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面白さに対する嗅覚

今年の(だけでもないのだけれど)修士論文の不出来は僕らの研究室が多様性保護地域で魚から哺乳類までいて、教育のレベルの設定が難しいからだと思っていた。あるいは彼らが単に怠惰なのだと思っていた。しかし昨日修論の最終形のチェックをしながら、一番大きな理由はそこにはないだろうと思うに至った。
彼らに11月に入ったら設計に移行するようにと4月から言ってもそうならないのは怠惰に加えて、設計に移行するには論文があまりに心もとない、自信がないという状態なのだろうと推測した。というのも彼らの修論を読んでもどれも面白くないし、発見がないのである。「へええそうなんだ」と思うことが本当にないのである。僕が読んでこんなにつまらないのだから本人もさぞかしつまらないだろう。修士を2年間やってこんなものしか書けないとするなら自信も持てないだろうと思う。
そこで思うのだがなぜ彼らは面白いところにたどり着かないのか??それは面白いものを読んだ経験がないからなのではないかと思うに至るのである。面白いという理屈はどこに潜むのかがわかっていないのであろう。
読む経験を多く積んでいれば、面白くない本を買ったり借りたりして無駄に時間と金を費やしたことに腹が立ち、その分なんとか面白いものを読んで取り返そうとする。そして面白いものの面白さを貴重に思うものである。本を読むとはその嗅覚を養うことであり、その嗅覚無くして面白いものやことを考えることはできないのである。卒論とか修論とかはその嗅覚が勝負なのである。その嗅覚を大学生のしかも4年生になってからやるのではすでに遅いのだが、一生懸命やればそれも成せるとまだ信じている。しかしその一生懸命さもなければどうしたらいいのだろうか??
この嗅覚をものの本にはセンスと書いてあった。センスと書いてしまうと元も子もないのだが、確かにそういう気もする。もしかしたら生まれ持ったものかもしれない。しかしそう思うとゼミなんてやるだけ無駄ということになってしまう。養うことはできると信じて来季を頑張ろう。

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