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愛の白夜

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神奈川県民ホールで5月8日、10日にオペラ愛の白夜が行われ、その初日を見に行った。作曲:一柳慧、台本:辻井 喬、という豪華な顔ぶれ。また歌手は僕自身はあまり知らないもののプログラムを見る限りは日本を代表する人たちのようであった。実際その歌声は素晴らしかった。特にソプラノの鵜木絵里、天羽明恵、バリトンの井原秀人には人を感動させる声の質と量を感じた。またこのオペラにはダンスが一部取り込まれておりその部分を北村明子率いるレニバッソが担当していた。
さて日本のオペラを生で見るのは実は初めてで一体どんな雰囲気なのか興味しんしんだった。そして最初の歌を聴いた時になんとも異様な気分にさせられた。この「愛の白夜」のストーリーは第二次大戦中の実話を元に構成されている。それは1940年のリトアニアを舞台としている。ナチスの迫害を受けたユダヤ人をソ連日本を経由しアメリカなどに亡命させるために日本領事館の杉原千畝が日本政府の反対を押し切ってビザを発給したという話である。その話でテーマとなるのは、差別、自由、愛なのだが、それらの言葉がそうしたベタな響きのまま、うたわれたのである。いくらテーマがそこにあろうともいくら三流映画でもここまではやるまいというクリシェオンパレードだったのである。
これが英語ならまだメロディとして聞けるのだろうが、日本語だから始末が悪い。そう思いながら辻井喬の意図は一体何なのだろうか?となぞだった。そしてこの音楽がまた不思議である。辻井の言葉と音の響きの微妙なずれを感じるのである。声が持っている流れを一柳がことごとく少しずつずらしているような感じである。
というのが最初の10分くらいの感想なのだが、人間不思議なものでその恥ずかしくなるようなクリシェは10分も経過すると慣れてくる。むしろその舞台の持つ絵の力と音それ自体がこちらを打つ。特に既述の通り歌手の声の質に心洗われた。さらにレニバッソのダンスである。こうしたストーリーが明確なオペラのような表現の絵として登場するダンスは必然的にアレゴリカルなものとならざるを得ない。普段はむしろ抽象的なあるいは不条理劇のような表現を志向する彼女たちにとって一体どういう絵を見せてくれるのか興味深かった。予想通り、楽しいシーンでは楽しく、悲しいシーンでは悲しく、暗いシーンでは暗く、それぞれの状況の心象風景をダンスで表現することになっていた。その動きは見事にその状況にはまりつつ、しかし状況に飲み込まれることなく確かな主張をしていたように感じた。
さて最終的には10回に及ぶカーテンコールに僕自身惜しみない拍手を送った。それは実感である。最初に生まれた白けた気分はどういうわけかなくなっていた。この当たり前のテーマを当たり前に受け止め、そして後はオペラ、ダンスそれ自体の表現に酔いしれたということである。
帰りの電車の中でプログラムに載っていた三浦雅士の解説に妙に納得した。それは次のようなものである。
・辻井にせよ、一柳にせよ、披瀝された思想に集約できるほどに単純ではない。
・ポストモダンの荒廃を逆手にとって、詩人と作曲家はクリシェを散りばめることになった。
・こうして、世代の言葉とでも言うほかないものがくっきりと残ったのだ。誰が何と言おうと、平和を希求するヒューマニズムに関してだけは譲るわけにはゆかない。思想の陳腐を嘲うものは、焦土を知らないものたちなのだと。
・本質的な作品がつねにそうであるように、このオペラもまた遺言に似ている。21世紀への遺言である。


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