中動態の建築
Architecture as Frame and Reframeをベースに据えて現在のプロジェクトを大分考えている。そしてふと思ったのだが、このframing reframingという行為をもう少し作為的ではなくできないか?と思うようになった。気がついたらframe があるようなそんな裂目みたいな場所が欲しい。敢えて言えばArchitecture as Framed(という受動態である)そう思いながらでもそうすると誰がframing したのだろうかと素朴な疑問が湧いてくる。一体能動態と受動態以外に「態」はないのかと思っていたらあった。
国分功一郎『中動態の世界—意思と責任の考古学』医学書院2017はまさにその疑問への答えがありアリストテレスの時代には能動でも受動でもない中動という態があったのだそうだ。
スピノザは「自由意志の否定」で「行為は意志を原因とする」という考えを斥けた。この話はとても理解できる。この前の千葉雅也の本でも我々は環境に乗っ取られているということに近い。意志は原因ではなく、結果なのである。かといって完全な受動とも言い難い。それはつまり中間である。他律と自律の曖昧なところである。そんな曖昧な状態を表す文法規定がないので困ってしまったのが最初の話である。設計のコンセプトは原因ではないのである。かといって結果でもない。中動態なのである。Architecture as Frame as it is.と言っておくか。