切実さ
北大集中講義に向かう飛行機の中で今年の芥川賞小野正嗣『九年前の祈り』を読んだ。シングルマザーとなった主人公が外国人との間にできた子供を九州の田舎で育てる話である。その選評を読んでいたら、村上龍と川上弘美が二人共この小説には「切実さ」があると書いていた。そしてその切実さとは「言いたいこと」があるわけでもないし、「伝えたいこと」があることでもない。そうではなくて小説を書くという行為の中にある書く人間の無意識を刺激する装置をどのように使って言葉を紡いだか、その経緯の中に書いた人の「切実さ」が浮かび上がると説明していた。
なるほどこれは建築という行為にも言えるように思った。それは例えば昨日の修士設計などを見ているとそういうことをつくづく感じる。修士設計とはもちろんつくるコンセプトを論文として紡ぎながらそれを建築化していくのだが、文章が建築に1対1対応で変換されるわけではない。そこではスケッチを描きながら、模型を描きながら、「建築する」という行為に内在する設計者の無意識を刺激する装置が駆動しているのである。そしてその装置が紡ぎ出した形や空間の連なりは最終提示された模型やドローイングの中に読み取れるものである。それは必ずしも論理的なものではいのかもしれない。それが「切実さ」なのだろう。そしてそれが伝わるものにしかやはりいい建築は生まれてこないのだろうと私には思える。