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親父殺し

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小林敏明の『柄谷行人論』を直江津へ行く車中で読み始めながらふと親父の姿が浮かぶ。退院後元気にしているだろうか?何時だったか年に一度の暮れの家族での飲み会の時に、若い経済学者がまるでマルクスを理解していないと憤っていた。よく聞けば柄谷行人のことだったのを思い出した。
どこにでもある話だが、親父たるもの若者は何を考えているのだろうか?と不信を抱くものである。そしてこれもおそらく掃いて捨てるほどこにでもある話だが我家でも、そういう若者否定と、将来の日本論を親父が始めれば、長男は黙っちゃいない「親父は古いんだよ、何もわかっちゃいない、そんな事言っても誰もついては行かない」。
こう言う話の構図は家族を飛び越えて様ざまな社会の枠組の中でも発生する。先日もとある会議で親父格の長老が組織の行く末を案じて語りはじめると兄貴格が「親父は古いんだよ」と一喝。弟はこう言う場合、家族においても組織においても兄貴ほど急進的にはならず、まあたまには親父もいい事言うから聞いてやろうよというスタンスであるが会議の時間は限られており聞くまでも無く終了。
さて家族の飲み会はどう展開するかといえば、親父、長男、次男の次に登場するのは孫たちである。彼らは祖父を素直に尊敬している。そもそも長男が親父を煙たがるように、孫たちも親父が煙たいのは本能である。であるから祖父と長男の議論では祖父に軍配をあげるのである。そうやって家族のパワーバランスが保たれる。恐らく社会も普通はこういうどこにでもありそうな循環するパワーバランスが生まれ組織は安定する。しかし親父がよほど間抜けだとこのバランスが崩れ親父殺しがおきる。孫はもはや祖父にはつかないことになる。
さて日本社会はどうなるだろうか?

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