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emotional drawing

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国立近代美術館で「現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング」展が開かれている。90年代から続く現代美術連続シリーズの6回目である。過去の展覧会を見たことはないのでどのような文脈の上にあるのかはよく分からない。
表題が示すように単なるドローイングではなくエモーショナル(情動的)という点がポイントのようである。人間の感情(affection)は気分(mode)、感情(feeling)、情動(emotion)に分類されるようで、感情が明確な対象に対する、価値判断を伴う持続的評価であるのに対して、情動とは一時的で急激な心的状態のことである。そしてこの展覧会にはドローイング以外にもアニメーション、インスタレーション、木炭、水彩、と様々な形式が集められており、エモーショナルなものを横断的に集めているとのこと。その意図は今までのアートジャンルを解体して、現在アクチュアルな人間とアートの関係を見つめなおすことにあるようだ。
この展覧会を見ながら、情動について改めて考えさせられた。アートはその内容や、色や、形や、構成を伝えるのではなく、最終的には情動を引き起こすことに意味あるという、ある種暗黙の了解を再認識しようという意図はおぼろげに伝わる。それが絵画、彫刻、工芸というような確立したアートジャンルではなく、その下準備としてのドローイングの段階にあるはずだという主催者の意図も分からないではない。
しかし確かにドローイングは制作者の情動を定着したものではあるかもしれないが、見る側の情動を喚起するものであるかどうかは別問題のように感じる。
これらのドローイングを見ながらひとつ感じたことがある。それはドローイングにもいくつかの段階があるということである。それは先ず情動の発露のもっとも原初的なカオスのような段階。二つ目はそれが作者のある理性を取り込みながら秩序だてられていく段階。最後はもはやドローイングといえども明らかにある秩序の中で更に高度な構成を持っているものである。そして多くのの作品はこれらのどこかの段階に分類されるのだが、まれに複数の分類に跨るものもある。たとえばアニメーションの作品においては、画像がカオスの段階にありながら、流れる音楽が構成的なもの、一方画像は構成(あるいはストーリーと言ってもいい)が読み取れるのだが音楽が構成を持たないものなどである。
建築でもそうだが、確かにそのプロジェクトの初期というのは闇雲に瞬間的な閃きをとりあえず紙の上に定着させようとする。それが徐々に秩序立つのだが、その初期に作者のemotionが生のままで表れているのは確かなのだと思われる。

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