纏う

図 1フランク・ゲーリー フランセス・ハワード・ゴールドウィン地域図書館 ハリウッド 1986

 

 

図 2)ムーアスタジオ ゲーリー自邸ツアー。左から4人目がエリアス・トーレス。左端筆者。

 

 

図 3)フランク・ゲーリー 自邸  サンタモニカ 1978街並みに馴染むゲーリー自邸年

 

 

図 4)フランク・ゲーリー自邸サンタモニカ 1978 エントランス上部にチェーンリンクが飛散する

 

 

 


図 5)フランク・ゲーリー自邸 サンタモニカ1978 増築されたキッチン上部はトップライト、人にもたれかかる親密感がある。

 

 

 

図 6)フランク・ゲーリー グッゲンハイム美術館ビルバオ 1997 河畔に打ち上げられた魚


 

 


図 7)ゲーリー ウォルト・デイズニーホール ロサンゼルス 2002


 

 

図 8)ゲーリー  Fondation Louis Vuitton パリ 2014 透明な開放感

1)ゲーリーとの出会い#1
 フランク・ゲーリーが日本で最初に大きく紹介されたのは今から35年前(1980年)の雑誌『SD』においてであろう。「アメリカの新しい波」というタイトルで特集され、自邸の写真が多く掲載された。一方当時の日本建築界では、その前年(79年)に篠原一男、次年(81年)に安藤忠雄が『SD』で特集されていた。当時学部生であった私の製図の教師は篠原一男が招いた伊東、倉俣、香山、磯崎、大高という布陣で皆がモダニズムの次を模索していた。ゲーリーはと言えば同様にモダニズムの次を志向していたのであろうがその射程ははるか遠方に向かっていた。私たちが当時受けていた教育をベースに理解できる範囲を超えていた。そんなわけでゲーリーの『SD』は製図室の片隅に注目もされず積まれていた。もちろん自分が数年後ゲーリーのいるロサンゼルスに行くことなど想像もしなかった。

2)ロサンゼルスへ
 私は大学院に進み篠原一男の研究室にいたのだが、あの『SD』が気になった。そしてゲーリーのみならず、彼を含むアメリカ西海岸の建築に興味を持った。イクスクルーシブな篠原一男とは異なるインクルーシブな世界があることを少しずつ理解していた。加えて高校時代に若者をとりこにした『ポパイ』に華やかに紹介されたアメリカやUCLAに憧れた。その頃の日本の若者からするとそこに描かれているアメリカの豊かさは羨望の的であった。エズラ・ヴォーゲル『ジュヤパン・アズ・ナンバーワン』が世に出た頃で、経済的には日本が世界一にのぼりつめる時期である。しかしそれは馬車馬のように働くサラリーマンによって支えられていた。文化的にも生活レベルにおいても日本は1.5流。アメリカが豊かで優雅に見えた時代でありそんなアメリカを(特に西海岸)見たかった。  84年に渡米してサンタモニカに住み中古のフォードを買って広いロサンゼルスを走り回った。そして感じたのは、確かにUCLAのあるウエストウッドあたりは優雅ではあるが、この広大なロサンゼルスはなんとも平たい抑揚のない、場合によっては少々危険でノッペリした街ということ。しかしそれは見ようによっては、肩肘張らない、フランクで、カジュアルな街ということでもあり、逆にそんな街に愛着を感じるようになった。

3)ゲーリーとの出会い #2
ロサンゼルスに来てUCLAのチャールズ・ムーアスタジオに入り、ベネチア・ビエンナーレの作品を作り、メキシコからリカルド・リゴレッタ、スペインからエリアス・トーレスなどが来て度々小旅行をした。そんな楽しいイベントの一つがゲーリーツアーで、彼の事務所、自邸を訪ねた(図1)。その当時のゲーリー事務所はヴェニスビーチの倉庫を改装したもので、30人程度のスタッフが黙々と図面を描いていた。自邸(1978)、カブリロ水族館(1979),ロヨラロースクール(1984)、カリフォルニア航空博物館(1984)が終わる頃でハリウッドの図書館(1986)(図2)が工事中だった。その時ゲーリーは55歳。事務所の中を案内し、サンタモニカの自邸へ連れて行ってくれた。  日本でSDを見て最初は理解できず、院生になり名状しがたいゲーリー流に衝撃を受けてこの自邸に到着したのだが、日本で受けた衝撃はここでは湧きあがらなかった(図3)。この時我々は内部も事細かに見せてもらったのだがあまりにもスムーズにこの建物は咀嚼されて理解されたような気がする。その理由は今から思えば、ゲーリー自邸がロサンゼルスの新旧のヴァナキュラーを合体させたものであり、そうしたヴァナキュラーをロサンゼルスに来てから既に十分に見ていたからなのだと思う。  優雅で富裕なロサンゼルスに憧れて来たものの、実はそこにはカジュアルでフランクな街が待ち受けており、ゲーリーの建築はそんな街の一つのヴァリエーションに見えたというわけである。

4)纏う建築 #1
 さてゲーリー自邸をもう少しつぶさに観察してみよう。この建物は既存のバンガロー型と呼ばれるロサンゼルスには多く見られるカジュアルな建築の周りに一皮コルゲートスチールや木とガラスの壁を立ててその上に梁を渡して屋根を葺いたり、ガラスを掛けてトップライトにするなどして増築し、バックヤードの一部もコルゲートスチールの塀で覆うものである。またこの覆いには二種類あり、一つは地上レベルに壁を巡らすもの。もう一つは2階レベルにチェーンリンクのフェンスをフラグメンタルに飛散させるものである(図4)。  既存建物にあたかも服を纏わせるように構築されたこの二つの被覆が生み出す場所と空気がおそらくゲーリー自邸の重要なポイントである。この纏い(被覆)はそもそも既存の建物への操作ではあるのだが、建物内部から見ると非自律的で、既存建物にもたれかかると同時にそこにいる人々を包むように感じられるのである(図5)。そこには建築と人との親密な関係が生まれていた。

5)未完への憧憬
 ゲーリーは1962年に友人と事務所を開設し、そこから70年代の後半までいくつかの例外を除いてロサンゼルスモダニズム(シンドラーやノイトラに端を発する)の流れを汲んだ穏やかな設計をしていた。しかし1978年のトヨタの販売代理店でグリッドから外れた斜めの造作を多用し、同年グンターハウス(アンビルト)でチェーンリンクのフェンスを使い、同年のファミリアンハウス(アンビルと)で両方の手法を駆使した。その時彼はこんなことを言っている「未完成に興味がある?ジャクソン・ポロックやデクーニングあるいはセザンヌの絵画に見られるクオリティである。・・・・完結し、磨かれ、すべてのディテールがパーフェクトな建築にはそういうクオリティはないように見える」 。 アンファミリアンハウスではこの未完のコンセプトで壁体内にあるべきツーバイフォーの木軸を露出させた。自邸(1978)ではトップライトの一部とバックヤードに面した壁は下地のフレームや構造合板をむき出しにした。自邸を既存に一皮纏うというメタファーで考えれば、これはさながら下着のままである。しかし、これがロサンゼルスのカジュアリティであり、下着でストリートを歩けてしまうロサンゼルスの気ままさである。そんな空気がそのまま建築化されているのである。

6)動物建築
 2003年にロンドンで行なわれたzoomorphic?new animal architecture展には世界中の動物のような形の建築が展示された。カルトラバ、をはじめ有機的な形状の建築はコンピューターソフトの発達にも後押しされて増加している。その展覧会のカタログ の中でヒュー・アルダーシー?ウィリアムスはチャールズ・ジェンクスを引きながら動物的(有機的)形態の建築は40年周期で登場してきたと説明している。世紀末から20世紀初頭にかけてのアールヌーヴォー、50年代の大スパンに現れるアーチ、シェルなどの構造。そして前世紀末に現れる脱構築、複雑系の形状である。ゲーリーが80年代の殻を破って90年代曲線を多用したデザインへ変容するのはまさにジェンクスがいう前世紀末である。ヴィトラ家具美術館(1989)にわずか見られた曲線はビルバオのグッゲンハイム美術館(1997)で一つのピークを迎える。 巨大な魚が河畔に打ち上げられたようにも見え、さながらパブリックアートのようでもある(図6)。その形と大きさは類を見ない衝撃的なものであった。多くの建築家がこの歴史的な事件を見にビルバオを訪れたはずである。そして誰もが比較的肯定的な意見を持って帰ったのではないだろうか。それはこの建物が工業都市ビルバオ衰退に歯止めをかけ芸術や文化で街を再生する一つのきっかけとなったという社会的正当性によるところも大きい。そしてこの成功は、ゲーリー同様に曲線と斜線を多用しエキセントリックに見えるデザインを標榜する建築家のプロジェクトにも社会的正当性を与え実現可能にし始めた。つまりビルバオはジェンクスのいう第三期動物建築の嚆矢となったのである。こうした建築はその外観の強い個性で話題を呼び世界中から依頼を受けるようになる。そして彼らはスターアーキテクツと呼ばれ始めた。駆け出しの映画スターがそうであるように彼らは一度築いたスター性を担保するために売れた作品スタイルの継続を強いられた 。チャールズ・ジェンクスがゲーリーにビルバオ以降のデザインについてインタビューしているがゲーリーは、クライアントは評判の良かったビルバオのデザインを欲しがるので他のデザインができないと嘆くのであった 。 この言葉は腑に落ちた。というのもビルバオ後のゲーリー建築に対して少々アイコン化のマンネリズムを感じていたからである(図7)。それはゲーリーだけではなくスターアーキテクツと呼ばれる他の建築家の作品に対しても同様である。

7)纏う建築 #2
 ゲーリーの新作FOUNDATION LOUIS VITTONが去年の10月パリにオープンした。ビルバオ以来の曲線が多用されアイコン再生産かと疑心暗鬼になったがこの建物はそれまでのゲーリー動物建築とは二つの点で異なっている。一つはその外皮がそれまでの鉄骨造金属葺きから、木と鉄骨の混構造ガラス張りになっている点。二つ目はガラスの帆が、40年近く前に使われ始めたチェーンリンクのように空中にフラグメンタルに飛散しこれまでの彫刻的な閉鎖性を回避している点である(図8)。チェーンリンクによるシャドウストラクチャー が別のかたちで現れ軽やかな開放性を生み出している。  コンセプトの一貫性もさることながら、この再現された「纏う」というコンセプトには建築の本質的な意義があると感じている。というのも建築は服飾の延長で服と同様に人を包み込むものであるべきと思うからである。ルイ・ヴィトンでは透明な皮膜が白いボディを包み込むと同時にそこを訪れる人々をも包み込んでいる。訪れた人はまずは白いボディと透明の帆の間に包み込まれながらアプローチし、振り返り透明な帆を通して森とパリを眺めそして白いボディに入っていくのである。50年近く前に自邸で生み出されたあの親密感が半世紀の時間を経てダイナミックにヴァージョンアップしている。  ある有名な小説家が「特定の表現者を『オリジナルである』と呼ぶためには」3つの条件が必要であると言っている 。その条件とは、独自のスタイルを持つこと、その表現が時間の経過とともに規範性を持つこと、そしてそのスタイルが常にヴァージョンアップすることである。ゲーリーはヴィトンの建物でこの三つを満足させたように思う。86にして着実に自己革新しながら止まることを知らない彼の射程はいったいどこまで広がっていくのだろうか?

Frank Gehry Buildings and Projects Compiled and Edited by Peter Arnell and Ted Bickford Essay by germane Celant Text by Mason Andrews Rizzoli International Publications N.Y. 1985 p.128

Aldersey-Williams, Hugh Zoomorphic New Animal Architecture Harper Des 2003 p17 において著者はジェンクスの曲線建築40年周期説を引用説明する。

Donald McNeil The Global Architect Firms Fame and Urban FormRoutledge N.Y. 2009 P63

Charles Jencks The Iconic Building Rizzoli International Publication N.Y. 2005 p6

op.cit Frank Gehry Buildings and Projectsp118 Gunther House(1978)のテキストでMason Andrewsはチェーンリンクの覆いをshadow structureと呼びこの建物の重要な要素として説明している。Gunther Houseは未完に終わり、同年自邸が完成しこのshadow structureは初めて自邸に使われることになる。

村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング2015