スタイルが変わる時
今日は多くのことが片付いた。近隣工事に対する要望書の作成(マンション理事長の仕事)新しい事務所の契約(社長の代理の仕事)、電話のこと(同じく)、コピーのこと(大学教員の仕事)、バングラデシュでのプレゼンパワポのこと(建築家の仕事)を走り回って電話しまくって片付けた。ほとんどが事務仕事だけれどこういう仕事が片付くと頭の中でもやもやした霧みたいのが晴れる。そこで風呂につかりゆっくり読書。山本貴光『文体の科学』新潮社2014。ここでいう文体は一般に言う文体ではない。一般のそれが文の意味内容、リズム、音韻などから生成されるスタイルを言うのに対して、ここでの文体はそれに加えて配置された文章の視覚もこみで、すなわち物質としての文体を含意している。そして物質と意味の弁証法がどのように具体的な書物において行われているかを探るのがこの書の目的である。
スタイルは言わずものがな、建築学でも大きな考察対象である。いや建築に限らず、およそ表現対象はすべてである。そして最近ずーっと考えているのはスタイルは何時何によって変わるのかということである。
村上春樹は自分の文章を英訳して和訳するという込み入ったやり方で新しい文体を作った。そういう一人の天才が時代を乗り越えるということはあるだろう。しかしそれは常にそうなのだろうか?ここでいう文体は意味も視覚も含意しているとなると実は書のようなものがかなりそれに近い気もするのだが、そう考えるとこれも天才が何かを作っている。では建築はどうだろうか?やはり天才なのだろうか?