窓――メディアとしての窓

窓は法的に言えば、換気採光のための建築部位であり、デザイン的に見れば「ポツ窓」「連窓」という言葉が示すように外観の特性を決める重要な部位である。しかし窓にはこうした衛生学的、デザイン的意味の外に、人間に多くの情報を与えるメディア的意味がある。例えばギブソンは著書『生態学的視覚論』[i]の中で人に何かを提供(アフォード)する環境要素として小屋、およびその構成部位として屋根、壁、開口部をあげている。さらに私見ではこの三つの中でも窓から来る情報は他の二つに比べ格段に多く、よりメディア性が高い部位である。そこでここではこうしたメディアとしての窓について一考してみたい。

和田伸一郎は著書『存在論的メディア論』[ii] の中で電話の特性をその居心地の悪さと形容し、それは「『ここ』にいながら『ここ』にいる意識を剥奪されているというダブルバインドにこそある」とし、さらに、電話の向こうの世界がこちらに飛び込んできてこちらの世界に割り込んでくる(現前する)ところにその特性を描いている。それは例えば映画等と似た状況ではあるものの、飛び込む情報がライブか録画かという差は大きくライブ情報の未知の未来性に人は「後ずさり」[iii]していくと表現している。

和田の指摘は二つのことを示唆している。一つは飛び込んでくる情報のライブ性の凄みである。二つ目は飛び込む情報のコンテクストと「ここ」のコンテクストとの差異がもたらす違和感である。 このことを建築にあてはめ、先ずは窓のライブ性に注目するならば、建物は固定的、録画的なものである一方で、窓から飛び込む情報はライブである。よって電話同様その情報に対して人はある種の後ずさりをする。卑近な例だが、窓の外に誰かがいてなんとなくこちらを見ているということは明らかに室内のホームシアターでDVDを見ているのとは異質な刺激をわれわれに与えるのである。もちろんそうしたネガティブな情報だけではなく、四季の季節変化のようなもの、大自然の絶景など美的なものが入り込んでくる場合も多々ある。いずれにしても、電話のごとく窓のこちらの「ここ」にいながら、窓の向こうの生の「あちら」が現前化されることで「ここ」の意識が希薄化するのである。

次に、飛び込む情報と受容する場のコンテクストの差異に注目する時、一冊の写真集が示唆的である。中野正貴の『東京窓景』[iv]である。これは東京の風景をいろいろな建物の窓を通して眺めるというものである。八十近い窓景には、窓周りの家具や置物まで見せているものが多くある。それらはその部屋から風景を見ている誰か(つまりはその部屋の所有者)の存在を暗示する。つまり「風景を見る行為」を見る視線が設定されている。

実際窓から外を見る時、窓周りに散在する「モノ」はその場の占有者を暗示しそれらを手前に見た風景は彼らが見ているであろうものとしての風景となる。あるいはそれが自室の窓であれば、窓周りの内観は本人の歴史が堆積しており、過去における自分の視線を現前する光景の上に表象することになるのである。つまりここでは「あちら」が「こちら」に現前化すると同時に「こちら」を「あちら」に表象するという二重の視線の構造が形成されていることになる。電話の世界では考えにくいこの後者の図式が窓のメディア性をより複雑で強度のあるものにしている。そしてそれであるからこそ窓には建築の力を持続させる力が内在しているのではないかと期待するのである。


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[i] J.J.ギブソン『生態学的視覚論』サイエンス社 1985
[ii] 和田伸一郎『存在論的メディア論』 新曜社 2004
[iii] 和田は「後ずさり」という語をポール・ヴィリリオから引いている(ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』 産業図書 2003)
[iv] 中野正貴『東京窓景』河合出書房 2004【第30回木村伊兵衛賞受賞】
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初出:『READINGS:3 現代住居コンセプション──117のキーワード』(INAX出版)