会となんの変哲も無い世界で人間という部分の集合で成り立っている。しかし、ドラえもんという部分的存在をその変哲の無い社会に加えるだけでその社会は妖怪となったのではないか。しかも、僕らの考える社会からは逸脱するかもしれないが、この妖怪的な世界も秩序を持って成り立っている。これは、講義であげられた「妖怪建築」につながるものだと思う。

04T3101K 和田隼人
 高橋さんの、現代の携帯電話が妖怪といえるという意見ですが私は妖怪とまではいえないのではないかと思う。というのは、携帯電話の様々な機能が部分として携帯電話という全体を形づくっているというのは納得できるが、今回「妖怪」と定義されているものは、その「部分」が規範から逸脱しているものであるということなので、そこにあてはめてみた時に、果たして規範から逸脱しているかと疑問符がついたからである。私が考える携帯電話の全体的規範というのは、①携帯できること、②通話が可能であること、この二つによって構成されるものである。では現代の携帯電話はこの規範から逸脱しているであろうか、答えはノーである。よって、私は携帯電話は妖怪とまではいえないと思う。
建築における「妖怪」というものの解釈は、見習うべき規範が存在するのにもかかわらず、その規範を部分的に著しく崩壊させたものということで、具体的にはそうした、全体的規範からではなく部分から考えられた建築を妖怪建築と呼ぶということだった。この解釈に基づいて身近な妖怪の例を挙げるとすれば、ジーンズが挙げられるのではないかと思う。ジーンズは、1848年から始まったゴールド・ラッシュの時に、馬にまたがっても擦り切れることが無い丈夫で長持ちするズボンということでつくられた。またそのインディゴ染めはこの葉っぱの汁が害虫に強いという理由で選ばれた。これがジーンズにおける全体的規範だといえる。では妖怪とはなにか。新品なのに色の落ちきったジーンズ。一回も穿いてはいないのにところどころほつれたり破れたりしているジーンズ。これこそ妖怪である。規範から著しく逸脱し、規範が崩壊している。しかし、これは簡単に言ってしまえば「流行」である。建築での妖怪も同様に考えることができる。つまり、人間を基準にした比例関係は西洋建築の伝統であり、見習うべき規範であるが「古い」のだ。その規範を見習いながらも逸脱していかないと新しいものは生まれようも無い。常に妖怪は生まれ続ける。しかしそれらは決して疎まれる存在などではなく、むしろ歓迎されうるものでなくてはならないと私は考える。

04T3091J  安江昌晃
 篠澤君の妖怪は一人ひとりの中にいるという考え方に賛成です。“妖怪”とは、一般性が欠如したもののことだと思います。“人間”と“妖怪”、“人間”を一般的なもの、普通のものだと考えると、“妖怪”というのは、普通である部分がそうでなくなったもの、一般的であるはずのものが一般的でなくなったしまうことだと思います。つまり、その部分が“人間”と異なるから“妖怪”として認識できるということです。
 具体性はありませんが例として“日常”があると思います。“日常”は、普通で一般的、このようにあるものだと思い、その“日常”の全体が見えています。この“日常”が“人間”にあたるものだと思います。しかし、突然、何かが起きると“日常”は変わってしまい、その“日常”の世界に起きた何かの部分が目立ってしまいます。この“日常”の世界に何かが起きたことによって変わった“非日常”の世界が“妖怪”だと思います。“日常”は簡単に“非日常”に変わってしまいます。“日常”や“非日常”の世界とは、大きくは社会や経済のことであり、小さくは個人のことであると思います。例えば、健康であった人が事故か何かで五体満足でなくなってしまった場合、その人にとっては“日常”から“非日常”への変化であり、五体満足でなくなった部分は目立ってしまいます。そのような“非日常”が“妖怪”であるかは別ですが・・・。他に経済などにもそのようなことがいえると思います。誰でもどんな状況でも“人間”から“妖怪”に、また“妖怪”から“人間”になってしまうと思います。
 今の世の中は、戦争があったり、国際問題があったり・・・と、建築をこのような世の中にあわせることは難しいと思います。しかし、このような世の中を変えたいと、変化を求めているという状態もあると思います。建築は時代によって変わるものだと聞いたので、今の争いや問題ばかりの世の中にあわせたものではなく、今の状態を変えるという建築について考えることも必要かと思います。

04T3014E 2年 岡崎友也
 私は部分を重視した結果生まれたプロポーションの崩れた全体像が“妖怪”というマイナスイメージの言葉で呼ばれるのには理由があると考える。今、2人の建築家がいたとして一方は部分・機能のみにこだわって建物を建て、もう一方はデザイン・形状を重視して建てたとする。この時どちらの方が良い評価を受けるだろうか。どんなに機能が優れていてもデザインが良くなればその建物の印象は悪いだろう。逆にデザインが好印象ならば使い勝手は後回しにされていてもその建物の評価は上がる。これには賛否両論あると思うが、一般的にはつまり建築とは第一にデザイン・プロポーションが優先され、機能はそれに続くものなのだ。つまり建築において部分と全体は互いに対等関係にはないのだ。講義では“妖怪”という言葉をマイナスの意味だけで使っているのではなく、愛着も込めてこのように呼んでいるのだろうと感じたが、やはりあまり良くないものを指す言葉だという印象を受けた。このような意味で私は中尾さんの意見に共感を覚えた。その場所の風土・伝統・風景とマッチしない異質なものが妖怪的な存在であり、無秩序で自分勝手な日本の町並みもまた然りである。つまり“妖怪”とは単に部分優先のものではなく、部分優先によって全体性が崩れてしまったものを指すものだと思う。
 一方で「形態は機能に従う」という言葉がある。これもまた重要な考え方であり、建築の目的を考えたときに最も根本的な問題である。デザインは機能があるからこそ存在し、機能を潰すようなデザインは誰にも受け入れられないだろう。要するに大切なのは部分と全体の絶妙なバランスである。

04T3019F 小倉 和洋

 山内さんの音楽が妖怪であるという意見には半分賛成です。なぜ半分かというと、山内さんの考えには規範から逸脱するという部分がないからです。しかし音楽は妖怪です。
 音楽で使う音は、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シの八種類あります。実際にはドとレの間の音やオクターブ違いの音などがありますが、基本は八種類です。この基本は絶対変わることはありません。ドはドです。これが音楽での規範とすると妖怪部分はどこか。ギターやベースなどを演奏するときは演奏する曲に合わせて音を加工します。低音を強くだすと重い感じに曲が強調され、また高音を強く出すことで、軽い感じを強調することもできます。さらにエフェクターを用いて、音を歪ませたりすることもできます。音を歪ませて音質を変えるのです。つまり、ドはドのまま高音を強調したり、逆に低音を強調したりすることで異なったドを作るということです。これが音楽でいう妖怪です。つまり本質(音)は変わらないが部分(音質)は規範から逸脱しているのです。この音の音質を変えるというのはその時代、音楽にあった音を作ろうとした結果、生まれたものです。ということは、妖怪とはその時代にあったもの、その時代の人に望まれたものを作ろうとした結果、生まれるものだと思います。

04T3001C
赤羽 利哉

今回の「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」というテーマに対して中根さんの立体駐車場が妖怪であるという文章を読ませていただいて、私は妖怪とは言えないのではないかと思います。立体駐車場は人間が基準(人間が使うものが基準)になって全く無駄の無い、全体的規範から考えられたもののように思えます。基本的に立体駐車場はきまった多くの車を収容できるように作られており、全体から考えなければ出来ないものなのかもしれません。

次に妖怪だと思うものなのですが、(始めの10人の人ではないのですが)工藤さんのキティちゃんの話に共感です。部分(顔や手など)を極端に大きくしたり小さくすることで多くのインパクトを与えています。猫という誰にでも想像できるものを最大限までに多くの部分を逸脱し、それでいて全体の持つ意味を崩していない、それがキティちゃんであり妖怪であると思います。

04T3044G 篠原 昌寿
 私はM2の深澤宏さんのコメントにとても興味を惹かれました。私もまず「妖怪」と聞いて思い浮かぶのが、ゲゲゲの鬼太郎に登場するようなあの妖怪たちです。たしかに妖怪とは普通の人とは異なった部分があるものをいっているような気がします。だからこの妖怪たちは人間だと思いました。事故で片目をなくした人や、生まれつき首がほかの人より長かった人などが、昔除け者にされたのではないかなと思いました。そして、現代それらの話が膨らんで「妖怪」と呼ばれるようになったのではないかなと思いました。でもこの話が本当だと悲しい話だなと思いました。

04T3072B 平田雪絵
 私はまだ少し妖怪の意味がわかっていないように思いますが、皆のを読んで自分なりに考えてみました。
 まず、みんなの文章を見て、本当に規範から逸脱しているのかどうか、疑問に思いました。携帯はどんどん変化はしていますが、規範からは逸脱していないように思います。電話ができて、持ち運びに便利なのは変わらないので、、。和田君のジーンズのついては、なるほど、と思いました。確かに最近のは、ジーンズの規範から逸脱しているように思います。でも現代では、ファションとしてしてなりたっているように思います。建築妖怪も同じように、逸脱していても、デザイン的なものとして、人を魅せることができ手いるのだと思います。そのようにして考えてみると、ほかには、だてめがねとか・・・?すごいちっぽけですが、これもめがねという規範からまったく逸脱しているように思われます。見た目も変わらないし、耳にかけて使うことも、めがねとして成っている。けれど見えない・・・。でもおしゃれとしてはいいものであると思うので、いらないものではないです。あまりいい例だとは思いませんが、これを妖怪としていいものかどうか、またほかの人の意見をみて考えたいです。

04T3093E
山田 卓矢

妖怪といわれて僕が思い浮かぶものをあげると、ぬりかべや一反木綿、一つ目小僧やろくろ首などなどがあります。ぬりかべや一反木綿はいかにも妖怪という容姿をしています。一方一つ目小僧やろくろ首は一見人間のような容姿をしています。人間のような容姿をしているのに妖怪なのはやはり目が一つであったり、首が異常に長いといったズレを感じるからであると思います。人間の目の数だとか、首の長さというのは自分の中に何か規準的なものがあります。この考え方は篠澤くんの意見である「妖怪は一人一人の中に存在する」というものに近い気がします。この規準から逸脱したものを妖怪と呼ぶとするならば僕は小型化技術が現代の妖怪だと思いました。昔、ウォークマンの大きさは担ぐほどの大きさだったということを聞いたことがあります。それが今や手のひらサイズに収まるようになりました。今となってはそれが当たり前のことなのですが、初期のウォークマンしか知らない人が今のウォークマンを見たらズレを感じるのではないでしょうか?その人の頭の中にはウォークマンの大きさは手のひらには収まりきらないという固定観念があるはずです。その一人ひとりの固定観念を壊したものを妖怪というのではないかと思います。
 しかし、いつの時代も妖怪をつくり上げるのは変わらずに人間であることが僕は面白く感じました。

04T3025A 加藤絵梨

 私は高橋さんの意見が分かりやすくて賛成した部分がある。今回の課題は難しくて一人で考えていても全く思いつかなかった。でも高橋さんの携帯電話による例は、携帯電話という現代の生活には必要不可欠になっているものだったので私にも素直に理解できた。考えてみると今の携帯電話はすさまじく進化していると改めて思った。高橋さんの言うように昔は白黒で電話とせいぜいメールだけだったのに、今ではテレビも観れるし財布にだってなる。そういう部分では携帯電話は妖怪だと思う。でもそれは科学の進歩であって、それが普通になるのでは・・とも思った。初期の携帯電話の機能を普通と考えるなら今の携帯電話は妖怪であるが、時代に合わせて基準になる普通が変化していったら、それも普通になるのではないのかなぁと思った。
 私は今までものを全体としてとらえることが多くて部分を意識したことがなかったので、自分の周りの妖怪を見つけて今までとは違った見方で物事をとらえていきたいと思う。

04T3084F
2年 宮尾真紗美

 私は和田君の「ジーンズ妖怪説」に同感である。ジーンズの本来作られた目的。機能性としての素材や色という部分から出来上がったジーンズ。そこから逸脱した現在の流行としてのジーンズ。
 しかし、私はジーンズだけが妖怪とは思わない。服全体、むしろ「服を着た人間」が妖怪なのではないかと考える。
 服は体を外的刺激(暑さ、寒さ、雨、風、汚れ・・・など)から身を守るという目的が規範となってできている。人類の進化において、服も進化してきている。頭を守るために帽子をかぶったり、汗をかいてもかぜをひかないように吸収性のよい肌着を着たり、寒い日にはうえにジャケットをはおったり(帽子は服とは呼べないかもしれないがここでは含むこととする)とさまざまな服がある。これらのひとつひとつの機能(部分)を人間というひとつの体に着せる(集める)ことで「服を着た人間」という単体が出来上がる。しかし、現在の「服を着た人間」は少し違っている。「体を守る」という規範とするところは同じなのだが、そこから「デザイン、個性、スタイル」といった視覚的な部分が逸脱してしまっている。つまり、「体を守る」という機能は奥底のほうにあって、来ている人の個性を表現する手段としての新しい付加機能が逸脱してしまっているのである。本来の「体を守る」という機能(規範)も失われているわけではない。しかし例外もある。女子高生を例にとって言えば、冬にもかかわらずとても短いスカートをはいて、生足を出していたりする。これは「体を守る」という機能をまったく無視して、見た目だけで短いスカートをはいている。(短いスカートをはくことが視覚的にどうかは別として)これでは、妖怪どうのこうのというか超妖怪である。もう問題外である。
 これらは、流行というより現代の風潮ということができると思う。服に個性を求めたりするのは、服が好きな人ならば当たり前である。だから、「服を着た人間」が妖怪ということは間違っているかもしれない。しかし、過去を振り返ってみれば時代は着実に進んでいて、人間も人間の価値観も進化している。過去からみたら今の「服を着た人間」は確実に妖怪に見えるのではないかと思う。

04T3005F 泉 宏子

 携帯電話が妖怪である。という話があげられていましたが、果たしてそうでしょうか。携帯電話の基本的機能は携帯できる・電話ができることです。確かに現在出回っている携帯電話にはメール・インターネット・ゲームや音楽など、携帯電話としては本来不必要な機能がついています。ですがそれは技術の進歩であり、使用者のニーズの変化です。規範は以前と大きく変わっているのだから現代の携帯電話はあくまでも携帯電話で、むしろ以前のような電話の機能しかない白黒画面の携帯電話のほうこそ現代の規範から部分的に著しく崩壊した(機能が欠如した)妖怪ではないでしょうか。
 本題からは逸脱するかもしれませんが、武智さんが障害者という言葉を取り上げていることに注目しました。以前どこかの新聞に「歩くからこそ人間です」という広告記事が載り話題になったそうです。確かに、生物学的にほかの生物から人間を区別するときの人間の特徴として二足歩行があげられます。しかしこの場合は足に先天的・後天的に障害を持った人やそのほか多くの人から抗議が殺到したといいます。「歩けない私たちは人間ではないのか!?」ということです。もしこれを今回の妖怪と人間の区別に当てはめるのならば、人間を人間として成り立たせる特徴(規範)、二足歩行・言葉が話せる・手や指を器用に使いこなせる、を持たない(が崩壊した)障害者はやはり妖怪と呼ぶことができてしまうのではないでしょうか。こんな自分の考え方に自分でも嫌悪感を抱きます。しかし障害者は間違いなく人間です。妖怪・人間の区別はあくまでどちらか一方からみた単一的な区別でしかありません。本来そのような区別が存在するのかどうか、そこに疑問に思いました。

04T3017K 岡本澄香
中根さんのレゴブロックというのはとても分かりやすく、妖怪の「部分からできている」という側面を捉えているなと思いました。しかしこれに、規範からの逸脱という要素がふくまれていかと言われるとそれは疑問です。部分から構成されるものは、その完成形を束縛するものがなく、その組み合わせは自由で無限に存在し、自在に変化することができます。しかし、それだけでは妖怪と呼ぶことはできません。妖怪には、一番主張したいところ、見せたいところは特に強調する、必要ないと思われるところは省いていくなどして、部分が本来のっとるべき基準を自分の中の基準に置き換えることが必要なのだと思います。私は、機械的に規範となる寸法で造られた人間建築よりも、人それぞれの強い信念のようなものが込められた妖怪建築のほうが、どことなく人間的なのでは…?とふと思いました。
私なりにいろいろと考えてみましたが、具体的な妖怪が思いつきませんでした。皆さんの文章を読んでみて、私は工藤さんのキティちゃんが妖怪という意見に一番近いように思いました。いらないものは除去し、必要なものをつけたしてかわいらしさを強調した結果、本来の猫からは逸脱したキティという妖怪キャラクターができたのだと思います。

04T3031E 金 昌秀

妖怪と言われたときにまず思い浮かぶのが、奇妙で、実際にはありえなく、恐ろしいというイメージです。十人目までの文を読んだ時、また、それ以降の人たちの文を読んで、「ある部分が異様に変化する」という共通する部分がある。そういう意味では全員に賛成です。ではわたしの身近な場所にある妖怪、つまりある部分がまたは全体的に異様に変化しているものと言われたら、「人間の想像力」と思いました。人は、小説やドラマ、漫画などをつくるとき、日常茶飯事にはまずありえない出来事や人物や物を考え出します。その無限の想像力は建築にも通じるものがあると思われます。ありえない事なのになぜかそれに見入ってしまう、惹かれていってしまう。妖怪建築の本質はここにあるのではないかと思います。 

04T3035H 2年久保田敏史

 芦田さんの共同体を妖怪と呼ぶという意見に賛成である。いろいろなものが集まる共同体に私も妖怪が潜んでいるのではと思った。
 私が妖怪だと思うものに夢がある。この夢は寝ているときに見る夢のほうで、現代社会の規範から逸脱して存在している。夢の中には現代でいう一般常識は通用せず自由な世界が広がっている。妄想の世界もそうではないかとも思われたが、妄想は限りなく現実に近いところで意識して想像されていて、自分の意思だけで構成される世界である。対して夢は、夢だけでひとつの世界を構成していて確かに一般常識に従って構成されているようにも思えるが、それはひどく部分的で都合の良いところだけを抽出しているし、自分にとって不規則の事象が多く登場する。ひどくリアリティのある夢であったとしても、自分でその夢を見ようと思ってみているのではないし、よく考えれば不自然なことが多々にある。また、先に夢の世界は自由であると述べたが、これは自分で自由な世界をつくっているということではなく、半ば与えられた自由であり、現実とは逸脱したものであるために自由な世界といわれている。だから、妄想とは違い自分が客観的に感じられ、起こる事象が不規則であるために全体の統制も取れていない。このような世界は現代社会の規範から部分的に逸脱しておりひとつの世界をつくっているので妖怪世界と表現しても良いのではないと私は思う。

04T3057J
2年 塚田裕太

お題は、「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」と言うことであるが、私は、すぐに自分の周りにいる妖怪を見つけられませんでした。だから私よりも前に投稿されたものを読んでみることにしました。読んでみるとみんなそれぞれに自分の周りの妖怪を挙げていました。私はその中でもM1の高橋伸幸さんの携帯電話が妖怪というのに賛成です。初期の携帯電話の機能としては、電話をすることくらいだったのが、時代が進むにつれて、カメラやテレビや音楽やインターネットなどまったく初代携帯電話と違った機能を取り入れています。今は、部分機能として携帯電話を作っている。つまり電話で話すと言うことよりも他の機能を取り入れようと必死になっている。また、坂牛さんが間違い集で示していた通りに部分からできているだけではなく規範から逸脱もしている。だからこそ携帯電話は妖怪だと思うのである。
 携帯電話は妖怪ではないか・・・と言うことを知り、私もやっと妖怪を見つけることができた。それは、パソコンも妖怪ではないかと思ったのである。パソコンは、文章が書ければ、絵もかける、インターネットを使いメールもできるし、世界の情報を得ることもできるし、買い物までできてしまう。この他にもたくさんの機能を持っている。全体と言うパソコンの中に、今、挙げた部分的な機能が盛り込まれているパソコンは、私には妖怪のように思えるのである。
 自分の周りの妖怪を見つけるのに時間がかかったのは、自分の周りには自分のまだ知らない数えきれないほどの妖怪がいるのかもしれない・・・。

04T3074J 藤田真理子

今回のテーマについて考えるまで、妖怪とはゲゲゲの鬼太郎などに出てくるようなものしか考えていませんでした。しかし坂牛先生のお話や、他の人のコメントを読んで妖怪とはあらゆるものにあり、当てはめられるものだと思った。
中でも私が一番共感したのが工藤さんのキティちゃんの話です。携帯電話やファッションなど、それらは昔と大きく形が異なり、機能なども充実しているが、本来の「話す、着る」と言った目的からはずれていない。それを妖怪とは呼べないと思う。むしろ日々進化していく現代にとってはそれが普通なのかもしれない。しかし、キャラクターであるキティちゃんは元になっている猫からは多くの部分でかけ離れ、部分的にみればそれは猫ではない姿をしている。しかし全体的にみるとだれもが猫だとわかる。時代の進化に関係なく愛され続けているキティちゃんは身近な妖怪であると思う。

04T3039A 小林健太

私が考える妖怪というものは、何人かが書いたように"普通"という枠から飛び出してしまっているもののことだと思います。しかし私はこの世の中には基本的に妖怪と呼ばれるものがたくさんあるとは思えません。まあ、たくさんあったら妖怪とは呼ばれないのだろうと思いますが。だから私の考える妖怪とは物ではなくイメージだと思います。キャラクターの話も出てきていましたが私はその作者の考え、イメージも妖怪の条件を満たしているのではないかと思います。このように考えると妖怪を生み出せる人間自体も妖怪ではないのだろうかと考えました。ただ妖怪というものを私は理解しきれていないと思うので自分の考えるままを書いてみました。

04T3087A
村瀬 涼介

今回は妖怪建築をふまえた内容ではなくてもいいので、身近な、定義にのっとった妖怪を挙げよ、といったものであった。多くの人たちの文章を読ませていただいて、さまざまな感情を抱いたが、一番興味を惹いたのは武智さんや泉さんのような障害者や体に問題をもった人たちの話だ。歩くから人間だ、といった人間の定義は確かに間違っているし、片目しか見えない、手がない、しゃべれない、などの障害を持った人たちを人間と言えないわけがない。僕も妖怪の区別が存在すること自体疑問に思うことに賛成だ。あと坂牛先生が最初の双子の姉妹の写真は体が1つでできているのかと思った。とおっしゃっていたが、たとえそうだとしても、妖怪とは言えないし、ベトナム戦争で使われた枯葉剤によって体が一つとなってしまった兄弟、ベトさんとドクさんも妖怪といってはならない。確かにはじめ見たときは正直、そのような感情を抱いてしまったが彼らは自分のせいでそうなったわけではない。つまり妖怪とか区別をつけることは、誰かの心を犠牲にしてしまっているということが言えるのだ。だから身近な妖怪をあげることはできない。坂牛先生の講義が理解できないという意味ではないのであしからず・・。

04T3068D 羽田和彦
 篠澤くんの「人間こそ妖怪だ。」という意見は僕もずっと思っていました。それは、人間という生物が、なぜこんなにも他の生物と違うのだろうかという疑問からきています。食物連鎖から外れ、服を着なければ体温を保てず、これほどの知能をもった生物は他にはいません。人間こそ宇宙から来た妖怪だと思っていました。しかし、講義での妖怪は、人間を基本としたもの。それからすると人間が妖怪であることは絶対にありえないということになり、人間以外の生物が妖怪だということになりました。人間にはない「飛ぶ能力」をもった鳥類。人間のもつ「陸上で生活する能力」がなく、変わりに「水中で生活する能力」をもった魚類。両方持っている両生類。身近に色々な『妖怪だと認識されない妖怪』が潜んでいるのだと思います。

04T3088J  村山文緒

身の回りにある妖怪。初めて見たときはその意味があまり分からなかった。妖怪と言うと、お化けが思いつく。その他には妖怪なんて考えたことも無かった。そこで皆の意見を見てみた。私は工藤さんの意見に注目してみた。工藤さんの言う「キティちゃん」は妖怪であるに、すごく共感を覚えた。
 キティちゃんは確かに猫としてみるとありえない。二本足で立っていることもそうだが、可愛さを強調するための鼻や爪を失くすことは、猫の構造から考えて常識を逸脱していると考えた。けれど同じような物は溢れている。例えばミッキーさん、プーさん、等のディズニーシリーズがそうだと思う。彼らは、動物と言う設定ではあるが、その動物としてはありえないものが付けられていたり、無くてはならないものがなくなっていたりする。これは生物としての常識を逸脱しているであろう。けれど私達は普段キティちゃんやミッキーさんが妖怪だとは思わない。それはミッキーさんがねずみであると言うこと以前にミッキーさんはミッキーさんという一つのキャラクターであり、ミッキーさんとして愛されているからである。そう、私はミッキーさんやキティちゃんを普通と考えている、私達にも妖怪になりえるのではないかと思う。何かが明らかに欠けているものを普通と考えてしまう私達そのものがおかしいのである。
 自分でも説明が難しいのですが、これが私が考える妖怪です。

04T3040D
桜井愛海

私は、犯罪や戦争、そしてそれを実行する人間が妖怪である、という武智さんや篠澤くんの意見に賛成です。それは妖怪であり、恐怖だと思うからです。
私が考える妖怪、それは「ピカソの作品」です。ピカソの作品には、正面から見た顔と横から見た顔が合体したような絵や、手がどこから生えているのかわからないような絵などがあり、人間の体のパーツ(部分)が逸脱しているように思えます。しかし、私がピカソの作品を妖怪だと考える理由は、それだけではありません。ピカソはなぜ、人間の体のパーツが実際の人間とは異なっている絵を描くようになったのでしょうか?ピカソの初期の作品は、写実的な絵でした。つまり、ピカソはそういった絵も描ける画家なのです。それなのに作品スタイルを変えたのは、世の中に“何か”を訴えるため、伝えるためだったのではないでしょうか。有名な作品である『ゲルニカ』は、スペイン内戦に介入したドイツ軍が、ゲルニカという町を爆撃した時の悲惨さを、怒りをこめて描いたものです。ピカソは私たちに、戦争という恐ろしい妖怪の存在を伝えていると思います。それは、「芸術は真実ではなく、我々に真実を悟らせる嘘である」というピカソの名言からも伝わってくるような気がします。
私たちは、妖怪の存在、つまり規範から逸脱した部分に違和感や恐怖を覚えます。恐怖を覚えるということは、それが恐ろしいものだとわかっている証拠です。わかっていれば、それにどう対処したらいいのかを考えます。何が良くて何が悪いのかを考えることができます。それができるのが本当の人間で、できないのが妖怪ではないでしょうか。
今回私は、妖怪を悪いイメージで考えましたが、たくさんの意見の中にあるように、興味を持てておもしろい、良いイメージの妖怪もいると思います。

04T3064A 中井大海
自分は最近政治について興味を持っていて政治は妖怪になるかなと思い、考えてみた。政治では幾つかの政党という部分が存在していて国を担っている。そしてその政党の一つ一つが違った考えをしている、建築で言えば家には台所や寝室といった違った機能を持っていると考えればいい。その違った考えを国会という場で議論するわけであるが、テレビで見ていてもどの政党も絶対に自分の政党の考えを曲げようとはしない。つまりは部分に当たるそれぞれの政党は互いにあまり干渉し合わず、むしろ対立に似た関係にあるように思う。しかしあるひとつの政党の講演などを参加し内容を聞くと、その政党良いところばかりが耳に入ってきて自分の頭の中を支配していく、自分はそんな感覚を過去に経験したことがある。講演を終えて、自分の中で作り上げた日本のイメージとその講演の内容とのズレに気づいた。要するに自分の中で日本を担っている人達のイメージが規範に当たるのではないかと思ったのである。規範というものは実際人が作り上げた基準のようなもので、それは人それぞれ違うものだろう。講演を聞いたことで、政治が自分の中の規範を逸脱したものになったのである。こう考えると規範というものは人が作り出した固定観念のようなもののでは?と考える。そして妖怪というものはそのものの本質がより明らかになった形態をしているのだと自分は考える。一般に言われている妖怪では人間の恐怖の本質をより具現化したもの。妖怪建築ではより建築の本質がわかるように、目に見える形で現れたものなのではと自分は考える。
みんなの妖怪について読んでいて面白いなと思ったのが和田君のジーンズの話。へぇーそうなんだと感心して読んでいたのだが、なんとなく反対。今現在ジーンズがそんな理由で作られているのかな?と思う。その規範こそ古いのでは?

04T3018H  奥野耕司

 自分の周りにいる妖怪を考えて、私が始めに思いついたのは日本の都市です。そう思いながら前に書かれた方のコメントを読んでいると、中尾さんも日本の都市というのを挙げられていました。しかし、彼の意見と全く同じというわけではありません。
 彼は、日本の都市が妖怪である理由に、全体像がなく無秩序に広がっていき、そこから得られる驚きが妖怪になると述べられていますが、私の理由は少し違います。
 私が妖怪と考えている都市というのは、新宿副都心のように超高層ビルが林立しているところではなく、昭和30年ごろの高度経済成長期に建てられたビルが並んでいるあたりを指します。そこは、景観などまったく気にせず個々の建物が自分の好きなように建っています。また、車が1台通るのがやっとで、すれ違いも出来ないような道が縦横無尽に張り巡らされています。
 このような日本の都市は、完全な都市計画の下に成り立っているヨーロッパの都市と比較して全く正反対のものであると思えます。したがって、日本の都市は妖怪であるといえるのではないでしょうか。
 

04T3045E 庄司貴弘
 これまでに妖怪について考えたことはもちろんありませんでした。むしろ怖いものが半端なく嫌いだったのでたいした妖怪も知らずに生きてきました。しかしここで言う妖怪はそういうものではなく、逆に僕の目指すものに近いのではないかと思います。
 立体駐車場が妖怪であるという意見がありましたが、僕は逆に規範の中ですくすくと育ったマニュアル通りの建築なのではないかと思います。車を何台まで収めることのできる駐車場をつくれという要請は必ずあったはずだと思います。そんなマニュアルに捉われることなくその場の状況に合わしながらも目的を果たしているものこそ妖怪なのではないかと思います。そこで共感できた意見が携帯の顔文字というものです。文章をつくるための文字、というマニュアルを無視してそれが顔に見えるようにし、それでいてしっかりと意味は伝えるという目的を果たしている。むしろ文章では伝えられない部分までを伝えているのではないかと思います。現在では欠くことのできない携帯電話での例であるためわかりやすかったです。顔文字は規範から逸脱している立派な妖怪であり、それを使うことのできるのは妖怪だけだと思います。今僕たちが生活しているのはそんな妖怪である人間でできた社会であり、またそこから逸脱してさらに新しい妖怪の社会をつくることが求められていることは確かだと思います。

04T3070F 人見祐策

 妖怪とはどんなものか?妖怪と言えるものはなんだろうかと考えてみた。まず妖怪とは部分的な要素からできているもの、かつその部分が規範から逸脱しているものと先生は書かれている。これを見て僕は勘違いに気づいた。部分からできていればすべてが妖怪では?と考えていたからである。規範から逸脱していること、さらに逸脱が大きければ大きいほどより妖怪と言えるのではないかと思う。そう考えてみんなの意見を読んでみて、工藤さんのキティちゃんの話に共感できた。実際の猫とは違う形で可愛さを追い求めた姿はまさしく妖怪と言えるのではないかと思う。そして僕はピカソの絵は妖怪と言えるのではないかと考える。人の絵を例にすると、目、鼻、口など様々な人を構成するパーツが大きさ、位置、形という規範を無視して絵が成り立っている。全体として一般的な規範とは程遠い絵として完成する。だが、その絵はなぜか魅力的な感じがするのである。あの極端な逸脱が他にはない表現力をもっていると思うし、建築についても同じようなことがあてはまるのではないかと思う。

04T3098F 横島由佳

今回のお題はとても難しく、考えれば考えるほど何が妖怪なのか分からなくなっていきました。いろんな人の意見を読んでいて携帯電話が妖怪と言っている人が何人かいましたが、携帯電話は妖怪ではないと思いました。携帯電話というものは電話・メール・お財布・テレビなどという部分からなっているがそれらの部分が規範から逸脱しているかと考えたら逸脱していないと思います。携帯電話が作られたときの規範からもずれていないと思います。私は、工藤さんのキティーちゃんが妖怪というのには賛成です。目や口など部分的に見ても元の規範からは逸脱しています。全体的に見ても実際の猫とは明らかに規範から逸脱しています。しかし、それらのずれを生じさせることによって可愛らしい猫が存在したのだと思います。このように考えた時、私はキャラクターというものはほとんどすべて妖怪に当てはまるのではないかと思いました。私達が普通に考える妖怪とは恐ろしいものであるが、キティーちゃんで考えた時にキティーちゃんもキャラクターとしてみたらかわいいと思うかもしれませんが実際に存在するとしたらとても恐ろしいものになると思います。少し見る目を変えたら世の中には妖怪と呼べるものが沢山あるのではないかと思いました。

03T3804E
3年鈴木俊祐
ドラえもんやキティちゃんの話が出ていましたが、僕にはよくわかりませんでした。どちらもキャラクターであり、もともとのイメージが妖怪そのものだと思います。だから、ここで問われていることとは根本的に違うのではないかと僕は思いました。
僕が妖怪建築として思い浮かぶのは原広司の京都駅ビルです。この建築は圧倒的なスケール感があり、まさに部分と部分の集積によって作られたものだと思います。あるところは普通のビルのようであったり、あるところにはフラクタル形態のガラス屋根がかかっていたりします。(レゴの話がありましたけど、まさにブロックをいろいろと組み合わせた感じです。)この建築は当初批判を結構浴びたらしいが、今ではすっかり京都になじんでしまっている。大階段の部分には高校生たちが座り込んで楽しそうに話している。さらに大階段を上りきったところにある屋上庭園には竹が植えられており、そこも人々で賑わっています。このようにいろいろな部分部分が現代人にマッチしていて、それの集積として全体としても現代にマッチしているのだと思う。また、外観は、部分を細かく見ていくとそれぞれ異なっているのに、全体的には統一感があると僕は感じました。建築を部分から考えていって、さらに全体的にも統一感を出すのが原広司のものすごいところなのだと思いました。

04T3052H 高柳翔太

私は、皆さんの意見を読ませていただいて、山田君の意見が自分に近くて賛成です。固定観念というものはその人にとってまさに基準となるものであり、何か新しいものが世界に出てきたとき、人はかならず従来のそれと比べるということをします。そのときの驚きや悲しみなどから、いままでの固定観念を崩壊させられます。このように今まで自分の中にあった固定観念が崩壊したとき、人はその崩壊にかかわったものを妖怪と呼ぶのだろうと思います。
僕は今年二十歳で、成人式を控えています。最近は十代から二十代になったことや、少し運動をすると息が切れてしまうことから、年をとったと思います。いつの間にか世の中のルール、秩序を知り、大きな社会の中の小さな存在になろうとしています。そんなことを考えていたら、大人に比べて柔軟な発想、自由な行動をできる「子供」という存在は妖怪なのではないかと思いました。子供は社会の汚いところや、決められたルールを知らないので、好き勝手に何でもします。そして大人とは比べ物にならない速さで学習していきます。大人でも自由な発想をできる人はいると思いますが、子供のそれとはあきらかに違います。そういう意味で、子供というものは大人があこがれる「妖怪的存在」なのではないでしょうか。

04T3081A
三浦 淳史

私は高橋さんの携帯電話についての話に賛成です。妖怪とは周りと一味違うことでも、元や基本は同じだと思う。実際テレビなどに出てくる妖怪は見た目が気持ち悪く考えられない格好をしているけど、よく見ると二足歩行しているものが多い。つまり、人間の形に似ていることから私はこの考えに賛成したのです。普通±αはこの考えを簡単に説明したのです。高橋さんの文にもあったように、携帯電話は初め担いで運んでいたのです。それが、今となれば手のひらに乗ってしまう程度の大きさです。小さくなっただけでなく、他の機能もたくさん搭載されて、レベルアップしているのです。これはまさに妖怪です。私は、携帯電話だけでなく、電化製品はすべて妖怪だと思う。携帯電話の他に一つ例を挙げると、パソコンです。昔は、部屋一室使って一つのパソコンでしたが、今はとても小さくなりました。これ以外にもたくさん妖怪がいます。そのおかげで、私達の生活は豊かになりました。ある意味妖怪は私達にはいいものであると私は思いたい。

04T3094C  山中道雄

自分は篠原君の意見に反対します。篠原君の意見はなんらかの障害持っている人が昔の人に妖怪とされたということですが、昔の人も今と同じように障害のある人でも普通に接していたと思います。そうでなければ、戦国武将である伊達政宗が片目を失ってからは、妖怪として思われた、という事になると思うからです。おそらく妖怪というものは、昔の人々が、もしこういうのがいたら怖いというのを元にして、想像していっただけなのだと思います。
また、自分以外の人はすべて妖怪になるのではないでしょうか、顔も違えば、考え方も違う、生まれた日も違えば、血液型も違う。そう考えると、自分を基準とおくと他のもの、人はすべて妖怪であるし他のもの、人から見れば自分もまた妖怪になると思います。

04T3009J 内堀 優磨

 身のまわりに存在する妖怪について多くの意見に興味をもちました。その中でジーンズが妖怪であるという和田君の意見に賛成です。本来ジーンズとは、丈夫で長持ちするように創られたものである。しかし、今ではデザインでもともとダメージをつけたものもでまわっている。それはなぜか?街中ではジーンズは丈夫である必要がなくなったからだと思う。それによってジーンズは規範から外れファッションの要素となったと思う。つまり「妖怪」=「規範から著しく崩壊したもの」=「規範からの発展」であると思う。そう考えると今行われつつある構造改革は妖怪になり得るものだと思う。今ある構造を崩壊させ発展するものだからだ。妖怪と聞くと悪いイメージがあるが、今回のテーマの妖怪は悪い意味ではなく進化していくために必要なものだと思う。妖怪が存在しなければどこも違いがなく何も変化しないからだ。そして妖怪というものが存在するからこそ、妖怪でないものが存在できると思う。

04T3047A 瀬戸洋平
私は身の周りで妖怪と言えるものをなかなか探し出せませんでした。そして、書き込んである人たちの内容を読み、妖怪と思うものの考え方が少し間違っていることに気づきました。私は坂牛先生が言った「部分が規範から逸脱しなければならない」ということは頭では理解できていましたが、実際身の周りで探すとき難しく考えすぎていたようです。以下で私が妖怪だと思ったものを述べたいと思います。
私は書き込んである人たちの内容を読み、高橋さんの携帯電話が妖怪であるという考えに賛成です。呼び名はずっと変わらず携帯電話なのに予想以上の機能を持ち、進化のスピードも速い。携帯電話は新しいものが普通に思われ始めると、また新しいものが出て、最新というものが人々の当然という気持ちから逃げていくような感じがします。私はこの携帯電話からヒントをもらい、同じメカの分野から自動車を妖怪だと思いました。なぜなら、自動車というものは人が移動のために開発したものであるのに、現在ではレースのために使用したり、自動車メーカーのコンセプトによってあらゆる面で進化を遂げているからです。F1のマシンは一般自動車とは違い空気抵抗を無視できません。そういったただ走るだけでは通用しない世界にある車は特に妖怪だと思います。昨日、ニュースで東京モーターショーをやっていました。目玉はトヨタの最上級車レクサスで、フェラーリに対抗する車種も出ていました。しかしフェラーリのボディラインの美しさは健在でした。他にも、ダイハツのリッター72キロの車もあり、予想ができない世界になってきたところも妖怪だと思いました。

「共同体」の中に妖怪的なものがあるとした芦田さんの意見に同感です。個という内側と、全体という外側の表裏一体の関係があるからこそある部分が逸脱するとその部分が際立って見えるのだと思いました。
 ある部分が突出している、あるいは逸脱しているものを考えたとき、私は桜井さんと同じくピカソなど芸術家達が描く人間を思い浮かべました。ゲルニカに描かれている人間は妖怪のようにみえます。そこからは戦争の惨禍が悲しいほど伝わってきます。人間の内部にいる妖怪を感じます。現代にはこのような妖怪が表立って存在するようになっているのかもしれないとも思いました。芸術作品では、強調された部分や色味などからそこに込められている思いや訴えるものを感じさせられると思います。
 ただ、前回の講義でいう妖怪とは少し違ってしまうようにも思いました。妖怪建築は部分から全体へ向かうという従来の様式にとらわれないつくり方であり、建築において魅力的なものであるといえます。
 規範があってそこから逸脱しているものでこのような良い性質をもった妖怪は・・??と考えるとあまり良い例が浮かびませんが、コンタクトレンズがそういえるのではと思いました。プラスチックを眼球に直接かぶせるというのは従来のプラスチックの用途から逸脱しており、ちょっと苦しいかもしれませんが部分からの発見であり身近に存在する妖怪であるといえるのではないかと思いました。

04T3002A
阿部裕子

身の周りにある妖怪・・・。
妖怪とは、部分で出来ており、その部分が規範から逸脱しなければならない。
・・・この様な事を考えながら、今までの日常生活で見落としていたところは無いかと思いきょろきょろしながらの生活をしてみたものの、妖怪と言うものを見つけ出す事が出来ませんでした。自分に考える力が少ない為見落としてしまった部分は大いにあると思います。私自身が、これが妖怪だ!と発見するまで何回も、掲載者方の意見を拝見していました。いろいろな人の意見を見れば自分の意見がまとまる。と安易な考えをしていた私には、手厳しいものばかり。納得いく部分と納得いかない部分。その中で、桜井さんのピカソの作品の話は私にとって捜し求めていたものでした。
抽象絵画、抽象彫刻、抽象建築・・・これらを妖怪と言っていいのではないでしょうか。私は、岡本太郎氏の作品の例を挙げて考えたいと思います。私が知っている岡本太郎氏の作品の太陽の搭で考えると、部分的に崩壊されている。始めに、何かがわからない部分がある。このことから規範-つまり、模写や写実的に書く事とすると、部分的に崩壊し逸脱していると考えていいのではないだろうか。
また、「重箱と平皿」の講義でも出てきた、原広司氏の作風(絵画?) の中に普遍性への変化として牛→四角い箱(家)が出来ている話がありましたが、その中で、始めに決めたモデルである牛自体を四角い箱(家)に残してはならなく、絵を描く対象物を写実(アートとして)するのではなく、抽象的になる事が一番重要なことである。と仰っていたと思います。その事から、これもまた先生が定義した妖怪に当てはまるのではないかと思います。

04T3061G 戸堀一真
繁山君の和製英語が妖怪であるという意見ですが、物体のみを対象として妖怪を探していた僕にとっては、妖怪とは必ずしも物体とは限らないという発見をさせてもらいました。しかし、和製英語が妖怪であるという意見に少し疑問に感じる部分があります。和製英語は、実際に日本語の規範を逸脱しているのでしょうか。規範とは、実際に使う人の立場においての主観的な概念だと思います。現在、日本人にとって和製英語とはごく自然に日本語の一部として受け入れられてしまっています。だからこそ和製英語は、規範に含まれるように許容され、規範から逸脱しているとは思えないのです。しかし、僕は、日本人の立場で考えるのではなく、イギリス人の立場からしてみれば、全く異なる意味で英語語が使用されているという点で、規範から逸脱しているということになるのではないかと思います。
妖怪を探していく上で、思いついたものすべてが、よく考えてみると規範から逸脱していないものであった。その一つは、本である。本とは、章という部分から構成されているからこそ妖怪であると考えた。しかし、それは規範から逸脱していない。章からなっているといっても、本の大きさやページ数などすべてが規範のなかに集約されてしまっている。
身の周りには妖怪よりも人間のほうが圧倒的に多いと思っていたのですが、皆さんの意見を読んでいると妖怪は決して少ないわけではないということを感じました。

04T3069B 樋川 俊樹
 多くのコメントを読ませていただきました。その中で高橋さんを初めとし「携帯電話」について賛否両論の意見がありました。「携帯電話」が妖怪であるというのに僕は反対です。理由は2つ。他の人の意見にもありましたが、携帯電話とは携帯できる電話であること。西洋建築が人間の寸法を基準とした比例関係から成り立っていたのと同様、携帯も人間の手のひら、またはポケットサイズである事を前提として作られている。いくらカメラ、お財布などの機能はついてもこの規範からは逸脱できていないと思いました。もう1つは色々な機能は付いてきているが、非価格競争の現在ではデザインも重視されているのではないだろうか。必ずしも部分だけでなく全体からも考えられていると感じます。
 僕が一番初めに妖怪だと感じたものは「木」でした。成長し葉や実をつける、またその葉が枯れて枝のみになる。その過程で木自身は全体像を考えていないと考えました。しかしこれまでのコメントや坂牛先生の話を聞いて「部分からできていれば妖怪というのは間違い」とか「木が妖怪ならば規範からの逸脱とは何を意味するのか」と悩み自分の意見としては根拠がなく提示できませんでした。新たに思ったのは建築家が新たな発見を求め奇抜なものを造るということをヒントに、僕は規範からの逸脱を改革しようとする努力だと考えました。身近にあるのは小泉総理の改革郵政民営化。これが成功するかは定かではないが、過去、鉄道が民営化されたように日本の部分部分が過去の常識・規範から逸脱して日本の経済の全体を景気という指標でかたどるのかと考えます。

03t3068a 梨本耕平

妖怪は人が作り出したもので、人の気持ちか妖怪を生み出すと思います。
妖怪が全体からではなく個々の思想から生まれるのであり、これは妖怪の定義と同じだと考えます。
また、妖怪は全体の規範からはずれた部分であり、全体の捉え方により様々な妖怪が存在すると考えます。
そして、私は中尾さんの妖怪の捕らえ方が、部分を表すための全体の捉え方により、妖怪が面白さにもなるし、不快感にもなると言うことなんだろうと自分なりに理解し共感できました。
身の周りの妖怪を探すということについて、広い規範で考えた場合に様々な妖怪が存在します。そして、妖怪を探す行為において、身の周りに限らず様々なものに注意を向けることで多くの発見がありました。
妖怪からは驚き、面白さ、不快感などの様々な発見があります。そして良いモノ、悪いモノが多く存在する中で物事の本質を見極めることを心掛けたいと思いました。

04T3059E 坪井章訓

自分の身の回りにある妖怪は何なのかを考えているとすべてが妖怪ともいえるし、いえない部分を秘めているように思えてきてしまう。自分の考えをまとめるために多くの人の意見を読ませてもらった。中でも携帯電話について共感を得たものと、逆に共感できなかったところがある。先ず、自分にとって携帯電話とは妖怪であると思った。塚田君の意見と同じであるが、今の携帯電話には電話といった主な機能を超えてメールやインターネット、スケジュールといった電話とは関係ないものまで新しい機能をもっている。たしかに部分機能として携帯を作っていると思う。携帯が出始めたころの想像の枠をかなり超えているのではないだろうか。自分も携帯電話を目覚ましとして使っているし、メールの機能も頻繁に使う。つまり、必要な部分が作られ、それを使っていることになる。
しかし、今ではシンプルな携帯電話も登場し、本来の機能のみ持っているものもある。ミースの言うless is moreと同じものがあるということではないか。そう考えると、そのシンプルなものを使う人にとっては携帯電話は人間なのかもしれない。携帯電話は使う人にとって妖怪でもあれば、人間でもあると思う。今回は自分の身の回りのことについてなので、自分の持っている携帯電話が自分にとって妖怪だと思った。

02t3049f 山田 匠

他の人への意見
工藤さんの文は、それが妖怪を指すかどうかは知らないが例示が自分の確かな身体感覚になっていると思うので、頭の中にすっと入ってきて読みやすかったです。

本文

自分にとっての妖怪は、伊東豊雄の
「TOD'S 表参道(以下TOD’S)」です。
建築において構造は、壁あるいは柱が担うという規範(中尾さんの言う慣習)は、共通の認識としてあると思う。
しかし、この建築物は、構造を外皮が担っていると言う点で前述の規範から逸脱している。(ここで言う外皮とは建築物が外部と直接接する部分を指す。)
TOD’Sのコンセプトモデルを見ると、まず外皮という部分を抽象化した木のシルエット(以下木のシルエット)で覆い、これに構造を担わせていることがわかる。
 単純に無柱空間がほしいだけなら柱を外側にする、或いは外皮を壁で覆ってしまえばいい。しかし、あの木のシルエットは自分の印象では、壁にも見えないし、柱とも言えない。やはり、柱でもなく壁でもない外皮という部分に構造を担わせたかったのではないかと推測できる。
確かに、自分の印象ではTOD’Sは重苦しいコンクリートのハコでもなく、柱という骨格がある建築でもない。
それは、外皮という殻に覆われた建築という印象が最も適切だ。(内部空間からすると柱が無いこと、そして窓だけが木のシルエットをしているのではなく、外皮全体が統一した木のシルエットをしていることで、内部空間体験としても殻という印象を強くしている)

結論

TOD’Sは、「木のシルエットを持つ外皮という部分が構造を担う」という点で規範から逸脱し、殻に包まれた建築という表現の強度を高めている。(しかしこの逸脱も、外皮構造という表現が今以上に氾濫すれば深澤さんの言うように、妖怪としての正確が薄らいでいくと思う)
これは、皮膚の妖怪建築と言える。

04T3065K
中島早央里です。

 妖怪というものを考えてみても何も答えは見つけられず、でもみなさんの意見を読ませていただき私もやっと自分の考えがなんとなくもてたように思います。私は和田君のジーンズと工藤さんのキティちゃんが妖怪だという意見に共感しました。理由はきっと、一番身近に感じたからです。工藤さんの投稿を読むまでキティちゃんを『猫』だと意識してみたことはありませんでした。猫であるということより可愛さやそのキャラクター性を重視したと思われるキティちゃんは妖怪と考えてよいと感じます。ジーンズについても同じで、本来の目的を外れて見た目・流行に沿ったものが多く出回っています。よく考えれば不思議なことですが、また自然なことなのかもしれません。このジーンズを妖怪だと考えた今、ほとんど目的もないのにインテリア性や見た目に魅かれて買い、今も部屋に置かれている照明器具や、ただ音楽さえ流れれば満足なはずなのに同じく見た目に魅かれたCD・MDコンポなどもその仲間に入るのではと思いました。

04t3032c 木村 知晃

11人目以降の人は先に出た意見について言及せよ、とのことだったので、とりあえず下から何人かの人の意見を読んでみました。
最も印象に残ったのは、携帯電話は妖怪だという意見です。またこれに反論している人もいてとても興味深く読みました。二つとも納得できるところがあり、どちらが正しいのかと頭を悩ませているときに、この二つの意見は携帯電話の捉え方の違いによって生じていることに気づきました。
前者の携帯電話は妖怪だ、という意見が携帯電話を電話として捉えていて、電話の規範にもとづいて話を進めているのに対して、後者の携帯電話は妖怪ではないという意見は、携帯電話を携帯電話そのものとして捉えていて、携帯電話の規範にもとづいて話を進めています。つまり、妖怪だと主張している人は、携帯電話はあくまで電話の一部であり、家庭用電話機の進化したものだと定義していて、それに対して妖怪ではないと主張している人は、携帯電話を家庭用電話機とはまったく違う移動用端末として捉えているように思うのです。
確かに今の携帯電話についている機能は、家庭用電話機にはいらないが、移動用端末にはあると便利なものばかりで、電話の規範は逸脱しているが、携帯電話の規範は逸脱していないと言えます。
こう考えると妖怪というものは、どの規範でそれを捉えるかによって変わり、一つ目小僧も人間界の規範から見るからこそ妖怪なのであって、妖怪界(?)の規範から見れば、特に逸脱してはいないのだろうな、などと当たり前なことを思いました。

04T3086B 村上亜衣

自分の周りにいる妖怪・・・私が思い浮かぶ妖怪といったら、やはりゲゲゲの鬼太郎にでてくるような有名な妖怪たちです。なにが妖怪と呼ばせているのかといったらやはり、不通とは違った要素を持っているということ。つまり先生の言う規範から逸脱しているということだ。たくさんの人の意見を読ませていただいて最も共感したのは和田君の意見です。ジーンズについて、そんなこと感じたことはなかったが呼んでいてすごく納得しました。確かに、今では初めの規範とはかけ離れたものとなっている。規範とか逸脱し、規範が崩壊しているのだが、今そうやって流行として多くの人から親しまれている。流行としてジーンズであると成り立っています。そのように変化したのは現代の環境がそうさせたのだと思います。本来の機能を果たす必要がなくなったのではないかと思います。つまり、私は妖怪とは変化し続けるものであると思うし、それはいい方向でもあると思います。すべてのものは、環境に合わせて変化し続けていくものです。そのなかで、妖怪というものが現れるのだと思います。今回、考えてみて妖怪というものは今まで考えてきた以上に身近なものであると感じました。

03t3073g
野崎慎吾

ドラえもんやミッキー、キティちゃんなどは挙げだすときりがないし今回挙げられている様々な妖怪の中で<実在>しないものでありリアリティにかけると思い、同時に妖怪として理解しがたいものであった。
そこで部分からできていて部分が規範から逸脱している身近な妖怪として私が思いついたのは山内君が述べていた音楽であると思う。僕はよくmixCDを聴く。これは違う曲同士のテンポ(ピッチ)をあわせ曲同士をつなげまるで1曲に聞こえるように混ぜ合わせていく(mixする)音楽なのですが全体を通してあっているのはピッチだけであり、楽器の音歌詞などはつながっておらず、mixという大きなものの中の部分である曲たちが一人歩きをしているのではないかと思う。
1曲1曲作詞者が思いを込めて作った歌詞をmixによって崩し、楽器や音も入れ替わりする。そんな個性が強すぎる(曲)部分を持ったmixという一個の音楽であるが、それは聴いているぶんには曲として成り立っているといえる。しかし歌詞を伝えるという観点から見ると成り立ってはいない。Mixは妖怪があつまって生まれた大きな妖怪であると思う。
散々mixを妖怪呼ばわりしたが、いかんせん私はこの妖怪が好きだ。他の人が挙げている携帯にしろmixにしろ現代の私たちが求め生んだ妖怪なのではないだろうか。こういったものを求める私たちが一番身近な妖怪ではないかと思った。

04T3051K 高瀬 知佳
 皆さんの意見を読んでみましたが、正直私もここでの妖怪の意味がよく分かりません。が、様々な文章を読んで、とっさに「ゲゲゲの鬼太郎」が浮かんだ自分の頭を一度真っ白にして、自分なりに「妖怪」について考えてみました。
 そこで私が目をとめたのは武智さんの意見です。私はこの意見に賛成です。確かに障害者という意見は失礼だとはとは思いますが、これは当たらずとも遠からずではないのでしょうか。そして、そのあとの「人間らしくないもの=犯罪、核兵器、戦争・・・etc」。このような、人間では考えられないような、恐ろしい、さらに未だに人間の周りをうろつきちょっかいを出してくるといったこれらのものを妖怪だと表現するのは理解できます。そして最後の、人間は必ずしも良い方向に変わっているとは言えない、またはそのような問題だらけの現代にマッチするものをつくっていいのか、というフレーズにとても心惹かれました。確かにその通りだと思います。このように歪んで変化していく人間こそが本当は妖怪なのではないのでしょうか。しかし、それは人間を妖怪に変える問題の方にマッチしたものを考えてしまうからであって、そうではなくそれをいかに正しい方向に持っていくかを考えればよいのではないでしょうか。つまり、問題の解答に合わせたものの形成がこの場合の適性だと思います。問題にはそれぞれの解答方法があります。それらにマッチしたものつくりを考えていけば、決して良い方向には進まない人間に合わせてもここで懸念されているような展開にはならないと私は考えます。
 妖怪、または妖怪建築という言葉を十分に理解せずにつらつらと書いてしまったので中身の無い陳腐な文章になってしまったが、ご了承下さい。

04T3046C 杉山文野
中尾さんが立体駐車場をぬりかべというならば、私は集合住宅をヤマタノオロチとでもいいましょうか(ヤマタノオロチが妖怪かは定かではありませんが)。同じ部屋がいくつも積み重なって全体を構成している集合住宅は、妖怪建築であると考えます。
集合住宅が「1つの住戸」という部分の集まりからできているのは言うまでもありませんが、それだけでは妖怪とは言えません。さらに、部分が規範から逸脱しているかどうかです。が、残念ながら集合住宅の場合、「住戸」という部分が著しく規範を侵しているという確信はありません。しかし、ここで重要なことは、集合住宅を構成している部分が、“全て同じ”だということです。ある一部が大きすぎたりなかったりというだけでなく、同じものが無数にあるというのも、規範を逸脱していると考えるからです。つまり、部分の集まり方が妖怪的であるのです。
以上の検証の結果、集合住宅は妖怪建築であると考えました。

03T3092C 三森 翔

 はじめの10人の方の意見を拝見させてもらって、中尾さんの意見で“全体の秩序が部分的に著しく崩壊し、それが恐怖や驚きの対象になるもの、また全体的規範からではなく部分から考えられたもので、それが恐怖や驚きの対象になるものが「妖怪」であるといえる”というところが私は共感できました。
 そこで私が思う妖怪建築は、ガウディのサグラダファミリアであると思います。120年たった今でもいまだ完成していないことと、見た目の彫刻のリアルでディテールの細かさもそうなのですが、その柱に刻まれた彫刻はせん断力を起こさないための物で、また構想やガウディの頭の中の理想の建物を現実に再現しようとしたもので建築の限界を攻めているものだからです。サグラダファミリアの完成予想図を見てもわかるように、12本の塔一本一本、アンモナイトの化石のような螺旋階段、鐘塔の鐘の音、そのほかそれぞれの部分が規範から逸脱し、独創的で幻想的な建築であるなと思いました。また、ガウディが亡くなったあともガウディの意思が受け継がれ、今現在でも多くの人たちの手でサグラダファミリアを作っているということは普通の建築物ではありえないことだと思います(お金と人手さえあれば、すぐにでも完成できちゃうとは思うんですけど・・・)。“ガウディは亡くなったけど自分たちの手でサグラダファミリアを完成させたい!!”という、人に意識を持たせることができるという意味でもサグラダファミリアは妖怪建築であるといえる由縁だと思います。

今回から11人目以降は他者のコメントについて、賛成反対を示せということなので、中尾さんのコメントに反対させていただきます。
 中尾さんは「一般的に妖怪は人間にとって恐怖や驚きの対象である。つまり全体の秩序が部分的に著しく崩壊し、それが恐怖や驚きの対象になるもの、また全体的規範からではなく部分から考えられたもので、それが恐怖や驚きの対象になるものが「妖怪」であるといえる。」と言っていますが、ここでの議論に登場する妖怪は、一般的な妖怪の姿形から連想されるイメージや感情(恐怖や驚きと表現されていますが)を指すのではなく、全体形成立のための全体と部分の比率があり、その比率がある範囲以内に入っていることが「人間」という規範であり、こうした部分の比率を逸脱することを「妖怪」と、坂牛先生は呼んでいるだけだと思います。つまり妖怪とはバランスの規範からある部分がその比率を逸脱することの隠喩なのです。

 そういった観点から身の回りの妖怪を探してみると、教育が思い当たる。ここでいう教育とは義務教育のことですが、教育全体の命題は優秀な人材を育てることであると思う。どのように優秀なのか、優秀の意味などは時代によっても違ってくるとは思うのだが、其れを実現するために日本では「詰め込み教育」という世界でも類を見ない手法を取ってきた。その成果は現在の日本を見れば分かるとおり、世界の先進国の中の一国となっているが、社会がある程度成熟するとそれまでとは異なる類の問題が発生するようになる。教育界を悩ませたその問題は青少年犯罪の急増である。そこで教育界と文部省が打ち出した対策は「ゆとり教育」であった。
 「詰め込み教育」を「受動教育」、「ゆとり教育」を「能動教育」と受け取ることができる。詰め込み教育でも能動的な授業はあったが、数が少なすぎた。実際に僕の田舎の小学校では近くの川に魚を捕りに行く授業があったのを覚えている。ゆとり教育ではもちろん、詰め込み教育と同じ数学や国語といった教科も行われているが、生徒が自発的な姿勢で臨める授業が増えたということである。
 つまり、学校教育でカリキュラムの中に数学や国語という全体形を成立させるための「部分」をギチギチに詰め込むのをやめ、その中に生徒の自発的な姿勢が求められる授業という「部分」が増えたことになる。これまでの「詰め込み教育」を規範とするとすると、「ゆとり教育」では明らかにその部分で比率の逸脱が起こっている。だから
「ゆとり教育」は、実は「妖怪教育」なのである。

04T3033A 草間康至

何かの能力が高いもの低いもの、だから考え方としては牛山君の普通±αというものに似ているかもしれない。
自分が考えた妖怪とはある一つ(一つとは限らないが)のものに突出した人間ではないだろうか。もちろんそういうもの全てが建築に影響するとは限らないが、例えばその突出したものを妖怪と呼ぶかもしれない。例えば、陸上競技などのスポーツではまだ中学生や、高校生の内からずば抜けて優れていると、怪物などと呼ばれたりする。怪物=妖怪というのは少し違うかもしれないが、それでも似たような表現だと思う。スポーツの“妖怪”は建築には影響しないだろうが、例えば写真家などの仕事場兼アトリエを作ったりするときなどは妖怪建築に成り得る。

04T3015C 岡野瑛貴

先に書かれた意見を拝見させてもらい、それぞれの意見に納得や反対の意見を持つことができました。
その中で身近な意見で賛成だなと思ったものは、松永さんの意見です。インターネットというパソコンの中でのみ存在する形の無いものが、その中に含むさまざまな膨大な量の情報を見ればそれが妖怪だと感じることは容易だと思います。
誰も把握しきれないほどの情報、全てが必要であるのだろうか。情報が氾濫し、そのために犯罪にもつながってしまった例が過去にいくつかあったことも事実であり、このようなことがこれから起こってしまうのをくい止める事はできないのだろうか。
妖怪となってしまったインターネットは一人歩きしてしまっているのではないだろうか。

03t3077k
波多野貴壽
「自分の周りにいる妖怪を挙げよ。」ということで、前に書かれた文章を読ませていただきましたが、音楽という妖怪は、私にはとても理解しやすく、納得させられました。始めから全体ではなく、一つ一つの音に注目し、そして音が選ばれていき、最後に全体である一つの曲が作られていく、個々が無ければ全体がないという音楽が妖怪であるという意見にはとても共感しました。
 次に私自身が考える妖怪ですが、全体的規範からではなく部分から考えられるものを妖怪とすると、社会というものが妖怪だと感じます。それは、人間社会でも動物社会でもその全てを含んだ自然社会でも同じだと思うのですが、社会は個々の考えがあり、それが尊重されて社会となるのだと思います。昔、とても有名な学校の先生が言われた言葉に人という字は人と人とが支え合って出来ているという言葉があります。社会というのもこれと同じで、まず一人の考えがあって、そこに他の一人一人の考えがあり、それが合わさって出来ていると思います。また妖怪ということで、驚きがあるかもしれませんが、それは個人の考えをその他の人が知った時、または自然社会において人間というものを他の動物が見た時に生まれてくるものだと思います。このように、一人または一つの考えが尊重されて全体を作っている社会を私は妖怪だと思います。

03t3087g 松岡澄生

自分の身の回りにいる妖怪についてこのコメントを読んでいて賛成したのは、石川裕之君の部分的存在をその変哲の無い社会に加えるだけでその社会は妖怪となったのではないかという漫画の「ドラえもん」の世界についてである。そのポイントとなる部分を加えることによってその世界のバリエーションは膨らむ。そのポイントがなかったらその世界は何の変哲のない世界となってしまう。そのポイントを加えるだけでそのもの全体が規範から逸脱し妖怪的要素を持っていくのではないかと考える。私の考える自分の周りの妖怪、

それは、宗教。

ブッダやキリストが開いた教えから始まり現在誰もが何かしらの教えに属すると思う。正月になったら誰もが初詣に行くと思う。そのとき誰にお願いするだろうか?
神様、仏様?精霊、祖霊?
などと表現されるような人間を超えた存在を自分の中に感じることが宗教。人間の欲や安定を求めて作り出した世界。特定の宗教は信じていないが何かしらの信仰心は持っていると思う。この人間の作り出した世界これこそが妖怪のようだと考える。現実に存在するものからある種の逸脱をして安定を求める。自分にも信仰心はあるし否定はしていないが自分が作り出す内面的な絶対的存在。私はそれを妖怪と考える。
普段気にもしないからその存在が普遍的だと感じてしまっているという感じが建築にも通じるのではないかと感じる。

03T3041J 清水右一朗
妖怪というのは部分からできているものでさらにそれが規範から逸脱しているものでそれが表現となっていると考えたとき、野崎君のmixCDは妖怪の3つの要素を満たしていると思う。
言うまでもなく音楽というのは表現の一種であり、2つ以上の音楽をミックスしていることはいままでの音楽の歴史からいっても規範から逸脱していると思う。また、2つ以上の音楽というものは他の作曲者が全く独立したものであるのが普通だから、それらは部分といえると思う。
ただ、ピッチというものがそれぞれの曲をつないでいるとすると、ピッチ自体はものさしをつかって表現しているので、人間であるとおもう。
よって、mixCDは坂牛先生のいうところの人間的妖怪と位置づけることができるのではないでしょうか。
あと、僕自身の意見ですが、色々探してみたのですが妖怪というものはそうそうないんだなということに気づかされました。
あえていうなら、ソファベットや洗濯乾燥機は妖怪であると思います。
なぜなら、ソファベットや洗濯乾燥機は2つの機能からなっていて、今までの規範からは逸脱していますよね。それが省スペースという意味で新しい機能として生まれ変わっているからです。

04T3080C
松田龍一

色々な意見を見せてもらいました。その中で身体障害者の話が気になった。片目しか見えないから妖怪、歩けないから妖怪、耳が聞こえないから妖怪というのはやはり違うと思う。目が見えないから妖怪というのであれば、視力の悪い私は半分妖怪ということになる。これだけはやめてもらいたい。
私は身近な物で「お金」が妖怪だと思う。大昔の人は物と物を交換して新しい何かを手に入れていた。今の世の中は「硬貨」と呼ばれる丸くてひらべったい金属や、「紙幣」と呼ばれる紙切れで物を購入している。私はどうも福沢諭吉がプリントされた紙切れにお米を何十キロも購入できるだけの価値を見出せない。何かを得るためには同等の何かが必要という「等価交換」の理念から外れていると思う。1万円札よりもお米のほうがよっぽど価値があると思う。またこのお金というのは国によって価値が変わってくる。日本と発展途上国では同じ物の値段が10倍も差があるなんて話はTVなどでよく放送される。また「ドル」、「円」、「フラン」、「ポンド」、「マルク」などのように呼び方まで変わる。もはや等価交換がおこなわれているとは到底思えない。でも今からまた物々交換の時代のようにするなどということはできない。ならばこの生活に慣れてしまった私たちは妖怪なのであろうか。

02T3045H 田中淳
妖怪とは?
デフォルトがありそのどこかの部分がデフォルメされているものというのが一番私の中ではしっくりくる。
ここでいうデフォルトというのはもちろん規範ということである。しかし、規範とはいったい何なのか。(1)行動や判断の基準・手本。(2)単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。と辞書は言っている。

妖怪なるモノは次の時代の規範ともなりえるのではないか?
時代によってそれぞれのデフォルトというものは少しずつ変わっていく、部分から建築を構成してゆくといった行為はいくらか前までは妖怪であったことは先生の言うとおりであると思う。だが、現在は「部分から構成するもの」もまた「全体から構成する」という考えと同様に「規範」のひとつとみなすことも難くないと感じる。先生の設計した連窓の家も、窓といったものを従来の住宅からは逸脱したかたちで、確かな強度を持った部分として構成していて「妖怪的」であるが、それがまた新しい「規範」の一つとして参照されうることもまた想像に難くない。「規範」は普遍的ではありえないように感じる。
妖怪と呼ばれるモノは「翌々考えてみると…」といったことが多い、そうなるのはひとつの規範として妖怪が存在していることではないかと思う。高橋さんの挙げた携帯電話、深澤さんの挙げた絵文字、工藤さんの挙げたキティちゃん、それらは今では一般的になっている。そしてそこは新しい時代への変革の芽が存在していた。
ここで、その変化というものは「発見」-坂牛先生のいうように-によって更新されていくものであるのではないか。

自分なりの具体的例を挙げることができませんでした。まだ自分のモノサシでいまいちこの事象を計りきることができないので・・・

03t3020f
岡悠志

今回の課題であるが「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」とのことである。そのままの妖怪の意味でこの答えを出すと、それはただ感情から来るところに頼る結果となるであろう。つまり恐怖を感じたり不快感を抱かせるものをその例としてあげ、それを否定していくことになろう。しかし、ここでの妖怪とはまったく違うものである。最低でも否定的な意味ではない(否定的な意味を持つこともあるだろうが)。
 今ここでいう妖怪の意味であるが、部分が「個」持つことにより個が個として存在することが根底にあると思う。偶発的に出来上がる個ではなく、仕組まれた個、はじめから考えられた個という存在であるということだ。それは部分が力を持つ、全体に及ぶほどの影響力を持つということは今までと同じルールの上で成り立っているものでは無いことを指す。ただ単に全体の中に部分的な「個」が確認されるだけではなく、部分が全体を決定するほどの力強さを持ち、「個」がその周りを場として完結させていることがここでいう「妖怪」であると思う。
 この考えでいくと、野崎慎吾氏のMixCDの例はなるほど、と思う面がある。個として存在しながら全体に及ぼす影響は大きいく、それが部分として全体を成り立たせている。しかしながら、個が規範となるものを脱しているようには思えない。むしろ基準を逸脱しているのは違う音楽をつなげるという考えであり、それは全体が基準を逸脱していることを意味するとおもう。最近めっきりお笑いブームであるが、これは妖怪ではないだろうかと思う。芸人が人と違うやり方で客を笑わせる。ある芸人は腰を振りまくり、ある芸人は人形を両手にはめて漫才をする。こういった個がお互いにケミストリーした結果として全体であるお笑いブームが生まれていったのだ。普通に漫才している人が増えたのではなく、人と違うアクセスで笑いを追及した結果として個の存在を大きくし、それが増えたことで自然発生的にお笑いブームが誕生したのだ。お笑いブームは、部分が「個」として存在し、その個は他とは違うものであり、それらをつなぐ大きな「箱」がそれらを部分として吸収している、ので妖怪だ。

04T3067F 野原麻衣子

自分の周りにいる妖怪、最初に思いついたものは異性です。つまり、女であるわたしからすると男の人です。ここではわたしが女という範囲の中にあり、それを規範として男性が逸脱した存在ではないか、という考え方から出たのですが、いろんな意見を見ているとそれはちょっと違うのかな、と思えてきました。男と女の性質というのは外見も内面も同じ人間でもずいぶん違っていて、男の人に対してうらやましいと思える部分も、また勝っているなと思える部分も多くあると思い、どちらの意味でも逸脱した存在だなと思えたのです。逸脱した存在→自分とは異なる存在、自分にはないものを持っているからこそ男女は惹かれあい、それは多くの人が妖怪に興味を持つことに似ているのではないか…、この考え方は武智さんの「障害者!?」っていうのとちょっと似た考え方なのかな、とも思ったのですが、皆さんの意見を見ていると、わたしの考え方は自分を規範とするあまりにも主観的な考え方だと感じ、そうするとわたしという存在は他にありえないのだから、すべての人が逸脱した存在になり、妖怪になってしまうと思ったので、考え直すことにしました。
わたしの考え方の基本は高橋さんの意見の中にある「普通+α 又は -α」と同じで、高橋さんの意見のまとめの部分はすごく共感できました。それに、携帯電話説は「部分」と「集合」の考え方も含まれており、わたしの最初の意見はその辺を全く考えてなかったので、なるほど!と思いました。

04T3083H 峯村亮佑
坪井君が書いたように私も携帯電話が妖怪なのではないかと思います。出始めの携帯電話はまさに携帯できる電話。いつでもどこでも電話がしたい。それが人々の希望でそれに即してできたまさに名の通りの機器。だが最近の携帯電話はメールはもちろん。カメラ、ラジオ、テレビ、電卓、目覚まし、スケジュール、指紋認証、までもが詰まっている。なので複数の機能が集まり小さなケースにまとめられている携帯電話は妖怪だと思いました。

賛成(共感)することは簡単だと思ったので反対意見のほうを書きたいと思う。

ある能力(スポーツや芸術性)が突出している人間が妖怪だという文章があった。読んだ瞬間は納得したが、よく考えたら違うと思う。
ある能力が突出した人は確かに「部分が崩壊した」と言えるかもしれない。しかし「部分が著しく崩壊した」とまでは言えないと思う。なぜならそれは人間の能力の範囲内での話だから。人間の能力内という規範から逸脱できていないから。そしてよく周りを見てみれば能力が突出したモノしかない。正確に言うと能力が突出したモノしか生き残れない。能力が突出した人たちが作ったCD・本・電気製品…。よく才能がない人はいないなどとう言葉を耳にする。それでは全ての人間が妖怪になってしまうではないか。だからやはり違うと思う。
 ではそれを逸脱した妖怪とはなんなのか?実際よくわからなくなってきた。反対意見を書いていて、どことなくそれに矛盾というものを感じているのも事実である。人間の能力の範囲内という規範からは逸脱できていないが、常識という規範からは十分逸脱できていると思う。常識破りというヤツである。実際先生がおっしゃる妖怪建築も人間の能力の範囲内のモノである。
 
むしろ上に述べた自分の意見に対する反対意見も出てきた。仮に今まで人間の能力の限界だと思われてきたことを越えた人が出てきたとする。するとその人がまた人間の能力の限界ということになるはずである。つまりここで言う「妖怪」というのがそれこそ本当の妖怪や宇宙人が現れるほかなくなってしまう。だからやはりある部分(本当は分野といいたいが分野をここで言う部分というのは少々きついと思うのでここでは部分とする)が突出した人というのが妖怪なのだと思う。つまり第一線で活躍している人、多くの人に使われているモノ、そういったものが、部分が規範から逸脱した「妖怪」だといえるのではないか。(でもやっぱりそれじゃあ妖怪だらけだなあ、と思い思考が輪廻し続ける…)

結局は賛成意見になってしまいました。すいません。

↓名前書き忘れました。
03T3100H 望月翔太です。
失礼しました。

04T3063C
冨永泰平
 自分の周りにある妖怪として、テーマパークのアトラクション、というのはどうでしょうか。例えば、ジェットコースターを電車と比べてみると、乗り心地の悪さやスリル感が異様な部分です。そう考えると、ディズニーランドはそのものがお化け屋敷ということになりましょうか。もちろん、ミッキーマウスも巨大化けねずみという、りっぱな妖怪で。
 

身近な妖怪にはなにがいるのか。先の投稿などを読んで、私は最初に2年生の工藤さんのキティちゃんの例を読んでなるほど、と思った。たしかにキティちゃんは主となる顔を考え、爪や鼻の穴など、可愛さには不必要なものを除去し、最後に猫だとわかるよう、全体のバランスを整えるように手足やしっぽを付けて出来上がった。そして、それは猫であると見れば分かる。しかし、なぜか引っかかるものが僕にはあった。キティちゃんは可愛さを強調した猫の妖怪。ろくろ首は首だけ伸びる人間の妖怪だし、口裂け女は口が裂けた人間の妖怪だ。そう考えていくとそもそも、キティちゃんはこの授業で扱っている妖怪ではなく、ろくろ首や口裂け女に属する妖怪の一つでないか。
例として車を挙げたいと思う。車といっても速さのみを求めるF1だ。車はそもそも移動を楽にするためのツールである。そこには車内の快適性であり、車の安全性であり、小回りの効き方であったり、加速性能だったりする。しかし、F1カーは普通車とは見た目もまったく違う。F1においてはそこに求められるのはスピードのみだ。そのため、車体はものすごく軽く、ほかの車のパーツを拾ったりするだけで大きなダメージを受けてしまうような脆さだ。そこには快適性や車自体の強度といったものは重要視されていない。(ドライバーの命を守るといった安全性は考えられているが。)しかし、F1カーが車ではないかというとそうでもない。ちゃんと車輪が4つついていて走っている。どうしたら速く走ることができるのかというテーマを追い続け、その部分に特化した車がF1カーだ。そのスピードという部分がF1カーの全体を構成している。そうった意味でこれらは妖怪になりえはしないだろうか?

下記の投稿で名前を書き忘れました。
03T3080K 平岩宏樹です。
失礼いたしました。

山田建築設計室 山田健一郎です。前回レポートで、学外よりの参加を歓迎していただき有難うございます。建築の実務にはない頭の使い方で刺激になります。今回も参加させてください。

皆さんのレポートを拝見していて、「妖怪」を語る上で、今回の「人間と妖怪」というテーマのもう一方の「人間」が正確に意識されていないのではないかと感じました。例えば、携帯電話を「妖怪」とするときそれに対する「社会的規範」は?パソコンは?いずれも、規範を定義しにくい点が気になりました。
全体と部分を意識しているという点で気になったのは、武智さんの「教育」です。「教育」に対する「ゆとり教育」と言おうとしている態度は理解できますが、田中さんが「規範は変化し続けている」と言うように、「ゆとり教育」がいまや教育の社会的規範の一部分で、妖怪として飛び出してこない。
「人間全体」に対して「子供」を「妖怪」とする高柳さんの意見にも頷けるものがありました。しかし、子供は全ての人が経験する通過点であり、永遠に子供だったら、「妖怪・ハナタレ小僧」になりそうですが、通過点としての子供では面白味に欠けます。

教育や子供をヒントに、私が思いついた妖怪は「オタク」です。「オタク」はあるひとつのことに強い関心を持つあまり、他の大人からは理解されにくい行動をとったりします。政治・経済・生活・芸術等いろいろなことにバランス良く関心を持ち、理性と自制心を持って行動するべき「大人・社会人」としての社会的規範にてらすと、「オタク」はバランスを欠いています。
「電車男」「アキバ系」も「漫画オタク」「映画オタク」も「バランスのとれた大人像」から逸脱した「妖怪」です。自分の周りにいる妖怪…それは「建築オタク」のあなたです。
大学時代、建築のデザインに関わる将来を希望して「建築とは」を第一義に学んでいました。
卒業して、社会の中で建築に携わると、「建築の純粋さ至上主義」はもろくも崩れ去りました。社会の人たちは私が考える程には、「建築」に関心が少ないし「建築とは」ということを重要視しない。周囲の人が皆「建築オタク」だった学生時代にはわかりませんでしたが、私は「建築オタク」だったようです。(学外からこの掲示板に参加するのもイマダニ「建築オタク」に片足を入れているのかもしれません。)

 ジーンズ論はなるほどと思うわけだが、ファッションを例えるのは何か危険な匂いがする。
 まあそういう訳で、様々な意見を見て考えてみたが、先生がいう妖怪は規範を一脱したズレの中で表現の強度であるらしく、しかしその規範は常に秩序とは限らないし、その一脱が無秩序とは限らないというものであるらしい。私が思うに、その秩序と無秩序の設定を誰が決めるのかということである。取りようによっては、まったくもって曖昧である。所詮は俗にいう妖怪もそうだが、人自身が生み出す事に変わりなく、人が夢みたいな理想を現実に実現・表現する時に今まであった規範との新しく生まれてくるズレである。といえることはおそらく間違いなかろう。つまり、妖怪とは人間そのものであり、人が人である文化的営みがありつづける限り妖怪は人間から生まれるだろう、様々な表現として。

03T3027C
3年 兼子晋

課題は「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」というもの。
まずはみなさんのを読ましていただいての意見。和田君のジーンズの妖怪説に共感。ジーンズそのものを考え、もとあったジーンズの規範というものがありそれが穴のあいたものや着色が薄くなったものなどその規範から逸脱したものが妖怪というもの。またそれを「流行」という言葉で表現しているところ。それに納得した。しかし何か引っかかるものがある気がした。
そもそもなぜ「妖怪」と呼ぶのだろう?人間と対極するものが「妖怪」なのだろうか?確かに昔の西洋建築を見れみれば人間を基準にした比例関係が存在し人間の寸法などを考慮することは重要であるしあのコルビュジェもそうしている。人間建築というものであろう。しかしそのコルビュジェが妖怪となった・・・。
ところで「人間」と「妖怪」は対立するものなのだろうか?例えば「妖怪」という表現ではなく「非人間的」「異人」「宇宙人」「幽霊」のような表現だっていいのではなか。人間ではないのだから。しかし「妖怪」という言葉を辞書で引いてみた。すると特定の人を選ばず特定の場所や時間に現れる化物とあった。こうは考えられないだろうか。コルビュジェは特に決まった人物を選んだ(対象にした)わけではなく妖怪宣言の5原則を提案しそれに相した建築物を建てた。建築物という特定された場。に妖怪が現れた。妖怪建築と呼ぶのではないだろうか。
それを踏まえた上で「妖怪」を考えた。規範から逸脱したもの。それは人間自身ではないだろうか。人は部分から構成されていると言ってもいい。目、鼻、耳、口、髪などの部分からなる。しかしどれも同じ人間なんていない。それぞれ輪郭や体つきは様々である。それが当たり前。つまり規範である。ではそこにすべての部分が普通な人間が現れたらどうだろう。(実際にはありえないが)それは妖怪といえるのではないか。規範から逸脱しているが、それが無秩序であるとはいえない。つまり私が言いたいのは身の回りにいるすべての人が妖怪になり得るのではないかということ。
言っていることが矛盾しているような気がします。すみません。
人間も建築もその時代の流れによって変わりそれによって妖怪は生まれ続けると思います。

03T3038J 崔志宏
 今回の課題は「自分の周りにいる妖怪を挙げよ」である。私の周りには一番妖怪と感じたのが日本語です。日本語は中国語により出てきました。けれども、漢字の書き方も発音も全然違います。私に対して、日本に留学してきて、日本語の勉強は必要ですが、最初に日本語を勉強して、本当に難しくて、なかなか考えられませんでした。それで、和製英語(外来語)というものもあります。中国語の「おはようございます」は「にほ~」とか表現できて、本当にびっくりしました。日本人の先輩達の知恵は素晴らしくて、イギリスや中国の文化の特徴をあわせて、独特な文法を使用し、今の「妖怪」の日本語が誕生しました。

03t3089c 松田大作
先の新宮君、兼子君の妖怪とは人間そのもの、という意見には基本的には賛成。ですが、論が飛躍している気がします。また、みんなが挙げる妖怪は以下の妖怪の条件を満たしていないと思います。
ここで、妖怪の条件とは①部分が規範から逸脱②ずれを生み、そこに表現の強度がある③二重性を持っている、として考えられると思います。ここで、この二重性という観点から考えてみました。建築には、物体を外側から見るということと、内側から見るという二つの建築体験行為があります。この時妖怪建築は、この内部からの建築体験に対し、規範を逸脱させ、ずれを生み、そこに建築表現の強度がある。そしてその建物の内部が全体の表現に影響し、外部に少なからず影響を与える。そのとき、妖怪建築は登場する。
さて、私の身の回りに存在する妖怪は、以上の点を考えて、人間の心であると思います。人間といいたいところですが、ここで人間というと妖怪建築になってしまいます。つまり、人間とは存在であり、肉の塊であるので、外側から認識されるものであると思います。また、人間の心は人間の内部に存在し、それは確実に人間の外側に少なからず影響する。よって、僕の一番身近な妖怪は僕の心です。

02T3018A 4年 片岡 篤史

今回の課題で、「妖怪=部分が規範から逸脱したもの」という先生のヒントを参考に考察すると、「その特化が含まれるもの」が重要なのであり、それが善であるとか悪であるといった視点は必要ないのではと考えます。そういった意味で、中尾さんの文中の「恐怖や驚き」といった表現をはじめ「妖怪=悪」の視点からのレポートは今回の課題には沿わない印象を受け、賛成しかねます。

そこで今回の課題において私の考える妖怪は「車」です。

この例は平岩さんなどのレポートにもあげられていますが、私なりの視点で論議を進めたいと思います。
私の考える「車」の全体規範は、「機械的動力を持った移動手段」です。これは、人力から機械化という歴史の流れをみても、相応な規範であると考えています。
そしてこの「車」の部分は何かと考えると、それはボディであり、エンジンであり、トランクであり・・・となります。そして、それらが規範から逸脱したことで何が生まれたか?と考えると、エンジン=「速さ(移動速度)」の逸脱からF1カーが生まれ、ボディ=「人が乗るところ」の逸脱からバスが生まれ、「トランク」=「荷物を積むところ」の逸脱からトラックが生まれ・・・そして、現在、環境面に特化した「車」としてエコカーなるものが登場しているのではないでしょうか。

このように、車の進化の過程は建築がたどった過程と同じ過程を歩んでいるように考えました。

自分は人間性、全体というものを、一般的な価値観、基準となる規律としてとらえ、妖怪というものはその規律から逸脱した新しい価値観で捕えられたものだと考えた。よって、妖怪は普通+α 又は 普通-α という高橋さんにの意見には、規範から逸脱するわけではないという点で妖怪とはいえず、これは進歩なのではないだろうか。自分は高橋さんの数式を参考にさせていただき、妖怪=(普遍+規律、普通)―規律、普通+α であると考えた。全体性を(普遍+規律、普通)であり、普遍とはそのものがそのものでありえる絶対条件と考えていただきたい。ここで問題となると考えたのは「規律がどこへ位置するか?」ということである。個々で多くの方々がとり上げていた、工藤さんの「キティ―ちゃん」を例に挙げさせていただきたいと思う。工藤さんの意見に賛成の方々は、キティ―ちゃんを猫であるという事を基準にして考えており、反対の方々はキティーちゃんはキャラクターであるということを基準にしているように思った。猫であることを基準にして考えるなら、頭はでかい、二足歩行で歩くし、服もきている、かわいらしさを作り上げている、など猫という基準からはあまりに逸脱した妖怪であるといえる。しかし、キャラクターであるということを基準におけば、「二足歩行なんて当たり前、スヌーピーだってプーさんだってあるいてんじゃん」というぐあいに、キティーちゃんが猫であるとていぎした際の規律から逸脱した要素はすべて排除される。さらにその要素は全てキャラクターであるという規定にそったものであるといえ、妖怪ではない。この規定をどこへ定義するかによりそのものが妖怪にも見えたり、みえなかったりするのではないだろうか。またこれは育ったり生活している環境によってやしなわれ、また変化している価値観であるだろう。
さて私の考えた妖怪はプロ野球会におけるIT企業です。(少し古い話になってしまいますが)昨シーズンの「近鉄、オリックス合併問題」がおき、ライブドアが、球団買収を言い出したのを皮切りに、一気にプロ野球のIT化が進みました。当初オーナー側は多くのファン反対しているのにもかかわらず、球団を減らす方向をいかんとして変えませんでした。数年前までは球団をもつ企業は私鉄会社、新聞会社、食品会社などが主であり、IT企業がわって入ってくるなど予想もされていませんでした。それが、いきなり、買収、新規参入をもうしでたことは、オーナー側にとっては部分的規範の逸脱でありまさしく妖怪であったのでは。
和田君のジーンズの例は分かりやすく賛同できるし、面白いと感じた。武智さんの考えは他の方の意見と全く違う視点からとらえていて面白かったし、共感できた。

03t0390g 萬成恵佐

 妖怪と呼ばれる規範が部分的に著しく崩壊したものの意見として私は高橋氏の「妖怪は普通+α 又は 普通-α」と言う意見に着目して自論を展開してみたい。
 「普通+α」は単なる偏差の偏りであって、機能の装飾によっては必ずしも妖怪化しないと思う。
 だが逆の「普通-α」とは何だろうか。これは少し難しい。例えば「ミロのビーナス像」この「女性像-腕」を妖怪と捉える人はいないだろう。だが、一つ目小僧は妖怪だ。この差はどこにあるのだろうか。
 「過剰」や「欠如」、「損失」そのような言葉では論が長くなるので「完結」という言葉でくくりたい。
 私は妖怪とは「普通+αで完結している」又は「普通-αで完結している」ものだと思う。この論ならば機能の付属がいくらでも可能な携帯電話はどこまで行っても妖怪化することはないし、失われた腕に無限の可能性を抱かせる「ミロのビーナス像」は妖怪ではない。
 妖怪とは人間にしか観測できないもの(概念)である。多くの人が人間と妖怪の同一視をしていたが私はこれは大変危険なことであると思う。私はここで妖怪とはある意味完結したものであると論じた。だが私は人間は曖昧で未完成で不完全で不合理なものであると思う。人間とは多くの±αが可能でありながらもどこまで行っても完結することのないもの。それ故、妖怪と人間は対極に存在しているのではないか、私はそう思います。

03T3026E 勝 良介

MIの高橋伸幸さんの意見を読んで、今までにない携帯電話の登場と、機能から全体像が決まっているという点には共感しました。しかし、今に携帯を手に取ってみると、すでに妖怪と呼ばれるようなセンセーショナルさや新鮮さは失われており、既知の存在として認識されています。このように「妖怪」・「妖怪建築」は時間とともに、生活の風景に溶け込んで力を失っていくのだという考えが必要なのではないかと思います。


 近代以前の妖怪は、神霊や自然への畏怖心や信仰心から成り立っていますが、神の位置づけが低下し、科学の力によって自然を部分部分に分節化、系統化していく現代においての妖怪は、未知の存在へ恐怖心を基盤としているのだと思います。イギリスの作家チャールズ・ラム(1775~1834)は「最も恐ろしい妖怪は見えない妖怪だ(エリア随筆)」と述べていますが、たとえばエイリアンのように、妖怪は、私たちが未知の世界の恐怖を具現化し、可視対象とすることで心の安定を図っているだと思います。このように妖怪は人間の想像力が創り出したものであります。

想像するということは、積み木のように自分の持っている知識や既知の世界を積み上げていく作業です。妖怪という未知の存在は、想像力によって既知の世界を超越して生み出されるため、常軌を逸した存在となり、妖怪は規範から逸脱するのです。

昔から、日本人は自分たちの生活する世界に他の世界との境界を幾重にも設定しています。鳥居、門、辻、峠などです。妖怪はこれらの境界に、昼と夜の境の時間=逢魔が時に出入りするといわれるように、まさに妖怪は既知と未知との境界にある存在だといえます。


妖怪建築とは、今までに見たことのない新鮮さがある建築だと思います。授業の終盤で先生がおっしゃられていましたが、常に過去の存在となる建築から想像力をもって、現在に追いつき、先が見えない未来へ建築を跳躍させるにが、建築家の役目だと思います。

私も4年の山田匠さんが指摘する「TOD'S 表参道」には感銘を受けましたが、その新鮮さには寿命があるのではないかと思います。一方で、3年の三森くんの指摘する「サクラダ・ファミリア」はどうでしょうか? 着工してから1世紀以上が経ちますが、人々から熱い視線が注がれています。それは「サクラダ・ファミリア」が、妖怪建築としての新鮮さを保っているのは、未完成という不安定な存在であるからで、完成したあとに残るのは、神への畏敬の念を表した聖堂としての近代的な「妖怪建築」の姿ではないかと思います。

02T3051B 土屋光司

“現在”が「人間」ならば“未来”が「妖怪」であると私は思う。

“未来”は時が過ぎれば“現在”になることもある。言い換えれば「妖怪」は「人間」になることもあると言える。つまり今ここにある確かな“現在”が規範であり、はっきりと見えない不確かな“未来”が規範から逸脱したものなのである。私たちが想い描く未来が変われば、自ずと現在も変わっていくだろう。規範は普遍的ではないのである。そういった意味で田中君の回答に賛同する。

仏教の根本思想で「諸行無常」という言葉がある。意味は“万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ”であるが、今回のお題で多くの人が回答していたことはその流れのほんのわずかな一部分にすぎないように思う。

未来は現在のある一部分を肥大化させ、「こうなるだろう」「こうしたい」などと思う想像図である。そこには初め、現在の感覚ではすんなりと受け入れられないものがあり人々は戸惑い悩む。しかしそこから徐々に必要としているものを汲み取り、人々はそれを現在とするのである。

諸行無常の言葉にあるように人も常に変化していく。その変化に人は順応する能力を持っている。そして変化に順応するとまた新しい変化が欲しくなる。どこかで人は妖怪を必要とし、妖怪なしでは生きていけないのだと思う。その妖怪が良いヤツか悪いヤツかは別として。

武智 三奈
 坂牛先生、コメントありがとうございました。
 現代人は、同じ過ちを犯さないために歴史を学んでいます。だから、前ばかり見るのではなく、後ろを確認するも必要だと思います。現代になって見えなくなっているものがあるのでは・・・。そう疑問に思っただけです。
 私は現代社会が嫌いなのか、自分が嫌いなのか、現代社会を批判的に見ることがあります。しかし幸いなことに、そんな私にお灸をすえてくれる大人が周りにいてくれました。そのたびに、学生で子供で、社会をほとんど知らない自分の未熟さなどに気付かされます。ショックでもありますが、すごく感謝しています。それが今の私の将来への成長の糧となっています。坂牛先生のお言葉にもすごく感謝しています。ありがとうございました。

坂牛

さてご苦労様

今回も含めて、これからもずっとそうですが、僕の授業には比喩が多いのです。その比喩というのはその言葉の原義を言い表そうしているのではないことに注意しないといけません。その言葉の原理に訴えています。まして最初に映した比喩としての双子の写真をその被写体そのものの意味として考えてはいけないのです。
そうした表層の読みつまりは妖怪という言葉をまさにゲゲゲの鬼太郎として考え始める人。妖怪がイメージさせる、不気味な社会を批判する人そういう人が大半でまだまだもう一息というのが今回の感想です。
そうした中で、キチンと妖怪の原理に則り考えてくれたのは、皆さんも多く言及していた工藤さんのキティちゃんです。
それは、①猫という原型(規範)の部分である眼とか頭とかを強烈にデフォルメすることでまったく新しい個を生み出している。②しかしその個が実は猫という規範を連想させる③そのずれの中にキティちゃんの愛らしさが滲み出ているのです。この②がとても大事なのです。つまり規範を連想させる程度の微妙な逸脱がずれの強度を生むということ。そしてそれは受容する側の生理であること。我々表現者はこうしたことを理解しておかなければならないのです。
見事な観察力だと思います。(半分偶然かもしれませんが)さらに重要なのは人にアピールする文章とは比喩が身近なものであることが重要でしょう。簡潔に明快に訴求力がある例を探すのも、こうした文章では重要です。全てがうまくいったので坂牛賞です。さてもう一つ坂牛賞にはもう一息ではありますが、田中淳君の規範は常に普遍的ではないという観察は当たり前のことですが重要でしょう。規範も逸脱も常に時間と共に移り変わるのです。逸脱はいつしか規範になる場合もあるでしょう。そしてその表現は陳腐化するのです。しかし、常にそうかというとそうでもない。キティちゃんが再度人気を持っているのは(去年私の事務所に研修にきていたウィーン工科大の才女はキティちゃんが大好きだと言っていた)規範としての猫という存在が強く、その規範とのずれが何時までたっても陳腐化しないからではいかと思います。その意味では、陳腐化しない逸脱というものもあるのではないでしょうか?あるいは陳腐化しない規範もあるのかもしれません。そこまで言及してくれれば田中君も坂牛賞でした。

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