建築家としての倫理観

 

林昌二さんがお亡くなりになられました。享年83歳でした。

私はバブル直前の1986年に日建設計に入社しました。今とは違って売り手市場。就職先を少しは選べる時代でした。そんな状況で日建設計を選んだのは建築家“林昌二”の元で設計をしてみたかったからだと思います。
入社2年目に林さんは自ら小集団を組織しました。場所はマンションの1階。アトリエ事務所のような設えで日建らしからぬゲリラ的な仕事をするというのが狙いでした。運よく私もそこへ配属となり喜々として設計したのを覚えています。10人くらいの部員の中には構造、設備担当もいます。エンジニアリングの相談が何時でもできる環境は日建内にもそうはありません。そこで最初に設計した建物がSDレビューに入選し興奮しました。しかし林さんの本領はやはり日建ゲリラではなく、日建の王道にあったと思います。それは社会の枢軸たる企業、役所の施設を既成概念にとらわれず作り上げるということです。言うまでも無くパレスサイドビルなどがそれにあたります。これらの原図を見ると林グループの建築に対する思想と洞察を感じます。
私が勤めたバブル期に林さんの作品と言われるような凄みのある建築はあまりできなかったかもしれません。しかし林さんの厳しい査図(図面を前にした会議が月に数回あったと記憶します)が日建の質を維持しました。その質とは建築家の身勝手でもなければ、クライアントへの忠誠でもありません。それは建築が建築としてあるべき倫理だったと思います。
日建を退社して数年経って、林さんに日建から学んだことは?と聞かれてすっと出てきた言葉は「建築家としての倫理観」でした。自分でもなく相手でもない、みんなのための建築を見る目です。そして、その後事務所をやりながら、教員をやりながら、やはり建築家にとってとても大事なことは倫理観であり、それを教えてくれたのが林さんだったと思っています。
同級の篠原一男先生が卒業設計で大きな構造物を作っている時、林さんは住宅を設計し角砂糖一つという伝説の模型を作りました。2人がその後、逆な方向に進んだのは林さんが若くして建築家の社会的使命(倫理観)をどっしりと背中に背負ったからです。それは林さんのエネルギー源であり同時に重荷でもあったかもしれません。 そんな荷をちょっと降ろしたら林さんは何をしただろうか?と夢想します。お亡くなりになる前に聞いてみたかった。残念です。


初出『建築技術』2012.01