ラ・トゥールの図
Antrhopocentric (人間中心主義)が歴史に登場したのはそもそも神がいなくなったからであり、人間の能力を信じる状況が生まれたからである。しかしそれが人間の思い上がりだということに気づいたからなのか?物自体には到達できないとカントが言ったからなのか?今僕らは人間も物も同レベルにいるんだろうと思っている。犬も人も机も椅子も掃除機もまあ同じレベルにいるでしょうと思っている。
ブルーノ・ラトゥールを読み返してみると近代の人間作業として純化をあげる。そこでは人間が人間で構成する「社会」と人間以外で構成される「自然」を分離したと述べている。しかし一方で水面下ではそうした分離行為と真逆にそれらをつなぎ合わせる作業も行われてきたというわけである。人間をその中心の座から引きずり下ろしてすべてを等価にならべることに僕は賛成である。建築もそういうものであるはずである。コルビュジエのピロティが素晴らしいのは単に人々のためとは思えない。あっちとこっちを繋げる環境を作っているから素晴らしのである。それは人とは関係のない世界も作っているところに幅があるはずである。